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2月5日の祈祷会の内容です。

2025-02-04 19:50:00 | 日記
祈祷会       ルツ記2章「ルツとボアズの出会いから」    2025.2.5

 モアブの女性であったルツ、ナオミが家族と共に飢饉のためにユダのベツレヘムからモアブにやって来て、ナオミの息子と結婚しました。ナオミはモアブに約10年間いたといいます。この間に、ナオミには悲しいことが続きました。夫を早く亡くし、次には息子たちも亡くなってしまうのです。深い悲しみにいたナオミがユダのベツレヘムでは、すでに飢饉が終って食糧があることを知りました。ナオミは決心しました。10年間いたモアブから、故郷のユダのベツレヘムに帰ることです。ナオミは息子の妻たちと最初一緒にベツレヘムに向かって帰って行こうとしました。ナオミはすぐに気づいて、2人の妻たちに、それぞれに自分の家に帰るように促すのです。1人は帰って行きました。しかし、ルツは帰ろうとはしなかったのです。強い決意を持って、ルツは姑ナオミと一緒にベツレヘムに行くことにするのです。1章では、ナオミの悲しみとルツの決意をみることができました。ナオミとルツがベツレヘムに帰って来たのは、大麦の刈り入れが始まる時でした。

 今日のルツ記2章では、ルツとボアズの出会いのことが書かれてあります。ルツがナオミの故郷であるユダのベツレヘムに行くことは、自分の故郷ではなく、誰も知らない土地に行くことでした。そのような不安がある中でも、ルツはナオミと共に行動することを選んだのです。ここで登場するボアズは、ナオミの夫エリメレクの一族の有力な親戚の1人でした。ルツはナオミに「畑に行ってみます。誰か厚意を示してくださる方の後ろで、落ち穂を拾わせてもらいます」というと、ナオミは「行っておいで」と答えます。ルツは出かけて行き、刈り入れをする農夫たちの後をついて畑で落ち穂を拾いましたが、そこはたまたまボアズの畑でした。ボアズがベツレヘムからやって来て、農夫たちに「主があなたたちと共におられるように」というと、農夫たちも「主があなたを祝福してくださいますように」と返します。

 ボアズは農夫の監督をしている召使の1人に聞きます。「そこの若い女性は誰の娘か」と。召使は「あの人は、モアブの野からナオミと一緒に戻ったモアブの娘です。刈り入れする人たちの後について麦畑の間で落ち穂を拾い集めさせてくださいと願い出て、朝から今までずっと立ち通しで働いていましたが、今、小屋で一息入れているところです」と答えます。ボアズはルツに「私の娘よ。よく聞きなさい。よその畑に落ち穂を拾うことはない。ここから離れることなく、私のところの女性たちと一緒にここにいなさい。刈り入れする畑を確かめておいて、女性たちについて行きなさい。喉が渇いたら、水がめの所に行って、若い者がくんでおいた水を飲みなさい」と優しくいいます。ルツは、顔を地につけ、ひれ伏して「よそ者の私にこれほど目にかけてくださるのは。厚意を示してくださるのは、なぜですか」と聞きます。ボアズは「主人が亡くなった後も、姑に尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、全く見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました。どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように」と答えます。ルツは「あなたのはしための1人にも及ばないこの私ですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました」といいます。食事の時に、ボアズはルツに「こちらに来て、パンを少し食べなさい。一切れずつ酢に浸して」と声をかけます。ルツが刈り入れをする農夫たちの側に腰を下ろすと、ボアズは炒り麦をつかんで与えます。ルツは食べて飽き足りて残すほどでした。ボアズのルツに対する深い思いがあふれ出ています。ルツが腰を上げて、再び落ち穂を拾い始めようとすると、ボアズは若者に「麦束の間でもあの娘に拾わせるがよい。止めてはならない。刈り取った束から穂を抜いて落としておくのだ。あの娘がそれを拾うのをとがめてはならない」と命じています。

 ルツはこうして日が暮れるまで畑で落ち穂を拾い集めました。取った落ち穂は1エファほどにもなりました。麦を背負って町に帰ると、姑はルツが拾い集めてきたものに目をみはります。ルツは飽き足りて残した食べ物も差し出しました。ナオミがルツに「今日はいったいどこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いて来たのですか」というと、ルツは「今日働かせてくださった方は名をボアズといっておられました」と答えます。ナオミはルツに「どうか、生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主は、その人を祝福してくださるように。その人は私たちと縁続きの人です。私たちの家を絶やさないようにする責任がある人の1人です。」といいます。ルツは「その方は私に、うちの刈り入れが全部済むまで、うちの若者から決して離れないでください」といってくださったのです。ナオミは「私の娘よ。素晴らしいことです。あそこで働く女性たちと一緒に畑に行けるとは。よその畑で、誰かからひどい目に遭わせられることもないし」とルツにいいます。ルツは大麦と小麦の刈り入れが終るまで、ボアズのところで働く女性たちから離れることなく落ち穂を拾うことができたのです。

