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11月6日の祈祷会の内容です。

2024-11-05 19:57:00 | 日記
祈祷会      士師記16:1~17「サムソンの弱さ」    2024.11.6

 士師サムソンについては、士師記13章~16章にかけて書かれてあります。いつものようにイスラエルの人々が主の目に悪とされることを行いました。主は怒り、イスラエルに敵としてペリシテ人を送ったのです。イスラエルの人々は、このペリシテ人によって40年間苦しめられることになります。そして、イスラエルを救うために立てられたのが士師サムソンです。ダン族のマノアと妻の間に生まれ、ナジル人として神に仕える人として歩むことになります。しかし、現実にサムソンはナジル人としてふさわしくない歩みをしていくのです。

 成長したサムソンは、ティムナに行き、1人のペリシテ人の女性を愛し妻にすることにします。その結婚披露宴の時に、サムソンはペリシテ人の妻の付き添い30人の者になぞかけを申し出ます。付き添いの人も応じます。サムソンがかけたなぞを、付き添いの30人は解くことができませんでした。そこで、サムソンの妻に「夫をうまくいいくるめて、あのなぞの意味を我々に明かすようにしてほしい。さもないとあなたを家族もろとも焼き殺してやる」といって脅すのです。サムソンの妻は、夫に泣きすがって「あなたはただわたしを嫌うだけで、少しも愛してくださらない。なぞの意味をこのわたしにも明かそうとなさいません」と訴えます。宴会が行われた7日間、妻はしつこくせがみます。7日目にはついに妻に明かしてしまいます。やがて、サムソンは妻が付き添いの者に、なぞの意味を明かしたことを知り、怒りに燃えて、自分の父の家に帰ってしまいます。

 そして、今日の士師記16章の前半ですが、サムソンはガザに行き、1人の遊女と関係を持ちます。サムソンがガザに来たことを知ったペリシテ人は、一晩中サムソンを取り囲み、町の門で待ち伏せして、夜明けまで待って殺してしまおうとしました。サムソンは夜中に起きて、町の門の扉と両脇の門柱をつかみ、かんぬきもろとも引き抜いて、肩に担い、ヘブロンを望む山の上に運び上げます。すごい力を発揮して、ペリシテ人を撃退しています。その後、サムソンはデリラという1人のペリシテ人の女性を愛するようになります。ペリシテ人の領主たちは、そのことを知って、デリラに「サムソンをうまくいいくるめて、その怪力がどこに秘められているのか、どうすればサムソンを打ち負かし、縛り上げて苦しめることができるのか。探ってくれ。そうすれば我々は1人1人お前に銀1100枚を与えよう」と約束します。サムソンはデリラのどこに愛情を感じたのでしょうか。そのデリラはサムソンのことをどのように受け止めていたのでしょうか。今後の2人のやり取りを見ていきますと、何ともいえない気持ちに私はなってしまいます。

 デリラはサムソンに、そのまま聞きます。「あなたの怪力がどこに秘められているのか、教えてください。あなたを縛り上げて苦しめるにはどうすればいいのでしょう」と。するとサムソンは「乾いていない新しい弓弦7本で縛ればいい。そうすればわたしは弱くなり、波の人間のようになってしまう」と答えます。ペリシテ人の領主たちが新しい弓弦を7本、デリラに届けたので、デリラはそれでサムソンを縛りました。奥の部屋には待機する者を置いて、デリラは「サムソン、ペリシテ人があなたに」といいます。しかし、それはウソで、弓弦を簡単に切って、ペリシテ人を撃退しました。

 デリラはサムソンに「あなたはわたしを侮り、うそをついたでしょう。あなたを縛り上げるにはどうすればいいのか、今教えてください」といいます。サムソンは「まだ一度も使ったことのない新しい縄でしっかり縛れば、わたしは弱くなり、並みの人間のようになってしまう」とデリラに答えます。デリラは新しい縄を持って来て、サムソンを縛り、「サムソン、ペリシテ人があなたに」といい、奥には待ち伏せる者がいましたが、サムソンは縄を簡単に断ち切って、ペリシテ人を撃退しました。サムソンがいったことはウソだったのです。

 デリラはサムソンに「あなたは今度もわたしを侮り、ウソをついたでしょう。あなたを縛り上げるにはどうすればいいのか教えてください」といいます。サムソンは「わたしの髪の毛7房を機の縦糸と共に織り込めばいいのだ」と答えます。デリラはそれを釘で留めて「サムソン、ペリシテ人があなたに」といいますと、サムソンは眠りから覚め、釘も機織り機と縦糸も引き抜いて、ペリシテ人を撃退します。サムソンは3度もウソをいったのです。

