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”終活”渡航歴から我が人生を振り返る【その③2005年~2012年】

2023-07-12 17:17:12 | 日記

〔いつものことですが、備忘録と知人友人へのお知らせ代わりの記事ですので

私個人を知らない方々にとっては何も面白くないのでスルーしてくださいね

 

さて、前号からの続き

自称”経営コンサルタント”の資格もあると言う

なんの実績もないペテン師の後輩の言葉を

疑いもせずに信じてしまったのが大失敗の元

 

当初、古都”奈良”を訪れる観光客(主に外国人をターゲット)にして

オフィスを置いていた奈良公園の入り口のビルの10坪ほどの一室で

アムステルダムのような店で開業しようと思っていたのに

 

『2階は入りにくいから1階』だの

『ゆったりした席で滞在時間が長くなるようにしないと』と言い出し

 

どんどん事業規模が大きくなって

テナントビル一階全フロアを使いパーテーションで区切り

インターネットだけじゃなく寛げるカフェスペースもつくって

外国人観光客の情報交換の場所にもなれたらいいなぁと夢はひろがり

 

 

すっかり採算度外視してしまい

テナントの保証金に改装費、パソコン代等々で数千万円の投資

 

 

ところが満を持して開業してみると

観光地なので長居する客はおらず、下手に英語表示の多い雰囲気から客が近寄らず

更に奈良公園は夜の7時過ぎには人っ子一人歩かない場所

 

その上、アルバイトに雇った従業員は

不良高校生、遅刻や無断欠勤だらけの大学生だらけ

シフトを組んでも時間を守らず

 

仕方なく自分がヘルプで入るしかなくなって

年中無休で睡眠不足、食事を抜く生活が続き

体重はあっと言う間に15キロ減

 

ただ、外国人観光客にはとても喜んでいただいて

奈良ホテルのレセプションで紹介されたとセレブなお客が

滞在中毎日来店して『来年もまた来るからね』と言っていただいたり

 

英語で応対するだけで『英語が通じなくて困ってたから助かった~』と大喜びしてくれたり

それなりに嬉しい出来事もあったのですが・・・

日本人の常連と言ったら

ネットを使った売春グループの親玉とその売り子達

(根城にされては堪らないなと公安に通報しました)

 

ネットで出会いを求めてるらしき高齢者のおじさん

いつもウキウキしながら近鉄奈良駅へ行き

ショボンとしながら戻ってきてスタッフに要らなくなったからと

たぶん目印に使った赤い薔薇の花を渡して帰る姿が可哀相でした

 

その他にもたぶんセールスマンの方の休憩や仮眠にも利用していただいたりと

いろんな人生模様を見ることができたのですが

 

いかんせん、なんせカフェで1時間350円ドリンクバー付き

ネットブースでも500円/時

当初は24時間営業でと考えそこそこの需要が見込めるかもと思っていたのが

夜はほとんど人気のなくなる奈良公園では到底無理とわかり

日中だけとしたため

 

負のスパイラルに入ってしまったと自覚しながらも

数千万円の投資のことを考えると閉業する決心がつかず

 

近くの県庁や公的機関の職員目当てにランチを出したり

夏の奈良公園のイベント(燈花会、万灯会など)に合わせて

Jazzコンサートを開催したりと足掻いたものの

一日の売り上げは人件費はおろか電気代も出ない状況が続き

経営コンサルタントを自称していた後輩は

早々に逃げ出して音信不通

 

この頃、夢の中ではたぶん願望だったんでしょうか開業する前にタイムスリップしていて

『テナントの保証金は戻ってこないかもしれないけど、やっぱりネットカフェは諦めよう

とホッと胸を撫で下ろすのですが、目が覚めると厳しい現実

 

この夢と現実のギャップはまさしく天国から地獄でしたねぇ。

 

秋になり、これはもう無理だな と悟り

開業準備から約1年後、12月で閉店してオフィスも引き上げ

家族が所有していながら空室にしていたマンションの一室に移ることにしたのですが

 

この時には国民金融公庫から追加融資を受け

クレジットカードからのキャッシングにまで手を出し

自転車操業も末期状態

 

閉店した途端にそれまで仏顔でいた南都銀行と

パソコンをリースにした南都系会社から貸し剥がしで一括返済しろと矢の催促

 

二束三文で売ったパソコンの下取り金を回しても足りず

生命保険で弁済できるならと

冗談抜きで真剣に枝ぶりの良い木がないかと探す心境にもなり

まさしく更に地獄の日々を送ることとなりました。

 

そんな泣き言と恨み節を滔々と並べてしまいましたが

全ては己のなしたこと

しっかりと石橋を叩く慎重さに欠け、事前調査もせずに突っ走ってしまったのか

 

