10月6日の礼拝の内容です。讃美歌は、197.200.361.434.26です。
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礼拝説教 使徒12:6~11「光が牢の中を照らす」 2024.10.6
今年の1月1日に能登半島地震が起りました。能登を中心に大きな被害が出ました。それから9ケ月を迎えて、少しずつですが復興への新しい段階に入っていこうとしてました。それが9月21日~22日と大雨が能登地方を襲いました。輪島市や珠洲市を中心に大きな被害がありました。先週の月曜日に、輪島市に入ってある仮設住宅の敷地内にある泥出しを行ってまいりました。水は引いていましたが、大量の土砂を残していきました。10人のグループで作業を行いましたが、いつ終るのだろうという感じでした。作業を指示してくださる仮説住宅の住民の方と共に行いました。その方がいっていたのですが、大雨の降る2.3日前にやっと新しい仮設住宅に入ることができた。やっとここまで来れた。これからだという時に、この大雨にあって、どうしてという気持ちでいると。ただ、仮設住宅の周りの泥は取っても問題が残っています。それは、家の下に入った泥をどうするかです。この泥を取るためには、一度部屋に入れた家具などを外に出さなければなりません。一時的に他に移動する必要があるのです。火曜日には、穴水町の仮設住宅でのイベントに参加しました。ここには大雨の被害はありませんでした。この住民の方がいっていたのですが、輪島市や珠洲市や他の地域で大雨の被害にあった方は気の毒だ。何か申し訳ない気持ちがあると。仮説住宅でも、大雨の被害があった場所、なかった場所があります。当然なのですが、私自身、側にいて何ともいえない気持ちになりました。
使徒言行録を読んでいます。初めての異邦人教会であるアンティオキアの教会が誕生しました。これからパウロなどによる本格的な異邦人伝道が始まっていきます。その前に、教会はヘロデ王による迫害を受けることが書かれてあります。ヘロデ王は、自分の地位を守るために、ユダヤ人の関心を得るために教会を迫害するのです。自分の地位を守るためならば何でもするのです。ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺したのです。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更に、教会の指導者であったペトロをも捕らえようとしました。それは、除酵祭の時期でした。ヘロデ王はペトロを捕らえて牢に入れました。4人一組の兵士4組に引き渡して監視させます。厳重な見張りを置いたということです。ヘロデ王は過越し祭の後で、ペトロを民衆の前に引き出して、みせしめにし、殺すつもりでした。このようにして、ペトロは牢に入れられてしまったのです。
教会ではペトロのために熱心な祈りがささげられていました。そして、今日の聖書の箇所に入っていきます。ここでは神によってペトロの牢からの救出のことが書かれてあります。ペトロは牢に入れられていて、明日には殺されることになっていたのです。それが、神の働きによって、天使の働きによって、牢から救出されていくのです。そのことは本当に喜ばしいことなのですが、ペトロを監視していた兵士たちは、役割を果たすことができなかったということで殺されてしまうのです。もっといえば、ヤコブはすでに殺されてしまったのです。以前にこの聖書の箇所を読んだ時は、この問題を考えていませんでした。ところが、今回は、どうしてペトロは助けられ、ヤコブは殺されてしまったのだろうかと疑問がわいてきたのです。神は、ヤコブはもう役割がないからいいとした。でも、ペトロは今後、大切な伝道の働きがあるから助けたということかと自分なりに考えたのです。どうして、どうしてと疑問は続きました。でも、答えは出て来ません。分かりません。神はこのことをどのように考えて、行動されたのだろうかと問いたいくらいです。でも、神からの答えはありません。私の神への信仰心が弱いために、答えはないのかもしれません。本当のことは分からないのです。
ふと、私たちの考えでは分からないことが多いのです。とにかく、ヤコブは殺され、ペトロは助けられるのです。それでは、ここからペトロがどのように救出されるのかをみていきたいと思います。聖書をみてください。ヘロデ王がペトロを引き出そうとしていた日の前夜のことです。ペトロは2本の鎖につながれ、2人の兵士の間で眠っていました。番兵たちがその戸口で牢を見張っていたのです。本当に厳重な警備です。人間的に見れば、その牢から脱出することはほとんど不可能に思えます。