 デリラはサムソンに「あなたの心はわたしにはないのに、どうしてお前を愛しているなどといえるのですか。もう3回もあなたはわたしを侮り、怪力がどこに潜んでいるのか教えてくださらなかった」といいます。来る日も来る日もデリラがこういってしつこく迫っていきます。ここまで来て、サムソンはデリラが自分を愛していないことに気づいていないのでしょうか。自分をペリシテ人の手に渡すために動いていることに気づかないのでしょうか。サムソンは一方的にデリラを愛していると思い込んでいるだけでしょうか。サムソンはデリラの言葉に耐え切れず死にそうになるのです。そして、ついに心の中を一切打ち明けてしまうのです。サムソンは「わたしは母の胎内にいた時からナジル人として神にささげられているので、頭にかみそりを当てたことがない。もし髪の毛をそられたら、わたしの力は抜けて、わたしは弱くなり、並みの人間になってしまう」と。

 こうしてサムソンはデリラの作戦によって、自分の力も秘密をいい、そのためにペリシテ人に捕らえられて、目をえぐり出されて、ガザに連れ帰り、青銅の足枷をはめ、牢屋で粉をひかせられたのです。前のティムナの女性の場合と同じようなことがここで起っています。神からナジル人として怪力を与えられていました。しかし、愛する女性によって、サムソンは自滅の道を選んでいくのです。どうして、士師記はサムソンを最後の士師として選び、登場させているのでしょうか。それは人間が弱い存在だからです。弱いサムソンを、弱いイスラエルを、弱い私たちを、主は愛してくださることを示しているのです。

祈り 神よ、聖書の学びと祈りの時を与えてくださり、ありがとうございました。サムソンとデリラの話をみてきました。サムソンの弱さとそれを利用するデリラのことをみながら、人間の弱さをみることができました。そのようなサムソンをあなたは愛し、最後までに導いてくださいます。あなたの御旨を知ることができますように導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。

皆様の祈り「                               」アーメン。

共に祈ってくださり、ありがとうございます。(横山厚志)


11月3日の礼拝の内容です。

2024-11-02 19:28:00 | 日記
11月3日の礼拝の内容です。讃美歌は、210.451.385.484.26です。聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/YHEkEZc_80s?feature=shareです。

礼拝説教     ヨハネ11:38~44「ラザロ、出て来なさい」  2024.11.3

 今日の教会のカレンダーは、聖徒の日(永眠者記念日)です。先に天に召された方々のことを覚えて、神を礼拝します。教会堂の後方に先に天に召された方々の写真があります。この教会を通して、神と出会い、イエス・キリストへの信仰を与えられ、その信仰生活を送られた方々です。今は地上の生涯を終えて、神のみもとでおられる方々です。この聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝の時に、私たちは何を確認するのでしょうか。それはまず、私たちの地上の歩みは限られているということです。私たちの命は限られているということ、誰も生きている者は、必ず死を迎えなければならないということです。人の死や自分の死を考えることは辛いことです。しかし、それは必ず目の前で起って来るのです。それぞれの死は、いろいろな場面があるでしょう。でも、必ず誰もが、その死の時を迎えなければならないのです。死は避けることができないということです。ならば、その時まで、与えられた尊い命の時間を大切に悔いのないように生きていたいと願います。与えられた命は一つです。それも限られた時間があります。そうであるので、大切に命を使っていきたいと心から願います。

 一方で、人の死に対してのキリスト教の役割を考えていきたいと思います。キリスト教も宗教の1つですが、宗教の役割とは何でしょうか。これは私個人の考えですが、私たちの力の及ばない時に、必要なものです。その一番は人の死です。人の死の時に、宗教が大きな役割を果たしています。人の死を宗教によって克服していくことです。教会は、キリスト教は、人の死に対して何を語っているのでしょうか。それはイエス・キリストの十字架です。教会のシンボルといえば十字架です。教会堂のどこかに十字架があります。十字架、イエス・キリストの十字架は何を意味するのでしょうか。それは、イエス・キリストの死と復活です。人の死を克服するために、イエス・キリストの十字架があるのです。

 先週の日曜日に、私たちの教会は1人の兄弟を天に送りました。兄弟の突然の死、そして、葬儀、火葬と行われました。兄弟の葬儀の時に、改めて人間とは何かと考えさせられました。死の前にどうすることもできない、人間の力では克服することはできないと思いました。人の命のはかなさを深く感じました。

