岡本太郎さん
今なせ゛スーさんは岡本太郎か・日本テレビが企画した明日への神話がきっかけとなりました。
太郎さんと始めての出会いは昭和43年6月21日銀座の松屋の太郎展でした。
私は大学に入学して3ヵ月目のことです。
入学してすぐにプロゼミいう授業があり芸術論で打ち負かされていた私は
松屋で行われていた太郎展に今思うとなぜ銀座まで出向いていったのかわかりません。
しかし38年前のことですが太郎展の会場の風景は忘れることは出来ません。
鮮明に覚えております。
そのころの私は美大に進んでもピカソ?・マチス?シャガール・・・・?
「どこがいいのだろう」「どこがすごいのだろう」
まったく二十世紀のアヴァンギャルド(ダダイズムやシュルレアリスム(超現実主義)など、第1次世界大戦後のフランスを中心にヨーロッパで起こった芸術運動、芸術革新運動。または、その運動のなかで「前衛、先駆け」の意味で使われた言葉。)の世界「わからねー」と当時群馬の田舎から18で上京した私がいました。
話は戻って松屋の太郎展・会場を入ると確か200号ぐらいの太郎さん独特の作品が目に飛び込んできました。
そのときでです。
肉体は作品の前に立っているのですが心体は後方一mほど後方に飛ばされていました。
そして作品は大作が次から次へと私に迫ってまいりました。
そして会場を後にするとき私の左手には一冊の光文社発行の「新版今日の芸術(生活を想像するエネルギーの源泉)」岡本太郎をしっかり握り締めておりました。
上の写真は本(今日の芸術)の表紙で裏は作家石原新太郎さんが推薦文を書いています。
今思うと面白い組み合わせてですね。
56年生きてきて一冊の本から多大な影響を受けたことはこの時が初めてで最後です。
1996年1月7日八十四歳で亡くなりましたが私の中では今現在二人の太郎が生きています。
次のブログに二人の太郎さんについて書いてみたいと思います。
今なせ゛スーさんは岡本太郎か・日本テレビが企画した明日への神話がきっかけとなりました。
太郎さんと始めての出会いは昭和43年6月21日銀座の松屋の太郎展でした。
私は大学に入学して3ヵ月目のことです。
入学してすぐにプロゼミいう授業があり芸術論で打ち負かされていた私は
松屋で行われていた太郎展に今思うとなぜ銀座まで出向いていったのかわかりません。
しかし38年前のことですが太郎展の会場の風景は忘れることは出来ません。
鮮明に覚えております。
そのころの私は美大に進んでもピカソ?・マチス?シャガール・・・・?
「どこがいいのだろう」「どこがすごいのだろう」
まったく二十世紀のアヴァンギャルド(ダダイズムやシュルレアリスム(超現実主義)など、第1次世界大戦後のフランスを中心にヨーロッパで起こった芸術運動、芸術革新運動。または、その運動のなかで「前衛、先駆け」の意味で使われた言葉。)の世界「わからねー」と当時群馬の田舎から18で上京した私がいました。
話は戻って松屋の太郎展・会場を入ると確か200号ぐらいの太郎さん独特の作品が目に飛び込んできました。
そのときでです。
肉体は作品の前に立っているのですが心体は後方一mほど後方に飛ばされていました。
そして作品は大作が次から次へと私に迫ってまいりました。
そして会場を後にするとき私の左手には一冊の光文社発行の「新版今日の芸術(生活を想像するエネルギーの源泉)」岡本太郎をしっかり握り締めておりました。
上の写真は本(今日の芸術)の表紙で裏は作家石原新太郎さんが推薦文を書いています。
今思うと面白い組み合わせてですね。
56年生きてきて一冊の本から多大な影響を受けたことはこの時が初めてで最後です。
1996年1月7日八十四歳で亡くなりましたが私の中では今現在二人の太郎が生きています。
次のブログに二人の太郎さんについて書いてみたいと思います。
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