 ルツ記を読んでいると、そのまま、その時の情景が浮かんできます。下手な解釈はいらないです。2章では、ルツとボアズの会話、またはルツとナオミの会話を通して、深い愛情を読み取ることができます。ナオミにしても、夫と2人の息子を失い、失意の中にあってモアブの野から故郷ユダのベツレヘムに戻って、ナオミ(快い)ではなく、マラ(苦い)と呼んでくださいといいました。ルツにしても、夫を失い、深い悲しみにありました。それまでに飢饉があり、家族の悲しみがあり、そこでも生き続けていく中で、ボアズとの出会いがあり、これから希望と愛に満たされる予感があります。ルツにしても、故郷のモアブから初めての地であるユダのベツレヘムに来て、誰も知らない人ばかりで、そして、落ち穂を拾うという厳しさの中にあって、目の前にある様々な苦難を乗り越えていく姿勢に驚きます。神の恵みがあったということになるのでしょうか。人にはいろいろな苦難があります。それを悲しみだけでなく、そこから前向きに生きていく力がルツには見ることができます。私たちもルツのような勇気を持ちたいものです。

1コリント10:28
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。ルツ記の学びから、目の前に起る様々な苦難がありました。それをルツは前向きに歩んでいます。夫を失う、全く違う場所に移住する。それでも、その場その場で、できることを精一杯やっています。神はルツを導き、イスラエルの救いの歴史の中に入れてくださいました。私たちもいろいろな苦難の人生の中にありますが、神の導きを信じて、勇気と信仰を持って、前向きに生きる力を神からいただきたいと願います。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                 」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


2月2日の礼拝の内容です。

2025-02-01 20:06:00 | 日記
2月2日の礼拝の内容です。讃美歌は、83.197.404.411.78.27です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/PhJ0ZtO4Jjw?feature=shareです。

礼拝説教      使徒14:1~7「神を頼みとして生きる」    2025.2.2

 2月の最初の日曜日を迎えました。1週間の初めの日曜日に、このように皆様と共に神を礼拝することができますことを心から神に感謝したいと思います。神のみ言葉によって、私たちの1週間の歩みがより豊かなものとなりますようにと祈ります。

 先週の日曜日の礼拝後に教会懇談会を持ちました。いろいろなご意見を聞くことができました。感謝な時を過すことができました。この教会懇談会のテーマは「10年後の瀬戸永泉教会を考えよう」でした。長老会の話し合いの中で、次年度の計画や予算のことを考える時期になっています。その中で、教会員の高齢化の問題、教会予算の減少など、マイナスの要素が次々に出ている中で、現状を受け止めながらも希望を持って歩んでいきたいという願いから、そのようなテーマにしました。教会の10年後を考えることは必要なことだと思いますが、もっと身近な自分たちの信仰生活を深めることも必要だと考えます。私たちは、それぞれの人生の中で、イエス・キリストに出会い、信仰を持ち、教会生活を送っているのですが、その意味はどこにあるのでしょうか。私たち、自分たちの信仰生活を考えて、それが自分たちの人生の中でどのように生かされているのでしょうか。その点を、今日は考えていきたいと願います。

 私は、この礼拝の中で使徒言行録を読んでいます。これは、キリスト教の初めての歩みが書かれてあります。その中心は使徒1:8「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」です。イエス・キリストの福音がエルサレムから始まって、当時の世界の中心都市であるローマにまで及ぶことが書かれてあります。使徒言行録は全部で28章あります。1~12章は、イエス・キリストの福音がユダヤ人に向けて語られています。13~28章は、イエス・キリストの福音が異邦人に向けて語られています。使徒13章には、初めて、異邦人の教会がアンティオキアにできます。アンティオキア教会は祈りを持って、バルナバとパウロを伝道旅行に行くことを求めていきます。この伝道旅行の働きの動きは、聖霊によるものです。聖霊の導きに、アンティオキア教会の人々は祈りと按手を持って、2人を送り出していきます。第1回伝道旅行の始まりです。この伝道旅行は、バルナバの故郷のキプロス島から始まって、アジアに向けて進んでいきます。

