【①からの続き】
改めて西暦で時系列でご説明すると
練習船で初めてアメリカ、トンガ、ニュージーランド、中国を訪問したのが1979年
その後商船学校を卒業して外資系船会社に就職しオーストラリア西海岸に行ったのが1980年
(若干22歳、鉱石船でオーストラリアの北西部にあるDampierという塩田への航路で
フィリピン人船員達とクリスマスパーティーをした時の写真)
船会社を離職して青年海外協力隊でトンガで活動したのが1982年1月~1986年8月末
国際協力事業団の内勤を経てフィリピンに赴任したのが1987年
(若干30歳国立航海訓練所Project Coordinator時代)
帰国したのが1989年12月末
パイロットになるのを断念したのが1990年1月
1990年3月に第一子が生まれ
外務省(実際にはJICAの下請け)財団法人の職員となったのが同年5月
肺に腫瘍ができて入院したのが1992年6月
退職したのが1992年12月10日
船舶士となろうと乗船履歴をつけるために船に乗り込んだのが同月18日
契約期間を終えて船から降りたのが1993年7月29日
アルバイトで船の修理を頼まれてトンガ王国へ8月2日~20日
苦難の求職時代1993年9月~1994年7月
遺跡発掘とシャープで日給月給生活
そのほかに日雇い契約で
1月末にフィリピン約10日間
2月は約一月インドネシア
4月はシンガポール・台湾・香港を渡り歩き
5月にまたまたインドネシア10日
6月から7月にかけて香港と中国広州に約1月
この頃の中国広州
香港の九龍から広州行の国際電車(九広鉄道)があり1日になんと2本のみ
人民服を着た車掌と車内販売の売り子がいて
座席には白いカバーが被せてあってレトロそのもの
広州駅に到着して駅舎を出ると
香港からの客を目当てに集まった乞食だらけ
広い駅前広場を抜けてタクシー乗り場まで体中にぶら下がられて
タクシーに乗り込んでも手を扉の中に入れてるから閉められず
同行してくれていた香港人が制止してなんとか造船所の宿に向かうのですが
ホテル(酒店)はなく山荘という名称の
造船所所有の外国人向けゲストハウス
ところが調度品はボロボロで温水はでないし
夜中に公安(当時の警察)が突然ドアをノックして部屋の巡検
商売女を連れ込んでたらワイロをせしめてやろうと
山荘のレセプションと結託しているらしく
どうやら他の客が連れ込んだ様子
その周辺にはタクシーなんてないため
毎日片道数キロの道をトボトボと歩いて造船所を往復しなければならず
その上山荘の飯は不味いからと朝食も夕食も町の食堂に行っていたため
毎日クタクタのヘトヘト
昼食は造船所内の施設で食べるのですが
これがまた汚くて中華らしく油まみれの料理だけ
造船所もデタラメでいつ工事が終わるか予想もつかず
工事が止る度に香港に逃げ帰っていたのですが
香港人が同行してくれたのは最初と二回目の時だけで
あとはたったひとりっきりでの香港との往復
ある日、午前中で仕事がしばらくできない事がわかったものの
広州から香港行の電車はもうないと言われ
山荘からタクシーで広州東駅に向かい
深圳から国境越えをしようと電車の切符を買おうとすると
突然英語を話す人物が現れて
「今日の深圳行はもうありませんよ」
「明日の電車に乗ったらいいから、荷物は私のオフィスに置いてください」
と半ば強引にカバンを持とうとするのを遮り
「自分で確かめるからかまうな!」とカバンを引き戻して
切符売り場で筆談で深圳までと告げると
なんと電車があるのがわかり
なんとか深圳まで行って歩いて国境越えして
地下鉄で香港島の定宿に行ったこともありました。
あと、急に造船所から工事を再開するから来てくれと連絡があって
九広鉄道がもうない時刻だったので
尖沙咀から高速船で太平(タイピン)まで行って
そこからタクシーに乗ったんだけど
まだ高速道路もない時代のことで
広州までは遠距離だからと途中で降ろされて
客を乗せるバイクを乗り継いで広州まで行ったこともあったなぁ
まだまだ信じられないような経験をしたのですが
それはまたの機会にして
7月に請われて某社に中途採用
ところがその会社
親会社はそこそこ世間に名の知れた機械製造メーカー
入社したのはそこの子会社で販売した機械のアフターサービスと
その機械の周辺機器を製造したり親会社からパッケージで販売する会社で
国外事業はその頃ようやく輸入ができるようになって造船が始まったばかりの韓国と
漁船でそこそこアフターサービスの需要があった台湾程度
どちらも日本語が通じる世界
社員の海外出張と言ったら、せいぜいその二か国へ
出張にかこつけて妓生遊びかゴルフに行くくらい
なんせまともに英語で外国人と交渉もできない社員しかおらず
その他の国々との商売は全て商社任せ
まれに来る海外顧客からのFAXでの問合せには
親会社のOBをアルバイトで雇って翻訳スタッフを介してとなるため
