アヤメが温室ドームのピアノを弾いていると、外からカロンカロンとルパの鈴の音が聞こえてきた。耳をそばだてるとルパが前庭の草をむしる音もする。
「水もらってくるから、ここにいろ」という声がして、リィンが温室に入って来た。風除室の敷居で足を止めて、声をかける。
「やあ、アヤメ。水もらいに寄ったんだ。ジャマしてごめん。また調律?」
アヤメはよその星にある音大に入学したものの、もっぱらイドラの民族音楽をモチーフに作曲しているので何かと理由をつけては帰って来ていた。星全体でも人口が1万人を超えない辺境に生まれ育ったので、大学都市での生活に馴染めない。テレパスのアヤメにとって人口密度の高い空間は拷問でしかないのだ。そして主が留守なのをいいことに、温室ドームに入り浸っている。
「調律のついでにピアノをなぐさめているの」
「ふうん」
リィンは風除室の水栓を開けて大きな水桶を抱えると、前庭に戻って行った。桶に水を入れ始めるが早いか3頭のルパが顔を突っ込む。
「よしよし、ゆっくり飲め。でもお前ら、バザール出る前にも飲んだだろ。水は適当にしてペリの下枝をちょっと喰ってくれ。このへん、な?」
またカロカロと音がする。ルパを温室を囲む防風林の傍につなぎ直しているらしい。
リィンが温室に戻って来ると、アヤメはくすくす笑った。
「相変わらずルパと会話しているのね。今日はどの子と一緒? ヤト?」
「ヤマワロとカリコボだ。市場に岩塩を下ろして麦を積んで来た」
リィンは双子沢集落をまとめる泉守りの長男だ。泉守りは水神の言葉を伝える、いわばシャーマンの家系で、その力は特に女に強く出る。曾祖母のメドゥーラは西の脊梁山地を仰ぐ8つの集落で崇敬を集めている優秀な泉守りだ。末の妹のイズミはさすがメドゥーラ直系と評判だし、その上のミイケとミオだってリィンと比べ物にならないほど感応力が強い。
そのことをぼやくと、父のグレンはいつも笑う。
「長なんて泉守りの雑用係さ。鈍いぐらいでちょうどいい。月星の配置だの水脈が濁ったの言って家族全員ひっくり返ってたらルパが飢え死にする。俺だって兄弟姉妹の中で一番弱い。外から来たあの3人にも適わなかった」
あの3人。サクヤ、エクルー、キジロー。子供を探してこの辺境の星にやって来た。そしてもう、3人ともいない。
「鈍いぐらいの方が長生きできるのさ。泉守りのお守りをするのが鈍い男の役割だ。特に俺たちはな。ヤチダ家の男は、あの3人から引き継いで守って行かなきゃいけないものがある」
父のこの表情を見る度、リィンは何とも言えない苛立ちを覚える。ペトリが壊れたのもミヅチが消えたのも、リィンが生まれる前の話だ。メドゥーラやイリス、スオミ、ヤチダ家の女達がどんなに手を尽くしても次々に弱って死んで行く石の子供たちも、リィンにとっては生まれた時から背負い込んでいる厄介な居候にしか過ぎない。
何度説明されても実感が湧かない。このすべての悲劇の始まりがリィンの曽祖父だなんて。
いずれ自分は、父からこの重過ぎる遺産を引き継がなくてはならない。見に覚えのない罪を償い続ける人生なんて理不尽だが仕方ないのかもしれない。長男なんてこんなものなんだろう。でもひとりじゃ背負い切れない。誰か。誰かが傍で支えてくれたら。憂鬱な務めも前向きにこなせそうな気がするのだ。
「今夜ここに泊まるの? 今日は嵐が無いらしいけど、日のあるうちに帰るならもう出た方がいい。ジンのドームは途中だから送るよ」
アヤメは一瞬躊躇した。リィンは生まれた時からの幼馴染だ。でも最近時々リィンが怖い。
「そうしてもらおうかな。何も言わずに出て来たから心配してるかも」
エクルーとの通信が切れた後、家を飛び出して来てしまったのだ。特に何の考えがあったわけじゃない。でもここに逃げ込んだ。慰めると言いながら、温室の森に守られたピアノに慰めてもらいに駆け込んでしまった。
「何かあった?」
逆光でもリィンの水色の瞳がこちらを見つめているのがわかる。首の後ろの絹糸のような長い毛が金色に西日に透けていた。
「ピアノを弾きたかったの。このピアノは低音が落ち着いてて好きなの。弾くとホタルも喜んでくれるし」
「”雨だれ”が聴こえてた。また泣いてたんだろう」
一瞬、空気が濃くなったように息苦しくなった。まだエクルーとの会話を人に話す気持ちになれない。今はまだ。アヤメは強いて微笑んだ。自分の方が3ヶ月とはいえ年上なのだ。威厳を保たなくては。
「心配してくれてありがとう。父さんにメール打つわ。送ってくれる?」
「ドームの外側を一周点検してくる。身支度してて」
「あら。チビさんも一緒だったの」
毛織物の上着と帽子、荒地用のブーツを身につけて庭に出たアヤメは生後2ヶ月の元気なルパの仔に声をかけた。リィンの家のルパは代々7人のミヅチにちなんで名付けられる。オスだったらミナト、ヤト、カリコボ、ヤマワロ、ノヅチ。メスだったらスセリかククリ。たいてい7匹以上のルパがいるので、ミナトが大、中、小、ノヅチも大ノヅチと小ノヅチがいる。7人のミヅチも今はもう誰もいない。
「もう市場まで歩けるようになったの? えらいえらい」
スセリがかん高い声で返事して、アヤメの足にぐいぐい首を押し付けてくる。どういうわけか、スセリと名付けるとお転婆に、ククリと名付けると大人しく育つ。
「はいはい。このへん? 耳も?」
話しかけながら柔らかい毛を撫でてやる。その柔らかさに気持ちがゆるんで泣きそうになった。
「ごめんね。さよなら」
エクルーとそんな言葉を交わして、まだ2時間も経っていない。もう涙は止まったけど、まだ目尻がヒリヒリする。
キャタピラボードの駆動音がして、ボードに乗ったフランツとリィンが前庭に戻って来た。フランツは温室ドームに300体以上いる執事ロボットの一体だ。みな同じドラム缶のような胴体にボウルを伏せたような半球型の頭部。離れた2つのレンズの間に半円のマイクが配置されたユーモラスな顔をしている。でもアヤメは稼働時間の長い数体を見分けられるようになってきた。
「なるほど。反射板を調整しておきます。この間の嵐で歪んだらしい。それと東の防風林ですね。茂り過ぎている」
温室ドームの維持管理をするのも、代々ヤチダ家の長男の仕事だ。エクルーの留守には、リィンやグレンが頻繁に訪れてロボット達と設備点検をする。
「サンルームがサンルームで無くなってるだろ」
「今は病人がいないからそれはいいですけど、湿気がこもるのは困りますね」
「それに木が弱る」
「わかりました。明日、下枝を下ろしておきます。切った枝は何かに使いますか?」
「フードに置いておいて。もらいに来るよ。乾かないようにしといて」
「水を打ってシートをかけておきます。おや。こちらはさっぱりしたな。私でも通り易くなったよ、ヤマワロ」
「べべ」
アヤメはロボットと草食獣の会話を面白そうに眺めていたが、リィンと目が合うと笑顔を見せた。
「おしゃべりロボットね。リィンの方が口数少ないぐらい」
「おかげで楽だ」
リィンもちょっと笑って、それからすぐルパの方に目を戻した。
「さ、喰い足りたろ。帰るぞ。アヤメももう出られる?」
ボートをフローモードにしてルパの後ろにつないだ。
「ボートに乗れば? それともカリコボに乗る? 俺はヤマワロに乗るから」
温室ドームとジンの住居兼研究室ドームは7キロばかり離れている。ボートなら15分だが子連れのルパでのんびり行けば40分かかる。
「カリコボを借りていい? ペトリが綺麗だし」
「ちょっと前まであれが空を覆うほど大きく光ってたなんてウソみたいだ」
2人はルパに跨って、ジャリ道を歩き始めた。ここは西の脊梁山地に沿って、夏の放牧地から宙港へ続く街道だ。脊梁山地の裾野の豊かな湧水のおかげで道の両側は草原とブッシュの緑に覆われている。
「私が生まれた頃はここも砂漠だったのよね」
「でも500年前はもっと緑が多かったらしい。海も大きかった。曾祖母さまによると今はその頃の姿に戻りつつあるんだってさ」
かつてイドラと双子星だったペトリは砕け、イドラは文字通り”水の惑星”として蘇った。今やペトリはイドラを囲む大小の石の群れだ。ヴァルハラの強烈な宇宙線をいくらかでも防いでくれている。
「どちらが幸せかしら」
「どちらって?」
「美しい風景を見ながら育ってそれがだんだん荒れて行くのを見守るのと、私たちみたいに砂漠で育って少しずつ緑になって行くのを見るのと」
「俺たちの方が幸せに決まってる」
”俺たち”という言葉にまた空気が濃くなって、2人はだまり込んでしまった。小さい頃はもっと快活な子供だったのに。アヤメとの背丈の差が大きくなるにつれて、リィンはアヤメに笑顔を見せてくれなくなった。アカネとは相変わらずよくしゃべっているらしいのに。
「何で”雨だれ”を弾いてたの?」
「え?」
「何か悲しいことがあったのか?」
音楽にあまり詳しくないリィンだが、アヤメのレパートリーはけっこう覚えてしまった。そしてアヤメがしょげると雨だれを弾くことも。アヤメは答えずに腕を伸ばして一生懸命ついて来ているスセリのふかふか柔らかい毛皮をなでた。スセリは甲高い声で鳴いてアヤメの足に首を押し付けて甘えてくる。
「忘れちゃった」
「え?」
「何が悲しかったのかもう忘れちゃったわ」
リィンも腕を伸ばしてスセリの頭をぽんぽんと叩いた。
「こいつを2、3日預けていいか?」
「どうしたの?」
「ククリが乳房炎を起こしてるんだ」
スセリの母親の名前を上げる。
「薬を塗ってもこいつが舐め取ってしまって、なかなか治らない」
「わかった。ポピーの仔を乳離れさせたところなの。まだ十分お乳が出るわ」
「ありがとう」
