2012年12月
しつこくシンガポールに来てくれとの要望にしぶしぶ応じ
その会社を訪れてみたところ
準備万端で迎え入れられ
ドイツの会社で当時は世界トップシェアの製品
(IMO:国連世界海事機構によって義務付けられているエンジンの保護装置)
日本市場にも万単位のユーザーがいて
〇菱重工、川〇重工、〇井造船、〇立造船、(IH〇)J〇U、〇潟原動機、〇阪鉄工所、〇ンマー、阪〇内燃機
その他ほぼ日本の全てのエンジンメーカーに納入され
船の隻数にして数千隻に取り付けられているもので
その代理店を引き継いで欲しいとのこと
詳しく事情を聴くと
どうやら既存の日本の代理店がメーカーの言うことを聞かず
扱いに困って私に頼ってきた様子
ところがその代理店は素直に権利を渡すつもりはないらしく
どうにもひと悶着ありそうな予感
火中の栗を拾ってもいいものかと相当悩み
ウチみたいな弱小会社には荷が重いと断ったのに
平身低頭でそれこそ床に額を擦りつけるようにお願いされ
「じゃあ、とりあえずやってみるか」と引き受けたのですが・・・
ユーザーや顧客の大会社に「無理やり奪われた」とか「あんな小さな会社を相手にできますか」と
そこらじゅうでさんざん悪口を吹き込まれ
そのうえなかなか権利を手放そうとせず
抱えていた在庫を売り切ろうとユーザーも連絡もしてこない状況が続き
それならばとそれまでの海外での技術派遣で様子見していたところ
メーカーから仕入れることができなくなって
ようやくボチボチと引き合いを受けるようになったのですが
生き馬の目を抜くような業界のこと
機会を窺っていた競合が
破格の値段でオファーするようになったのですが
ドイツのメーカー側は、製品の品質はウチが一番
だから一度取られてもいずれ戻ってくると高を括り
市場の動きを報告してたのに全く聞く耳を持たなかったため
前の代理店の嫌がらせもあって、シェアを競合にとってかわられ
それまで年間100台以上の販売があったのに
それ以降は、競合の機器が設置できないエンジンのみとなってしまい
年間わずか十数台にまで落ち込む始末
元々ドイツ製で価格も日本製よりも高かったのを
無理やりダンピングして販売していたこともあって
新製品の販売ではほとんど利益が得られなかったので
それならアフターサービスを充実しようと
造船所に入渠している間や、荷役で港に寄港している間に
その機器の保守整備を請け負うことに集中しようと方針を決めたのですが・・・
その間の渡航歴は
2012年
Philippineでの講師が7回
USA (Philadelphia)が4回
Mexicoでの乗船工事の後
12月2~6日 Singaporeで前述の商談
12月8~25日 Turkey、Istanbulの造船所
12月27~31日 Philippine、Subicの造船所で工事
2013年
1月22~27日 Philippine、Subicの造船所で工事
2月7~12日 Singaporeで船の事故調査
3月16~25日 Finland人とPhilippineへ市場調査
4月5~12日 Canada, Quebecで船の工事
4月28~31日 中国蛇口(深圳)の造船所で事故調査
5月3~11日 Panamaから乗船してColombiaで下船
5月19~24日 Singaporeで研修と打合せ
7月5~23日 Panamaから乗船してUS テキサスで下船
8月 NYから乗船してPanama運河を通過して下船(乗船調査工事)
9月4~7日 韓国 巨済島で海上試運転立ち合い
10月1~10日 家内を連れて欧州4ケ国訪問
11月12~12月2日 US Philadelphiaの造船所で仕事
12月15~20日 韓国の造船所で試運転立ち合い
※(この年は日本国内も会社訪問などで出張の連続でした)
2014年
1月13~18日 Russia Vladivostokの親友に会いに
2月10~13日 Singaporeで打合せ
3月18~21日 Singapore 海事博覧会に招待され訪問
※この四半期だけで機器の整備で岩国、富士、千葉、横浜x3、田原、米子、敦賀、博多に出張
年明けになっていよいよそのドイツ製品の仕事が増えだして
