アトリエバラ・スタッフのブログ

アトリエバラHPは、ブックマークからお入りください。 Trackbackは、現在受け付けていません。

少々横にそれました。

2006年09月25日 22時37分08秒 | 芸術
スタッフMです。
少々スーさんね電車男で話題が長すぎ・・・・。
今日は教室三週目でお休みでママ先生実家の山口県まで里帰りしてまいりました。
実家で大阪に暮らしている兄・村重昭先生(ホワイト美術研究会会長)の家のマルチーズのマルコちゃんの絵があったのでママ先生写真に撮ってまいりました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問題です。&第21回国民文化祭・やまぐち2006

2006年09月15日 18時55分15秒 | 芸術
スタッフMです。
昨日のスーさんの「問題です。」のヒントで「えんちゅう」の所にリンクを張りました。
(アトリエバラのgalleryのデッサンにヒントが少しあります。)

8月31日のブログで第21回国民文化祭・やまぐち2006のママ先生出品作品「愛犬といつまでも」の制作・途中・・の写真があったのでUPします。(作品は無事完成し日本通運から例年のごとく搬入できました。)
コメントは後でスーさんが入選発表後にコメントするそうです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

問題です。

2006年09月14日 13時52分26秒 | 芸術
スーさんです。

毎日毎日(泳げたいやきくんの歌)ではありませんが何でこれほど月から次といやなニュースが飛び込んでくるのでしょうかね。

もちろん中東問題、北朝鮮問題、国内問題、問題の山済みですね。

確実にいえることは沢山の諸問題は今の人類(世界の人々)では解決の方向すら見出せないと思っております。

21世紀に入って六年がたちました。20世紀は戦争の世紀と呼ばれるように現在も戦争は拡大の一途をたどっているように感じます。

TVでは毎日酒気帯び運転の事故の批判子供が親を殺す。自宅に火をつけて全焼。何も昨日今日始まった話ではありません。

日本においてはこのような戦争は三十年以上前から続いていると思います。

満州事変から始まって第二次世界大戦が終わるまでの十五年戦争と呼ばれていますが。世界中を巻き込んだ戦争も今見方を変えれば十五年間。

此処では毎日TVに取り上げられる日本語の中に交通戦争・教育戦争いつから呼ばれるようになったのでしょう。

(交通戦争(こうつうせんそう)とは、昭和30年代(1955年-1964年)以降交通事故死者数の水準が、日清戦争での日本の戦死者(2年間で1万7,282人)を上回る勢いで増加したことから、この状況は一種の「戦争状態」であるとして、「交通戦争」と呼ばれるようになったもの。1970年にピークに達するがこの後減少。しかし、1980年よりふたたび増加に転じ1988年に1万人を超え、第二次交通戦争ともいわれる状況となった。フリー百科事典より)

(教育戦争の資料は見つかりませんでしたが確か共通一次試験の開始とともに激化の一途をたどって今日に至っていると思います。

(共通第1次学力試験(きょうつうだいいちじがくりょくしけん)は、1979年(昭和54年)から1989年(平成元年)の間、国立大学の入学志願者を対象として共同して実施した基礎学力をみるための共通試験である。試験は、国語、数学、英語、社会、理科の5教科について行われた。実施は、国立大学の共同利用機関であった大学入試センター(現在は独立行政法人)。

[編集]
導入の経緯及び経過
共通テストの構想は1960年代以降文部省やその周辺から発案されていたが、1970年代に入って政府及び与党の推進により実現する運びとなり、国立大学協会の賛同を得て、入試問題の難問・奇問の出題をなくし、「入試地獄」を緩和するために導入されたものである。導入後は、志望校選択への受験産業の介入、大学・学部・学科の序列化が進んだ。
その後、1985年(昭和60年)臨時教育審議会第一次答申により「共通テスト」の採用が提案されたのを受けて、1988年(昭和63年)に「大学入試センター試験」と改称することが決定され、1990年(平成2年)から行われるようになったフリー百科事典より)

今の日本は車社会ですね?

今の日本人は車なしで生活できますか?