礼を言いながらも目線を合わせて来ない幼馴染にアヤメは微笑みかけた。
「こちらこそありがとう。私がスセリを気に入ってるから貸してくれるんでしょ?」
「別にそういうわけじゃない」
ぶっきらぼうな答えにさらに微笑みを返す。
「また今度、葬送の歌を教えて?」
リィンが怪訝な顔をする。
「君、覚えたろう。キジローの葬式でちゃんと歌ってたじゃないか」
「あの分かれてロンドになる部分がどうしても楽譜に出来なくて」
あの時、300人余りのイドリアンが集まった。キジローとサクヤ、エクルーを送るために。亡くなったたくさんの石の子供を慰めるために。始まりは単純な繰り返しだった歌声がどんどん複雑な旋律の絡み合いになった。エクルーが数えて17の声部が重なっていると感嘆していた。
あの夜、あの響きの中、とっくに散ったはずのミヅチがイドリアンの前に姿を現したのだ。
「あそこは俺でもそらで歌えない。泉で石の光を見るか、曾祖母さまに手をつないでもらわないと。第一、ひとりで17人分の音を出せない」
「そうだよね」
アヤメは残念そうにため息をついた。
あの深い響き。音の重なり。思い出すだけでトランスに落ちそうだ。生まれた時からイドリアンの感応能力に身近に触れて来たとは言え、あれほどの力とはわかってなかった。毎年春祭りで、歌と踊りで水脈、地脈を交感していると知っていたはずなのに。あれほどの次元でイメージを音楽に出来るなんて。あの体験を記録にとどめたい。エクルーも楽しみにしてると言ってくれた。
「今度、一緒に泉に行く?」
リィンが用心深く提案する。
「え?」
「俺が泉に手を浸して、もう一方の手を君につなげばイメージを送ってやれると思う。多分、君はそれを楽譜に翻訳できるだろう。君はイリスの娘なんだし」
アヤメの母親のイリスは漂流船に乗ってイドラにたどり着いた難民だった。母星のバストが軍事拠点の開発のためにぞんざいなテラフォーミングをほどこされてドーム以外が居住不能になった上に、原住民は強制退去になったのだ。ジンが引き受けた時は栄養失調と全身負傷で誇張でなく死にかけていた。イドラの言葉はもちろんのこと、連邦標準語だってひとことも知らなかったにも関わらず、イドラの人々ともホタルとも意志疎通ができた。単に”波長が合った”では説明できないほど深く風や水脈を読むことができ、ミヅチと会話し、イドラの生命がペトリの崩壊を生き延びるのに大きく貢献した。イドリアンはみな能力値に多少の差はあれど、惑星全体と交感する感応力を持っているが、イリスは抜群だった。一方、父親のジンは一般人の平均レベルから見ても”鈍い”タイプで、イドラに住んで20年近くになるのでさすがに”その辺りのこと”に驚かなくなったものの、からきし鈍感である。
アヤメはイドリアンの子供に負けない感応力があるものの、イリスにはとうてい適わない。それで時々、鈍い父親の血を恨みたくなってしまう。しかしメドゥーラに言わせると、イリスの能力が強いのは”その必要があったから”なのだと言う。”不必要にデカい力なんてあっても持て余して寿命を縮めるだけだよ”と説明されても、なかなか納得できない。
「でも、もしかして俺じゃなくてイリスに習った方がいいんじゃないか。それかうちの曾祖母ちゃんとか。イズミでもいいし」
リィンは、つまりアヤメと同じコンプレックスを抱えているわけだがその深刻さがアヤメの比ではない。何せアヤメは両親ともに異星人なのに、自分は生粋のイドリアンで、しかも長老の家系なのだ。リィンの提案にアヤメがちょっとうろたえて赤くなった。
「うん、あの、でもね、実を言うともう試してみたの」
「えっ、そうなの?」
「そう。母にもメドゥーラにもイズミちゃんにも頼んで、教えてもらったの」
「じゃあ、どうして」
リィンはどうして”俺なんかに”頼むんだ、という怪訝な顔をした。アヤメはどう説明していいかわからなかった。イドリアンの音楽には楽譜がない。それはイメージの共有とエネルギーの共鳴だった。キジローの葬儀に参列して、アヤメ自身、あの歌を体験したはずだった。だが、あの場で自分で受け取れていたのはごく一部分だったのだと痛感した。イリスに手をつないでもらって歌の一部を再現してもらった時、アヤメは文字通り失神してしまったのだ。メドゥーラに頼んだ時にはかなり身構えて覚悟していたので、さすがに失神まではしなかったがやっぱり眩暈がして採譜どころでなかった。イズミはずいぶん根気強く付き合ってくれた。ボルテージやチャンネルをだいぶ抑えたイメージを何度か見せてくれたが、やっぱりアヤメのキャパシティーを越えていた。
「リィンの歌がいいの。リィンのイメージが一番わかりやすかったもの」
要は俺が複雑なイメージを再現きないから”初心者向け”ってことなんだよな、とリィンはため息をついた。でもそのおかげでアヤメに伝わりやすいなら、自分のボンクラな感応力でも役に立つのかもしれない。
「それにね、リィンに見せてもらうと眩暈がしないの。迷子になりそうになっても、リィンがいればいつでも帰ってこれるの」
アヤメもイズミも、それに小さい頃のエクルーも、テレパス能力の強い人間に特有のトランスやパニックに陥る事が度々あった。そういう時に引き戻すのはリィンとアカネの役目だった。アカネは同じ双子なのに、アヤメに比べるとイリスの血が強く出なかったらしい。リィンはまたため息をついた。親父が言ってたのはこういうことかもしれないな。鈍い人間が役に立つこともあるんだろう、きっと。
「しばらくこっちにいるの?」
「新年明けまでこっちで採譜して大学に戻って論文に仕上げるつもり。リィンの時間がある時教えて? ついて行くわ」
「わかった。ルパを越冬地に移したら、後は大して仕事がない。付き合うよ」
冷静を装っているものの、リィンは緊張でガチガチだ。油断するとしっぽの毛がぶわっと拡がってしまいそうだ。ここ数年、アヤメを2人でいるといつもこうだ。アヤメの笑顔に息が詰まる。一緒に泉に行ってアヤメと手をつなぐことを考えただけで頭がガンガンする。でもアヤメは何も気づいてないようだ。ルパの仔に聴かせるように低い声で歌っている。俺ばかりバカみたいだ。
「今度の春祭り、誰が春の乙女になるか決まった?」
歌いやめてアヤメが聞いてくる。
「まだモメてる。うちの妹3人もみんな出たがってるし」
「あなたも出るの?」
「いずれにしろ、俺は裏方だけどね」
春祭りは、冬の放牧地を共有している7部族合同でやるのだが、”出る”というのは集団お見合いに参加する、という意味なのだ。男は腰に赤い飾り帯を巻いて、女は垂らした髪に飾り紐をつけて。
「グレンとメルが結婚した時、私の母は”春の乙女”をやったの」
「知ってる。うちの母がよく話してる。祭りの夜、ジンがイリスをヨットでさらってったって」
つまり、リィンの両親とアヤメの両親は同じ日に結婚したわけだ。そしてリィンとアヤメの誕生日は3ヶ月しか違わない。両親同士が仲が良かったこともあって、リィンは生まれた時からアヤメ、アカネの双子と一緒に育った。
「それって、もしかしてタブーだった?」
「いや。ジンが月の出まで待ったし、イリスは月の出まで誰の求婚も断った。ちゃんとおきてに適ってる」
「そうなのね。良かった」
泉守りの長男が言うことなら間違いない。アヤメは素直に喜んだ。
「私も今年はリュートで出るのよ。毎日練習しているの」
「楽師に求婚するのもタブーじゃない」
アヤメはドキンとした。いつの間にかリィンがこちらをじっと見つめている。
「君は祭りで髪を下していくの?」
祭りで髪を下すのは、求婚を受け付けるというサインなのだ。
「きょ、去年は髪を編み上げて琴を弾いたわ」
「うん。覚えてる。すごくよく似合ってた。複雑な編み方だよね。結うのに時間がかかったんじゃない?」
「エクルーが編んでくれたの。私と母、スオミと小さなサクヤの髪を」
髪を上げているのは、既婚か心に決めた人がいる印なのだ。あるいは単にまだ結婚する気持ちがないという意思表示。髪を上げた女性に求婚するのは大きなタブーである。
「髪を下すつもりはないの? これからもずっと?」
「だって求婚に応える歌を歌えないもの」
だから7つになって春祭りに出るようになってから毎年髪を結っている。エクルーの髪結い技術はお父さん譲りなのだそうだ。リボンや絹の花やビーズを使ってエクルーに髪を結ってもらっている時間が好きだった。鏡を通じてだけどエクルーがまっすぐ自分を見つめている。
そう言えば、アカネはエクルーに髪を結ってもらったことがあったかしら。アカネが耳の下で短く髪を切るようになったのはいくつからだったっけ。母さんも私も髪を長く垂らして日を浴びないと栄養失調になってしまうのに。アカネには地球人の父さんの血が強く出たようだ。
2人はもう、ジンのドームまで来ていた。リィンはボートをルパからはずしてアヤメに返した。それからスセリを母ルパのポピーに預けて、他のルパにも一通り挨拶した。元々ジンの家のルパは全部グレンの家からもらったものなのだ。育つと放牧も頼んでいる。
アヤメはスセリの首に抱き付いてふかふかの毛に覆われた首に顔を埋めた。
「ポピーを覚えてるでしょ? ククリのお姉さんよ。仲良くしてね。ポピー、お願いね」
「ククリは2、3日で治ると思う。そしたら迎えに来るからな」
リィンもスセリを頭をわしわし撫でた。
「うちに寄るでしょう? ご飯を食べてって」
「いや。妹の勉強を見る約束してるから帰る」
アヤメはリィンが一度も自分に笑顔を見せないことに気が付いていた。ロボットやルパに笑いかけるのに。子供の頃と何が変わってしまったのだろう。リィン? それとも自分?