 バルナバとパウロはキプロス島へ行き、伝道していきます。その後、船に乗って、ピシディア州のベルゲ、アンティオキアへと進んで行きます。この時もパウロたちは最初に、安息日にユダヤ人の会堂に行き、礼拝を守ってから、伝道を始めていきます。ここでは、パウロによる説教が語られました。ここでは、神の救いが新しい形で語られていくのです。それは今までユダヤ人たちが大切に守ってきたモーセの律法の本当の意味を語られています。それは、モーセの律法は、ユダヤ人たちは守ることができないこと、律法によって、自分たちが罪人であることを自覚させる働きであること、イエス・キリストの十字架の死と復活は、完全な罪の赦し、罪の贖いが行われ、人は、このイエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによって義とされること、救われることがいわれたのです。

 このパウロの説教を聞いた人々は、多くのユダヤ人や異邦人が、イエス・キリストを信じていきました。一方で、今までのことを大切にしてきたユダヤ人たちは、パウロの説教を受け止めることができず、間違いだとして、反対し、迫害し、攻撃していくのです。ユダヤ人たちの迫害によって、パウロたちは、アンティオキアの町を出ることになっていきます。そして、イコニオンに行くのです。ここが今日の聖書の箇所です。このイコニオンでも、パウロたちは、ユダヤ人の会堂に行き、そこでイエス・キリストの福音を語っていきます。その結果として、多くのユダヤ人やギリシャ人が信仰に入っていきます。ところが信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、パウロたちに対して悪意を抱かせました。つまり、イエス・キリストの福音を信じる者として、多くのユダヤ人がいたこと、また多くの異邦人がいたことが分かります。その一方で、反対する多くのユダヤ人たちや多くの異邦人がいたことが分かります。だから、ユダヤ人だから、教会を迫害するということではなく、異邦人だから福音を信じるということだけでなく、信じないで迫害する者もいたということです。そして、イエス・キリストの福音に対しては、信じる者と信じない者とに分けられたということです。ユダヤ人と異邦人の区別はあまりないということになります。

 パウロたちの宣教によって、多くの者が信じました。また、多くの者が信じないで迫害するようになっていきました。反対があってもパウロたちは、そこに長く留まって、主を頼りとするように勇敢に語っていきます。主は、パウロたちの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証していったのです。イエス・キリストの福音は、2つに分けてしまうものでした。町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人側に、ある者は使徒側についていくのです。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって、パウロたちに乱暴を働き、石を投げつけようとした時、パウロたちは、これに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に避難していきます。そして、そこでも福音を告げ知らせていきます。

 パウロによる伝道旅行を見ていきますと、絶えず、ユダヤ人の迫害が起っていきます。それは、使徒7:54~60にあるステファノの殉教の記事を読んでいくとよく分かっていきます。ステファノはユダヤ人に対して、イエス・キリストの福音を語っていく中で、ユダヤ人の罪を明らかにしていくのです。その前のステファノのユダヤ人に対する強い言葉があります。

使徒7:51~53
かたくなで、心と耳に割礼を受けていない人たち、あなたがたは、いつも聖霊に逆らっています。あなたがたの先祖が逆らったように、あなたがたもそうしているのです。いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、一人でもいたでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを預言した人々を殺しました。そして今や、あなたがたがその方を裏切る者、殺す者となった。天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした。

 このステファノの言葉を聞いたユダヤ人たちの反応は、「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりしました。ユダヤ人たちは大声で叫びながら耳をふさぎ、ステファノに目がけて一斉に襲い掛かり、都の外に引くずり出して石を投げ始めていきます」とのようになってしまいました。ユダヤ人たちがそれまでずっと大切なこととして守ってきたことを完全に否定されてしまったからです。ユダヤ人にしてみれば、自分たちが守ってきたことは完全に間違っていた。モーセの律法を守ることはできない。神がモーセを通して、ユダヤ人に与えたことは律法によって、罪の自覚を生じるためだったといわれて、受け止めることができない。そして、あなた方が神の子イエス・キリストを十字架につけて殺してしまったのだといわれて、逃げる場を失ってしまい、使徒たちに黙れというしかなかったのです。イエス・キリストの十字架の福音を受け止めるためには、聖霊の働きが必要です。人間の力や知恵によっては受け止めることはできないのです。聖霊によって、信じることができたステファノは、次のような信仰を持つことができています。ユダヤ人から石打ちにあっている中で、聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエス様を仰ぎ見ることができ、「天が開いて、人の子が神の右の手に立っておられるのが見える」といったのです。ユダヤ人が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」それからひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んでいます。そして、ステファノは眠りについていきました。殉教していきました。