(私が小学生のころの日本人で個人が車を買って乗り回す時代が来ると思っていた子供は少なくとも私の周り一クラス54名一学年10クラス以上が当たり前の子供の思考にはありませんでしたよ。そんな時代に交通戦争など起こるはずが無い。)

(余談ですが私が一~二年生の小学校の壁新聞で箱の中から絵が出ると書いてありみんなでたまげた記憶が鮮明に残っています。それはTVというものでした。)
もう一つ余談です。「TVを見ると馬鹿になる」親が厳しくTVを見る時間を制限しましたね。
制限しなくなった現代社会TV以外にTVゲーム・・・・・。

日本人TVの見すぎでみんな馬鹿になっちゃった?

子供はなぜ勉強しなければならないのですか?

勉強すれば良い学校に入って・良い会社(大企業・公務員)に入って・高い給料がもらえて・良い家庭が作れて・うまいものが食えて・子供とTVケーゲームが出来て・そして又自分の子供には良い学校に入れて・・・本当にそんな夢が適うと思っている人が今の日本人多すぎませんか?

前のブログにも書きましたが毎年交通事故・自殺で40000人以上この国は死者を出しているのです。

世界の戦争も五年前の9.11から国と国との戦争ではなく完全にイデオロギーの潰し合いの戦いに変わってきていますね。

今の日本、車が無ければ生きてゆけないだろう。

今の日本、いい学校に入れなければ落ちこぼれるぞ。

××国家は悪の枢軸だ。

民主主義は良いことだイラクを民主国家にする。

現代色々な言葉が独り歩きをしていますね。

言葉とは人を洗脳し、幸せに導くことも不幸せにすることも簡単に出来てしまうのです。

かなり前置きが長くなりました。(これだけ世界中が病んでいると前置きも中々簡素化できません。)

此処から今日のブログのタイトル「問題です。」

これから出す問題は本来文字で出題するものではありません。
私の講演会や大学での講義・アトリエバラでの基礎教育の一環で行っている問題です。

これから私が出す言葉を文字に表します。その言葉を何の紙でも結構ですが書いて見てください。

えんちゅう
(いつも付け加えますのでここでも付け加えます。えんちゅうとは家庭にある茶筒みたいな形ですよ。)

「そしてえ・ん・ち・ゅ・うを描けるだけ数多く描いてみて下さい」
(数多くが一番大事です。あなたはいくつの「えんちゅう」がかけますか?)

以上です。

これがスーさんのデッサンの指導の第一歩です。

ヒントです。

人間自分の脳の中に無いものは絶対表現できません。

尚追伸ですが「えんちゅう」が描けるるようになった人で絵が描けない人はいませんでしたね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

県展に向かって。

2006年09月09日 14時01分28秒 | 芸術
スタッフMです。

スーさん又、すこし疲れぎみなのでアトリエバラ美術教室の生徒さんの途中作品などブログに少しずつ紹介してゆきます。

大井サン県展に向かって約一年スーさんと構想を練り
下書きも八号のキャンバスで数点制作し三十号ようやく残すところ一割ぐらいで仕上がりそうです。

県展出品間に合いますね。

(作品は教室で書いている途中9月8日撮影)

スタッフMの独り言
油絵をデジカメで実物並にホームページに乗せるのはむずかしい・・・です(実物の作品はもっとシャープです)。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

失敗

2006年09月07日 16時47分46秒 | 芸術
スーさんです。
前回いやなことを書きましたが、その中で次にブログで書きますといった
失敗について考えて見ましょう。

私が群大の講師時代必ず一時限目の講義のときに下記に述べることを話すことにしていました。
講義
「人は(人間)必ず失敗するものです。」

「かなり極端ですが此処でヒットラーと池田満寿夫という二人の人物の紹介で失敗について考えてみたいと思います。」

さすがに学生はヒットラーについては名前は知っています。池田満寿夫についてはほとんど(全く。学生は医学部で美大ではありませんからね。)知りません。(苦笑)

次に「ヒットラーはどこの国の人ですか?」と聞きます。この授業は十年以上続けましたがヒットラーはドイツ人とすべての学生が答えましたね。

前回のブログで教育方針を取り上げ「ナチの教育方針(ナチズム)」など書いたのはここで紹介する意味もありました。

(アドルフ・ヒトラー Adolf Hitlerドイツの政治家でナチスの指導者Adolf Hitle。オーストリアの生まれ。1919年ナチスに入党し、21年党首、33年政権を掌握した。34年総統となり、独裁的な全体主義体制を確立。対外侵略を強行して第二次世界大戦を引き起こしたが、ベルリン陥落直前に自殺(1889-1945)。HP引用)

