「その時歴史は動いた」
9月26日 第300回日中国交正常化
その時: 昭和47(1972)年9月29日
出来事: 日中共同声明に調印 「総理大臣・田中角栄」
-------------------------------------------------------------------------------
昭和47年9月25日、ときの総理大臣・田中角栄が北京を訪れた。戦後日本外交の一大課題、中華人民共和国との国交正常化のためだ。・・・・と続く番組概要から
登場人物の言葉の一部抜粋
毛沢東の言葉
「けんかはもうすみましたか けんかはさけられないものですよ」
「記録と考証 日中国交正常化」(岩波書店)より。また、今回番組スタッフが取材した中国側通訳、王効賢さんの証言より。
周恩来の言葉
「これで日中間の新しい1ページが始まりましたね」
1972年9月30日 読売新聞朝刊記事より。
田中角栄の言葉
「今日はもうこれで会議がないから大いに飲もう!」
1972年9月30日 読売新聞朝刊記事より。
中国側の言葉
「田中先生は国交正常化に最も貢献した方。中国は永遠に忘れない」
1992年8月29日 毎日新聞記事より。
田中の言葉
「首相当時の決断が間違っていなかったことを確信したい一心で訪れた。私はこの20年間片時も目を離さず、日中関係を見つめてきたものである」
1992年8月29日 毎日新聞記事より。
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ましてや晩年は「ロッキード事件」
「1976年7月27日に受託収賄と外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで逮捕されたという前代未聞の事件である。田中前総理の他にも佐藤孝行運輸政務次官(逮捕当時)や橋本登美三郎元運輸大臣が逮捕され、戦後の疑獄事件を代表する大事件となった。」Wikipedia引用
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何故にアトリエバラ美術教室でこの番組を取り上げたのか?
NHKが「その時歴史が動いた」300回になぜ元総理大臣田中角栄氏を選んだのか?。
.
福田康夫首相が10月1日に衆参両院本会議で行う所信表明演説の概要が27日、固まった。「自立と共生」を基本スローガンに、国民生活の安定を最重視する「希望と安心の国」づくりを提唱。共同通信社
くしくも 自民党総裁・福田康夫氏を第91代内閣総理大臣に選出 09/25 に選ばれ
わが群馬県から過去最多?の四人目の内閣総理大臣が選ばれたわけである。
まぁ~四人目の福田康夫氏はこれからの人として(まだ何も結果は出ていないので)
過去の三人はちぃちぇ~話だけれど群馬に何をもたらしてくれたのか(笑)。
大きい話に変えれば日本をどう変えたのか。
などと思っていた矢先にNHK「放送その時歴史が動いた」 第300回日中国交正常化
な~~ぜ。
なぜかその日9月26日(水曜日)「放送その時歴史が動いた」を普段録画しないのにしていた。
見終わって頭が混乱
「その時: 昭和47(1972)年9月29日 出来事: 日中共同声明に調印 」
昭和47年私がが22才大学を卒業し無我夢中で建築現場を駆けていたときだった。
「日中共同声明に調印 」確かに覚えています。
しかし悲しいかな私はノンポリの為あまり政治に関心を持っていなかった事を
「放送その時歴史が動いた」を見て、今恥じています。
かなりの長さになりましたが前置きをこの辺で割愛しないと先に進みません。
MHKが「その時歴史が動いた」300回になぜ元総理大臣田中角栄氏を選んだのか?。
憶測は出来ますね。
何故にアトリエバラ美術教室でこの番組を取り上げたのか?
いよいよ本質に迫りますね。
何故に当美術教室でこの番組を取り上げたのか?
お待たせいたしました。(別に待っている人は無し・笑)
もちろん田中角栄(角さん)・戦後史を変え続けた内閣総理大臣のことです。
(新潟の人にとっては角さんは昔の人にとっては、神様だったのでしょうね)
沢山の功績の中に我々日本人がほとんど忘れ去られている事を言いたいが為
此処までひっぱっていま~す。
今年レオナルド・ダ・ビンチの「受胎告示」が東京国立博物館で展示された。
同じレオナルド・ダ・ビンチの「モナリザ」か1973年9月29日の日仏首脳会談で
日本に貸し出される事が決まった事を覚えておられる方は少ないだろう。
驚いたのは日本人ではなく、当のフランス人だったそうである。
過去に一度だけUSAに貸し出されて行こうフランスの宝として
門外不出とされていた「モナリザ」である。
幾つかのコメントを聞いたが
「モナリザを見たければ日本人がフランスに来ればいい!!!!」
一番もっともな感想のコメントであった。
そのときの日本の評価など「敗戦国・日本」
そんな国にフランスの宝を誰が貸しますか?