 パウロは、このステファノの殉教を目の前でみています。後のパウロの回心に大きな意味を持っていったと思います。私たちの信仰生活では、それぞれの人生の最終章に、このようなステファノのような信仰を持つことができるのです。私たちはそれぞれの人生の最後に、どのような時を持つことができるかを知ることは難しいこともありますが、このようなステファノの信仰を持っているはずです。死を前にして、聖霊に満たされて、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエス様を仰ぎ見るのです。自分の声で「天が開いて、人の子が神の右の手に立っておられるのが見える」というのです。そして、最後に「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」いい、神の御国へと行くのです。私たち1人1人が、そのような神の御国を待ち望み、神の御国で、イエス様が待っておられることを確信しています。そのような神の御国を待ち望む、私たち1人1人が持っていって欲しいと願います。神の救いの確信を、身近にいる家族に伝えていって欲しいと願います。

祈り 神よ、あなたをこのように礼拝することができましたことを心から感謝します。パウロが語るイエス・キリストの十字架の死と復活の福音、それがステファノの殉教の時にように、神の御国を仰ぎ見て、歩むことができる信仰を改めて知ることができました。私たち1人1人が、この神の御国へと招かれるという信仰を持ち、確信し、それぞれの人生を、信仰生活を全うすることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


1月29日の祈祷会の内容です。

2025-01-28 19:54:00 | 日記
祈祷会       ルツ記1章「ルツの思い」     2025.1.29

 今日から、ルツ記の学びに入っていきます。旧約聖書の中で2つが女性の名前になっていますが、その1つです。新約聖書の最初にあるマタイによる福音書の1章に、イエス・キリストの系図が載っていますが、その中に「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを。オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた」(マタイ1:5~6)とあるように、ルツの名前が出ています。神の救いの出来事の中で、ルツが重要な役割をしていることが分かります。ルツはイスラエルではなくてモアブの人です。異邦人です。それが、イエス・キリストの系図の中に置かれているのです。

・1:1~7、残されたナオミ
 ルツ記の最初には、「士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲った」(1:1)とありますように、ルツ記の背景は士師時代だということが分かります。その時に、飢饉がイスラエルを襲ったのです。そして、ルツ記は、ある人が妻と2人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだと書いています。その人の名はエリメレク、妻ナオミ、2人の息子はマフロンとキルヨンであるといいます。ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者だといいます。3人はモアブの野に着いて、そこに住みます。まもなく夫エリメレクはナオミと2人の息子を残して死んでしまいます。妻ナオミにとって大きな悲しみだったのでしょう。その後、息子たちはモアブの女性を妻とします。イスラエルの流れからすれば、異邦人との結婚は許されていないと思っていましたが、この時はゆるやかなものだったのでしょうか。1人はオルパといい、もう1人がルツといいました。ナオミたちは約10年間モアブで暮らしたとあります。その中で悲しいことが起りました。2人の息子たちが死んでしまうのです。ナオミは夫と2人の息子に先立たれ、1人残されてしまいました。ナオミは、モアブの野を去って、国に帰ることにしたのです。神がイスラエルを顧み、食べ物をお与えになったということを聞いたからです。ナオミは住み慣れた場所を後し、2人の嫁もついて行きました。

・1:8~19、ルツの決意
 故郷ユダのベツレヘムに帰る道すがら、ナオミは2人の嫁に「自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にも私にもよく尽くしてくれた。どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得ますように」といいます。ナオミは2人に別れの口づけをすると、2人は声をあげて泣いて「いいえ、御一緒にあなたの民のもとへ帰ります」といいます。ナオミは「私の娘たちよ、帰りなさい。どうしてついて来るのですか。あなたたちの夫になるような子どもが私の胎内にまだいると思っているのですか。私たちの娘たちよ、帰りなさい。私はもう年をとって再婚などできません。たとえ、まだ望みがあるとして、今夜でも誰かのもとに嫁ぎ、子どもでも産んで、その子たちが大きくなるまであなたたちは時を待つつもりですか。それまで嫁がずに過ごすつもりですか。私の娘たちよ、それはいけません」と答えるのです。2人はまた声をあげて泣くのです。オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしましたが、ルツはすがりついて離れませんでした。ナオミは「あのとおり、あなたの相嫁は自分の民、自分の神のもとへ帰って行こうとしている。あなたも後を追って行きなさい」といいます。モアブの女性である2人は、故郷に帰ると、自分の家や親せきがいるはずです。しかし、ナオミと一緒に行けば、全く誰も知っている人がいないのです。それを心配してナオミはルツを説得しています。

