言葉づかい
正しい言葉づかい
きれいな言葉づかい
では逆は?
間違った言葉づかい?
汚い言葉づかい?
きれいな言葉づかいや正しい言葉づかいをすると波動が上がるだとか、汚い言葉づかいばダメ、なんて意見を時折見かけます。
でも思うんですね、
きれい汚いとは何を基準に決めたのか
正しいとか間違いについても。
標準語が基準?
方言にはびっくりするようなものがあったりしますが、それは汚い言葉になるの?
以前に見た動画が少し前にも表示されたので見てみました。
「ユートピア(豪州/2019)」というタイトルの動画です。
↑一応リンク貼っておきます。
以前この動画を見た時には他人事のように思い、意味があまりわからなかったのですが、今回視聴してこれが現在進行形の危機を警告したものであることを理解しました。
政府による衆人環視を利用した超管理社会について描かれています。
この動画の中に「変化は徐々に始まった」というくだりがありますが、今のこの国で起きている出来事、動画で言われている徐々の変化の最中なのだと思います。
日本においては元より衆人監視傾向が強いですし、「未公開テクノロジー」「秘匿技術」など私たちに知らされない隠された技術を悪用した機器があちこちに設置され、それは増え続けています。
この動画の中ではリストバンドが個人識別ツールとして使われていますが、数年前に目にした記事では体内にマイクロチップを埋めるというものがありましたし、自分はそれとは違う個人識別のための秘匿技術も実際に見たことがあります。
動画では全ての部屋に監視端末が設置されていますが、これについても同様です。
動画内では、汚い言葉を 使うたびに 罰金が加算され続けるシーンがあります。
自分は思います。
正しい言葉、汚い言葉、一体何を基準として何者がどのような判断を行うというのか。
汚いと言われる言葉づかいや、荒っぽい喋り方をする人たちの中に良い人はたくさんあります。
どんな言葉を使ったとしても意味が通じれば良いのではないかと、そう思います。
怒った人が感情的になるのも悪くないと思います。怒りには必ず原因があり、それを無理に押さえつけるのは精神衛生上良くないのではないかと自分は思います。
汚い言葉を使ったくらいで波動が下がるというのもある意味では支配に繋がるのではないでしょうか?
もし仮にそうであるとすれば、その波動云々のシステムに問題があるのでは?
例えば汚いと感じる言葉を聞いた相手が不快に思うというのにも個人差があり、ストレスの多い人ほど相手に不寛容になりがちです。
かといって理不尽に罵られ続けたりすれば不愉快にもなります。
敬語というものに対しても疑問があります。
これが相手を尊重するために使われるのであればまだわからなくもありません。
でも目上の人に対して使うものだと言うのであれば、そこには上下関係が生じているわけで、敬語を使わなければ相手を尊重していないというような理解がされかねません。
時折敬語を使われなければ気分を害される方を見かけます。そんな方に「 なぜあなたはご自分に対して相手が敬語を使うことが当然だと考えるのですか?」と質問してみたいです。
言葉づかいというのはひとつの形やテクニックであり、肝心なのはもっと本質的な部分なのでは?
相手を尊重する気持ちがあり、その根底に優しさや思いやりがあれば、言葉づかいなどどうでもいいと自分は考えます。
また理不尽や不当さに対する不満も当然の感情だと思います。
沖縄での話です。
学校へ行くことが義務化された頃、学校では方言禁止にされ、標準語を使うことを強要され、使った子どもには罰が与えられたそうです。
そして今では昔の言葉はほとんどが忘れ去られてしまい、結果貴重な文化が失われた形となりました。
義務教育も方言禁止もわたしには支配に感じてしまいます。
そういえば何年も前のことですが、方言の見直しというか、方言を積極的に使おう、というような動きがあったように思います。
素敵なことだと思います。
人間はもっと自由であるべきです。
それが他の人々や生き物や環境に対する害になるようでは問題ですが、人々の精神の根底に良心が、他に対する思いやりがあればそんなことにはなりにくいと思います。
自分は汚いと言われる言葉づかいや激しく感情表現する人よりも、相手を見下したり嘲笑したり、侮辱したりすることの方に嫌悪感を感じます。しかしそれにも原因があり、元々の性質 の場合もあるかもしれませんが、その多くは抑圧された感情や自尊心の低さからの者の場合もあり、やはり環境の問題も大きいとかんがえます。
本当にこの社会には疑問に思うことがたくさんあります。
自分は多少のことは笑い飛ばすようなおおらかな気持ちでいたいです。