出稼ぎもしていられないなとわかり
1月6日にハローワークで事務員の求人を出し応募してきた中で
ハローワークを介さずに直接履歴書を送ってきてちょっとおかしいなと思いつつ
英語力もそこそこありそうで使えそうかなと選んだ人間が
実はパートタイムの現職を持っていたため
ウチで勤務できると言う4月1日まで待つことにしたのですが
3月には実はもう多忙を極めるようになっていたので
要望どおりに採用辞令から就業規則その他もろもろの書類を渡していたのに
その後何の連絡もしてこず大丈夫かな?と心配になりメールを送ってみると
しばらくしてようやく返信
そうしてようやく4月1日から事務員を正社員として雇い
極力海外出張を減らして新規事業に取り組むこととなり
4月以降は
因島、豊橋、高石、東京(海事博覧会)、泉大津、尾道、横浜、尾道、八幡浜
泉大津、水島、横浜、今治、敦賀、博多、呉、因島、呉、横浜、横浜、水島、
柳井、横浜、横浜、東京、四日市、知多、横浜、相生、明石、焼津、太田、
神戸、玉野、有明と国内を飛び回り
海外は
6月にSingaporeで打合せ5日
8月がPhilippineでの講師15日
9月にはドイツでの海事博覧会とスイス訪問で9日
11月にまたまたSingaporeで打合せ5日
と国内と海外が逆転した日々を送ることとなりました。
新しく我が社のスタッフとなった事務員は
高校を卒業してからワーキングホリデーでNZに数か月滞在した後は
保険の外交員や人材派遣で工業系の会社で事務補助をしていたものの
42歳になるまでずっと社会経験は契約かパートタイムのみ
そこそこ最低基準の仕事はしてくれたものの
意識は長年のパートタイムで培われた精神(?)が染みつき
朝は9時ギリギリまで駐車場の車の中でテレビを観てから事務所に走り込み
お昼は12時前からランチの準備をして13時のチャイムがなるまで休憩室から出てこず
退社時間にはその前から準備をして18時ピッタリにタイムカードを押しての”ベルさっさ”
小学生と中学生の子供がいたため三者面談等で中抜けが日常茶飯事で
子供がインフルエンザに罹ったら看病だと何日もお休み
それらの中抜け時間を有給休暇から合算した時間を差し引くと
雇用条件に「育児支援制度あり」とあったと主張するわ
(どうやら育児支援とは有給で好きなだけ休んでもいいと思い込んでた様子)
なにか仕事でミスをすると
自分は指示されていないと責任逃れの言い訳だらけ
そのうえ、そそっかしい性格で
ミスや無駄な注文で事務所経費も嵩むばかり
こちらが出張して不在になると電話を転送に切り替えて
無断外出や中抜け時間を申告せずに延長
たまに仕事のキリが悪く10分、15分残業しただけなのに
時間外を要求するなどビックリすることだらけ
なんせ奈良は大阪のベッドタウンで優秀な人材は都会に出る土地のこと
仲良しの知人にそんな愚痴をこぼすと
『ワンマンなあなたの下で働いてくれてるんだからある程度我慢しなきゃ』
と言われ そうなのかなぁ と溜息をつきながら雇っていたのですが
たまに飲みにケーション代わりにとランチに誘い
雑談をしてみると
入社前の面談では『正社員になりたくて応募した』と言ってたのに
『3年以上同じところで働いたことがないし長年働きたくない』
『過去の職場とは一切連絡を取らないしそのたびに連絡の来ないように携帯を変える』
などなど耳を疑うようなことばかり
英語力も見積もりを依頼したりと基本的なコレポンはできるものの
渉外的な会話は勿論英文にすることもできず
「私にはそんな能力ありません。社長がしてください」と拒絶され
仕事のミスを注意すると目を三角にして反論してくる始末
これは大変な人間を雇ってしまったなぁ。。。と後悔してたのですが
エクセルが得意だというので
手取り足取りで業務のマニュアルや
受注や在庫管理などなどデータベースでの情報の共有ファイルを作らせ
仕事もそれなりに安定して順調に会社経営ができるようになったなと
友人の奥さんが中東系の航空会社で働いていて
格安で航空券が買えるよと言ってくれていたので
久しぶりにタンザニアとイランの友人を訪ねようと
2018年1月の末にビザ申請のために大阪に出て帰社してみると