 ルツは「あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。私は、あなたの行かれる所に行き、お泊りになる所へ泊まります。あなたの亡くなる所で私も死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、その他のことであなたと離れるようなことをしたなら、主よ、どうか私を幾重にも罰してください」と答えています。ルツの強い決意が語られています。どうして、このように強い思いになっていったのでしょうか。10年間、共に過ごしたことで神への信仰が強くなっていったのでしょうか。ナオミはルツの決意が固いのを見て、説き伏せることを止めました。2人は旅を続けて、ついにユダのベツレヘムに到着しました。

・1:20~22、うつろな帰国
 2人がベツレヘムに着くと、町中はどよめきます。女性たちが「ナオミさんではありませんか」と声をかけてくると、ナオミは「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者が、私をひどい目に遭わせたのです」といいます。更に、ナオミは「出て行く時は、満たされていた私を、主はうつろにして帰らせたのです。主が私を悩ませ、全能者が私を不幸に落とされたのに」と答えています。ナオミの苦しみが分かります。ナオミはこうして、モアブ生まれの嫁ルツを連れて、モアブの野を去り、帰って来ました。2人がベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れの始まるころだったとあります。

 ルツ記1章を見てきました。ここでは、ナオミの苦難が書かれてあります。飢饉のために、故郷からモアブの野に逃れて、そこで10年程住むことになりました。最初に、自分の夫を失い、2人の子どもたちは、モアブの女性と結婚することができましたが、妻を残して、2人の子どもは死んでしまったのです。飢饉が終ったという知らせを聞いたナオミは、モアブから故郷のベツレヘムに帰ろうとします。死んだ2人の妻たちは最初に一緒に帰ろうとしました。しかし、ナオミはそれを止めて、自分の故郷に帰るように説得します。1人は帰って行きましたが、ルツは承知しません。ナオミはルツと一緒に、故郷のベツレヘムに帰ることになります。ナオミの悲しみと、ルツの姑ナオミに対する深い愛情をみることができます。異邦人のルツがどのような思いでそのような気持ちになっていたのかを思いを寄せ、ルツ記を読んでいきたいと思います。私たち自身は、ルツのような愛情を持っているでしょうか。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。ルツ記の学びに入っていきました。ルツのナオミに対する深い愛情を見ることができました。どうして、ルツはそのような愛情を見出すことができたのでしょうか。異邦人として、イスラエルの人々から迫害を恐れることなく、ナオミと共に生きようとしたルツの思いを少しでも知ることができますように、導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                            」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございました。(横山厚志)


1月19日の礼拝の内容です。

2025-01-18 20:38:00 | 日記
1月19日の礼拝の内容です。讃美歌は、361.412.452.457.26です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/ylxTz74BV4g?feature=shareです。

礼拝説教    使徒13:42~52「神の恵みの中で生きる」   2025.1.19

 1995年1月17日に、阪神大震災が起りました。その時から30年が過ぎました。あの日は金曜日だったと思います。私は埼玉県飯能市にある日本基督教団飯能教会にいました。朝5時46分に地震が起りました。約6400人以上の方々がなくなりました。その時から2ケ月後に神戸に入りました。大きくゆがんだ道路、大きなビルが倒壊していました。ある場所では火災が起り、焼け跡が残っていました。大きい傷を神戸の町に残しました。その後、様々な災害が起りました。東日本大震災、昨年1月1日に起った能登半島地震です。日本に住んでいるといろいろな災害が起ります。その時に大切なことは、起りうる災害に備えることです。つまり、防災、減災が大切だといわれています。ある時のために、私たちは備えることが何よりも大切なのです。

 私は礼拝で、使徒言行録を読んでいます。キリスト教の最初の記録が書かれてあります。イエス・キリストによって始まったキリスト教が、その弟子たちによって、どのようにエルサレムから当時の中心であったローマにまで伝わっていったのかが分かります。使徒言行録は大きく2つに分けることができます。1~12章は、イエス・キリストの福音がユダヤ人に伝えられていくのです。13~28章は、イエス・キリストの福音が異邦人に伝えられていくのです。使徒言行録13章では、アンティオキアに初めて異邦人の教会が誕生しました。そのアンティオキア教会からバルナバとサウロが派遣されて、第1回伝道旅行が開始されています。その旅は、バルナバの出身地であるキプロス島からスタートしました。そしてピシディア州のアンティオキアに行きます。