リィンは自分のルパの群れの方に戻ってアヤメと距離を取った。そのまま帰りそうに見えたが立ち止まって振り返った。
「アヤメ。今度の春祭り、髪を下して出てくれないか」
ドームの入口を照らす灯りの逆光で表情が見えない。
「祭りで君が髪を結っていたら俺はあきらめる」
アヤメは何とも答えられず立ち尽くした。
「一度しか言わない。祭りで答えをくれ」
そう言うと、リィンはくるりと踵を返して立ち去った。
ドームに入るとジンが声をかけた。
「お帰り、寒かったろう。リィンが送ってくれたのか?」
「うん。カリコボを借りて乗って来たの」
「冷えのぼせみたいな赤い顔だぞ。ちょうどコーヒー淹れたとこだ。ほい」
カップを受け取りながら、アヤメはほうっと息をついた。
「ヒーターの傍で飲んだらいい」
「ありがとう、父さん」
本当にリィンは一度しか言わなかった。
スセリを迎えに来た時も、泉で歌を教えてくれた時も、ひとことも祭りの話をしなかった。アヤメは気のせいだったのかと思い始めた。でもリィンのまっすぐな視線が間違いでなかったと告げている。
ロンドの構成は複雑過ぎて、なかなか楽譜に整理するのは難しかった。イメージでは録音することもできない。ターミナルロボットのフレデリックが見せてくれた葬儀の時のビデオは、山に泉の青い光が走ったところから音と画像が乱れてしまっていた。再びクリアになるのは、山が暗くなって単調なくり返しの歌に戻ってからだった。
肝心の17声に分かれたロンド部分は記録されていない。
3回、アヤメはリィンと泉に行った。手をつないでいる間、リィンは一言も口を利かなかった。緊張して、歯をくいしばっているように苦しそうな顔をしている。
「ありがとう。ごめんね、忙しいのに」
「別に。放牧のついでだ。それに曾ばば様がアヤメの本を楽しみにしてるし」
「メドゥーラが?」
「うん。将来、何かの形でイドリアンの伝統が廃れても、本になってたら残すことができる。よその星の人にもわかりやすいし、いいことだって」
「楽譜ではあの素晴らしさを全然再現できないわ。10のうち3つも」
「でもゼロよりずっといい。できたら見せて欲しいって言ってた」
「うん、送るわ。あなたにも」
「待ってる。もう大学に戻るんだろう?」
「ええ。もうすぐ論文の締切なの。何とか論文仕上げなくちゃ」
握手のようにリィンが手を差し出したので、アヤメは思わず握り返した。
「がんばれ」
「うん」
リィンがちょっとかがんだので、一瞬キスされるかと身構えた。
「春祭りで待ってる」
囁くようにそう言うと、リィンはあの日と同じようにくるりと背を向けてドームを立ち去った。
アヤメの通う音大はイドラからゲートをひとつ抜けた惑星ミリディアンにある。移動だけで丸二日かかるが帰省の時は気にならない。だが大学に戻るのはいつも気が重い。乗り換えで通過するステーションも、ゲートのあるターミナルもとにかく人が多過ぎる。そして空気が動かない閉鎖空間に息が詰まる。誰とも目を合わせず言葉も交わさず2日間。大学を囲む森の中の小道に入った途端ようやく深呼吸できた。イドラから遠いとはいえ、ここも中央から遠い辺境だ。かろうじて宙港周辺が都市といえるほど人口の少ない惑星の、さらに郊外の小さな街にある。それでも300年の歴史がある中央にも名のしれた大学だった。ジンがいくつも自分で回ってここなら、と選んだのだ。
下見と受験にはジンと一緒にアカネもついて来てくれた。情けない。アカネは自分より一年早く別の惑星の大学に入って友達をたくさん作っているというのに。
でも大学は好きだった。森のあちこちからいつも音楽が聞こえている。友達も何人かできた。髪を解いてこっそり光合成できる場所もいくつか見つけた。
そしてミリディアンの空気にもようやく慣れた。
イドラと全然違う。住民すべてが潜在的なテレパスで風や水の流れや生き物すべてと常にさざめくように共鳴しているイドラの空気と全然違う。生まれた時からあの空間の一部になって響き合って育って来たアヤメにとって、まるで音も光もない真っ暗闇のがらんどうな聖堂にひとりきりでいるような孤独だった。
でも同時に自由だった。ここなら笑っても怒ってもひとりだった。どんなに感情を揺らしても心配したルパやホタルが押し寄せて来たりしない。さりげなくアカネやイリスやリィンが顔をのぞきに来たりしない。エクルーを巻き込んで一緒にトランスに落ちたりしない。どんなに泣いても、ここではひとり。だから思い切り泣ける。ここなら。
大学のピアノ室で楽譜をまとめながら、アヤメは頭の中でくり返しエクルーとリィンの言葉を再生していた。
自分はいったいどうしたいんだろう。
もしエクルーが小さなサクヤの代わりに自分を選んでくれたとしたら幸せだろうか。そうは思えない。大きなサクヤが亡くなった時、それがよくわかった。遠い惑星で突然消えたのだと聞いた。だからお葬式も無かったのだと。それから半年してイドラに帰って来た時、エクルーは具合の悪いキジローにつきっきりだったので、アヤメはそっと影から顔を見に行ったのだ。
そして文字通り、エクルーの胸に穴が開いて見えた。駆け寄って抱きしめたくなった。でもできない。自分も倒れそうなのにキジローの世話を必死ですることでやっとで自分を支えているのがわかったからだ。ずっと大きなサクヤが羨ましかった。その妬む自分の汚い感情のせいで彼女を死に追いやってしまった気がした。泣きたくても泣けないエクルーの代わりにアヤメは涙が止まらなかった。
それが突然。本当に突然、エクルーの穴が埋まったのだ。イドラに戻って来てほんの数日で。小さなサクヤがあっという間にエクルーの心を占領してしまったのだ。子供の頃からいつも抱えきれないものを胸に秘めていたエクルーが子供みたいに怒ったり笑ったりしている。アヤメはほっとした。エクルーのために喜ぼうとした。でもやっぱりできない。そしてまた遠いところから見つめるしかない。
小さなサクヤは生まれた時からイドリアンや石の子供に囲まれて育ったのでかなり勘がいい。でもテレパスではない。大きなサクヤもそうだった。2人とも自分ほどの鮮やかさでエクルーの心が見えるわけではない。抱えた闇を共有できるわけじゃない。でも多分、エクルーはそんなこと、望んでいないのだろう。出会って半年とはいえ、小さなサクヤとエクルーの絆はすでに断ち切りがたく深かった。2人とも立て続けに保護者を失って天涯孤独。血のつながりの無い法律上の叔父と姪だが、お互いだけが拠り所なのだ。もしそれを見捨てて自分の方に来たら? もうエクルーを信じられないかもしれない。
でも、だからってリィンの求婚を受けるの? リィンは優しい。一緒に歌を歌えるし、ルパを遊牧しながら草原を歩く穏やかな時間も大好きだ。リィンの家族もみんな好き。
きっと幸せになれるだろう。
そうして季節ごとにエクルーとすれ違う。
挨拶して、当たり障りのない会話をする。私がリィンを選べば、エクルーはきっと安心する。もうあんな強張った顔や寂しそうな表情をさせなくて済む。今までよりずっと優しくしてくれるに違いない。
そう考えた途端、涙があふれた。ピアノの鍵盤にこぼれ落ちそうになって、慌てて身体の向きを変える。ここが防音室で良かった。声にならない声をもらしながら身体を折って泣いた。
あきらめることなんかできない。エクルーが好き。大好き。
2人で手をつないだ時のあの融け合う感じ。何もかも共有できた。寂しさも悲しさもあこがれも。2人で合奏すると空まで一緒に歌う気がした。あんな人いない。あれほど重なり合える人はいない。あれほど私をわかってくれる人も、あれほど私がわかってあげられる人も。あきらめることなんかできない。忘れることなんかできない。
自分でもびっくりするほど涙が出た。泣きやむとぼーっとしてぐったりした。
もう迷わない。エクルーが誰を選んでもかまわない。ただずっと好きでいる。イドラの風景が好きなように。それでいい。
春祭りの日、エクルーの髪結いテントは大盛況だった。
「スオミはできあがり」
「ありがとう。今日の髪形も素敵」
「ま、モデルがいいからね。綺麗だよ、姉さん。アルが惚れ直すんじゃない? フレイヤもおそろいにしたからね」
「エクルー、ありがとうー!」
スオミに抱っこされたフレイヤは上機嫌で手を振った。
「さて、次は誰の番?」
「私、いいかしら?」
テントの入口からアヤメがのぞいた。髪を垂らしていると面倒なことになりそうなので自分で三つ編みにして簡単に上げている。
「いいよ、座って。早く仕上げちゃわないと祭りが始まっちまう」
エクルーは両手に香りの良いオイルをつけて、髪全体になじませてクシを通した。
「相変わらず綺麗な髪だね。全然ひっかからない」
「ずっと手入れしてたもの」
鏡の中のエクルーがじっと自分を見ている。もう迷わない、と心を決めたはずなのに声がうわずってしまう。
「何か注文ある?」
耳元で声を聞くと身体がふるえそうだ。すぐ後ろに立っているエクルーの体温が感じられてどんな顔をしていいかわからない。
「ううん、任せるわ」
「そう? この長さだったらあの髪形できる。久しぶりだから覚えてるかな、やってみよう」
手際良く毛束を6つに分けて三つ編みに編んで行く。三つ編みを互いにねじって複雑なまげを作り、最後に後ろに残しておいた毛束を3つに分けて、まげの結びめに巻きつけて少しずつ垂らした。それぞれのお下げに髪と同じ色の青緑の色石を通した。
「ちょっとエキゾチックなお姫様みたいだろ?」
衣装とお揃いの浅黄色のサテンリボンをカチューシャのように額から後頭部に回して右耳の上で大きな花の形に結んだ。
「どう?」
「可愛い。でも楽師なのにハデ過ぎないかしら」
「いいさ、綺麗なんだから目立てば。待って、仕上げをするから」
エクルーが鈴を通した色糸を3つのまげから3つずつ下げた。アヤメは”綺麗”という言葉で頭がくらくらして何をされているかよくわからない。
「ほら、ちょっと頭を振ってみて」
首を傾けると小さな鈴がしゃららんと鳴る。
「素敵。ありがとう」
「いいだろ? 大きなサクヤが最後に春祭りに出た時に結ってあげた髪形なんだ」
「それってエクルーのお父さんの話?」
「そ。何と言っても髪を上げているのに求婚されたという、曰くつきのスタイルだ」
「アップにしてても求婚されたの?」
アヤメは目を見開いて、鏡の中のエクルーをじっと見つめた。
「それだけ綺麗に見える髪形なんだと、スタイリストとしては得意に思っているんだけどね」
エクルーがお父さんの記憶を継いでいることは知っている。それを疑ったことはないけれど、今までそれを実感したことも無かった。エクルーが大きなサクヤに恋していることももちろん信じているが、心のどこかでマザーコンプレックスのヴァリエーションのような気がしていた。
でも、アヤメはこの時初めてもうひとりのエクルーを見た、と思った。
「サクヤが他の男の人にプロポーズされても、エクルー、平気だったの?」
その問いに答えず、エクルーは口の端を少し上げてニッと笑った。
「さあ、できた。行っといで。のんびりしてると月が上っちまうぞ」
「ええ、ありがとう。また後で」
肩をぽんと叩かれてテントを送り出された。アヤメは後々、この時のエクルーの寂しそうな優しい笑顔を思い出すことになる。