そうです。ヒットラーはオーストリアの生まれだったのです。
そして池田満寿夫は。

(1934年、旧満州国奉天市に生れ、終戦に帰国。長野北高校(現・長野高等学校)を卒業。在学中に第1回全学生油絵コンクールで〔アトリエ賞受賞〕。国際的な版画家、画家、彫刻家、陶芸家、芥川賞作家、エッセイスト、浮世絵研究家、脚本家、映画監督など多彩な顔をもつマルチ・アーチスト。1997年3月8日 永眠。HP引用)

人間であるならば有名人に限らなくてもすべての人々が必ず通る道なのですがチョッとした人生の歯車ズレ・ボタンの掛け違いいなどで全く周りの人々を巻き込んで歴史が変わって行く。

その事に此処では触れておきましょう。

何でこんな関係性のない二人の人物を例に挙げ人生の失敗を話すか。
一人は歴史上にきざまれ、永遠に悪とされ続けるアーティスト?(ヒットラー)
又一人は彗星のごとく表れ国際的な版画家、画家、彫刻家、陶芸家、芥川賞作家、エッセイスト、浮世絵研究家、脚本家、映画監督となったアーティスト(池田満寿夫)

二人の共通点は共に芸術の道に志、同じような年頃(十代)に美術会(学校)から簡単に言うと「あ・ん・た駄目」と言われその失敗が大きくその後の二人の人生を変えていったと言うところが大事なことなのです。

初めに美術界では知らない人はいない池田満寿夫から彼の失敗について考えましょう。
彼は(画家、彫刻家をこころざして東京芸術大学を受験するが、三度とも失敗。上京後は夜の盛り場で似顔絵を描いて生活しながら、19歳で初めて自由美術協会に入選。その後、画家・瑛九のすすめで色彩銅版画をはじめ、1957年、第1回東京国際版画ビエンナーレ展に入選。1960年、同展の国際審査員ヴィル・グローマン博士の強力な推薦によって文部大臣賞を受賞して一躍脚光を浴びる。・・・・1997年4月より多摩美術大学版画科教授に就任など制作以外の活動も活発となる予定であった。HP引用)

池田満寿夫忘れもしません私が大学の二年生のころ「版画家で池田満寿夫ってやつが居てすごい作品を作っている」と誰かに言われました。
すぐに池田の作品に出会う事が出来たのです。
以前のブログにも岡本太郎さんに会った18才のときの衝撃を書きましたが約、その二年後に又数枚の版画の作品(チラシかポスター?)を見たときの私のショク・・・(スゲーィ)。

次にヒットラーの失敗を考えて見ましょう。
(オーストリアのドイツとの国境の町、ブラウナウに生まれたヒットラーは画家を目指してウィーンに上京。1903年と1908年の2度にわたり美術アカデミーを受験して、2度とも失敗している。美術家志望の 貧乏受験生のヒットラーは、カールス教会を写生した絵葉書を売って、かろうじて生計を立てていたという。ルマスの作品は、 ヒットラーのウィーンでの貧乏生活ぶりを題材にしたものだ。HP引用 )

そろそろこのブログを読んでおきずきの方もおられると思いますが。

此処で問題です。

二人とも同じ共通の失敗をしておりますね。
池田は東京芸術大学を受験するが、三度とも失敗。ヒットラーは2度にわたり美術アカデミーを受験して、2度とも失敗。

二人の人生はどのように変化し多くの人々に多大なる影響を与えたのか?
尚現在でも与え続けているのか?

この辺で「失敗」というテーマのブログは終了します。
関心をもたれた方は池田満寿夫美術館のホームページもあります。
ヒットラーについても色々学んで見てください。

これは書かなくても良いのでしょうが
私のレジメの考察として一言書きます。

池田満寿夫は東京芸大にストレートで入学していたら人生あんなにもうまくいったのか?
私が昔聞いたのは芸大の彫刻家を二度落ちたと聞いていたのですが、
彫刻家に入学していれば世界の版画家池田満寿夫は存在していなかったと思います。(私の偏見?)

