久々にパパ先生です。
3月24日昨日冷たい雨の中栃木の益子町に行ってきました。
その日は群馬を出るときから雨で寒い一日になる予感のした出発です。
益子には
大学時代の後輩の窯元数件あり昵懇の間、村上(窯元村上陶庵)さんの家に向かいました。
10年以上もご無沙汰でご自宅に尋ねると、つかもとギャラリー(作家館)で
個展の会場に居られるとの事で早速伺い此処伺い、十数年の話にに花が咲きました。
↑の平皿を一枚頂イギリスの土産としました。
↓の写真は今回益子に行った、用件の一つ陶芸の原材料の仕入れです。
こちらも同じく益子陶磁器組合で材料を用意していただいている時に取った
陶土置き場の一部です。
↓は後少しイギリス土産を買い足す為によりました。
イギリス土産を持つ明日香先生です。
HPの方では中国の日本語教師と紹介していますが先月やめて五月にイギリスに戻ります。
益子と言えば我が陶芸の心の師。
加守田章二先生となると単独で書かないとまずいですよね(笑)
村上さんの個展会場つかもとギャラリー作家館で展示してあり
お店に了解を得て数点取らせていただきました。
↑の作品は此処二週間前の何でも鑑定団で200円で骨董市で購入した
加守田章二先生の花瓶の作品(私も一瞬見た瞬間150万円で本物と言い放してしまいましたが)150万円と鑑定されました。
写真は形・焼などから判断すると同時代の作品と思いますが、テレビに出てきた作品と比べるとよくありませんが110万の値が付いていたのでテレビも目いっぱいの値段をつけていたことが解りました。
↑の湯飲みは極小さい湯のみです。力も感じられずちょっと残念ですが加守田章二先生彩色の晩年の頃の作品だと思います。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/2a/c98c24c7d5adbdef3dc34a19cdc614c4.jpg
↑の炭化の灰釉の椀は轆轤は天下一品の若い時の作品と思われます。
私も先生が1977年度制作あたりを持っていますのでHPに一つだけアップして有ります。
関心のある方はご覧ください。
てっきりブログに紹介していたとばかり思っていた陶芸家・加守田章二まだ紹介していませんでした。
彼の名前を知らない陶芸愛好家はいないはずと断言できる作家である。(尊敬する師故に敬称略)
その加守田章二の作品が数週間前のなんでも鑑定団に登場したのも(↓の前回益子で紹介した灰釉花瓶200円で骨董市から購入し鑑定段で150万円と鑑定された作品)今回のブログで益子~益子Ⅱ~加守田章二・益子Ⅲ~最後の加守田章二・なんでも鑑定団につながるのも加守田先生と何かの縁を感じ得ない。
私が陶芸を志、一人で悪戦苦闘をしていると(まだ此の頃はアトリエバラ美術教室に少し陶芸を加えれば良いかな・・ぐらいであった)大学の後輩の宮城の気仙沼で陶芸家で福田憲史くんが内に遊びに来て酔っ払って彼は私に菊練を教えてくれた物だ(笑)
かれこれ30年も前の出来事でその時まだ陶芸の何たるかも、解らず福田君が加守田章二の弟子で陶芸家としてますます道を極めるべく進む事も予想していなかった。
陶芸もとこが良いのか悪いのか・・が解るようになるのに10年の月日がかかるそれも絵画同様に模写をする事名よりその作家の言わんとする事も見えてくる。
加守田先生の作品が私の所に来るや否やまったく私の作風は変わってしまった。それだけ加守田章二と言う作家は只者ではなかった。
加守田先生の逸話は山のように聞いている、制作過程まて・・えぇぇを連発させられた。
先生も亡くなられて25年の月日がたちました、早い物です。私も先生よりもう10年長生きてしまいました。(笑)
=== ↓・・・何でも鑑定団より ===
陶芸会の鬼才。加守田章二1933年大阪府岸和田市に生まれる。
高校時代美術部に属し18の時和歌山の加太の海を描いた油彩が新聞社主催の最優秀賞を受賞。画家を目指したが父の強い希望で京都市立美術大学工芸科で陶磁器を専攻。
師は人間国宝の富本憲吉(教授)に「創作こそ陶芸の新のあり方である」と習い深く共オリジナリティーの追求を真の目的とした。
↓は卒業制作優秀作として大学に収蔵されている。
加守田か栃木県益子で本格的に作陶を始めたのが26才当初はまったく買い手がつかなかったが、益子の浜田庄司 目にとまり次第に注目されるようになる
加守田の名を一躍知らしめたのは↓の灰釉(かいゆう)である。
次に後編に続く
あまり下記写真などには解説はいらないと思いますが本日は写真のアップにとどめて起きます。
後で折を見て解説を加えます。
↓34才の時古代酸化文で第10回高村光太郎賞で高村光太郎賞を受賞
此の賞を陶芸家が受賞したのは最初で最後だった。
加守田が美術界にいかに評価されていたか伺える
此の受賞に当たっての逸話もすごい話が残っている。
それでも満足できず益子から岩手県遠野に窯を移した。
そこで辿り着いたのが↓の石器(せっき)である。