ジンとイリスのテントに戻って楽器の用意をしていると、
「おや、その髪形……」とイリスが呼び止めた。
「あ、ええ、そうなの。エクルーが結ってくれたの。大きなサクヤにしてあげたスタイルなんですって」
「やっぱりそうか。見覚えがあると思った。それはピンを使ってない。リボンだけで止めているんだろう?」
そう言えばピンを刺された感触は無かった。自分で触ってみてもよくわからない。ずっと鏡の中のエクルーだけを見つけていて、どんな手順で結われたのか覚えていない。
「乱暴に触ればゆるんでしまうぞ。気をつけろ」
「わかったわ。じゃ、もう祭壇に行くわね」
アヤメがテントを出て行った後もイリスはしばらく考え込んでいた。
「母さん、アヤメの髪形がどうかした?」
双子の妹のアカネが聞いた。アカネは今年の春祭りは薬師助手だった。藍色の薬師の上着を着て、メドゥーラと一緒にこの一年で生まれた赤ん坊や神経痛がひどくなった老人を診るわけだ。イリスやアヤメと同じ、青緑の輝きを持つ銀髪はうなじが見えるショートカットに切ってあるからアカネに求婚するものはいなかった。
「あれは複雑そうに見えて、リボンを解くだけで簡単に全部髪が下りてしまうのだ。サクヤが最後の春祭りで薬師のテントにいた時、キジローがリボンを引っ張ってプロポーズしたらしい」
「ふうん、ロマンチックね」とアカネがコメントした。アカネにとって、サクヤとキジローは自分の両親の友人でエクルーの父母という以外、特に接点はないはずだった。ただ、サクヤがエクルーの永遠の思い人という点をのぞけば。エクルーは母親のサクヤを失った後、キジローの孫に当たる小さなサクヤの後見人になっていた。7歳でエクルーに恋したアヤメはそれから10年、一途に片思いをしている。そしてアカネはそれをずっと傍で見守っていた。そして、そんなアヤメを見つめているリィンのことも。
「エクルーはどういうつもりでアヤメを髪をその結い方にしたのかねえ」
ジンがつぶやいた。
アカネはてくてく歩いてグレンのテントをのぞいてみたがリィンはいなかった。
「ああ、さっきルパに夕方の水をやりに放牧場に行った。すぐ戻ってくるだろう」
「お兄ちゃんが戻って来るもんですか」とイズミが言った。3歳下のこの妹はいつも長兄に手厳しい。
「アヤメが髪を上げているのを見てショック受けてたもの。アヤメが髪を上げて来たらあきらめて他の娘に求婚するって言ったらしいけど、そんなことできないのよ。可愛そうなお兄ちゃん」
「イズミは相聞会に出ないの?」とアカネは聞いてみた。イズミは腰まで伸ばした明るい金色の髪をきりっと結いあげていた。
「出ないわよ、バカらしい。あんな集団でお見合いするなんて。プロポーズは2人きりの時に聞くものよ」
13歳の少女のこまっしゃくれた発言にアカネは思わず微笑んだ。
「私もそう思う。だからほら」
アカネは顔の周りに両手を広げた。
「うん、アカネはショートカットが似合う。来年の春祭りで、俺、アカネに申し込むよ」と11歳のリオが赤い顔で勢い込んで言った。
「バカ、聞いてなかったの? アカネは春祭りでプロポーズされるのなんかイヤって言ったでしょ? もう、まったくうちの男達と来たら」
兄弟げんかに発展したグレンのテントを辞して、アカネは放牧場にリィンを探しに行った。リィンはカヤの木から剥いだ皮を布に広げていた。
「何やってるの?」
「ああ。あ、アカネか。うん、曾婆さまが糸を染めるのに使うというから」
リィンはぼんやり答えた。
「祭りに出なくていいの? 一応、泉守りの長男でしょ?」
「うん、まあ、行くよ。後で。ミオとミイケが春の乙女の侍女をやるから、踊りを身に来いって言われたし」
「相聞会には?」
「出ない」
打てば響くように返って来た。
「アヤメが髪を結っているから?」
さらにアカネが追及すると今度は返事が無い。生まれた時から兄弟のように育って来たこの少年を、アカネは弟のように愛していた。エクルーみたいな人でなしよりもリィンと結婚した方がアヤメは幸せに決まっている。
「あのね、まだあきらめるのは早いんじゃない? あの髪形ね、エクルーが結ったんだけど……」
太陽の再生を願う春の乙女の儀式と相聞会が終わって、楽師の仕事は一段落した。後は今夜婚約したカップルを祝福する宴会に三々五々呼ばれるだけだ。7つの集落の楽師が集まるので、1年ぶりに会う顔ばかりだ。楽師同士のおしゃべりの輪の中にエクルーがいて笑っていた。相変わらず綺麗な笑顔だ。横にちょこんと座って小さなサクヤも一緒に笑っている。今年初めて楽師として鈴を鳴らしたのだ。
「難しいわ。すごい変拍子なんだもの」
「拍子なんか数えるのが間違ってる」
「リズムを追うとメロディーがわからなくなるし、メロディーを追うとリズムがわからなくなるの」
「そうやって頭で考える限り、いつまでもわからないよ」
「あなた方イドリアンは泉と同調できるから考えなくても音楽が身体に入ってくるのよ。不公平だわ」
とサクヤがふくれた。年配の楽師がまた笑った。
「お前だってできるさ。石の子供だもの。アズアの笛は見事だった。あせらず泉の傍で練習することだ。ホタルに手伝ってもらえばいい」
「そうね、そうする」
小さなサクヤがエクルーを見上げて微笑んだ。
「お前はまだ、サクヤに白い衣装を着せてあそこに立つ気はないのか?」
西の集落の楽師が笛で祭壇を指した。
「まだ、もうちょっと待つよ。サクヤも大人の衣装を着たいだろ? あれは1回きり。一度壇を下りたら、後は侍女の地味な衣装しか着られない」とサクヤに説明した。
「そんなことはない。他の相手とまた祭壇に上がればいいんだ」と南の楽師が冷やかした。
「ふむ。だってさ、サクヤどうする? 今夜の楽師の衣装も可愛いよ。サクヤが上がりたいなら俺はお供するけど?」
とエクルーがあくまでも軽い調子で言うと、周りの楽師が声を上げて笑いながら婚約の歌を弾き始めた。
「待って、待って。まだ歌を覚えてないの。ちゃんとできるようになってからちゃんとしたいわ」サクヤが一生懸命言った。楽師たちがどっと笑った。
「サクヤの”ちゃんと”が出たぞ。大変だな。エクルー、がんばれよ」
アヤメはそのやり取りを微笑みながら見ていた。もう胸は痛まない。2人を見守って行こう。それでいい。
テントの裾からイズミがアヤメを呼んだ。
「お姉ちゃんの婚約が決まったの。宴会に来てくれない? リュートが足らないの」
「いいわよ。お姉ちゃんってミイケの方?」
「ううん。ミイケはヤルデンの歌が下手だって怒って断っちゃったの。決まったのはミオよ。ホント、この相聞会ってバカみたいだと思う。祭りの勢いに乗っかってプロポーズされても、祭りが終わって冷静になったらどうしてこんな人を選んだのかしらって後悔するに決まってるわ」
「内気な男の子はこんな時じゃないと気持ちを打ち明けられないのかもしれないわ。イズミだって好きな人ができたら、綺麗な衣装を着て祭りで歌を捧げられたいって思うようになるかもよ?」
「あんな大勢に囲まれて囃し立てられるなんて絶対にイヤ」
イズミは赤い顔でそっぽを向いた。
「他の楽師は、母さんの里の人達が来てくれたの。でもリュートの人は、娘さんがラゴに一目ぼれして2人で手をつないで壇に上がっちゃったんですって。今頃大騒ぎで支度してるわ」
「まあ、大変。私で良ければお手伝いするわ」
「こっちで待ってて」
と小さなテントに通された。
「今、飲み物を持ってくるわね。お腹はすいてない? 笛が始まったら、宴の幕屋に入って」
イズミは首をめぐらせて様子をうかがっていた。
「まだちょっとかかりそう。他の楽師の人達もラゴのお祝いが終わってから来るつもりかも。でものんびりしてると月が上がっちゃうわ。私、お姉ちゃんの支度を見てくるわね」
アヤメは一人で残された。クッションに座ってリュートを調弦する。
そう言えば、リュートでショパンを弾いたことはない。ピアノの曲をリュートで弾いたらどうなるかしら。あら、面白い。リュートで弾くノクターンは全然違う夜の風景だ。もっとやさしい。もっと甘い。憧れのような響きがある。
夢中になって弾いていたので、テントにリィンが入って来たのに気付かなかった。
ここに来ればリィンがいる、と言うことをすっかり失念していた自分にもちょっとショックだった。髪を結ってもらいながら、リィンの言葉を思い出しもしなかった。この髪形でリィンを断ることになる、とうことさえ忘れていた。ずっと鏡の中のエクルーだけを見つめていた。自分の髪にやさしく触れるエクルーの指だけを感じていた。
リィンはテントの入口でさっと腰に赤い帯を巻いた。そしてつかつかと入ってくると、アヤメがあっけに取られているうちに、後ろに回って思い切りリボンを引っ張った。
リボンに留めていた鈴がしゃららんと鳴った。堰を切ったように夕闇に青白く輝く銀の髪がしなやかに広がってアヤメを腰まで包んだ。
我に返ってリィンの手からリボンを取り返した。そのリボンを見て、アヤメはショックを受けた。三つ編みやまげを留めていた青い糸がひとつに結ばれて、鈴の紐とつながっている。この鈴はエクルーが最後の仕上げにつけてくれたのだ。微笑みながら。
リィンはひるまず、まだ茫然としているアヤメの前に膝まづいて歌い始めた。
雪融けの歌。これが終わったら相聞の歌だ。
「やめて。髪を結った女性に求婚するのはタブーでしょう?」
「今は結ってない。リボンの鈴は未亡人の印だ。悲しみを忘れて次の温かい手を探している」
リィンは静かにそう言うと、歌の続きを始めた。
どういうこと?
エクルーはサクヤにもこの形で結ったと言った。結っていたのにサクヤは求婚された、と。エクルーはサクヤを愛していたはず。でもその後、エクルーは死んで、サクヤはキジローと暮らした。
エクルーはどういうつもりでサクヤの髪をこの形に結ったの? 何を考えて、どんな気持ちで?
混乱しているアヤメにかまわず、リィンは歌い続ける。深い静かな声。でも激情が声の端々に感じ取れる。今にも爆発しそうな炎がゆらめいて見える。
アヤメは怖くなって、膝まづいていたリィンの肩を突き飛ばした。
「歌をやめて。私はそんなつもりじゃない。あなたは髪をほどいた。これはタブーでしょう!」
「タブーじゃない」
リィンはアヤメの手首を掴んで静かに言った。アヤメに押されても、がっしりした身体は少しもゆらいでいない。膝をついたままアヤメの両手を捕まえた。
「タブーじゃない。昔からの作法だ。未亡人のリボンに鈴をつけるのは。リボンをほどいた男は求婚していいんだ」
リィンはアヤメの腕を引き寄せて、腰に手を回すして抱きしめた。
「頼む。歌を返してくれ。俺と一緒に祭壇に上がってくれ。ずっと一生、憧れだけを抱えて生きるつもりか? きっと大事にする。俺たちはきっと幸せになれる」
アヤメは言葉が出てこなかった。チリンと音を立ててリボンを頭に持って行くと、両手で髪を集めてまとめようとした。しかしつややかな髪は、なめらかなリボンをはじいて光の噴水のようにまた髪の周りにこぼれた。
リィンの顔が寄せられたお腹が熱い。こんな風に男の人に抱きしめられたのは初めてだ。頭がしびれそう。もっと触れられたい。キスされたい。大事にされたい。そんな願いがこぼれそうになった。自分だけを写す瞳に熱く見つめられたい。自分の中の冷たい塊を融かして欲しい。誰かに。
誰に?
