ハンガーから出て来たキジローは激しく後悔した。
アイマスクの暗闇の中で抱き合った時、胸の高鳴りがあまりに強かったので、このままでは治まらないと感じて、サクヤにキスしてしまった。あんな事はすべきでなかった。ひとくちつまんで気がすむわけないのだ。少しでも味見をすれば全部食べたくなるに決まっている。
キジローの腕の中で、サクヤがちょっとおびえたように目を見開いて、身体を震わせていたのにもショックを受けた。何となく、あのお姫さんはたとえ押し倒して両腕を押さえつけても、きょとんとして微笑んでいそうな気がしていたからだ。こちらの意図などわからない、というように。抱きとめられて震えるなんて、まるで……まるで、普通の女みたいじゃないか。
毎日、サクヤと2人で苗床の仕事をしながら、キジローはしょっちゅうけつまづいたり、物を取り落としたりしていた。
「このシフトはいつまで続くんだ?」とキジローが聞いた。
「このシフト?」
「ボウズがリストを作って、俺たち2人がチェックするという組み合わせだ」
「私がラボ担当で、苗床のドームはあの子に任せていたから、やっぱりリスト管理もあの子じゃないとわからないものねえ。東半分をグレンとイリスにチェックしてもらっているから、あちらと交替する? イリスはまだ標準語が覚束ないから、グレンとあなたのペアかしら。グレンはヨットの運転が時々あやしいから、ちょうどいいかもね」
キジローは苗床ブロックを載せて来たボードにどかっと座って頭をかかえた。自分で自分を持て余してイライラする。情けない。
横に立ってサクヤが肩に手をおくと、キジローはびくっとした。サクヤはため息をついた。
「何だか私と一緒だと、居心地が悪いようね」
「消化不良なんだ」
「どうしたらスッキリするの? しばらく別行動すれば楽になるの?」
「さあ。もう、さっぱりわからん。どうしていいか」
サクヤがキジローの両脚の間にひざをついて、両手をキジローのももにおいたので、キジローは仰天して顔を起した。
「こういうはっきりしない状態って、私も気分が悪いの。こんな事でもたついてる場合じゃないでしょう?」
「ああ、すまん。ちっとしゃきっとするよ」
「これで目を覚ましてちょうだい」
サクヤはそっと顔を寄せて、キジローにキスをした。キジローは驚いて、一瞬目を見開いたが、すぐに目を閉じて花のような香りとやわらかな感触をむさぼった。両腕で細い背中を包むと、サクヤは一瞬息を飲んでわずかに身体を震わせた。その反応に、キジローは目がくらむような幸福感を覚えた。
「私からキスしたんだから、あなたは願懸けを破ったことにならない。満願の日まで、このキスの意味は聞かないで。それでいい?」
「ああ、わかった。ありがとう」
サクヤはキジローの肩に頭を寄せて、小さな声でそっと言った。
「キジロー。頼りにしてるのよ。私にビクつかないでちょうだい」
「わかった。もう大丈夫だ……多分」
サクヤは身体を起して、さっと立ち上がった。
「じゃ、次のドームに行きましょうか?」
微笑んで、キジローに右手を差し出した。2人は手をつないでヨットに向かった。
その晩キジローがいつものようにハンガーでバーボンを飲んでいると、エクルーがやって来て
「俺にも一杯ちょうだい」と言った。
「珍しいな」と言いながら、キジローがもう一杯ロックを作った。
エクルーはグラスを上げて
「おめでとう。サクヤにキスしてもらったらしいじゃんか」と言ったので、キジローはバーボンを噴き出した。
「苗床でよかったな。こっちでやってたらビデオで撮られるところだぜ」
「おまっおまえ……」
「俺は4時間くらい時差のあるところにいたんだけど、ラブ・シーンの間、周りに10ヶくらいデバガメ・ロボットどもがいたろう? すぐこっちのキューキューいうのに伝令が飛んで、俺に報告が来てさ。あいつら、何か勘違いしてるよな。絶滅危惧種の繁殖を観察してるような意気込みだよ」
キジローは何とコメントしたらいいのかわからなかった。
「光栄に思えよ。俺の知る限り、サクヤの方からあいさつ以上のキスをされた男は、あんたが初めてなんだぜ?」
「キスの意味は聞くな、と言われた。あいさつ以上の意味なんかないかもしれん」
「あいさつで両脚の間に身体を入れてキスするのか。ずいぶん残酷な仕打ちだな」
「俺は何も言ってない。サクヤも何も言わなかった。キリコの件が片付くまでそれでいい。俺がそう頼んだ」
「ふうん」とエクルーはグラスを干して、もう1杯ロックを作った。
「今日はペースが早いな」
「そう?」エクルーは氷が融けるのも待たずに、生ぬるいバーボンをきゅうっと空けてグラスをたんっと置いた。
「おい、大丈夫か」
「大丈夫なわけないじゃない」と言いながら3杯めを作っている。
「俺だって、初めっから今の境地にいたわけじゃない。サクヤを相手にイライラしたりビクビクしたこともある」
またぐっとあおって、グラスを空けた。
「探査船に乗り出した頃かな。閉鎖空間に2人きりで、その頃、毎晩のようにサクヤに予兆が来てたから、俺は同じシートで手をつないで寝てた。怖ろしい夢でサクヤが動揺してる時は、抱いてあやしながら寝たこともあった。本当に何がきっかけだったか覚えてないけど、急にサクヤの身体を意識しちゃって丸っきり眠れなくなってしまった」
最早、氷も入れずにストレートで飲んでいる。
「サクヤが別のブースのシートで寝ろ、と言った。冗談じゃない。接触してないと予知夢の細部が見えない。サクヤはウソつきで、1番悪い部分を言わないのは知ってたし。イヤだ、と言うと……」
エクルーはストレートを一息に飲んだ。「じゃあ、私を抱きなさい、と言った」
「おい。もう、やめとけよ」
「いくら飲んでも酔えない」そう言いながら、またグラスに瓶を傾けている。
「俺はとにかくやってみた。やってみたが・・・サクヤがのどをそらして息をもらした瞬間、ダメになった。俺がはじかれたように身体を離した時の、サクヤの目。裏切られたような、傷ついた目」
もう1杯あおって、両手で目を隠した。
「それ以来、サクヤに関しては、俺は役立たずなんだ。他の女の子は平気だったりするんで、ますますサクヤを傷付けてしまう」
キジローは瓶をエクルーの手から取り上げた。
「よくあるじゃないか。本気の女相手だと萎縮してしまうってのは。姫さんもそれぐらいのこと、知ってるだろう」
「あの人が、そういう俗な知識をどこから仕入れるっていうんだ」
「一応、医者だろう?」
「専門は外科なんだ。……とにかく、そういうわけで俺はダメだから、キジローは遠慮なく励んでくれ。お休み」
エクルーは、瓶を2/3空けたとは思えないきっぱりした足取りでデッキを下りて、テトラのタラップを上がって行った。
「そんな話を聞いて、ほいほいと手を出せるもんか……。なあ?」
無言でアイス・ペールのお替りを差し出しているリヒャルトに聞いてみた。リヒャルトは黙って、水の溜まったアイス・ペールをぶら下げてキッチンに戻って行った。
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