 新約聖書の中では、4つの福音書があります。これは、イエス・キリストの働きについて書かれてあるものです。特に、最後の場面では、イエス・キリストの受難、十字架の場面、そして死、埋葬の部分、そして、復活のことを書いてあります。今日の聖書の箇所は、ヨハネによる福音書から、ラザロの復活の場面があります。イエス様は多くの奇跡を行われました。その奇跡の中で、一番というのが、このラザロの復活の場面です。この出来事は、イエス・キリストの十字架を決定的なものとしたといわれています。イエス様は時々、エルサレムに行かれたようです。エルサレムは、聖書の舞台の中心的な町です。イエス様の時代には、このエルサレムには神殿がありました。神がおられる場所として神殿がありました。そこではユダヤ人の大きな祭りが行われていました。イエス様も、この祭りに参加するために、エルサレムに行かれたのです。

 そのエルサレムの近くにべタニアという小さな村がありました。イエス様はエルサレムに行く時には必ず、そのべタニアに行き、そこに住んでいるマルタとマリアの姉妹、そして兄弟のラザロの家に行きました。非常に仲が良かったのです。深い交わりがあったようです。その家の中で兄弟ラザロが重い病気になってしまいました。マルタとマリアは人を送って、イエス様にすぐに来てもらうようにお願いをしています。兄弟ラザロが重い病気になっていて、死にそうだからです。結果的ですが、イエス様は兄弟ラザロが死んで4日目に、べタニアに行きます。兄弟ラザロが死んで、姉妹であるマルタもマリアも深い悲しみの中にありました。マルタもマリアもイエス様に、どうして遅れて来たのですか。早く来てくれれば、兄弟ラザロは死なずにすんだかもしれないのに、文句をいっています。マルタの涙、マリアの涙を見て、イエス様ご自身が涙を流されています。

 イエス様はマルタとマリアと共に兄弟ラザロが眠る墓にやって来ました。墓は洞穴で大きな石の扉で閉じられていました。イエス様が「その石を取りのけなさい」といわれると、マルタは「主よ、4日も経っていますから、もうにおいます」といいました。イエス様は「もし信じるなら、神の栄光が見られると、いっておいたではないか」といわれました。人々がその石を取りのけると、イエス様は天を仰いで「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこういうのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしなったことを、彼らに信じさせるためです」と祈られました。そして、イエス様は「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれたのです。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来ました。顔は覆いで包まれていました。イエス様は人々に「ほどいてやって、行かせなさい」といわれたのです。

 目の前に、兄弟ラザロが葬られた墓があります。ラザロは死んで、すでに4日も経ってしまいました。周りには姉妹であるマルタとマリアが泣いています。イエス様はおられて、墓の石をどかせよといいます。マルタは、「主よ、兄弟は死んで4日も経っています。匂います。」と、イエス様にいいます。どうでしょうか。すでに死んで4日も経ってしまった人を、よみがえさせることができるでしょうか。できないですよね。それが、神の子イエス様にはできるのです。イエス様の奇跡として、死んで4日経ったラザロが、「ラザロ、出て来なさい」というイエス様の言葉を聞いて、墓の中から出て来たのです。まさしく奇跡が起ったのです。イエス様による奇跡です。ラザロは生き返ることができました。でも、また、死を迎えることになるのです。それでは、このラザロの復活は、何を告げようとしているのでしょうか。

 それは、イエス様の死からの復活を告げるものです。もうしばらくすると、イエス様は十字架につけられて死んでしまいます。そして、アリマタヤのヨセフの墓に葬られてしまいます。葬られて3日目の朝です。次のようなことが起りました。

ヨハネ20:11~16
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

 イエス様の側には弟子たちだけではなく、多くの女性たちもおりました。イエス様が十字架につけられた時には、弟子たちは逃げていました。女性たちは、イエス様の十字架の場面を遠くからずっと見つめていました。イエス様が十字架で死んで、十字架から下ろされて、アリマタヤのヨセフの墓に葬られていく様子もじっと見つめていました。イエス様の死から3日目の日曜日の朝に、初めて女性たちはイエス様に近づくことができました。その女性の中に、マグダラのマリアがいました。マリアは、イエス様がいない墓の前で泣いていました。復活されたイエス様が「マリア」と、呼びかけています。マリアは振り向いて答えています。ここは、イエス様の復活の場面です。イエス様が十字架で死なれ、墓に葬られて、3日目によみがえられたことは、私たちに何を示してくださっているのでしょうか。