3月24日昨日冷たい雨の中栃木の益子町に行ってきました。
その日は群馬を出るときから雨で寒い一日になる予感のした出発です。
益子には
大学時代の後輩の窯元数件あり昵懇の間、村上(窯元村上陶庵)さんの家に向かいました。
10年以上もご無沙汰でご自宅に尋ねると、つかもとギャラリー(作家館)で
個展の会場に居られるとの事で早速伺い此処伺い、十数年の話にに花が咲きました。
↑の平皿を一枚頂イギリスの土産としました。
↓の写真は今回益子に行った、用件の一つ陶芸の原材料の仕入れです。
こちらも同じく益子陶磁器組合で材料を用意していただいている時に取った
陶土置き場の一部です。
↓は後少しイギリス土産を買い足す為によりました。
イギリス土産を持つ明日香先生です。
HPの方では中国の日本語教師と紹介していますが先月やめて五月にイギリスに戻ります。
益子と言えば我が陶芸の心の師。
加守田章二先生となると単独で書かないとまずいですよね(笑)
村上さんの個展会場つかもとギャラリー作家館で展示してあり
お店に了解を得て数点取らせていただきました。
↑の作品は此処二週間前の何でも鑑定団で200円で骨董市で購入した
加守田章二先生の花瓶の作品(私も一瞬見た瞬間150万円で本物と言い放してしまいましたが)150万円と鑑定されました。
写真は形・焼などから判断すると同時代の作品と思いますが、テレビに出てきた作品と比べるとよくありませんが110万の値が付いていたのでテレビも目いっぱいの値段をつけていたことが解りました。
↑の湯飲みは極小さい湯のみです。力も感じられずちょっと残念ですが加守田章二先生彩色の晩年の頃の作品だと思います。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/2a/c98c24c7d5adbdef3dc34a19cdc614c4.jpg
↑の炭化の灰釉の椀は轆轤は天下一品の若い時の作品と思われます。
私も先生が1977年度制作あたりを持っていますのでHPに一つだけアップして有ります。
関心のある方はご覧ください。
てっきりブログに紹介していたとばかり思っていた陶芸家・加守田章二まだ紹介していませんでした。
彼の名前を知らない陶芸愛好家はいないはずと断言できる作家である。(尊敬する師故に敬称略)
その加守田章二の作品が数週間前のなんでも鑑定団に登場したのも(↓の前回益子で紹介した灰釉花瓶200円で骨董市から購入し鑑定段で150万円と鑑定された作品)今回のブログで益子~益子Ⅱ~加守田章二・益子Ⅲ~最後の加守田章二・なんでも鑑定団につながるのも加守田先生と何かの縁を感じ得ない。
私が陶芸を志、一人で悪戦苦闘をしていると(まだ此の頃はアトリエバラ美術教室に少し陶芸を加えれば良いかな・・ぐらいであった)大学の後輩の宮城の気仙沼で陶芸家で福田憲史くんが内に遊びに来て酔っ払って彼は私に菊練を教えてくれた物だ(笑)
かれこれ30年も前の出来事でその時まだ陶芸の何たるかも、解らず福田君が加守田章二の弟子で陶芸家としてますます道を極めるべく進む事も予想していなかった。
陶芸もとこが良いのか悪いのか・・が解るようになるのに10年の月日がかかるそれも絵画同様に模写をする事名よりその作家の言わんとする事も見えてくる。
加守田先生の作品が私の所に来るや否やまったく私の作風は変わってしまった。それだけ加守田章二と言う作家は只者ではなかった。
加守田先生の逸話は山のように聞いている、制作過程まて・・えぇぇを連発させられた。
先生も亡くなられて25年の月日がたちました、早い物です。私も先生よりもう10年長生きてしまいました。(笑)
=== ↓・・・何でも鑑定団より ===
陶芸会の鬼才。加守田章二1933年大阪府岸和田市に生まれる。
高校時代美術部に属し18の時和歌山の加太の海を描いた油彩が新聞社主催の最優秀賞を受賞。画家を目指したが父の強い希望で京都市立美術大学工芸科で陶磁器を専攻。
師は人間国宝の富本憲吉(教授)に「創作こそ陶芸の新のあり方である」と習い深く共オリジナリティーの追求を真の目的とした。
↓は卒業制作優秀作として大学に収蔵されている。
加守田か栃木県益子で本格的に作陶を始めたのが26才当初はまったく買い手がつかなかったが、益子の浜田庄司 目にとまり次第に注目されるようになる
加守田の名を一躍知らしめたのは↓の灰釉(かいゆう)である。
次に後編に続く
あまり下記写真などには解説はいらないと思いますが本日は写真のアップにとどめて起きます。
後で折を見て解説を加えます。
↓34才の時古代酸化文で第10回高村光太郎賞で高村光太郎賞を受賞
此の賞を陶芸家が受賞したのは最初で最後だった。
加守田が美術界にいかに評価されていたか伺える
此の受賞に当たっての逸話もすごい話が残っている。
それでも満足できず益子から岩手県遠野に窯を移した。
そこで辿り着いたのが↓の石器(せっき)である。