アヤメは後ずさって身体を振りほどいた。私が欲しいのはエクルーだけだわ。エクルーの笑顔が浮かぶ。よろめいた拍子に手の中のリボンがちりんと鳴った。
またリィンが手を掴んだ。
「エクルーがどんな気持ちでその髪を結ったと思う? 次のサクヤも死ぬのを待つつもりか?」
アヤメがリィンの頬をひっぱ叩いた。すうっと涙を流れた。
「さよなら」
そう言い残して、アヤメはテントを走り去った。リィンは追いかけることができなかった。
テントの裾からどぶろくの瓶を下げたイズミが入って来た。
「お兄ちゃん、最後の一言は明らかに余計よ。自分で止めを刺しちゃったわね」
がっくりと床に座り込んであぐらをかいたリィンは呻いた。
「言うな」
「わかった。もう何も言うまい。飲もう」
イズミは杯をリィンに持たせた。
「お兄ちゃんの失恋に乾杯」
アヤメは泣きながら丘を駆け上がって尾根まで登った。それ以上、歩けなくなって息を詰まらせて草の上に突っ伏した。涙が止まらない。苦しい。死んでしまいたい。
ふと気づくと周りが明るい。チリリ、チリリリと声がする。無数のホタルが集まって歌っている。青白い、でも温かい灯りでアヤメを慰めている。涙に濡れた指先を広げると、塩気を求めて我先にホタルが殺到した。身体を起こすと、頬を舐めようとするホタルにもみくちゃにされた。
「ケンカしないで。涙なんていくらでも出るんだから」
さっきまでアヤメがうつぶせて泣いていた草むらにもホタルが集まっている。塩に酔ったものからふわっと浮かんでアヤメの髪の周りを漂った。
好き勝手にチリチリ鳴いていたホタルの歌がひとつのメロディーにまとまり始めた。リー、ローと響く。アヤメの頭の中までゆさぶられるようだ。
山の端が明るくなって、オレンジ色のペトリがぽっかり上がって来た。ホタルの歌は最高潮に盛り上がって、リロロ、ルラララと喜んでいる。
春の最初の満月。春が来た。冬は終わった。
心は一度死んだけど、また再生される。また歌を歌える。月を美しく思えるようになる。
「見事なもんだ。毎年見ても飽きないね」
声がしてびっくりした。
尾根の草むらにジンが寝ころがっている。
「父さん! いつからいたの?」
「相聞会が終わった辺りから。毎年ここで月が上るのを見ることにしてるんだ」
「母さんは?」
「アカネとどぶろくを飲んでる。あんなウワバミどもと付き合ってられるか」
ジンは身体を起こして伸びをした。
「こっちに来ないか。月を見よう」
隣に座ったアヤメに、ジンは目を細めた。
「綺麗になったなあ。お前がホタルを引き連れて、髪をなびかせて丘を登って来るのを見た時、夢かと思ったよ」
「夢?」
「ここでイリスを待った夜に戻ったかと思った。お前はイリスにそっくりだ。美しくて強い。アカネもそうだ。美しくて強い。お前たちは3つの花みたいに、それぞれ違った美しさと強さを持っている。忘れるな、アヤメ。お前も強いんだ」
「うん。ありがとう、父さん。自分でも驚いてるの」
「へえ。どんな風に?」
「自分がけっこう図太いってことに。失恋しても笑えるし、お腹がすくのね」
「そしてまた恋をすればいいさ。おいで、テントに戻ろう。お前の分の食事を取ってある」
「ええ」
月はケーキのように美味しそうな黄色に輝いていた。漂っている甘い香りは月なのか花なのか。親子で手をつないで露が結んだ緑野を渡った。
「水もらってくるから、ここにいろ」という声がして、リィンが温室に入って来た。風除室の敷居で足を止めて、声をかける。
「やあ、アヤメ。水もらいに寄ったんだ。ジャマしてごめん。また調律?」
アヤメはよその星にある音大に入学したものの、もっぱらイドラの民族音楽をモチーフに作曲しているので何かと理由をつけては帰って来ていた。星全体でも人口が1万人を超えない辺境に生まれ育ったので、大学都市での生活に馴染めない。テレパスのアヤメにとって人口密度の高い空間は拷問でしかないのだ。そして主が留守なのをいいことに、温室ドームに入り浸っている。
「調律のついでにピアノをなぐさめているの」
「ふうん」
リィンは風除室の水栓を開けて大きな水桶を抱えると、前庭に戻って行った。桶に水を入れ始めるが早いか3頭のルパが顔を突っ込む。
「よしよし、ゆっくり飲め。でもお前ら、バザール出る前にも飲んだだろ。水は適当にしてペリの下枝をちょっと喰ってくれ。このへん、な?」
またカロカロと音がする。ルパを温室を囲む防風林の傍につなぎ直しているらしい。
リィンが温室に戻って来ると、アヤメはくすくす笑った。
「相変わらずルパと会話しているのね。今日はどの子と一緒? ヤト?」
「ヤマワロとカリコボだ。市場に岩塩を下ろして麦を積んで来た」
リィンは双子沢集落をまとめる泉守りの長男だ。泉守りは水神の言葉を伝える、いわばシャーマンの家系で、その力は特に女に強く出る。曾祖母のメドゥーラは西の脊梁山地を仰ぐ8つの集落で崇敬を集めている優秀な泉守りだ。末の妹のイズミはさすがメドゥーラ直系と評判だし、その上のミイケとミオだってリィンと比べ物にならないほど感応力が強い。
そのことをぼやくと、父のグレンはいつも笑う。
「長なんて泉守りの雑用係さ。鈍いぐらいでちょうどいい。月星の配置だの水脈が濁ったの言って家族全員ひっくり返ってたらルパが飢え死にする。俺だって兄弟姉妹の中で一番弱い。外から来たあの3人にも適わなかった」
あの3人。サクヤ、エクルー、キジロー。子供を探してこの辺境の星にやって来た。そしてもう、3人ともいない。
「鈍いぐらいの方が長生きできるのさ。泉守りのお守りをするのが鈍い男の役割だ。特に俺たちはな。ヤチダ家の男は、あの3人から引き継いで守って行かなきゃいけないものがある」
父のこの表情を見る度、リィンは何とも言えない苛立ちを覚える。ペトリが壊れたのもミヅチが消えたのも、リィンが生まれる前の話だ。メドゥーラやイリス、スオミ、ヤチダ家の女達がどんなに手を尽くしても次々に弱って死んで行く石の子供たちも、リィンにとっては生まれた時から背負い込んでいる厄介な居候にしか過ぎない。
何度説明されても実感が湧かない。このすべての悲劇の始まりがリィンの曽祖父だなんて。
いずれ自分は、父からこの重過ぎる遺産を引き継がなくてはならない。見に覚えのない罪を償い続ける人生なんて理不尽だが仕方ないのかもしれない。長男なんてこんなものなんだろう。でもひとりじゃ背負い切れない。誰か。誰かが傍で支えてくれたら。憂鬱な務めも前向きにこなせそうな気がするのだ。
「今夜ここに泊まるの? 今日は嵐が無いらしいけど、日のあるうちに帰るならもう出た方がいい。ジンのドームは途中だから送るよ」
アヤメは一瞬躊躇した。リィンは生まれた時からの幼馴染だ。でも最近時々リィンが怖い。
「そうしてもらおうかな。何も言わずに出て来たから心配してるかも」
エクルーとの通信が切れた後、家を飛び出して来てしまったのだ。特に何の考えがあったわけじゃない。でもここに逃げ込んだ。慰めると言いながら、温室の森に守られたピアノに慰めてもらいに駆け込んでしまった。
「何かあった?」
逆光でもリィンの水色の瞳がこちらを見つめているのがわかる。首の後ろの絹糸のような長い毛が金色に西日に透けていた。
「ピアノを弾きたかったの。このピアノは低音が落ち着いてて好きなの。弾くとホタルも喜んでくれるし」
「”雨だれ”が聴こえてた。また泣いてたんだろう」
一瞬、空気が濃くなったように息苦しくなった。まだエクルーとの会話を人に話す気持ちになれない。今はまだ。アヤメは強いて微笑んだ。自分の方が3ヶ月とはいえ年上なのだ。威厳を保たなくては。
「心配してくれてありがとう。父さんにメール打つわ。送ってくれる?」
「ドームの外側を一周点検してくる。身支度してて」
「あら。チビさんも一緒だったの」
毛織物の上着と帽子、荒地用のブーツを身につけて庭に出たアヤメは生後2ヶ月の元気なルパの仔に声をかけた。リィンの家のルパは代々7人のミヅチにちなんで名付けられる。オスだったらミナト、ヤト、カリコボ、ヤマワロ、ノヅチ。メスだったらスセリかククリ。たいてい7匹以上のルパがいるので、ミナトが大、中、小、ノヅチも大ノヅチと小ノヅチがいる。7人のミヅチも今はもう誰もいない。
「もう市場まで歩けるようになったの? えらいえらい」
スセリがかん高い声で返事して、アヤメの足にぐいぐい首を押し付けてくる。どういうわけか、スセリと名付けるとお転婆に、ククリと名付けると大人しく育つ。
「はいはい。このへん? 耳も?」
話しかけながら柔らかい毛を撫でてやる。その柔らかさに気持ちがゆるんで泣きそうになった。
「ごめんね。さよなら」
エクルーとそんな言葉を交わして、まだ2時間も経っていない。もう涙は止まったけど、まだ目尻がヒリヒリする。
キャタピラボードの駆動音がして、ボードに乗ったフランツとリィンが前庭に戻って来た。フランツは温室ドームに300体以上いる執事ロボットの一体だ。みな同じドラム缶のような胴体にボウルを伏せたような半球型の頭部。離れた2つのレンズの間に半円のマイクが配置されたユーモラスな顔をしている。でもアヤメは稼働時間の長い数体を見分けられるようになってきた。
「なるほど。反射板を調整しておきます。この間の嵐で歪んだらしい。それと東の防風林ですね。茂り過ぎている」
温室ドームの維持管理をするのも、代々ヤチダ家の長男の仕事だ。エクルーの留守には、リィンやグレンが頻繁に訪れてロボット達と設備点検をする。
「サンルームがサンルームで無くなってるだろ」
「今は病人がいないからそれはいいですけど、湿気がこもるのは困りますね」
「それに木が弱る」
「わかりました。明日、下枝を下ろしておきます。切った枝は何かに使いますか?」
「フードに置いておいて。もらいに来るよ。乾かないようにしといて」
「水を打ってシートをかけておきます。おや。こちらはさっぱりしたな。私でも通り易くなったよ、ヤマワロ」
「べべ」
アヤメはロボットと草食獣の会話を面白そうに眺めていたが、リィンと目が合うと笑顔を見せた。
「おしゃべりロボットね。リィンの方が口数少ないぐらい」
「おかげで楽だ」
リィンもちょっと笑って、それからすぐルパの方に目を戻した。
「さ、喰い足りたろ。帰るぞ。アヤメももう出られる?」
ボートをフローモードにしてルパの後ろにつないだ。
「ボートに乗れば? それともカリコボに乗る? 俺はヤマワロに乗るから」
温室ドームとジンの住居兼研究室ドームは7キロばかり離れている。ボートなら15分だが子連れのルパでのんびり行けば40分かかる。
「カリコボを借りていい? ペトリが綺麗だし」
「ちょっと前まであれが空を覆うほど大きく光ってたなんてウソみたいだ」
2人はルパに跨って、ジャリ道を歩き始めた。ここは西の脊梁山地に沿って、夏の放牧地から宙港へ続く街道だ。脊梁山地の裾野の豊かな湧水のおかげで道の両側は草原とブッシュの緑に覆われている。
「私が生まれた頃はここも砂漠だったのよね」
「でも500年前はもっと緑が多かったらしい。海も大きかった。曾祖母さまによると今はその頃の姿に戻りつつあるんだってさ」
