カルマとは業とも言われ、その行いと同等のものが返ってくる、そんな意味でしょうか。
でもね、もしそうならば先祖のカルマが自分に不幸を引き起こすといわれること、とても理不尽だと思うんですね。
そして自分は見えない攻撃が存在していることを確認しています。それは秘匿技術だったり呪術だったり。
人間を動員しての搦手による運命操作もあります。
先祖のカルマだなんて言われても訳がわかりません。単に見せない悪意や見えない攻撃を隠し、その矛先を、知ることのできない先祖の架空の行いへの疑念や悪人の子孫だという妄想を抱かせることにより自責の念に繋げるためなのではないかと、自分は経験から思うわけです。
これは戦後日教組やマスコミが「日本は悪い国だ」と自責の念を植え付けようとしていたこととよく似た現象なのだと思います。
これも水面下に潜むわたしたちに悪意を持つ存在による謀略なのだと考えています。
敵対者の子孫を根絶やしにするだとか、その子々孫々までもを呪う、というのは大陸的思考だと言われます。
逆に「罪を憎んで人を憎まず」というのが日本的な思想なのだと思うのですね。
この辺りのことからもカルマという概念を悪用して見えない攻撃を仕掛けているのが何者かということが、これまでのわたしの文章を読んでくださった方であればお分かりいただけるかと思います。
そしてカルマを強調するのは宗教やスピリチュアルです。
わたしの片親の家は、過去には神明社であり先祖に僧侶もあるという家なのですが、(神明社は五三桐に乗っ取られて合祀により隅へと追いやられわずか残された祠は撤去され痕跡を消されました)神道にはカルマという概念はありません。天国も地獄もない。
しかし仏教ではカルマ、業ということが言われ閻魔という審判が存在し、没すれば生前の行いに応じた階層へ行かされる、ということがまことしやかに言われています。現在のキリスト教にも似たような概念があるようですが、仏教もキリスト教も弟子がその教えを残し体系化されたものだということを考えれば、果たしてキリストや釈迦が先祖のカルマや天国地獄を実際に説いていたのかどうかということには疑問を感じます。
自分は天国も地獄も閉じられた世界なのだと思っています。
時々キリスト教系の街宣車が回ってきます。
「良い人はひとりもいない、みんな悪い人だ」と言って回っています。
これは原罪という概念を曲解したものなのではないかと自分は考えています。(原罪とはわたしたちはこの世界で動植物などを食料とし、他のいのちを奪うことにより生命維持を行なっていることを指していると自分は考えています。)
これも罪悪感を植え付けるために言われていることなのでしょう。
この国に入ってきた宗教は何もかもおかしくされてしまうという話を聞いています。
ちなみに神明社は神社の中でも神道原初の在り方を色濃く残していると聞かされました。これは恐らく大自然や土地神、産土神を尊重し、人や生き物たちの幸福と安寧を願うというものなのだと思います。
神社で身勝手なお願いことをしてはいけないよ、神社ではみんなの幸せを願い、神さまに生かされていることへの感謝の気持ちを伝えるんだよ、そんなふうに聞かされたことがあります。
自分はそれを聞かされる以前から、自分の中の良心が内外の大いなる存在と繋がっているのだと、そう思っています。
内は外であり、外はまた内でもある、と。
この内なる神の概念を自分自神と表現する人たちもいて、ひとりにつきひとつの世界、ひとつの宇宙という世界観にも繋がるのだと思います。
宗教についてはさまざま思うところはありますが、生かされていることや大いなる存在に対しての畏敬や尊崇の念を抱くことや、より良く生きるための指針となる知恵を学ぶのは良いことだと思います。しかし集団化組織化しておカネ儲けや争いのために先人の知恵が悪用され、また現生利益を追求するための組織とされているのが現在の宗教なのだと思います。
しかし‥
精神が自由であれば、それらを外部に求めずとも自ずと直感的に理解できるのだと、過去には自由だったけど今は精神萎縮気味で感覚鈍麻状態の自分はそう思います。