魔が差したというのか、そんなめぐり合わせだったのか

高い授業料を払うこととなりましたが

 

いまから考えると全て身から出た錆

とっても貴重な人生勉強になりました。

 

事業の方はと言うと

その約1年間、ネットカフェにすっかり振り回されて

本業だったロシア向け輸出入業務の対応を疎かにしてしまい

友人だった取引先も他の購買ルートを確立していて

 

技術系の海外派遣の依頼してくれていた香港の友人は帰国して管理職となり

時々依頼の連絡があったもののネットカフェに忙殺されて断り続けていたため

音信不通となってしまい

 

彼らに今更また取引きさせて欲しいなどと言えるはずもなく

移転したマンションの一室で悶々とした日々を過ごしていたところ

 

元の職場の上司で東京に転勤となってからも

ちょくちょくご機嫌伺いの電話を架けてきていた人物から

 

『最近どうしてるの?』と尋ねられ

つい、ネットカフェ事業に失敗して大変なことになったと伝えると

 

当時、極東ロシアに目が向けられていた時期で

「そしたら初期費用は出すからウラジオストクに店出してくれたら特約店で頼むんだけどどう?」

と言われ

 

ネットカフェで失敗した経験から安易に飛びついては危ないなと

「それなら、一度現地に行って商売が成り立つか市場調査してきます」

と現地に飛び

オフィスに使えそうな物件探しに

諸々の事務所経費を調べ可能性を探ってみたところ

どうにも難しいことがわかり

 

仮想のバランスシートを作ってその報告をしたところ

「それじゃあロシアの話は置いといて韓国の話どお?」と切り出され

 

実は、ロシアの話の前にその韓国駐在の話を聞いていたものの

1995年頃毎月のように韓国出張で訪れていて

あの国の国民性や文化習慣がどうにも肌に合わず

その気になれず断っていたのですが

 

負債のことを考えたら選択の余地なしかな と

渋々了承し

 

詳しく内容を聞くと

また造船ブームが始まり年間150隻前後の新造船へのエンジン搭載が予定されていて

それらの船へのコミッショニング(試運転立ち合い)のニーズがあるものの

既存のサービス代理店がその必要性(サービスエンジニア育成)を理解せず

既得権益を手放さず困っているんだとか

 

その裏には、韓国で全ての権利を持っていた大手販売代理店を退職した人物によって

それらの大型受注(エンジン台数にして年間450台前後販売)を獲得したらしく

その人物が会社を設立して表立っては代理店と言えないものの

(既存の代理店が許すはずがないので)

いずれ販売もアフターサービスも自社に取り込みたいとの思惑があってのこと

 

そんなこんなで2006年3月から駐在となったのですが・・・

 

裏切りや人を騙したり蹴落としたりが普通に行われるお国柄

その上、虚言や嘘だらけで信用ができず

現地の代理店は他人の気持ちを慮る配慮などゼロで

毎日のように韓国中の造船所を訪れて汗だくになっての現場仕事をしてるのに

小汚いモーテル住まいでいいだろうと言い出す始末

 

古い昔風のシクタン(食堂)には気の良い優しいアジュマ(オバチャン)もいたけど

怒鳴るような話し声に演歌なのかなんなのか街中は喧噪そのもので

どこもかしこもガチャガチャとうるさくて精神的に苦痛となって

一か月滞在するのはほぼ無理とわかり

 

1週間から2週間過ごしては日本に帰るパターンを繰り返してました。

そんな訳で2006年9ヵ月間に14回の出入国記録が物語ってるでしょ。

 

その後、一社で独占させると好き放題するのがわかったため

別の技術者を抱えている業者を加え4社で競争させ

エンジニアも8名ほどをOJTで鍛え上げ

 

日本で長年働いていて日本との繋がりの深い会社の社長に

携帯電話やアパートも借りてもらって生活面は快適になってきたのですが

 

欲深い代理店が、もう自社のエンジニアで対処できると言い出し

 

こちらも初年度の2006年から平行して従事していたアメリカの造船所の仕事や

その他の仕事も忙しくなり韓国は駐在から出張になって実はホッと一息

この間に、本業のひとつでありながらなかなか買い手のつかなかった

フィンランド製品が造船ブームに乗って売れ出し

 

合計で数億円の販売を達成

 

おかげで借金もわずか数年にしてほぼ完済

 

韓国駐在が決まった時にネットカフェに失敗して維持費さえきつくなって

Chryslerの自家用車を売り飛ばしていたのですが

Mini Cooper S Convertible(450万円)をキャッシュで購入し

国内の造船所にもフィンランド製品を定期販売するようになって

「ウチは、この製品は〇〇〇さんだけですから」と言われ

出稼ぎに行く必要はなくなったのですが

 