そしてヒットラーもウィーンの美術アカデミーに入学していれば第二次世界大戦は全く違った形になっていたでしょうね。

余談です。
スーさんは最近マイケル・ムーア監督華氏「華氏911」をみました。
かなり流行に遅いですね。(余談です)

もう忘れてましたね・・副大統領のゴアとブッシュが数表の差でブッシュが大統領になったことを。

もしもゴアさんが大統領になっていたら今回のイラク戦争は起きていたでしょうか?
今も尚終わりの見えない戦い。アメリカ兵2500名以上の死者。イラクの一般人の死者40000人を超えるとか。

毎年わが国日本においても自殺者の数が30000人を超え続けている現状。
日本人が戦争に海外に行って毎年30000人戦死者が出ていたらと考えた事ありますか?

余談が長くなりました。

最後に一言今から35年以上前新入社員で私が会社に入った時、上司の訓示のなかに

一度の失敗は知らないんだから仕方がない。
二度目の失敗はお前馬鹿か!と唸られる。
三度同失敗をすれば首。

失敗すると言う事はほとんどの場合誰かしらに少なからず迷惑を掛けている。

そして許される失敗と、決して許されない失敗があることを認識したいものでね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡本太郎とマスコミ

2006年08月24日 13時21分14秒 | 芸術
スーさんです。

岡本太郎さんを前回取り上げて最後に二人の太郎さんを次回取り上げますと書きましたので続きを書きましょう。

今回のブログの題がなぜ岡本太郎とマスコミか。

日テレプラザで開会している(8月31日まで)明日への神話・岡本太郎・テレビで二時間報道を二回大変盛り上がり百人のアーティスト?が出演。

しかしあっという間に今現在太郎さんの太の字も聞こえなくなりました。

同時に今私の周りからも・・・聞こえなくなりました。

こんなものなのですよ。

今の日本は。

以前に書きましたが私が大学入学時に岡本太郎と会っていなければ二十世紀のアートは多分理解出来なかったと思われるほどの人なのです。

私の大学の恩師たちも新制作協会の創立会員の先生達である意味、太郎さんより年上ですばらしい先生ばかりです。

私がなぜ太郎さんんと、さんずけするのか。太郎先生ではないからです。

此処から二人の太郎さんを書きたいと思います。

テレビなどで知られている太郎さんはやはりアーティスト岡本太郎先生だと思います。
しかしそれは太郎さん事態が作品になっていたのだと思います。

ほとんどの方は「芸術は、爆発だ」の太郎さんを連想するでしょう。
私もある部分そうです。

しかし彼の生い立ちの即席を見るとまったく別の太郎さんが見えてきます。

岡本太郎は1911年東京に生まれる。 慶応幼稚舎、普通部をへて東京美術学校に入学。 半年後、中退。 1929年、渡欧。 パリで前衛芸術運動に参加し、ソルボンヌ大学で文化人類学を学ぶ。1940年、帰国。

太郎さんの事を詳しくネットで検索してみてくださいね。

やさしくその太郎さんが私に現代アート(38年前)に18才の画学生にほんの数行で教えてくれたのです。

太郎さんはたくさんの本を書いてます。

その本の内容をここに書くつもりはありません。

其処にかかれている内容もさることながら、文体です。

私も本を出版してますが、これほど誰にでも心に響く文章の書き方があるだろうか。

これが「芸術は、爆発だ」のあの人の書いた文章か。

本に書いている太郎さんはまったくの別人です。

すべての本を読んでないので決め付けは良くないですが。
一言一言の文章から心の中に暖か~い風が吹く感じです。

これが目の玉をひん剥いて叫んでいる岡本太郎が書いた本なのか。

人の前では太郎さんは目いっぱい虚勢を張っていたのかもしれないなと同じクリエーターとして今は感じています。

でも太郎さんは岡本敏子という一人のすばらしい女性との出会いが唯一の・・・・。

もしも太郎さんが敏子さんにあっていなければ・・・・人生は・・・・。

すなわち二人の太郎さんとは私達自分自身のことです。

どんな人間も多面性を持ち・環境・時代・色々な要因(しがらみ)そして一番私が大切だと思う事は、出会い。
それらの事で人は善にも悪にもなる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡本太郎