ヨハネ3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 このみ言葉こそ、イエス様の十字架の死と復活の意味を教えています。イエス様を信じる人は、すべて永遠の命が与えられるのです。永遠の命というのは、何を意味するのでしょうか。私たちは今、生きています。でも、いつかは死を迎える時がやって来ます。死は誰も避けることはできません。でも、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる者は、神によって、永遠の命が与えられて、神の国で、神と共にあることができるのです。このイエス様のみ言葉を、生きる希望として、残された地上の時を悔いのないように生きていきたいものです。永遠の命の約束を信じて生きていきましょう。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。今日は、聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝を守ることができました。すでに、地上の歩みを終えて、あなたのみもとにいる人々と共に礼拝をささげました。彼らのように、復活の命、永遠の命を信じて歩むことができますように、私たちの歩みを支え導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。



11月3日の礼拝の内容です。

2024-11-02 19:26:00 | 日記
11月3日の礼拝の内容です。讃美歌は、210.451.385.484.26です。聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝です。
オンラインのアドレスはhttps://youtube.com/live/YHEkEZc_80s?feature=shareです。

礼拝説教     ヨハネ11:38~44「ラザロ、出て来なさい」  2024.11.3

 今日の教会のカレンダーは、聖徒の日(永眠者記念日)です。先に天に召された方々のことを覚えて、神を礼拝します。教会堂の後方に先に天に召された方々の写真があります。この教会を通して、神と出会い、イエス・キリストへの信仰を与えられ、その信仰生活を送られた方々です。今は地上の生涯を終えて、神のみもとでおられる方々です。この聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝の時に、私たちは何を確認するのでしょうか。それはまず、私たちの地上の歩みは限られているということです。私たちの命は限られているということ、誰も生きている者は、必ず死を迎えなければならないということです。人の死や自分の死を考えることは辛いことです。しかし、それは必ず目の前で起って来るのです。それぞれの死は、いろいろな場面があるでしょう。でも、必ず誰もが、その死の時を迎えなければならないのです。死は避けることができないということです。ならば、その時まで、与えられた尊い命の時間を大切に悔いのないように生きていたいと願います。与えられた命は一つです。それも限られた時間があります。そうであるので、大切に命を使っていきたいと心から願います。

 一方で、人の死に対してのキリスト教の役割を考えていきたいと思います。キリスト教も宗教の1つですが、宗教の役割とは何でしょうか。これは私個人の考えですが、私たちの力の及ばない時に、必要なものです。その一番は人の死です。人の死の時に、宗教が大きな役割を果たしています。人の死を宗教によって克服していくことです。教会は、キリスト教は、人の死に対して何を語っているのでしょうか。それはイエス・キリストの十字架です。教会のシンボルといえば十字架です。教会堂のどこかに十字架があります。十字架、イエス・キリストの十字架は何を意味するのでしょうか。それは、イエス・キリストの死と復活です。人の死を克服するために、イエス・キリストの十字架があるのです。

 先週の日曜日に、私たちの教会は1人の兄弟を天に送りました。兄弟の突然の死、そして、葬儀、火葬と行われました。兄弟の葬儀の時に、改めて人間とは何かと考えさせられました。死の前にどうすることもできない、人間の力では克服することはできないと思いました。人の命のはかなさを深く感じました。

 新約聖書の中では、4つの福音書があります。これは、イエス・キリストの働きについて書かれてあるものです。特に、最後の場面では、イエス・キリストの受難、十字架の場面、そして死、埋葬の部分、そして、復活のことを書いてあります。今日の聖書の箇所は、ヨハネによる福音書から、ラザロの復活の場面があります。イエス様は多くの奇跡を行われました。その奇跡の中で、一番というのが、このラザロの復活の場面です。この出来事は、イエス・キリストの十字架を決定的なものとしたといわれています。イエス様は時々、エルサレムに行かれたようです。エルサレムは、聖書の舞台の中心的な町です。イエス様の時代には、このエルサレムには神殿がありました。神がおられる場所として神殿がありました。そこではユダヤ人の大きな祭りが行われていました。イエス様も、この祭りに参加するために、エルサレムに行かれたのです。

 そのエルサレムの近くにべタニアという小さな村がありました。イエス様はエルサレムに行く時には必ず、そのべタニアに行き、そこに住んでいるマルタとマリアの姉妹、そして兄弟のラザロの家に行きました。非常に仲が良かったのです。深い交わりがあったようです。その家の中で兄弟ラザロが重い病気になってしまいました。マルタとマリアは人を送って、イエス様にすぐに来てもらうようにお願いをしています。兄弟ラザロが重い病気になっていて、死にそうだからです。結果的ですが、イエス様は兄弟ラザロが死んで4日目に、べタニアに行きます。兄弟ラザロが死んで、姉妹であるマルタもマリアも深い悲しみの中にありました。マルタもマリアもイエス様に、どうして遅れて来たのですか。早く来てくれれば、兄弟ラザロは死なずにすんだかもしれないのに、文句をいっています。マルタの涙、マリアの涙を見て、イエス様ご自身が涙を流されています。

 イエス様はマルタとマリアと共に兄弟ラザロが眠る墓にやって来ました。墓は洞穴で大きな石の扉で閉じられていました。イエス様が「その石を取りのけなさい」といわれると、マルタは「主よ、4日も経っていますから、もうにおいます」といいました。イエス様は「もし信じるなら、神の栄光が見られると、いっておいたではないか」といわれました。人々がその石を取りのけると、イエス様は天を仰いで「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこういうのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしなったことを、彼らに信じさせるためです」と祈られました。そして、イエス様は「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれたのです。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来ました。顔は覆いで包まれていました。イエス様は人々に「ほどいてやって、行かせなさい」といわれたのです。

 目の前に、兄弟ラザロが葬られた墓があります。ラザロは死んで、すでに4日も経ってしまいました。周りには姉妹であるマルタとマリアが泣いています。イエス様はおられて、墓の石をどかせよといいます。マルタは、「主よ、兄弟は死んで4日も経っています。匂います。」と、イエス様にいいます。どうでしょうか。すでに死んで4日も経ってしまった人を、よみがえさせることができるでしょうか。できないですよね。それが、神の子イエス様にはできるのです。イエス様の奇跡として、死んで4日経ったラザロが、「ラザロ、出て来なさい」というイエス様の言葉を聞いて、墓の中から出て来たのです。まさしく奇跡が起ったのです。イエス様による奇跡です。ラザロは生き返ることができました。でも、また、死を迎えることになるのです。それでは、このラザロの復活は、何を告げようとしているのでしょうか。

 それは、イエス様の死からの復活を告げるものです。もうしばらくすると、イエス様は十字架につけられて死んでしまいます。そして、アリマタヤのヨセフの墓に葬られてしまいます。葬られて3日目の朝です。次のようなことが起りました。

ヨハネ20:11~16
マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。

 イエス様の側には弟子たちだけではなく、多くの女性たちもおりました。イエス様が十字架につけられた時には、弟子たちは逃げていました。女性たちは、イエス様の十字架の場面を遠くからずっと見つめていました。イエス様が十字架で死んで、十字架から下ろされて、アリマタヤのヨセフの墓に葬られていく様子もじっと見つめていました。イエス様の死から3日目の日曜日の朝に、初めて女性たちはイエス様に近づくことができました。その女性の中に、マグダラのマリアがいました。マリアは、イエス様がいない墓の前で泣いていました。復活されたイエス様が「マリア」と、呼びかけています。マリアは振り向いて答えています。ここは、イエス様の復活の場面です。イエス様が十字架で死なれ、墓に葬られて、3日目によみがえられたことは、私たちに何を示してくださっているのでしょうか。

ヨハネ3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 このみ言葉こそ、イエス様の十字架の死と復活の意味を教えています。イエス様を信じる人は、すべて永遠の命が与えられるのです。永遠の命というのは、何を意味するのでしょうか。私たちは今、生きています。でも、いつかは死を迎える時がやって来ます。死は誰も避けることはできません。でも、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じる者は、神によって、永遠の命が与えられて、神の国で、神と共にあることができるのです。このイエス様のみ言葉を、生きる希望として、残された地上の時を悔いのないように生きていきたいものです。永遠の命の約束を信じて生きていきましょう。

祈り 神よ、あなたを礼拝することができましたことを心から感謝します。今日は、聖徒の日(永眠者記念日)の礼拝を守ることができました。すでに、地上の歩みを終えて、あなたのみもとにいる人々と共に礼拝をささげました。彼らのように、復活の命、永遠の命を信じて歩むことができますように、私たちの歩みを支え導いてください。この願いを、イエス様のお名前によって祈ります。アーメン。