 そして、安息日にユダヤ人の会堂に入って席に着きます。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして「兄弟たち、何か会衆のために励ましの言葉があれば、話してください」といわれて、パウロが立ち上がって話し始めていきます。これがパウロによる初めての説教となっていきます。説教の内容は、イスラエルの歴史を通して、神が救いの業を行ってきたことを語っていきました。出エジプト、荒れ野の旅、ヨシュアによる約束の地に入って行くこと、士師時代、王国時代、サウル、ダビデ、特に、ダビデから救い主イエス・キリストの誕生をいいます。更に洗礼者ヨハネの言葉から救い主イエス様のことをいっています。

 パウロは、ピシディアのアンティオキアのユダヤ人の会堂の集まっているユダヤ人に向けて話し続けています。彼らに、兄弟たち、アブラハムの子孫たち、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たちと呼びかけて、この聖書を通しての救いの言葉は私たちに送られたというのです。エルサレムに住むユダヤ人やその指導者たちは、イエス様を認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエス様を罪に定めることによって、死に当る罪はないのに、イエス様を死刑にするようにローマ総督ピラトに求めました。イエス様は十字架につけられて死なれました。十字架から下ろされて墓に葬られました。これはすべて神の御心だったといいます。神はイエス様を死者から復活させてくださった。復活されたイエス様は弟子たちにその復活の姿を幾日も渡って現してくださったのです。イエス様の弟子たちは、今、イエス様の証人となって、先祖に与えられた約束について、あなた方に福音を伝えています。神は、イエス様を復活させて、私たちのために、子孫のために、その救いの業を実現してくださったのです。神は、イエス様を復活させて、もはや朽ち果てることがないようにしてくださいました。ダビデは、神の計画に仕えた後、死んで朽ち果ててしまいました。

 しかし、神が復活させてくださったこの方は、朽ち果てることがなかったのです。そして、パウロは福音の中心に迫って来ます。だから兄弟たち、知っていただきたい。イエス様による罪の赦しが告げ知らされ、あなたがたがモーセの律法では義とされなかったのに、信じる者は皆、イエス・キリストによって義とされるのです。パウルの説教を聞いたユダヤ人は、全く新しい言葉を聞いたのです。イエス・キリストの福音を聞いたのです。モーセの律法では義とされないこと、イエス・キリストの十字架の死と復活によって義とされるということです。

 パウロたちが会堂を出る時に、ユダヤ人たちは次の安息日にも同じこと話してくれるように頼んでいます。集会が終っても多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来ます。パウロたちは、彼らに語り、神の恵みの下で生きるように勧めています。次の安息日になりますと、ほとんど町中の人が神の言葉を聞こうとして集まって来ています。

 ここで、ユダヤ人たちが、多くの群衆を見て、ひどくねたみます。口汚くののしって、パウロに反対していきます。ユダヤ人たちはずっと大切にしてきたことがありました。ずっと守ってきたことがありました。それは、モーセの律法を守って生きるということでした。それを、パウロからモーセの律法を守ることはできないこと、神に義とされないといわれたことに我慢ができなかったのです。更に、イエス・キリストのよって義とされることといわれたことに強く反発していきます。町の多くの人々が、パウロの言葉を聞こうとして集まったことも、ねたむことになってしまいました。

 パウロたちは、反対するユダヤ人に「神の言葉はあなたがたに語られるはずでした。だが、あなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、私たちは異邦人の方に行く」と勇敢に語ります。

 異邦人たちはこれを聞いて喜び、神の言葉を賛美しています。そして、永遠の命を得るように願った人々は皆、信仰に入って行きます。このようにして、イエス・キリストの福音はその地方全体に広まっていきます。ところが、ユダヤ人たちは神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロたちを迫害させ、その地方から追い出してしまいます。それで、パウロたちは彼らに対して足の塵を払い落とし、イコニオンに行きます。他方、弟子たちは喜びと聖霊に満たされています。

 イエス様の働きが書かれてある4つの福音書を読んでいると、神に選ばれたユダヤ人の役割がはっきりとしてきます。旧約聖書で、神はユダヤ人を通して、モーセの律法を与え、それを守ることによって、神に義とされるとされていました。でも、そうではなくて、モーセの律法では、神によって義とされないことが分かるのです。更に、モーセの律法によっては、ユダヤ人に神の前に自分たちの罪が明らかにされるということです。そのユダヤ人の罪の大きなものは、神の子イエス・キリストを十字架にかけてしまうということです。つまり、ユダヤ人の役割は、モーセの律法によっては義とされないこと、モーセの律法によって自分たちの罪が明らかにされるということ、そして、ユダヤ人がイエス・キリストを十字架にかけて殺してしまうということです。