かつてイドラと双子星だったペトリは砕け、イドラは文字通り”水の惑星”として蘇った。今やペトリはイドラを囲む大小の石の群れだ。ヴァルハラの強烈な宇宙線をいくらかでも防いでくれている。
「どちらが幸せかしら」
「どちらって?」
「美しい風景を見ながら育ってそれがだんだん荒れて行くのを見守るのと、私たちみたいに砂漠で育って少しずつ緑になって行くのを見るのと」
「俺たちの方が幸せに決まってる」
”俺たち”という言葉にまた空気が濃くなって、2人はだまり込んでしまった。小さい頃はもっと快活な子供だったのに。アヤメとの背丈の差が大きくなるにつれて、リィンはアヤメに笑顔を見せてくれなくなった。アカネとは相変わらずよくしゃべっているらしいのに。
「何で”雨だれ”を弾いてたの?」
「え?」
「何か悲しいことがあったのか?」
音楽にあまり詳しくないリィンだが、アヤメのレパートリーはけっこう覚えてしまった。そしてアヤメがしょげると雨だれを弾くことも。アヤメは答えずに腕を伸ばして一生懸命ついて来ているスセリのふかふか柔らかい毛皮をなでた。スセリは甲高い声で鳴いてアヤメの足に首を押し付けて甘えてくる。
「忘れちゃった」
「え?」
「何が悲しかったのかもう忘れちゃったわ」
リィンも腕を伸ばしてスセリの頭をぽんぽんと叩いた。
「こいつを2、3日預けていいか?」
「どうしたの?」
「ククリが乳房炎を起こしてるんだ」
スセリの母親の名前を上げる。
「薬を塗ってもこいつが舐め取ってしまって、なかなか治らない」
「わかった。ポピーの仔を乳離れさせたところなの。まだ十分お乳が出るわ」
「ありがとう」
礼を言いながらも目線を合わせて来ない幼馴染にアヤメは微笑みかけた。
「こちらこそありがとう。私がスセリを気に入ってるから貸してくれるんでしょ?」
「別にそういうわけじゃない」
ぶっきらぼうな答えにさらに微笑みを返す。
「また今度、葬送の歌を教えて?」
リィンが怪訝な顔をする。
「君、覚えたろう。キジローの葬式でちゃんと歌ってたじゃないか」
「あの分かれてロンドになる部分がどうしても楽譜に出来なくて」
あの時、300人余りのイドリアンが集まった。キジローとサクヤ、エクルーを送るために。亡くなったたくさんの石の子供を慰めるために。始まりは単純な繰り返しだった歌声がどんどん複雑な旋律の絡み合いになった。エクルーが数えて17の声部が重なっていると感嘆していた。
あの夜、あの響きの中、とっくに散ったはずのミヅチがイドリアンの前に姿を現したのだ。
「あそこは俺でもそらで歌えない。泉で石の光を見るか、曾祖母さまに手をつないでもらわないと。第一、ひとりで17人分の音を出せない」
「そうだよね」
アヤメは残念そうにため息をついた。
あの深い響き。音の重なり。思い出すだけでトランスに落ちそうだ。生まれた時からイドリアンの感応能力に身近に触れて来たとは言え、あれほどの力とはわかってなかった。毎年春祭りで、歌と踊りで水脈、地脈を交感していると知っていたはずなのに。あれほどの次元でイメージを音楽に出来るなんて。あの体験を記録にとどめたい。エクルーも楽しみにしてると言ってくれた。
「今度、一緒に泉に行く?」
リィンが用心深く提案する。
「え?」
「俺が泉に手を浸して、もう一方の手を君につなげばイメージを送ってやれると思う。多分、君はそれを楽譜に翻訳できるだろう。君はイリスの娘なんだし」
アヤメの母親のイリスは漂流船に乗ってイドラにたどり着いた難民だった。母星のバストが軍事拠点の開発のためにぞんざいなテラフォーミングをほどこされてドーム以外が居住不能になった上に、原住民は強制退去になったのだ。ジンが引き受けた時は栄養失調と全身負傷で誇張でなく死にかけていた。イドラの言葉はもちろんのこと、連邦標準語だってひとことも知らなかったにも関わらず、イドラの人々ともホタルとも意志疎通ができた。単に”波長が合った”では説明できないほど深く風や水脈を読むことができ、ミヅチと会話し、イドラの生命がペトリの崩壊を生き延びるのに大きく貢献した。イドリアンはみな能力値に多少の差はあれど、惑星全体と交感する感応力を持っているが、イリスは抜群だった。一方、父親のジンは一般人の平均レベルから見ても”鈍い”タイプで、イドラに住んで20年近くになるのでさすがに”その辺りのこと”に驚かなくなったものの、からきし鈍感である。
アヤメはイドリアンの子供に負けない感応力があるものの、イリスにはとうてい適わない。それで時々、鈍い父親の血を恨みたくなってしまう。しかしメドゥーラに言わせると、イリスの能力が強いのは”その必要があったから”なのだと言う。”不必要にデカい力なんてあっても持て余して寿命を縮めるだけだよ”と説明されても、なかなか納得できない。
「でも、もしかして俺じゃなくてイリスに習った方がいいんじゃないか。それかうちの曾祖母ちゃんとか。イズミでもいいし」
リィンは、つまりアヤメと同じコンプレックスを抱えているわけだがその深刻さがアヤメの比ではない。何せアヤメは両親ともに異星人なのに、自分は生粋のイドリアンで、しかも長老の家系なのだ。リィンの提案にアヤメがちょっとうろたえて赤くなった。
「うん、あの、でもね、実を言うともう試してみたの」
「えっ、そうなの?」
「そう。母にもメドゥーラにもイズミちゃんにも頼んで、教えてもらったの」
「じゃあ、どうして」
リィンはどうして”俺なんかに”頼むんだ、という怪訝な顔をした。アヤメはどう説明していいかわからなかった。イドリアンの音楽には楽譜がない。それはイメージの共有とエネルギーの共鳴だった。キジローの葬儀に参列して、アヤメ自身、あの歌を体験したはずだった。だが、あの場で自分で受け取れていたのはごく一部分だったのだと痛感した。イリスに手をつないでもらって歌の一部を再現してもらった時、アヤメは文字通り失神してしまったのだ。メドゥーラに頼んだ時にはかなり身構えて覚悟していたので、さすがに失神まではしなかったがやっぱり眩暈がして採譜どころでなかった。イズミはずいぶん根気強く付き合ってくれた。ボルテージやチャンネルをだいぶ抑えたイメージを何度か見せてくれたが、やっぱりアヤメのキャパシティーを越えていた。
「リィンの歌がいいの。リィンのイメージが一番わかりやすかったもの」
要は俺が複雑なイメージを再現きないから”初心者向け”ってことなんだよな、とリィンはため息をついた。でもそのおかげでアヤメに伝わりやすいなら、自分のボンクラな感応力でも役に立つのかもしれない。
「それにね、リィンに見せてもらうと眩暈がしないの。迷子になりそうになっても、リィンがいればいつでも帰ってこれるの」
アヤメもイズミも、それに小さい頃のエクルーも、テレパス能力の強い人間に特有のトランスやパニックに陥る事が度々あった。そういう時に引き戻すのはリィンとアカネの役目だった。アカネは同じ双子なのに、アヤメに比べるとイリスの血が強く出なかったらしい。リィンはまたため息をついた。親父が言ってたのはこういうことかもしれないな。鈍い人間が役に立つこともあるんだろう、きっと。
「しばらくこっちにいるの?」
「新年明けまでこっちで採譜して大学に戻って論文に仕上げるつもり。リィンの時間がある時教えて? ついて行くわ」
「わかった。ルパを越冬地に移したら、後は大して仕事がない。付き合うよ」
冷静を装っているものの、リィンは緊張でガチガチだ。油断するとしっぽの毛がぶわっと拡がってしまいそうだ。ここ数年、アヤメを2人でいるといつもこうだ。アヤメの笑顔に息が詰まる。一緒に泉に行ってアヤメと手をつなぐことを考えただけで頭がガンガンする。でもアヤメは何も気づいてないようだ。ルパの仔に聴かせるように低い声で歌っている。俺ばかりバカみたいだ。
「今度の春祭り、誰が春の乙女になるか決まった?」
歌いやめてアヤメが聞いてくる。
「まだモメてる。うちの妹3人もみんな出たがってるし」
「あなたも出るの?」
「いずれにしろ、俺は裏方だけどね」
春祭りは、冬の放牧地を共有している7部族合同でやるのだが、”出る”というのは集団お見合いに参加する、という意味なのだ。男は腰に赤い飾り帯を巻いて、女は垂らした髪に飾り紐をつけて。
「グレンとメルが結婚した時、私の母は”春の乙女”をやったの」
「知ってる。うちの母がよく話してる。祭りの夜、ジンがイリスをヨットでさらってったって」
つまり、リィンの両親とアヤメの両親は同じ日に結婚したわけだ。そしてリィンとアヤメの誕生日は3ヶ月しか違わない。両親同士が仲が良かったこともあって、リィンは生まれた時からアヤメ、アカネの双子と一緒に育った。
「それって、もしかしてタブーだった?」
「いや。ジンが月の出まで待ったし、イリスは月の出まで誰の求婚も断った。ちゃんとおきてに適ってる」
「そうなのね。良かった」
泉守りの長男が言うことなら間違いない。アヤメは素直に喜んだ。
「私も今年はリュートで出るのよ。毎日練習しているの」
「楽師に求婚するのもタブーじゃない」
アヤメはドキンとした。いつの間にかリィンがこちらをじっと見つめている。
「君は祭りで髪を下していくの?」
祭りで髪を下すのは、求婚を受け付けるというサインなのだ。
「きょ、去年は髪を編み上げて琴を弾いたわ」
「うん。覚えてる。すごくよく似合ってた。複雑な編み方だよね。結うのに時間がかかったんじゃない?」
「エクルーが編んでくれたの。私と母、スオミと小さなサクヤの髪を」
髪を上げているのは、既婚か心に決めた人がいる印なのだ。あるいは単にまだ結婚する気持ちがないという意思表示。髪を上げた女性に求婚するのは大きなタブーである。
「髪を下すつもりはないの? これからもずっと?」
「だって求婚に応える歌を歌えないもの」
だから7つになって春祭りに出るようになってから毎年髪を結っている。エクルーの髪結い技術はお父さん譲りなのだそうだ。リボンや絹の花やビーズを使ってエクルーに髪を結ってもらっている時間が好きだった。鏡を通じてだけどエクルーがまっすぐ自分を見つめている。
そう言えば、アカネはエクルーに髪を結ってもらったことがあったかしら。アカネが耳の下で短く髪を切るようになったのはいくつからだったっけ。母さんも私も髪を長く垂らして日を浴びないと栄養失調になってしまうのに。アカネには地球人の父さんの血が強く出たようだ。
2人はもう、ジンのドームまで来ていた。リィンはボートをルパからはずしてアヤメに返した。それからスセリを母ルパのポピーに預けて、他のルパにも一通り挨拶した。元々ジンの家のルパは全部グレンの家からもらったものなのだ。育つと放牧も頼んでいる。
アヤメはスセリの首に抱き付いてふかふかの毛に覆われた首に顔を埋めた。
「ポピーを覚えてるでしょ? ククリのお姉さんよ。仲良くしてね。ポピー、お願いね」
「ククリは2、3日で治ると思う。そしたら迎えに来るからな」
リィンもスセリを頭をわしわし撫でた。
「うちに寄るでしょう? ご飯を食べてって」
「いや。妹の勉強を見る約束してるから帰る」
アヤメはリィンが一度も自分に笑顔を見せないことに気が付いていた。ロボットやルパに笑いかけるのに。子供の頃と何が変わってしまったのだろう。リィン? それとも自分?