2006年08月08日 19時39分45秒 | 芸術
岡本太郎さん

今なせ゛スーさんは岡本太郎か・日本テレビが企画した明日への神話がきっかけとなりました。

太郎さんと始めての出会いは昭和43年6月21日銀座の松屋の太郎展でした。

私は大学に入学して3ヵ月目のことです。

入学してすぐにプロゼミいう授業があり芸術論で打ち負かされていた私は
松屋で行われていた太郎展に今思うとなぜ銀座まで出向いていったのかわかりません。

しかし38年前のことですが太郎展の会場の風景は忘れることは出来ません。

鮮明に覚えております。

そのころの私は美大に進んでもピカソ?・マチス?シャガール・・・・?
「どこがいいのだろう」「どこがすごいのだろう」

まったく二十世紀のアヴァンギャルド(ダダイズムやシュルレアリスム(超現実主義)など、第1次世界大戦後のフランスを中心にヨーロッパで起こった芸術運動、芸術革新運動。または、その運動のなかで「前衛、先駆け」の意味で使われた言葉。)の世界「わからねー」と当時群馬の田舎から18で上京した私がいました。

話は戻って松屋の太郎展・会場を入ると確か200号ぐらいの太郎さん独特の作品が目に飛び込んできました。

そのときでです。

肉体は作品の前に立っているのですが心体は後方一mほど後方に飛ばされていました。
そして作品は大作が次から次へと私に迫ってまいりました。

そして会場を後にするとき私の左手には一冊の光文社発行の「新版今日の芸術(生活を想像するエネルギーの源泉)」岡本太郎をしっかり握り締めておりました。

上の写真は本(今日の芸術)の表紙で裏は作家石原新太郎さんが推薦文を書いています。
今思うと面白い組み合わせてですね。

56年生きてきて一冊の本から多大な影響を受けたことはこの時が初めてで最後です。

1996年1月7日八十四歳で亡くなりましたが私の中では今現在二人の太郎が生きています。

次のブログに二人の太郎さんについて書いてみたいと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏になりました。

2006年08月03日 19時14分14秒 | 芸術
本日の前橋市の気温はうなぎのぼりに昇って34℃をこえました。

厚かったです。

先月の末が会社を設立して25年が終わり昨日まで年度決算の締めでかなりいそがしかった。

振り返ると四半世紀が終わったわけです。

最近は毎日がものすごい速さで過ぎ去り気がつくと一年が終わっている。
そんな感じなのは私たち夫婦だけなのでしょうか。

世の中がざわつき・いらだち・毎日のニュースを見ても地球(日本)の裏では戦争が続き
いつもの如く信じられない事件の数々。

完全に私たち日本人は不感症になってしまったのか?

今日も24才の女性の監禁事件、それに対応した警察の無責任さ、
何を信じたらよいのでしょうか。
大阪女性監禁:捜査依頼に警察動かず不満訴え 両親が

昨日のテレビ朝日の羅生門かなり堪えたストーリー展開
犯人役の名倉潤の名演技・台詞にはかなり堪えました。

犯人の要求は(名倉潤の台詞)
「世の中いったいどうなっているんだ」
「世の中が変だと思ったことない?」
羅生門ホームページCASE5

今年も又・暑い夏が始まりました・・・。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

梅雨明けたかな?

2006年07月30日 15時58分58秒 | 芸術
本日は久々に太陽が真夏の日差しになりました。

早速ネット検索
森田さんのブログ発見
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
森田正光

今朝起きたら、もやっていたが晴れていた。(東京)

7・25の欄で書いたが、今回は「前線消滅型」の梅雨明けだ。

まだ気象庁発表はないが(10時現在)おそらく全国的に
梅雨が明けたと考えてもいいのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
今年もまた異常気象?
かなり前でしたがとうとう夏が来ないまま秋になってしまったことがありましたね。

今年もかな?と思っていたら梅雨明け宣言出るのかな?