その機械の据付確認や試運転の立会いが条件だったため

毎月のように青森へ出張に行かなければならなくなり

とりあえずオフィス要員と技術系社員を増やして対応し

安泰になるかと思っていた矢先

 

ウチからしか買わないと言っていた客先の造船所が

舌の根の乾かぬ内にゴルフや飲食の接待で攻めてきた他社に乗り換え

折角雇った社員の食い扶持を賄うのも大変になってしまい

 

仕方なくまたまた出稼ぎを請け負うようになったのが2009年秋

とても短い”我が世の春”でした

 

一人の稼ぎで会社経費から社員の給与まではキツイなと

社員も技術系の仕事ができるようにと研修を受講させ

OJTを通じて育てていこうと思っていた矢先

研修先の会社が「〇〇君をウチに欲しいんだけどなぁ」と言い出し

手放すように困らせてやろうと思ったのか彼の仕事はくれず

赤字続きの窮地から脱出できず

 

更に、2011年1月その社員から『3月に結婚するので仲人をお願いします』と告げられ

嬉しいやら困ったやら

そうこうして新しい事業を模索していたところ

突然、中華系マレーシア人でオーストラリアに移住した人物から連絡が入り

燃料の不純物を分解する装置を日本で売り込んで欲しいとの話

【ちょっとそこまで】【シャンガンそぞろ歩き】

 

中国の広州へ呼ばれ工場を視察後

実際に売れるモノなのかなぁ?と調べながらも出稼ぎ仕事をこなし

アメリカの造船所の仕事から戻った翌日の3月11日

【仕事場】【伝言板】【The Navy Yard】【Philly】

 

あの東日本大震災が発生して呆然自失

 

いますぐにでも現地へ支援に行けないかと考えるようになり

仕事が手につかなくなり

 

もうすぐ結婚する社員の事を考えたら

安定した生活が送れるように大きな会社に転職させるべきだろうと本人を説得し

彼を欲しがっていた相手先に電話して4月から雇ってくれと了解をとりつけ

結婚式後に彼を送り出したのですが・・・

大震災が関係していたのかいなかったのか

海外への出稼ぎ仕事もほとんどなくなってしまったのか

 

その会社がフィリピンに船員向け技術訓練センターを開設し

その講師にと元その会社の設計部の部長で

退職後、定年延長の仕事に嫌気をさしてすぐに辞め

すっかり引退して土いじりするつもりでいた人物が

私の在職時代大の仲良しだったからと

先に韓国での技術相談役に誘って欲しいと頼まれ

本人も請われている仕事であればと了承して

我が社に登録して人材派遣として

韓国の後にフィリピンで仕事することになっていたのですが

 

丸一日英語を使い5日と10日のコースをする自信がないので

代わりに講師をして欲しいと助けを求められたものの

 

定年退職者で年金の受給条件もあって日給2万円で企画してるため

派遣元からそれ以上は払えないと言い出す始末。

 

更に、研修センターを作ったものの

当初はなかなか受講生が集まらず

月に10日しか依頼がないこともあるのに

 

他の仕事を頼んでいる時に研修の依頼が入るかもと

他の仕事をまわしてこずに平気

 

日給2万円といってもホテル代以外は自己負担

”開いた口が塞がらない”でしたねぇ

 

挙句、金太郎飴のコースを見聞きして慣れさせた現地スタッフに

今後は講師させるからと言い出す始末

【酔っ払いの戯言】 【Pinoy’sFast Food】【CHIRO】【サリサリでハロハロな国へ】【受け取れる訳ない】

 

 

この会社

韓国もアメリカもこのフィリピンも

結局いつも困った時だけ呼び出して苦労して築き上げた手法を盗み

用が無くなったらポイ捨て

 

それならこちらももう義理を感じる必要はないな

 

2012年に入って旧知の知り合いに相談したところ

紹介してくれたのが”BNWAS"という

国連の世界海事機構で定められた”航海当直居眠り防止装置”を取り付ける仕事

 

日本の国内メーカーからの請負で

国内の造船所、フィリピンの造船所、国内の岸壁に

パナマやメキシコから船に乗船したり、カナダのケベック州などでの工事

【我が愛しのMexico】【出稼ぎ紀行 Latin America】【フレンチ漬け】

 

なかなか単独で行ける日本人がいないため来た仕事でしたが

そこそこ面白かったですねぇ

 

そんな生活を送っていた2012年後半シンガポールから電話があり

相談したいことがあるからシンガポールまで来てくれとのお願い

 

でも費用はそちら持ちでと言われ

『ふざけたこと言ってんじゃないヨ』と思いながら

「忙しいからまたそのうちに」といなしていたのですが

 

何度も何度も電話で催促され

『仕方ないヤツだなぁ』と嫌々シンガポールに向かったところ

思いもかけない転機に恵まれたのでした。

【G.W返上】

 

 


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