リィンは自分のルパの群れの方に戻ってアヤメと距離を取った。そのまま帰りそうに見えたが立ち止まって振り返った。
「アヤメ。今度の春祭り、髪を下して出てくれないか」
ドームの入口を照らす灯りの逆光で表情が見えない。
「祭りで君が髪を結っていたら俺はあきらめる」
アヤメは何とも答えられず立ち尽くした。
「一度しか言わない。祭りで答えをくれ」
そう言うと、リィンはくるりと踵を返して立ち去った。
ドームに入るとジンが声をかけた。
「お帰り、寒かったろう。リィンが送ってくれたのか?」
「うん。カリコボを借りて乗って来たの」
「冷えのぼせみたいな赤い顔だぞ。ちょうどコーヒー淹れたとこだ。ほい」
カップを受け取りながら、アヤメはほうっと息をついた。
「ヒーターの傍で飲んだらいい」
「ありがとう、父さん」
本当にリィンは一度しか言わなかった。
スセリを迎えに来た時も、泉で歌を教えてくれた時も、ひとことも祭りの話をしなかった。アヤメは気のせいだったのかと思い始めた。でもリィンのまっすぐな視線が間違いでなかったと告げている。
ロンドの構成は複雑過ぎて、なかなか楽譜に整理するのは難しかった。イメージでは録音することもできない。ターミナルロボットのフレデリックが見せてくれた葬儀の時のビデオは、山に泉の青い光が走ったところから音と画像が乱れてしまっていた。再びクリアになるのは、山が暗くなって単調なくり返しの歌に戻ってからだった。
肝心の17声に分かれたロンド部分は記録されていない。
3回、アヤメはリィンと泉に行った。手をつないでいる間、リィンは一言も口を利かなかった。緊張して、歯をくいしばっているように苦しそうな顔をしている。
「ありがとう。ごめんね、忙しいのに」
「別に。放牧のついでだ。それに曾ばば様がアヤメの本を楽しみにしてるし」
「メドゥーラが?」
「うん。将来、何かの形でイドリアンの伝統が廃れても、本になってたら残すことができる。よその星の人にもわかりやすいし、いいことだって」
「楽譜ではあの素晴らしさを全然再現できないわ。10のうち3つも」
「でもゼロよりずっといい。できたら見せて欲しいって言ってた」
「うん、送るわ。あなたにも」
「待ってる。もう大学に戻るんだろう?」
「ええ。もうすぐ論文の締切なの。何とか論文仕上げなくちゃ」
握手のようにリィンが手を差し出したので、アヤメは思わず握り返した。
「がんばれ」
「うん」
リィンがちょっとかがんだので、一瞬キスされるかと身構えた。
「春祭りで待ってる」
囁くようにそう言うと、リィンはあの日と同じようにくるりと背を向けてドームを立ち去った。
アヤメの通う音大はイドラからゲートをひとつ抜けた惑星ミリディアンにある。移動だけで丸二日かかるが帰省の時は気にならない。だが大学に戻るのはいつも気が重い。乗り換えで通過するステーションも、ゲートのあるターミナルもとにかく人が多過ぎる。そして空気が動かない閉鎖空間に息が詰まる。誰とも目を合わせず言葉も交わさず2日間。大学を囲む森の中の小道に入った途端ようやく深呼吸できた。イドラから遠いとはいえ、ここも中央から遠い辺境だ。かろうじて宙港周辺が都市といえるほど人口の少ない惑星の、さらに郊外の小さな街にある。それでも300年の歴史がある中央にも名のしれた大学だった。ジンがいくつも自分で回ってここなら、と選んだのだ。
下見と受験にはジンと一緒にアカネもついて来てくれた。情けない。アカネは自分より一年早く別の惑星の大学に入って友達をたくさん作っているというのに。
でも大学は好きだった。森のあちこちからいつも音楽が聞こえている。友達も何人かできた。髪を解いてこっそり光合成できる場所もいくつか見つけた。
そしてミリディアンの空気にもようやく慣れた。
イドラと全然違う。住民すべてが潜在的なテレパスで風や水の流れや生き物すべてと常にさざめくように共鳴しているイドラの空気と全然違う。生まれた時からあの空間の一部になって響き合って育って来たアヤメにとって、まるで音も光もない真っ暗闇のがらんどうな聖堂にひとりきりでいるような孤独だった。
でも同時に自由だった。ここなら笑っても怒ってもひとりだった。どんなに感情を揺らしても心配したルパやホタルが押し寄せて来たりしない。さりげなくアカネやイリスやリィンが顔をのぞきに来たりしない。エクルーを巻き込んで一緒にトランスに落ちたりしない。どんなに泣いても、ここではひとり。だから思い切り泣ける。ここなら。
大学のピアノ室で楽譜をまとめながら、アヤメは頭の中でくり返しエクルーとリィンの言葉を再生していた。
自分はいったいどうしたいんだろう。
もしエクルーが小さなサクヤの代わりに自分を選んでくれたとしたら幸せだろうか。そうは思えない。大きなサクヤが亡くなった時、それがよくわかった。遠い惑星で突然消えたのだと聞いた。だからお葬式も無かったのだと。それから半年してイドラに帰って来た時、エクルーは具合の悪いキジローにつきっきりだったので、アヤメはそっと影から顔を見に行ったのだ。
そして文字通り、エクルーの胸に穴が開いて見えた。駆け寄って抱きしめたくなった。でもできない。自分も倒れそうなのにキジローの世話を必死ですることでやっとで自分を支えているのがわかったからだ。ずっと大きなサクヤが羨ましかった。その妬む自分の汚い感情のせいで彼女を死に追いやってしまった気がした。泣きたくても泣けないエクルーの代わりにアヤメは涙が止まらなかった。
それが突然。本当に突然、エクルーの穴が埋まったのだ。イドラに戻って来てほんの数日で。小さなサクヤがあっという間にエクルーの心を占領してしまったのだ。子供の頃からいつも抱えきれないものを胸に秘めていたエクルーが子供みたいに怒ったり笑ったりしている。アヤメはほっとした。エクルーのために喜ぼうとした。でもやっぱりできない。そしてまた遠いところから見つめるしかない。
小さなサクヤは生まれた時からイドリアンや石の子供に囲まれて育ったのでかなり勘がいい。でもテレパスではない。大きなサクヤもそうだった。2人とも自分ほどの鮮やかさでエクルーの心が見えるわけではない。抱えた闇を共有できるわけじゃない。でも多分、エクルーはそんなこと、望んでいないのだろう。出会って半年とはいえ、小さなサクヤとエクルーの絆はすでに断ち切りがたく深かった。2人とも立て続けに保護者を失って天涯孤独。血のつながりの無い法律上の叔父と姪だが、お互いだけが拠り所なのだ。もしそれを見捨てて自分の方に来たら? もうエクルーを信じられないかもしれない。
でも、だからってリィンの求婚を受けるの? リィンは優しい。一緒に歌を歌えるし、ルパを遊牧しながら草原を歩く穏やかな時間も大好きだ。リィンの家族もみんな好き。
きっと幸せになれるだろう。
そうして季節ごとにエクルーとすれ違う。
挨拶して、当たり障りのない会話をする。私がリィンを選べば、エクルーはきっと安心する。もうあんな強張った顔や寂しそうな表情をさせなくて済む。今までよりずっと優しくしてくれるに違いない。
そう考えた途端、涙があふれた。ピアノの鍵盤にこぼれ落ちそうになって、慌てて身体の向きを変える。ここが防音室で良かった。声にならない声をもらしながら身体を折って泣いた。
あきらめることなんかできない。エクルーが好き。大好き。
2人で手をつないだ時のあの融け合う感じ。何もかも共有できた。寂しさも悲しさもあこがれも。2人で合奏すると空まで一緒に歌う気がした。あんな人いない。あれほど重なり合える人はいない。あれほど私をわかってくれる人も、あれほど私がわかってあげられる人も。あきらめることなんかできない。忘れることなんかできない。
自分でもびっくりするほど涙が出た。泣きやむとぼーっとしてぐったりした。
もう迷わない。エクルーが誰を選んでもかまわない。ただずっと好きでいる。イドラの風景が好きなように。それでいい。
春祭りの日、エクルーの髪結いテントは大盛況だった。
「スオミはできあがり」
「ありがとう。今日の髪形も素敵」
「ま、モデルがいいからね。綺麗だよ、姉さん。アルが惚れ直すんじゃない? フレイヤもおそろいにしたからね」
「エクルー、ありがとうー!」
スオミに抱っこされたフレイヤは上機嫌で手を振った。
「さて、次は誰の番?」
「私、いいかしら?」
テントの入口からアヤメがのぞいた。髪を垂らしていると面倒なことになりそうなので自分で三つ編みにして簡単に上げている。
「いいよ、座って。早く仕上げちゃわないと祭りが始まっちまう」
エクルーは両手に香りの良いオイルをつけて、髪全体になじませてクシを通した。
「相変わらず綺麗な髪だね。全然ひっかからない」
「ずっと手入れしてたもの」
鏡の中のエクルーがじっと自分を見ている。もう迷わない、と心を決めたはずなのに声がうわずってしまう。
「何か注文ある?」
耳元で声を聞くと身体がふるえそうだ。すぐ後ろに立っているエクルーの体温が感じられてどんな顔をしていいかわからない。
「ううん、任せるわ」
「そう? この長さだったらあの髪形できる。久しぶりだから覚えてるかな、やってみよう」
手際良く毛束を6つに分けて三つ編みに編んで行く。三つ編みを互いにねじって複雑なまげを作り、最後に後ろに残しておいた毛束を3つに分けて、まげの結びめに巻きつけて少しずつ垂らした。それぞれのお下げに髪と同じ色の青緑の色石を通した。
「ちょっとエキゾチックなお姫様みたいだろ?」
衣装とお揃いの浅黄色のサテンリボンをカチューシャのように額から後頭部に回して右耳の上で大きな花の形に結んだ。
「どう?」
「可愛い。でも楽師なのにハデ過ぎないかしら」
「いいさ、綺麗なんだから目立てば。待って、仕上げをするから」
エクルーが鈴を通した色糸を3つのまげから3つずつ下げた。アヤメは”綺麗”という言葉で頭がくらくらして何をされているかよくわからない。
「ほら、ちょっと頭を振ってみて」
首を傾けると小さな鈴がしゃららんと鳴る。
「素敵。ありがとう」
「いいだろ? 大きなサクヤが最後に春祭りに出た時に結ってあげた髪形なんだ」
「それってエクルーのお父さんの話?」
「そ。何と言っても髪を上げているのに求婚されたという、曰くつきのスタイルだ」
「アップにしてても求婚されたの?」
アヤメは目を見開いて、鏡の中のエクルーをじっと見つめた。
「それだけ綺麗に見える髪形なんだと、スタイリストとしては得意に思っているんだけどね」
エクルーがお父さんの記憶を継いでいることは知っている。それを疑ったことはないけれど、今までそれを実感したことも無かった。エクルーが大きなサクヤに恋していることももちろん信じているが、心のどこかでマザーコンプレックスのヴァリエーションのような気がしていた。
でも、アヤメはこの時初めてもうひとりのエクルーを見た、と思った。
「サクヤが他の男の人にプロポーズされても、エクルー、平気だったの?」
その問いに答えず、エクルーは口の端を少し上げてニッと笑った。
「さあ、できた。行っといで。のんびりしてると月が上っちまうぞ」
「ええ、ありがとう。また後で」
肩をぽんと叩かれてテントを送り出された。アヤメは後々、この時のエクルーの寂しそうな優しい笑顔を思い出すことになる。
ジンとイリスのテントに戻って楽器の用意をしていると、
「おや、その髪形……」とイリスが呼び止めた。
「あ、ええ、そうなの。エクルーが結ってくれたの。大きなサクヤにしてあげたスタイルなんですって」
「やっぱりそうか。見覚えがあると思った。それはピンを使ってない。リボンだけで止めているんだろう?」
そう言えばピンを刺された感触は無かった。自分で触ってみてもよくわからない。ずっと鏡の中のエクルーだけを見つけていて、どんな手順で結われたのか覚えていない。
「乱暴に触ればゆるんでしまうぞ。気をつけろ」
「わかったわ。じゃ、もう祭壇に行くわね」
アヤメがテントを出て行った後もイリスはしばらく考え込んでいた。
「母さん、アヤメの髪形がどうかした?」
双子の妹のアカネが聞いた。アカネは今年の春祭りは薬師助手だった。藍色の薬師の上着を着て、メドゥーラと一緒にこの一年で生まれた赤ん坊や神経痛がひどくなった老人を診るわけだ。イリスやアヤメと同じ、青緑の輝きを持つ銀髪はうなじが見えるショートカットに切ってあるからアカネに求婚するものはいなかった。
「あれは複雑そうに見えて、リボンを解くだけで簡単に全部髪が下りてしまうのだ。サクヤが最後の春祭りで薬師のテントにいた時、キジローがリボンを引っ張ってプロポーズしたらしい」
「ふうん、ロマンチックね」とアカネがコメントした。アカネにとって、サクヤとキジローは自分の両親の友人でエクルーの父母という以外、特に接点はないはずだった。ただ、サクヤがエクルーの永遠の思い人という点をのぞけば。エクルーは母親のサクヤを失った後、キジローの孫に当たる小さなサクヤの後見人になっていた。7歳でエクルーに恋したアヤメはそれから10年、一途に片思いをしている。そしてアカネはそれをずっと傍で見守っていた。そして、そんなアヤメを見つめているリィンのことも。