そこに主の天使が神から遣わされて来ます。主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らすのです。天使はペトロのわき腹をつついて起し、「急いで起き上がりなさい」といいました。すると、ペトロは2本の鎖につながれていたのですが、鎖がペトロの手から外れ落ちます。天使が「帯を締め、履物を履きなさい」といったので、ペトロはその通りにします。また、天使は「上着を着て、ついて来なさい」といいました。それで、ペトロは外に出てついて行きましたが、天使のしていることが現実のこととは思われなかったのです。幻を見ているのだと思っていたとあります。第1、第2の衛兵所を過ぎ、町に通じる道まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去って行きます。
ここでペトロは我に返りました。ペトロは「今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ」といっています。この使徒言行録を書いたルカは、この話をきっとペトロから直接聞いたのでしょう。ペトロは自分に起ったことが現実のこととは思うことはできなかったのでしょう。目の前で起っている出来事は、すべて幻なのだと思っていたのでしょう。それが、現実に起ったことで非常にびっくりしたのだと思います。この牢からのペトロの救出は、すべて主の天使の仕業です。神が、主の天使を送って、牢の中にいたペトロを救出されました。番兵が近くで見張っていたのに、番兵は何もできなかったのだと思います。それで、ペトロを逃した責任を問われて死刑になったことはとても悲しいことだと、私は思いました。
ここで、神の御心は、牢の中にいるペトロを救出することでした。ヘロデ王がどのようにしても、ヘロデ王の思う通りにはならないのです。それは、神のご意志だからです。使徒であるヤコブは殺されて、ペトロは救出されていく、これが使徒言行録の流れです。その結果に、何を言おうともどうなることではありません。そのような結果となってしまったということを受け止めるが求められています。
それから、改めて、私たち自身の人生を振り返っても、どうして、このようなことになってしまうのか。どうして、このような歩みになってしまうのかと問うことがあります。しかし、その人生のある意味で不条理という流れの中で、受け止めることのできないことを受け止めることが多く求められていくのが人生なのかと感じるのです。ある意味で、そのことはとても難しい判断だと思います。しかし、それが出来なければ、私たち自身が、その人自身がとても苦しい状況の中で歩むことになります。昔、マンガで「バカボン」というのがありました。バカボンのパパがよくいっていました。「これでいいのだ」と。どのような状況が起っていても、「これでいいのだ」ということができるということです。それでも、人生の苦難の中で、どういうことができないことも起って来ます。その時は、大声を出して泣くのです。また、誰もいない場所に行って、大きな声で叫び続けることもいいでしょう。人生の歩みは、とても過酷なものです。そして、一番辛い、人の死が待っています。人の死の前では、何もすることはできません。結果的に受けとめるしかないのです。
でも、神の最終的な御心は次のようになっています。この部分はとても大切なことです。神の救いのことだからです。
ヨハネ3:16~17
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。
イエス・キリストによるわたしたちすべての人間の救いのことです。考えてみれば、ペトロが、この場面で救出されたことも、このすべての人々の救いのことを伝えるためでした。イエス・キリストの福音を全世界に伝えるためでした。私たちが負う人生のいろいろな事柄を、どのように受け止めたらいいのか、本当に難しい課題です。私たちには、イエス・キリストの十字架と向き合うことによって、何かしらの解答を神から与えられると信じています。イエス・キリストの十字架を仰ぎつつ、それぞれの人生の歩みをしていこうではありませんか。
祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。私たちの人生の中では、どうしても受け止めることができないものが多くあります。そのために、苦しみ、悩み、悲しみます。それでも私たちは人生の歩みを続けていくことになります。そのような悲しみや苦しみの中で、イエス・キリストの十字架を仰ぎつつ、歩みことができる信仰を与えてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
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