突然「今年度末で退職させてもらえますか」と言われビックリ仰天
「これまで3年以上同じ仕事をしたことないのに4年もいたんですよ」
と恩着せがましくのたまう始末
タンザニアとイランに行く気満々だったので二の句が継げず
「ちょっと待って」と答えてから自室に戻り
冷静になって考えてみると
『一度退職する気になってたらもう継続は無理だな』
『どうやって辞めてもらおうかと思ってたんだから良かったんじゃない』と思い直し
「年度末と言わず来月の2月末でいいですよ」と伝え
「日常業務はもうしなくていいから、自分がしてきた業務のマニュアルを作ってください」と指示して
求人のためにハローワークへ走りました。
この彼女、退職したあとでパソコンのデータを調べてみると
どうやら仕事をサボりながら次の仕事を探したり
次の仕事の勉強をしたり 履歴書用の画像をとったり 家族の動画を編集したり
好き勝手していたのがわかり
その上、何の目的だったのかどうやらオフィス内に盗聴器を仕掛けていた様子
こんな人間を長年雇ってたとは
辞めてくれて良かった~ と胸を撫で下ろしました。
その後、ハローワークの担当者から何度かの電話での問い合わせと
履歴書が送られてきて、何人かと面談をしたものの
苦い前例を思い出して安易に雇ってはダメと
とりあえず英文科卒の人にパートタイムでお願いして
4月にまた東京で海事博覧会があって出展する準備をしていたこともあって
適性のある人材がいないかと探し続けていたところ
年齢30代後半、生まれは瀬戸内で父親が国内フェリーの船長
本人も小型船舶1級を持っている既婚者で
それまで県庁で部長秘書をしていたとの経歴から
船の事や海運業界のことも知ってるなら適任かもと
英語はフォーマットをつくってこちらがサポートしたらなんとかなるだろ
と とりあえず試用期間付きで採用したのですが
人格は癒し系で良かったものの
事務処理能力はほとんどゼロ
指示した仕事は内容が理解できないのか手を付けることもできず
いつまでたってもやり遂げられず
「できないならできないと言ってね」と諭しても同じことの繰り返し
『これはどう考えても無理だな』と悟り
「ウチの仕事をしてもらうのは無理だと思う」と伝えると素直に納得
またまたハローワークに走り
求人をお願いしたものの
『奈良でいい人材なんかいないかも』と半ば諦めの気持ちが勝ってしまいました。
運が良かったのか
1月からそれまでの間は
2月に常石x2のみ(タンザニアとイラン行を計画していたため)
3月がVienam経由でSingaporeの海事博覧会と尾道、焼津
4月に神戸、東京(海事博覧会)、知多、富士
5月 常石、横浜本牧、富士、東京、太田、常石、尾道、水島
6月 Philippine4日、富士
7月横浜本牧、RotterdamからScotland、富士
8月 横浜本牧x2
と出張する用事が少なくなっていたため求人にも注視できたのですが
ドイツ人と結婚し欧州で暮らしていた離婚歴のある女性からの応募があり
ドイツ語もできるし英語も堪能、ヨーロッパ人に慣れてるしこれは適材かもと思いつつ
シングルマザーだと責任が重いなと悩んでいたところ
近隣に住む英語が堪能な既婚者で性格のとても良さそうな人がみつかり
『よし、彼女に決めよう』
『もしもダメだったら還暦になったことだし、業務をどこかに移譲して会社をたたもう』
と開き直り
実は彼女の雇い入れ日である9月1日から
子供の頃から厳しくあたってしまったこともあって疎遠になっていた次男を
家族の中では最後となった欧州への9日間の旅に誘っていたため
せめて基本的なブリーフィングしておこうと
8月30日から出勤して欲しいとお願いすると快諾してくれ
「何かあったらいつでも電話でもメールでもくださいね」
とお願いして欧州に向けて飛び立ち
会社のことも心配で何度か電話をかけては様子伺いして
予定の9日目に帰国して出社したところ
しっかりと業務を教えていないしとりあえずメール&電話番してくれてたら十分と思っていたのに
過去のファイルやメールのほぼ全てを読み込んで学習し
すっかり理解していてビックリ仰天
彼女こそ、我が社設立以来の最高の幸運の女神だったのでした
【その⑤に続く】