 悲しいことに、多くのユダヤ人たちは、その自分たちの役割に気づいていないということ、また、イエス様の弟子たちを迫害し、教会を荒らしてしまうことになっていきます。使徒言行録でも、使徒たちの働きを妨害し、迫害し、時には殺してしまいます。パウロによる異邦人伝道がこれから本格化していきます。そのパウロの伝道活動で障害となるのは、ユダヤ人たちでした。これからも、パウロの伝道に対する抵抗、迫害を続けていくのです。

 ふと、振り返ってみると、悲しいことではありませんか。旧約聖書を見てください。新約聖書に比べて、本当にあついです。旧約聖書の内容は、神がユダヤ人を通して、人間の救いの業を行うというものです。それが、神の救いの業を無にすることになってしまうことをどのように受け止めればいいのでしょうか。神がユダヤ人を選ばれたことの意味を考えると何とも悲しいことだと思います。パウロは、ここで自分たちはこれからユダヤ人ではなく、異邦人の方に行くといっています。でも、パウロの伝道を見ていると、まず、ユダヤ人の会堂に入って行きます。その新しい町に入って、そこにあるユダヤ人から伝道をしていきます。それから、異邦人の方に行っています。パウロのユダヤ人に対する思いは、とてもあついものがあります。

ローマ9:2~4
わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。

 このようにパウロは、同胞であるユダヤ人の救いについて、強い気持ちを持っていました。この点も忘れることなく、伝道を考えていきたいと思います。私たちは改めて、イエス・キリストによる救いを受け止めていることに感謝をしたいと願います。最初に、私は震災を通して、備えの大切さをいいました。イエス・キリストへの信仰も同じだと思います。いつか来る、その時のために、今、備えることが必要です。私たちは、イエス・キリストへの信仰を持って、神の国を目指して歩んで行こうではありませんか。

祈り 神よ。あなたを皆さんと一緒に礼拝することができましたことを心かから感謝します。備えることについて考えて来ました。私たちには聖霊を通して、イエス・キリストの福音が与えられています。神の恵みの中で生きていることができています。どのような時でも、あなたを見上げて、希望と喜びと感謝を持って歩むことができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。


1月15日の祈祷会の内容です。

2025-01-14 19:35:00 | 日記
祈祷会    士師記20:26~48「神の前で泣くイスラエルの人々」  2025.1.15

 士師記19~21章は、イスラエルの12部族の中で、ベニヤミン族が滅んでしまうかもしれないという危機のことが書かれてあります。この時、イスラエルの人々は神を信じていましたが、宗教的な指導者がいなくて、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていました。その結果が、このような悲劇につながっているのです。

19章では、そのきっかけが書かれてあります。エフライムの山地の奥に1人のレビ人が住んでいました。レビ人はユダのベツレヘムから1人の女性を側女として迎え入れました。しかし、その側女はレビ人を裏切って、自分の実家に帰ってしまいました。レビ人はその側女を連れ戻すために、実家に行きます。何とか和解して自分の家に戻ろうとします。その旅の途中で、ベニヤミン族のギブアに到着し、1人の老人の家に泊まることになりました。そこで事件が起ります。町のならず者が家を囲み、戸をたたいて「お前の家に来た男を出せ。我々はその男を知りたい」といいます。家の老人は拒否しますが、耳を貸そうとしません。そこで、レビ人は側女をつかんで、外にいる人々の所で押し出すと、ならず者たちは側女を知り、一晩中朝になるまでもてあそび、朝の光が射すころ、ようやく側女を放すのです。朝になるころ、側女はレビ人のいる家の入り口までたどりつき、その場で死んでしまったのです。レビ人は死んだ側女をろばに乗せて、自分の家に帰っていきます。そしてレビ人は刃物をとって側女をつかみ、その体を12の部分に切り離し、イスラエルの全土に送りつけます。これを見た者は皆、驚き大きな衝撃を受けました。