「エクルーはどういうつもりでアヤメを髪をその結い方にしたのかねえ」
ジンがつぶやいた。
アカネはてくてく歩いてグレンのテントをのぞいてみたがリィンはいなかった。
「ああ、さっきルパに夕方の水をやりに放牧場に行った。すぐ戻ってくるだろう」
「お兄ちゃんが戻って来るもんですか」とイズミが言った。3歳下のこの妹はいつも長兄に手厳しい。
「アヤメが髪を上げているのを見てショック受けてたもの。アヤメが髪を上げて来たらあきらめて他の娘に求婚するって言ったらしいけど、そんなことできないのよ。可愛そうなお兄ちゃん」
「イズミは相聞会に出ないの?」とアカネは聞いてみた。イズミは腰まで伸ばした明るい金色の髪をきりっと結いあげていた。
「出ないわよ、バカらしい。あんな集団でお見合いするなんて。プロポーズは2人きりの時に聞くものよ」
13歳の少女のこまっしゃくれた発言にアカネは思わず微笑んだ。
「私もそう思う。だからほら」
アカネは顔の周りに両手を広げた。
「うん、アカネはショートカットが似合う。来年の春祭りで、俺、アカネに申し込むよ」と11歳のリオが赤い顔で勢い込んで言った。
「バカ、聞いてなかったの? アカネは春祭りでプロポーズされるのなんかイヤって言ったでしょ? もう、まったくうちの男達と来たら」
兄弟げんかに発展したグレンのテントを辞して、アカネは放牧場にリィンを探しに行った。リィンはカヤの木から剥いだ皮を布に広げていた。
「何やってるの?」
「ああ。あ、アカネか。うん、曾婆さまが糸を染めるのに使うというから」
リィンはぼんやり答えた。
「祭りに出なくていいの? 一応、泉守りの長男でしょ?」
「うん、まあ、行くよ。後で。ミオとミイケが春の乙女の侍女をやるから、踊りを身に来いって言われたし」
「相聞会には?」
「出ない」
打てば響くように返って来た。
「アヤメが髪を結っているから?」
さらにアカネが追及すると今度は返事が無い。生まれた時から兄弟のように育って来たこの少年を、アカネは弟のように愛していた。エクルーみたいな人でなしよりもリィンと結婚した方がアヤメは幸せに決まっている。
「あのね、まだあきらめるのは早いんじゃない? あの髪形ね、エクルーが結ったんだけど……」
太陽の再生を願う春の乙女の儀式と相聞会が終わって、楽師の仕事は一段落した。後は今夜婚約したカップルを祝福する宴会に三々五々呼ばれるだけだ。7つの集落の楽師が集まるので、1年ぶりに会う顔ばかりだ。楽師同士のおしゃべりの輪の中にエクルーがいて笑っていた。相変わらず綺麗な笑顔だ。横にちょこんと座って小さなサクヤも一緒に笑っている。今年初めて楽師として鈴を鳴らしたのだ。
「難しいわ。すごい変拍子なんだもの」
「拍子なんか数えるのが間違ってる」
「リズムを追うとメロディーがわからなくなるし、メロディーを追うとリズムがわからなくなるの」
「そうやって頭で考える限り、いつまでもわからないよ」
「あなた方イドリアンは泉と同調できるから考えなくても音楽が身体に入ってくるのよ。不公平だわ」
とサクヤがふくれた。年配の楽師がまた笑った。
「お前だってできるさ。石の子供だもの。アズアの笛は見事だった。あせらず泉の傍で練習することだ。ホタルに手伝ってもらえばいい」
「そうね、そうする」
小さなサクヤがエクルーを見上げて微笑んだ。
「お前はまだ、サクヤに白い衣装を着せてあそこに立つ気はないのか?」
西の集落の楽師が笛で祭壇を指した。
「まだ、もうちょっと待つよ。サクヤも大人の衣装を着たいだろ? あれは1回きり。一度壇を下りたら、後は侍女の地味な衣装しか着られない」とサクヤに説明した。
「そんなことはない。他の相手とまた祭壇に上がればいいんだ」と南の楽師が冷やかした。
「ふむ。だってさ、サクヤどうする? 今夜の楽師の衣装も可愛いよ。サクヤが上がりたいなら俺はお供するけど?」
とエクルーがあくまでも軽い調子で言うと、周りの楽師が声を上げて笑いながら婚約の歌を弾き始めた。
「待って、待って。まだ歌を覚えてないの。ちゃんとできるようになってからちゃんとしたいわ」サクヤが一生懸命言った。楽師たちがどっと笑った。
「サクヤの”ちゃんと”が出たぞ。大変だな。エクルー、がんばれよ」
アヤメはそのやり取りを微笑みながら見ていた。もう胸は痛まない。2人を見守って行こう。それでいい。
テントの裾からイズミがアヤメを呼んだ。
「お姉ちゃんの婚約が決まったの。宴会に来てくれない? リュートが足らないの」
「いいわよ。お姉ちゃんってミイケの方?」
「ううん。ミイケはヤルデンの歌が下手だって怒って断っちゃったの。決まったのはミオよ。ホント、この相聞会ってバカみたいだと思う。祭りの勢いに乗っかってプロポーズされても、祭りが終わって冷静になったらどうしてこんな人を選んだのかしらって後悔するに決まってるわ」
「内気な男の子はこんな時じゃないと気持ちを打ち明けられないのかもしれないわ。イズミだって好きな人ができたら、綺麗な衣装を着て祭りで歌を捧げられたいって思うようになるかもよ?」
「あんな大勢に囲まれて囃し立てられるなんて絶対にイヤ」
イズミは赤い顔でそっぽを向いた。
「他の楽師は、母さんの里の人達が来てくれたの。でもリュートの人は、娘さんがラゴに一目ぼれして2人で手をつないで壇に上がっちゃったんですって。今頃大騒ぎで支度してるわ」
「まあ、大変。私で良ければお手伝いするわ」
「こっちで待ってて」
と小さなテントに通された。
「今、飲み物を持ってくるわね。お腹はすいてない? 笛が始まったら、宴の幕屋に入って」
イズミは首をめぐらせて様子をうかがっていた。
「まだちょっとかかりそう。他の楽師の人達もラゴのお祝いが終わってから来るつもりかも。でものんびりしてると月が上がっちゃうわ。私、お姉ちゃんの支度を見てくるわね」
アヤメは一人で残された。クッションに座ってリュートを調弦する。
そう言えば、リュートでショパンを弾いたことはない。ピアノの曲をリュートで弾いたらどうなるかしら。あら、面白い。リュートで弾くノクターンは全然違う夜の風景だ。もっとやさしい。もっと甘い。憧れのような響きがある。
夢中になって弾いていたので、テントにリィンが入って来たのに気付かなかった。
ここに来ればリィンがいる、と言うことをすっかり失念していた自分にもちょっとショックだった。髪を結ってもらいながら、リィンの言葉を思い出しもしなかった。この髪形でリィンを断ることになる、とうことさえ忘れていた。ずっと鏡の中のエクルーだけを見つめていた。自分の髪にやさしく触れるエクルーの指だけを感じていた。
リィンはテントの入口でさっと腰に赤い帯を巻いた。そしてつかつかと入ってくると、アヤメがあっけに取られているうちに、後ろに回って思い切りリボンを引っ張った。
リボンに留めていた鈴がしゃららんと鳴った。堰を切ったように夕闇に青白く輝く銀の髪がしなやかに広がってアヤメを腰まで包んだ。
我に返ってリィンの手からリボンを取り返した。そのリボンを見て、アヤメはショックを受けた。三つ編みやまげを留めていた青い糸がひとつに結ばれて、鈴の紐とつながっている。この鈴はエクルーが最後の仕上げにつけてくれたのだ。微笑みながら。
リィンはひるまず、まだ茫然としているアヤメの前に膝まづいて歌い始めた。
雪融けの歌。これが終わったら相聞の歌だ。
「やめて。髪を結った女性に求婚するのはタブーでしょう?」
「今は結ってない。リボンの鈴は未亡人の印だ。悲しみを忘れて次の温かい手を探している」
リィンは静かにそう言うと、歌の続きを始めた。
どういうこと?
エクルーはサクヤにもこの形で結ったと言った。結っていたのにサクヤは求婚された、と。エクルーはサクヤを愛していたはず。でもその後、エクルーは死んで、サクヤはキジローと暮らした。
エクルーはどういうつもりでサクヤの髪をこの形に結ったの? 何を考えて、どんな気持ちで?
混乱しているアヤメにかまわず、リィンは歌い続ける。深い静かな声。でも激情が声の端々に感じ取れる。今にも爆発しそうな炎がゆらめいて見える。
アヤメは怖くなって、膝まづいていたリィンの肩を突き飛ばした。
「歌をやめて。私はそんなつもりじゃない。あなたは髪をほどいた。これはタブーでしょう!」
「タブーじゃない」
リィンはアヤメの手首を掴んで静かに言った。アヤメに押されても、がっしりした身体は少しもゆらいでいない。膝をついたままアヤメの両手を捕まえた。
「タブーじゃない。昔からの作法だ。未亡人のリボンに鈴をつけるのは。リボンをほどいた男は求婚していいんだ」
リィンはアヤメの腕を引き寄せて、腰に手を回すして抱きしめた。
「頼む。歌を返してくれ。俺と一緒に祭壇に上がってくれ。ずっと一生、憧れだけを抱えて生きるつもりか? きっと大事にする。俺たちはきっと幸せになれる」
アヤメは言葉が出てこなかった。チリンと音を立ててリボンを頭に持って行くと、両手で髪を集めてまとめようとした。しかしつややかな髪は、なめらかなリボンをはじいて光の噴水のようにまた髪の周りにこぼれた。
リィンの顔が寄せられたお腹が熱い。こんな風に男の人に抱きしめられたのは初めてだ。頭がしびれそう。もっと触れられたい。キスされたい。大事にされたい。そんな願いがこぼれそうになった。自分だけを写す瞳に熱く見つめられたい。自分の中の冷たい塊を融かして欲しい。誰かに。
誰に?
アヤメは後ずさって身体を振りほどいた。私が欲しいのはエクルーだけだわ。エクルーの笑顔が浮かぶ。よろめいた拍子に手の中のリボンがちりんと鳴った。
またリィンが手を掴んだ。
「エクルーがどんな気持ちでその髪を結ったと思う? 次のサクヤも死ぬのを待つつもりか?」
アヤメがリィンの頬をひっぱ叩いた。すうっと涙を流れた。
「さよなら」
そう言い残して、アヤメはテントを走り去った。リィンは追いかけることができなかった。
テントの裾からどぶろくの瓶を下げたイズミが入って来た。
「お兄ちゃん、最後の一言は明らかに余計よ。自分で止めを刺しちゃったわね」
がっくりと床に座り込んであぐらをかいたリィンは呻いた。
「言うな」
「わかった。もう何も言うまい。飲もう」
イズミは杯をリィンに持たせた。
「お兄ちゃんの失恋に乾杯」
アヤメは泣きながら丘を駆け上がって尾根まで登った。それ以上、歩けなくなって息を詰まらせて草の上に突っ伏した。涙が止まらない。苦しい。死んでしまいたい。
ふと気づくと周りが明るい。チリリ、チリリリと声がする。無数のホタルが集まって歌っている。青白い、でも温かい灯りでアヤメを慰めている。涙に濡れた指先を広げると、塩気を求めて我先にホタルが殺到した。身体を起こすと、頬を舐めようとするホタルにもみくちゃにされた。
「ケンカしないで。涙なんていくらでも出るんだから」
さっきまでアヤメがうつぶせて泣いていた草むらにもホタルが集まっている。塩に酔ったものからふわっと浮かんでアヤメの髪の周りを漂った。
好き勝手にチリチリ鳴いていたホタルの歌がひとつのメロディーにまとまり始めた。リー、ローと響く。アヤメの頭の中までゆさぶられるようだ。
山の端が明るくなって、オレンジ色のペトリがぽっかり上がって来た。ホタルの歌は最高潮に盛り上がって、リロロ、ルラララと喜んでいる。
春の最初の満月。春が来た。冬は終わった。
心は一度死んだけど、また再生される。また歌を歌える。月を美しく思えるようになる。
「見事なもんだ。毎年見ても飽きないね」
声がしてびっくりした。
尾根の草むらにジンが寝ころがっている。
「父さん! いつからいたの?」
「相聞会が終わった辺りから。毎年ここで月が上るのを見ることにしてるんだ」
「母さんは?」
「アカネとどぶろくを飲んでる。あんなウワバミどもと付き合ってられるか」
ジンは身体を起こして伸びをした。
「こっちに来ないか。月を見よう」
隣に座ったアヤメに、ジンは目を細めた。
「綺麗になったなあ。お前がホタルを引き連れて、髪をなびかせて丘を登って来るのを見た時、夢かと思ったよ」
「夢?」
「ここでイリスを待った夜に戻ったかと思った。お前はイリスにそっくりだ。美しくて強い。アカネもそうだ。美しくて強い。お前たちは3つの花みたいに、それぞれ違った美しさと強さを持っている。忘れるな、アヤメ。お前も強いんだ」
「うん。ありがとう、父さん。自分でも驚いてるの」
「へえ。どんな風に?」
「自分がけっこう図太いってことに。失恋しても笑えるし、お腹がすくのね」
「そしてまた恋をすればいいさ。おいで、テントに戻ろう。お前の分の食事を取ってある」
「ええ」
月はケーキのように美味しそうな黄色に輝いていた。漂っている甘い香りは月なのか花なのか。親子で手をつないで露が結んだ緑野を渡った。
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