多分・角さんが(1933年二田高等小学校卒業。田中自身は、「中央工学校卒」と明記していたが、世間は勝手に高等小学校卒だと誤解し続けた。)順調に今の大学まで出ていたら角さんは生まれなかった事は日中共同声明に調印のときの角さんの言葉にも象徴されている「大学ではこれだから困る」
そんな角さんが「日仏首脳会談でモナリザを日本国での展示を決めてくる」
過去にそのような内閣総理大臣がこの国に、存在していたであろうか。
角さんといえば「日本列島改造論」が常に表に出てしまうが・・・・
東京国立博物館でモナリザ展が決まり大変な苦労でオープンまでの博物館関係者の話は出てきますが
モナリザ展を現実にしそして150万人の過去最大の動員をした本当の功労者の名前は忘れ去られているようです。
アトリエバラ美術教室で時々政治の話をするのは
政治・経済とArtとは切っても切れない関係にある事を知ってもらいたいからです。
9月26日 第300回日中国交正常化
その時: 昭和47(1972)年9月29日
出来事: 日中共同声明に調印 「総理大臣・田中角栄」
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昭和47年9月25日、ときの総理大臣・田中角栄が北京を訪れた。戦後日本外交の一大課題、中華人民共和国との国交正常化のためだ。・・・・と続く番組概要から
登場人物の言葉の一部抜粋
毛沢東の言葉
「けんかはもうすみましたか けんかはさけられないものですよ」
「記録と考証 日中国交正常化」(岩波書店)より。また、今回番組スタッフが取材した中国側通訳、王効賢さんの証言より。
周恩来の言葉
「これで日中間の新しい1ページが始まりましたね」
1972年9月30日 読売新聞朝刊記事より。
田中角栄の言葉
「今日はもうこれで会議がないから大いに飲もう!」
1972年9月30日 読売新聞朝刊記事より。
中国側の言葉
「田中先生は国交正常化に最も貢献した方。中国は永遠に忘れない」
1992年8月29日 毎日新聞記事より。
田中の言葉
「首相当時の決断が間違っていなかったことを確信したい一心で訪れた。私はこの20年間片時も目を離さず、日中関係を見つめてきたものである」
1992年8月29日 毎日新聞記事より。
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ましてや晩年は「ロッキード事件」
「1976年7月27日に受託収賄と外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで逮捕されたという前代未聞の事件である。田中前総理の他にも佐藤孝行運輸政務次官(逮捕当時)や橋本登美三郎元運輸大臣が逮捕され、戦後の疑獄事件を代表する大事件となった。」Wikipedia引用
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何故にアトリエバラ美術教室でこの番組を取り上げたのか?
NHKが「その時歴史が動いた」300回になぜ元総理大臣田中角栄氏を選んだのか?。
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福田康夫首相が10月1日に衆参両院本会議で行う所信表明演説の概要が27日、固まった。「自立と共生」を基本スローガンに、国民生活の安定を最重視する「希望と安心の国」づくりを提唱。共同通信社
くしくも 自民党総裁・福田康夫氏を第91代内閣総理大臣に選出 09/25 に選ばれ
わが群馬県から過去最多?の四人目の内閣総理大臣が選ばれたわけである。
まぁ~四人目の福田康夫氏はこれからの人として(まだ何も結果は出ていないので)
過去の三人はちぃちぇ~話だけれど群馬に何をもたらしてくれたのか(笑)。
大きい話に変えれば日本をどう変えたのか。
などと思っていた矢先にNHK「放送その時歴史が動いた」 第300回日中国交正常化
な~~ぜ。
なぜかその日9月26日(水曜日)「放送その時歴史が動いた」を普段録画しないのにしていた。
見終わって頭が混乱
「その時: 昭和47(1972)年9月29日 出来事: 日中共同声明に調印 」
昭和47年私がが22才大学を卒業し無我夢中で建築現場を駆けていたときだった。
「日中共同声明に調印 」確かに覚えています。
しかし悲しいかな私はノンポリの為あまり政治に関心を持っていなかった事を
「放送その時歴史が動いた」を見て、今恥じています。
かなりの長さになりましたが前置きをこの辺で割愛しないと先に進みません。
MHKが「その時歴史が動いた」300回になぜ元総理大臣田中角栄氏を選んだのか?。
憶測は出来ますね。
何故にアトリエバラ美術教室でこの番組を取り上げたのか?
いよいよ本質に迫りますね。
何故に当美術教室でこの番組を取り上げたのか?
お待たせいたしました。(別に待っている人は無し・笑)
もちろん田中角栄(角さん)・戦後史を変え続けた内閣総理大臣のことです。
(新潟の人にとっては角さんは昔の人にとっては、神様だったのでしょうね)
沢山の功績の中に我々日本人がほとんど忘れ去られている事を言いたいが為
此処までひっぱっていま~す。
今年レオナルド・ダ・ビンチの「受胎告示」が東京国立博物館で展示された。
同じレオナルド・ダ・ビンチの「モナリザ」か1973年9月29日の日仏首脳会談で
日本に貸し出される事が決まった事を覚えておられる方は少ないだろう。
驚いたのは日本人ではなく、当のフランス人だったそうである。
過去に一度だけUSAに貸し出されて行こうフランスの宝として
門外不出とされていた「モナリザ」である。
幾つかのコメントを聞いたが
「モナリザを見たければ日本人がフランスに来ればいい!!!!」
一番もっともな感想のコメントであった。
そのときの日本の評価など「敗戦国・日本」
そんな国にフランスの宝を誰が貸しますか?
多分・角さんが(1933年二田高等小学校卒業。田中自身は、「中央工学校卒」と明記していたが、世間は勝手に高等小学校卒だと誤解し続けた。)順調に今の大学まで出ていたら角さんは生まれなかった事は日中共同声明に調印のときの角さんの言葉にも象徴されている「大学ではこれだから困る」
そんな角さんが「日仏首脳会談でモナリザを日本国での展示を決めてくる」
過去にそのような内閣総理大臣がこの国に、存在していたであろうか。
角さんといえば「日本列島改造論」が常に表に出てしまうが・・・・
東京国立博物館でモナリザ展が決まり大変な苦労でオープンまでの博物館関係者の話は出てきますが
モナリザ展を現実にしそして150万人の過去最大の動員をした本当の功労者の名前は忘れ去られているようです。
アトリエバラ美術教室で時々政治の話をするのは
政治・経済とArtとは切っても切れない関係にある事を知ってもらいたいからです。