20章になると、イスラエルの人々は皆出て来てミツバに集まりました。剣を携えた40万の歩兵が参加しました。イスラエルの人々はレビ人に、「このような犯行がどうして行われたのか説明してもらいたい」といい、レビ人は「ベニヤミンのギブアに来て、私は側女と共に宿をとっておりました。ギブアの首長たちが私に向かって来て、夜、私の泊まった家を取り囲み、私を殺そうとし、側女を辱めて死に至らせたのです。私は側女をつかみ、その体を切り離して、イスラエルの嗣業の全耕地に送りました。彼らがイスラエルの中で極悪非道なことをしたからです」と答えます。聞いたイスラエルの人々は、ベニヤミンがイスラエルの中で行ったすべての非道を制裁しようといって、ベニヤミン族の所に行きます。ベニヤミンの人々は、イスラエルの人々の行動を知っていました。イスラエルの人々はベニヤミンの人々に「あなたたちの中で行われたあの犯行はなんということか。今、あのならず者の犯人がギブアにいれば、引き渡せ。犯人を殺してイスラエルの中から悪を取り除こう」といいます。ここでベニヤミンの人々が、ならず者を引き出せば、それで終ったはずでした。しかし、どういう訳か、ベニヤミンの人々はイスラエルの人々の声を聞かず、戦いの準備を始めるのです。ベニヤミン族は剣を携えた兵士26700人が集まります。

一方で、イスラエルの人々も40万の兵士が戦いの準備をします。第1日の戦いが始まりました。戦いの結果、22000人のイスラエルの兵士が打ち倒れたのです。しかし、イスラエルの部隊は奮起し、戦闘態勢を立て直しました。イスラエルの人々は、主の御前に上って、夕方まで泣き続けて、主に問うて「兄弟ベニヤミンと、再び戦いを交えねばなりませんか」と聞くと、主は「彼らに向かって攻め上れ」と命じます。第2日の戦いも始まりました。戦いの結果、18000人のイスラエルの兵士が倒れてしまったのです。

そして、今日の聖書の箇所になります。イスラエルの人々は皆、すべての軍団と共にベテルに上って行き、主の御前に座り込んで泣きました。その日、人々は夕方まで断食し、焼き尽くすささげものと和解のささげものをささげました。当時は契約の箱がベテルにあって、アロンの孫でエルアザルの子であるピネハスが御前に仕えていたのです。イスラエルの人々は主に問うて「兄弟ベニヤミンとの戦いに再び繰り返し出陣すべきでしょうか。それとも控えるべきでしょうか」と聞くと、主は「攻め上れ。明日、わたしは彼らをあなたの手に渡す」といわれるのです。第3日目の戦いになる時に、イスラエルの人々は戦い方を変えて、ギブアの周囲に伏兵を配置します。こうして、再び、イスラエルとベニヤミンとの戦いが開始されます。

第3日目の戦いです。イスラエルとベニヤミンとの戦いで、ベニヤミンは町から遠くへおびき出されます。一方はベテルに、他方はギブアに通じる大路に進みます。野で、イスラエルの兵士30人が倒れます。ベニヤミンの人々は、また敵を打ち負かしたと思って油断してしまったのでしょう。イスラエルは、撤退して敵を町から大路へおびき出そうと謀っていました。ベニヤミンの人々はおびき出されてしました。伏兵はギブアの町を急襲しました。伏兵は突入し、町をくまなく剣を持って撃ちました。イスラエルと伏兵の間に打ち合わせがあって、町からのろしの煙が高々と揚がると、イスラエルは戦線に復帰することになっていました。ベニヤミンが振り返ると、町全体が火に包まれ天に燃え上がっていました。そこに、イスラエル兵が引き返して来たので、ベニヤミンは、自分たちに、不幸な結末が訪れるのを知って、うろたえました。ベニヤミンはイスラエル兵を見て、荒れ野の方に向かったが、戦いから逃れることはできませんでした。イスラエルはベニヤミンが壊滅するまで追い迫り、打ち殺していきます。この日のベニヤミンの全戦死者は25000人でした。600人が荒れ野のリモンの岩場に逃げて、4ケ月留まりました。最初に戦いに参加したベニヤミンは26700人ですから、多くの人々が戦死したことになります。

21:2~3で、イスラエルの人々はベテルに帰って、神の御前に座り、声をあげて泣き叫んで「イスラエルの神、主よ。なぜ、イスラエルにこのようなことが行われ、今日イスラエルから1つの部族が欠けることになったのですか」といっています。どうして、このような悲劇を止めることができなかったのでしょうか。神は、どうしてこのような悲劇を止めることをしなかったのでしょうか。イスラエルは、神を信じながら、指導者がいなくて、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた結果が、このようになってしまったことを聖書は、警告として、私たちに伝えているのでしょうか。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございます。イスラエルの12部族の中でベニヤミンがなくなってしまうかもしれない危機を学びました。神を信じながら、それぞれが自分の目に正しいことを行っていった結果が、このような悲劇をもたらしたのでしょうか。人間の罪の深さを知ることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                                  」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)