陶芸を2週間ほど前からはじめました。

お店の器が足りない・・・・ (-_-;)

梅雨のときは乾燥が遅いので制作しやすいのです。

しかし陶芸の技が落ちました。

此処10年日本の工芸界にとってあるいは工芸家を志す若者にとっては最悪の
日々が続いているのですから・・

作っても売れない日本は需要と供給のバランスが完全に狂ってしまいました。

どうしたらいいのでしょうか?

地球も異常気象で危機を迎えようとしている現在、日本のアンバランスな社会も
同じ人類という人間が原因である事には誰も否定は出来ないでしょう。

静まらない嵐はないといいますが・・・。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

レオナルド・ダ・ヴィンチ

2006年07月27日 12時14分09秒 | 芸術
スーさんです。
ココ2日書き込みできませんでした。
写真は皆さんご存知のモナリザです。

これからレオナルド・ダ・ヴィンチの豆知識を書こうと思います。

ここ2日間BBC制作のダ・ヴィンチ1~2巻を借りてきて見ました。
ホームページのデッサンの見方で今から4年まえにダ・ヴィンチを私なりに引用しUPしたページです。

今又映画「ダ・ヴィンチ・コード」が話題となる中、昨年は教室の生徒サンたちが別々ですがイタリア・フランスなどに出かけて格美術館のパンフを集めてきていただきました。
その中の一冊に「レオナルド・ダ・ヴィンチ」解剖図なるA4版の美術館販売のパンフレットが混ざっておりました。
改めてダ・ヴィンチの才能には驚かされます。

その才能の原点をBBC制作のダ・ヴィンチが解き明かすヒントになる映像を見たような気持ちです。
一時間のドラマのわずか4分20秒ですが翻訳を下記に紹介します。
少し長くなりますよ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
(ナレーション)
1452年トスカーナのヴィンチ村でレオナルドは生まれました。

(ダ・ヴィンチのお祖父さん)
4月15日土曜夜中の3時に孫が生まれた。
息子ピエロがレオナルドと命名した。

(ナレーション)
彼は私生児です。地元の田舎娘だった生母カテリーナは隣村の男と結婚しました。
ピエロは不幸の娘と結婚しレオナルドを引き取ります。

実の母の愛情を受けていないせいか愛に満ちた母と子の姿が彼の絵に描かれています。

生い立ちが影響したのかラテン語やギリシャ語をきちんと学んでいません。

そのため無学だと世間のそしりを受けました。

(ラトカーズ大学教授ロナ・ゴフェンさんコメント)
学校で学んだのは足し算と引き算だけです。

教科書で学ばなかったのが結果的には良かったのです。

後にラテン語を学んでいるのですが思考の仕方がわからなかつたので
生涯 独自の方法で観察し思索を続けました。

(ダ・ヴィンチ)
著名な作家の言葉を引用することに意味はない。
経験を伴わない知識は間違いも多くむだである。
私は経験の弟子だ。

(サセックス大学教授エブェリン・ウェルチさんコメント)
教育を受けた人々は知識を文字にしますがレオナルドは絵に描いたのです。

自分が研究したことを手で描写していたのです。

(ナレーション)
レオナルドは自然に囲まれ幼年時代をすごしました。
自然と たわむれるのが幼いころの無上のよろこびだった。
自然は真の知識の宝庫だ自然には法則があり現象には必ず原因がある。
不必要なものは存在しない。水の流れや植物を成長を
つぶさに観察し生物の生態や生命の驚異を目のあたりにしました。
まるで夢のような幼年期の最初の記憶。
私が揺りかごの中にいると一羽の・・・・・

彼は生涯 飛ぶ鳥を観察し描き続けー空気力学の原理を理解したのです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

映像もなくただの文字からでは上記の文章からどれだけ頭の中で描けるか・・・

私の好きな言葉に百聞は一見にしかずという言葉は皆さんご存知ですね。
話を聞いても本を読んでも、自分の目で見ないと現実は理解できないということだろう。
そんな用の意味ですね。

しかし建築デザイナーであり陶芸家であり料理人である私が重要視することは。

「百聞は一見にしかず」ではなくその後に続く「百聞は一見にしかずされど百見は一触にしかず」の一触に重点を置きアトリエバラ30人の生徒さんが日々励んでいます。

今日の最後にダ・ヴィンチの映画をみてアトリエバラ美術教室の指針に大きなズレがないことを改めて確信しました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする