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気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

心の故郷フィリピンでイラチ(せっかち、気が短い)を治す旅【その①私とフィリピンとのつながり】

2025-03-05 15:53:33 | 旅行

【この①は、内容のほとんどが回顧録、なのでいつも以上にダラダラと無駄話が多いので

ですので私個人を知らない方はどうかスルーしてくださいませ。

 

さて、このブログでも何度かフィリピンについて

アレコレと書かせていただいてきましたが

 

実は、私にとってフィリピンと言う国

母の弟(叔父さん)が学徒出陣で徴兵され

地元豊橋の第15師団の下で当初関東軍(中国大陸)への派兵だったのが

戦局悪化から再編成され第23師団となり昭和19年になって台湾派遣が決まり

移動中に派遣先がフィリピンに変わり

傷病兵となったのかバギオの野戦病院に入院中に

アメリカ軍の爆撃を受け、戦死したと墓碑に書かれていたのですが

(ここから余談↓)

生まれ故郷の豊川市牛久保の母方の菩提寺(禅宗の寺)の戦没者慰霊塔に

実際には遺骨もなく祀られていたのですが・・・

 

母も亡くなり、兄弟姉妹も全て天に召され

あまりに不憫だなと頻繁に墓参に訪れていたのですが・・・

ある日訪れてみると

何やら紙が貼ってあり

遺族もほとんどいなくなって、ほとんど無縁墓地のようになっていたのは事実でしたが

この文言には怒れるやら呆れるやら

ようするに戦没者慰霊塔を整理して墓地を増やしたい金儲け主義がみえみえ

電話をかけて、ちゃんと墓参しているんだからと抗議したものの

結局更地にされてしまいました。。。

こんな銭ゲバのような寺だらけ

『乞食と坊主は三日やったらやめられない』の諺どおりだなと

こうした寺と坊主を心の底から軽蔑しています。

(勿論、とても信頼のできる寺もあるのですが)

 

話を戻しますと

母は、性格の優しい弟だったから

きっと逃げ延びて現地人と結婚して生きていると

己に言い聞かせていたようで

 

子供の頃からそんなことをずっと聞かされていたところ

 

何の因果か、航海訓練所の遠洋航海で立ち寄ったトンガで

青年海外協力隊員を知り協力隊員になろうと心に決め

 

実務経験と語学習得にと

商船学校を卒業して最初に就職したのが

フィリピンのPhilippine President Linesという船会社の

日本総代理店(実際の運航は全て日本)

 

Manilaの本社は

マニラ市街の中心地、スペイン時代のサンチャゴ要塞のあるイントラムロスや

フィリピンの英雄ホセ・リサールの記念碑もあるリサール公園にほぼ隣接した

UN Avenue(国連通り)にあり

↓の赤い屋根がそのメインビルと駐車場や銀行の建物

(↑私が入社した1979年には既に存在していたので、たぶん築50年以上の本社ビル)

とても大きなビルですが、実はほとんどがテナント用で

船会社のオフィスは、当初手前の平屋を使っていましたが

その後銀行業を始めたために、船会社部門は一階ロビーの左手に移転していました。

(日本でいうところの”海運局”や”海上保安庁”など官庁も使っていたためビルの存在は知られていました。)

 

創業者は、1925年生まれのEmilio T. Yapと言う中華系フィリピン人で

元々が中国福建省出身の華僑

 

マニラのチャイナタウンにいた祖父を頼って渡比し

その後、ネグロス島のドゥマゲッテイの雑貨屋の店員として働き

 

太平洋戦争後、どのようなツテを使ったのか

米軍の払い下げのジープを購入してU.S. Automotiveという会社を興し

それをベースに改造した公共交通機関であるジプニーが誕生したとの逸話を聞かされました。

 

その後、どのような背景があったのか

Philippine President Linesという名称の船会社を始め

1970年の大阪万博の時期には

日本をハブに台湾、フィリピンを周遊するクルーズ船を運航し

横浜港や山下公園に面したNew Grand HotelのGreen Roomを事務所として

日本総代理店を開設

その後、日本をベースに一般商船業界に参入

 

当時大手船会社のひとつであった大同海運の

(その後幾度も吸収合併の変遷を経てJapan Line, Navix Line、現在のMOL《商船三井》に)

北米航路の中古貨物船や新和海運のバラ積船をベアチャーター契約込みで購入

船籍をフィリピン(フィリピンフラッグ)とし

全フィリピン人船員で運航していました。

 

会社名のとおり、歴代の大統領の名前を船名にし

M/S President Aguinaldo

M/S President Roxas

M/S President Garcia

M/S President Quezon

M/S President Osmena

M/S President Laurel

M/S President Quirino

M/S President Magsaysay

 

(実際の運航隻数は老朽船の入れ替えがあって一定ではありませんでしたが)

 

で主に日本を拠点に北米&欧州の定期航路

東南アジアから南米向けの不定期航路

オーストラリアからの塩を運ぶ定期航路があり

基本的に修繕ドックは日本

フィリピンに寄港しなければ税金がかからないとかで

船員はほとんど日本で交替させてと

 

フィリピンがオーナーの船会社でしたが

チャーター契約から運航その他ほとんど全てを日本の代理店で行っていたため

私の職務は海務部工務担当(工務監督見習い)で

 

日本各地に寄港する際には

現地に赴いて船長、機関長と船の調子をヒアリングして

ドックオーダーをまとめたり

船用品のオーダーやその他船の保守にかかわる諸作業と

毎日各船からTELEXで送られてくる報告や要望を本社へ取次ぐのが使命で

時差で四六時中勤務時間など関係なく

その上、中古船でエンジルトラブルも日常茶飯事で

それはそれは激務の毎日を送っておりました。

 

 

その後、荷役に時間のかかるデリック(ウインチとワイヤーの装置)からコンテナ船

鉱石(バラ積)船、自動車運搬船などなど専用船が主流となって

 

それまでは船員組合が強く、日の丸フラッグ(日本籍船)は日本人の乗組員しか乗れなかったのが

便宜置籍船(船籍を税金の安い、リベリアやパナマ船籍にして乗組員も日本人の縛りがなくなった)となり

安い賃金のフィリピン人船員で運航することのメリットが無くなったことなど

私の記憶では2000年には貨物船の運航を停止していました。

 

会社自体は、やり手のYap氏だったので

銀行(Philtrust Bank)や新聞社(Manila Bulletin)を買収したり

当時、川崎重工を取り込んで大型造船所PHILSECOを作ったり

マニラの港湾の利権を取得してコンテナヤードを作ったりと

船会社以外の分野で業績を伸ばしていたのですが

 

とはいえ創業者のEmilio T. Yap氏

前述の1970年の大阪万博時代に客船を運航したことが忘れられず

1950年にイタリアで建造された当時世界4番目の豪華遠洋定期貨客船を中古で購入し

いつかクルーズ船の需要が復活するだろうと

香港にペーパーカンパニーを作りMandarin Oriental Hotelに事務所を構え

節税対策だったのか、何度も船名を変え

その後、1980年代後半から台湾の高雄の造船所で改修工事をしてから

初めてManilaに運ばれ

Manila湾で投錨した後に

 

Yap氏が経営にかかわるようになっていた伝統ある名門Manila Hotelに隣接した桟橋に係留して

Floating Hotel &restaurantとして開業したのですが・・・

 

この頃船齢は既に60年超え

あまりにレトロな内装や施設設備で需要がなかったのか

はたまた船体の老朽化(リベット船でした)に維持するのを断念したのか

わずか2年ほどでスクラップとしてインドに売却されてしまいました。

 

実は、最終的にこの船をずっと担当していた人物が

Philippine President Linesの工務部長(取締役級)のRiezaさんという方で

元々はNaval ArchtectureでYap氏が海運部門で最も信頼していたスタッフ

 

私が東京で働いていた頃は

工務監督として来日するとほぼずっと毎日一緒に行動していたこともあって

ほとんど寝食を共にするような間柄で

お休みの日曜日には敬虔なるクリスチャンだったので

教会のミサに連れて行ったりと

とても温厚で、まともな英語も話せず船の知識もまだまだの未熟者だったのに

とっても優しくして接してくれた方だったんです。

 

その後1987年にフィリピンに赴任した時に

マニラに滞在する度にPPLビルを訪ねてRiezaさんの所在を尋ねると

毎回台湾の高雄に駐在中とのことで

任期中にはとうとう会うことができなかったのですが

 

1997年頃になってゴルフで度々マニラに行く機会ができて

諦めきれずにPPLを訪ねてみたところ

 

オフィスにRiezaさんが居てビックリ

 

その時には、その客船がマニラ湾で投錨していたため

フィリピンに戻ってきていると知って思わず飛び上がりそうなほど大喜びしちゃいました。

 

私が東京で働いていた時に、既に50歳を過ぎていたので

この時には既に70歳以上となっていていたのですが

 

沖に浮かぶ船に通船を手配して乗船し船内を案内してくれ

その後、日を改めてフィリピン料理をご馳走しれくれたりと

またまた貴重な時間を過ごさせていただいたのですが

とうとう、それが最後の再会となりました。。。

 

 

すっかり船会社時代の話が長くなってしまいましたが

実際には、その時期には頻繁に寄港地で訪船したり

調査のために航海中に乗船したりとフィリピン船員とは仲良しになっていて

文化習慣、食べ物なども精通していたのですが

実際に本社を訪れる機会なく

退職して青年海外協力隊員となったためフィリピンとは関係が切れたのですが

 

実は、その青年海外協力隊員のトンガ時代

国連のFAO(世界食糧機構)の木造船建造の船大工として派遣されていたのが

フィリピン人のRosario(家族連れで赴任してました)

フィリピン人にはとても親近感を覚えていたので

よく話をしていましたが

FAOのボスがイギリス人で、当時は日本を馬鹿にしていたため

残念ながら仕事場以外で付き合うことはありませんでした

 

そんな訳で1986年までは

フィリピンとは深い繋がりを持ちながら

現地を訪れる機会をもたないまま過ごしていたのですが

 

1987年になって、突然フィリピンに派遣されることとなったのです。

 

【その②に続く】

 


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