祈祷会 士師記17章「ミカという人の歩み」 2024.11.20
士師記17章~21章は、士師記の中で、士師のいない時代のことが書かれてあります。それまでは、オトニエル、エフド、デボラとバラク、ギデオン、エフタ、サムソンなどの士師がいました。そこではいろいろな敵が登場して来ました。カナン人、ミディアン人、アンモン人、ペリシテ人などです。それが、この部分では、そのような外敵は出ていなくて、イスラエルの人々の内部での抗争が書かれてあるのです。
イスラエルの人々がエジプトを出て、荒れ野の旅を経て、約束の地に入って行くまで、神の強い導きがありました。十戒を中心とする律法です。そして、幕屋とその祭司制度なども丁寧に与えてくださいました。これらはすべてイスラエルの人々の歩みが豊かで平和で幸福になるためのものでした。それがあっても、イスラエルの人々は神の教えを守ることができなかったのですが、この個所では、もっとひどくなります。今日の中心的な聖書の箇所は、「そのころイスラエルに王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。」(6節)です。王がいれば、イスラエルの人々は神の目に正しい歩みをすることができたということではありませんが、イスラエルの人々を導く人がいなかったという意味です。
さて、今日の聖書の内容に入っていきます。エフライムの山地に名をミカという男がいました。ミカは母に「銀1100シェケルが奪われた時、あなたは呪い、そのことをわたしに話してくれました。その銀はわたしが持っています。実はわたしが奪ったのです。」といっています。ミカは、母から銀1100シェケルを黙って盗んだのです。母は銀を奪われたことで、奪った者が神に呪われるということを話したのでしょう。聞いたミカは、恐ろしくなって、自分が母の銀を奪ったことを告白しています。通常なら、母は息子ミカを激しく怒って、罪の重さを知り、深く反省するように導くと思うのですが、ここで母はミカに「わたしの息子に主の祝福がありますように」といっているのです。いったい何を考えているのだろうと思いました。もっと悪い息子になってしまうと思いました。更に驚くべきは、母はミカに「息子のために彫像と鋳像を造っていただこうとして、この銀はこの手で聖別し、主におささげしたものです。今これをあなたに返します」と答えています。この母は、息子ミカのために、銀1100シェケル持って彫像と鋳像を造るためだったのです。息子のミカがそのお金を盗んでいなかったら、その通りでいいと思うのですが、息子が一度盗んで、そのことを告白し、そのことが全くなかったかのように、息子のために使うというのはどうでしょうか。それも偶像になります。ミカが銀を母に返すと、母は銀200シェケルを取って銀細工師に渡し、彫像と鋳像を造らせたのです。それがミカの家にあるようになります。
このミカという男は神殿も持っており、エフォド(祭司の衣装)やテラフィム(家の偶像)を造って、息子の一人の手を満たして自分の祭司にしていました。神殿は決まった場所にあり、自分の家に置くということはありえないことでした。エフォドもテラフィムも偶像ということになってしまいます。祭司はレビ族の中でアロンの子らだけがなることのできるものでした。自分の息子を祭司にするということそのものが神にとって許されないことだったのです。
次に、ユダのベツレヘムにレビ族の1人の若者が寄留していました。彼は寄留地を求めて、旅を続けてエフライムの山地にあるミカの家まで来ました。ミカは「どちらからおいでになりましたか」と声をかけると、彼は「わたしはレビ人で、ユダのベツレヘムから来ました。適当な寄留地を求めて歩いているのです」と答えます。ミカは「わたしの家に住んで、父となり、祭司になってください。あなたには年に銀10シェケル、衣服一そろい、及び食糧を差し上げます」といいます。レビ人はミカと共に住むことに同意し、若者はその息子の一人のようになりました。ミカがこのレビ人の手を満たしたので、若者は祭司となり、ミカの家に留まりました。ミカは「レビ人がわたしの祭司になったのだから、今や主はわたしを幸せにしてくださることが分かった」といったのです。
このミカの歩みを見ていきますと、神への信仰、神殿や祭司などがありますので、完全に神への思いはなくなったということはないと考えます。しかし、母が息子のために彫像と鋳像などを造ってしまうこと、それも自分の息子が盗んだものを、それを銀細工人に手渡しして造らせる。自分の家に神殿を造ったり、自分の息子を祭司にしたりと、勝手な振る舞いをみるのです。どうして、このような勝手な行動になってしまうのか、神があれほど丁寧に、十戒を中心とする律法を与え、幕屋などを造り、祭司制度を整えたことはいったいどれほど、イスラエルの人々の信仰生活に根差していたのでしょうか。考えてみれば、この士師のいない時代でなくても、士師のいた時代でも、イスラエルの人々は神の教えを守ることはできませんでした。また、これまでのイスラエルの人々の歩みを見ていると、いかに神の教えを守らず、神に反抗してきたのかを見ることができます。イスラエルの人々は神の民として、聖書の中で位置づけされているにも関わらずに、神へ罪を犯し続けて来た歩みを振り返ることになります。そして、これからのイスラエルの人々の歩みは神に対して罪を犯し続けることは変っていません。
まもなく、イエス・キリストの誕生を待つ待降節に入っていきます。神はイスラエルの人々のために、私たちのために、イエス・キリストをこの地上に送ってくださるのでした。神のイエス・キリストは十字架のつくために来られるのです。それは、私たちの罪を赦し、神の国へと招くためです。以下は今年の瀬戸永泉教会のクリスマスの聖句となります。
イザヤ9:5
ひとりのみどりごがわたしたちにために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちのために与えられた。
祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。士師記より、士師のいない時代のことを学びました。神の教えを導くことのできる人がいなかったから、イスラエルの人々は神を求めながら、神から離れ、それぞれの自分の思いの中を歩み、苦しんでいました。人の弱さがそこにはありました。私たちには神がいてくださり、共に歩んでくださり、聖書を与えてくださっています。まもなくクリスマスを待つ待降節に入っていきます。神の導きを忘れることがなく、歩んでいくことができますように導いてください。この願いをイエス様のお名前によって祈ります。アーメン。
皆様の祈り「 」アーメン。
共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)