乃木将軍と少年の像
東京都港区赤坂8丁目 乃木神社
1905年 明治38年1月2日
日露戦争〜旅順攻略戦において、ロシア軍の旅順要塞が、乃木希典(まれすけ)将軍率いる日本陸軍により陥落
1905年 明治38年1月2日
日露戦争〜旅順攻略戦で乃木希典将軍指揮の日本陸軍、第三軍がこの日までにロシア軍の旅順要塞を陥落せしめました。
ニ〇三高地の激戦で知られる要塞奪取作戦は、かつて日清戦争当時、清国軍の守る旅順要塞を1日で陥落させた乃木将軍に日本陸軍が攻略を命じましたが、日清戦争後に清国から割譲されたロシアが旅順要塞を鉄壁の要塞に変貌させていたことにより幾度も失敗を重ねたものの、前年の1904年、明治37年12月5日までに奪取して要塞全域の攻略を進め、日本は総勢15000名を超える戦死者、44000名の戦傷者を出した犠牲が大きな作戦で、また、日本軍にも増して大きな戦死者を出したロシア側では、後に政情不安を引き起こし、ロシア第一革命の契機となりました。
旅順攻略戦に勝利したことで旅順港のロシア艦隊を封じ込めたことで戦局は大きく傾き、日本海軍はロシアが派遣したバルチック艦隊に全精力を集中させることが可能となり、後に日露戦争の最終局面となる日本海海戦を有利に運ばせる要因ともなりました。
乃木希典将軍
陸軍第三軍を指揮した乃木希典将軍は、戦後、学習院院長の職に就き、初等科に入学した迪宮(みちのみや)裕仁親王殿下(後の昭和天皇)の幼少の教育に関わり、同じく教育係として仕えた足立たか(後の鈴木貫太郎総理夫人)と共に、昭和天皇の人格形成に大きな影響を与えました。
そして
明治天皇大喪の礼当日に夫人と共に殉死しました。
乃木夫妻が自決した旧乃木邸(乃木神社境内)
乃木家は長男、次男、共に日露戦争〜一連の旅順要塞攻略戦で戦死していて、娘も夭逝していて、絶家の扱いとなるも、政府の働きかけにより、旧主家にあたる毛利伯爵家から毛利元智が養子入りして乃木家を再興する運びとなりましたが、世間一般からの猛批判を浴びる格好となり、後に返上しました。