私の母は1904年(明治37年)12月14日産まれ。これを今もって覚えて居るのは、母は映画が好きで、私が小学生の頃、よく映画を観につれていってくれたが、それが全部がチャンバラ映画で、当時、映画館は込み込みの日本映画の全盛期。
そのころの年末年始の映画は忠臣蔵or赤穂浪士と決まっていて、「わしの誕生日は赤穂浪士の討ち入りの前日」とよく言っていたからだ。年号の1904年は日露戦争が起きた年と学校で覚えた。
その母が、時々言っていたのが、当時、名古屋の病院で看護婦をやっていたようで、寮生活で、その日はお昼の料理当番だったらしい。
地震の直後「ターちゃん(母の呼び名)がいない」と言って皆が探していたところへ、ターちゃんは現れた。「あんた、何処いっとった。今大きな地震があって、ケガでもしたかと思って、探しとったがん」というと「全然知らんかった。便所におって、何にもゆれんかった」と。便所は、外で煉瓦造りだったという。
写真の右奥に見えるのは戦争で消失する前の名古屋城。ま、これだけの事だが、便所は、狭いところで単位面積当たり柱の数が多いから揺れが少ないのだろうと思い、ま、大きな揺れの時は「便所」に入れば良いと子供心には思ったが、そうでは無いことは伊勢湾台風の直撃の時解るのだが。