回答までヘタしたら1週間
そんな状態のところに私が入社しては
FAXは受け取ったその場で上司の許可を得て回答をタイピングしてFAXで返信
更に補足説明にと直接電話していたため
海外の顧客から大喜びされ 仕事量も激増して処理できるようになったのですが
当時の課長から言われたのが
「〇〇ちゃんが来てから、電話代が予算の数十倍になっちゃったよ」
まあ、あの言葉にはビックリしましたねぇ
くだらん予算と実益とどっちが大事やねん! って感じ
でもそのかいあって親会社にも名前が伝わり
韓国・中国の造船所での設計打合せには同行してくれと頼まれるようになり
その後は渡航先にロシアが加わり
オーストラリアにフィリピン、スペイン、南米に拡大し
(アルゼンチン、ブエノスアイレスのタンゴで有名なボカ地区にある機械整備工場を視察した時)
北米から南米、古巣の南太平洋に欧州、中近東まで進出
(米国オレゴン州ポートランドの船会社を訪問)
この南米をまわっていた時に
新たに顧客開拓したアルゼンチンへ行くついでに
隣国のウルグアイにも行ってみようとスケベ根性を出したのが運命の分かれ目
ギリシャ系の造船所が存在することを知って訪問し
たぶん所長と名刺交換して顔合わせするだけだろうと思っていたら
(ウルグアイ、モンテビデオの造船所にて)
後日、ギリシャの本社から突然の電話があり
聞いてみると
所有船の一隻の発電機が致命的な故障で動かなくなり
とりあえずパッケージジェネレーターをレンタルしてたものの
中古でもいいから同じサイズの発電機がないか との問合せ
これがまた運命なんだったんでしょうか
その半年前に、香港の大船会社から同じ引き合いがあって
中古の大型発電機を整備したものの
引き渡す寸前になって船を売却してしまい
要らなくなったからと違約金を受け取り、とりあえず保管していた不良在庫があり
即決で数千万円の発電機を輸出したのですが
ギリシャの会社がその対応に大喜びして
所有船(その当時で数十隻、現在は98隻所有)には
沢山貴社の会社のエンジンがあるのに
商社経由でしか買えずにとっても不満に思ってたから
これからは直接取引させて欲しいとの申し出
更にはギリシャに駐在事務所を開いてくれとの強烈な要望
大型商船には発電機が3台搭載されていて
年間の保守のための部品代だけで当時にして数百万円/隻
欧米は、オランダに親会社直轄の支社があって
部品もそこのテリトリーだったので
子会社としてはアンタッチャブルの市場だったのですが
周期的に盛況となる造船ブームが過ぎ
造船不況となって売上げが下がって困っていた親会社の営業にとっては
不況になると買い叩いて船を造るギリシャは喉から手が出るほど関係を持ちたい国
強烈な個性の持ち主だった輸出向け営業部門の部長が率先して
子会社のギリシャ事務所開設に動き出したのですが
社内では
『金払いの悪いことで有名なギリシャなんか相手にしたらダメだろ』とか
『大手の商社もギリシャから撤退してるのに何考えてるんだ』と罵倒され
親会社の顔色を窺うだけの子飼い体質に満足して
何の努力もしようとしない連中を相手にするのも嫌気がさしていたところに
それまでの主業務だった関連機器の販売が
時代の変化で需要がなくなり
更には前前任の管理職が下請けを無視して海外製品のOEM化を図ったものの
顧客の海外造船所はOEMのメーカーから直接購入するようになり
売り上げが激減
その落ち込みを取り戻そうと海外市場への拡販を狙って
北米も市場開拓にカナダから西海岸、東海岸、バハマ諸島まで
渡航歴のデータを見ながら1998年がピークだったんだと再認識
実は、この頃
会社全般も不景気になって売り上げも下方修正する中
経営陣も加わっての部課長会議で
『国内市場は頭打ちだけど、海外市場には無尽蔵の可能性がある』とか
上層部から訳のわからないことを言い出され
国内部署は下方修正しておいて、ウチの課はマイナス分を全て上乗せ
それまで以上に身体に鞭うって真冬の極寒のロシアは翌週には真夏の南太平洋
戻ってまたまたロシアへ飛ぶなど、世界中を飛び回ることとなりました。
(1998年までの記録が東奔西走していた頃の様子を物語ってます。。。)
1999年にはいってすぐ
そんな無理が祟ったのと
上場しない親族企業であることを悪用し裏金作りに奔走し
上役への賄賂やゴマすりだけでのし上がった
軽蔑にしか値しない同僚管理職との人間関係が悪化してたからか
突然不整脈が出て検査のために緊急入院
カテーテル検査の結果、ストレスによる異形狭心症と診断され
ニトログリセリンを常用しなければならなくなり
こんな状態で人生を終えたくないなとの思いが強くなり
ロシアに出張して仲良しの顧客と話していたところ
「独立して起業したら輸出入でサポートするよ」とのありがたいお言葉
早々に辞表を持って上司に出したところ
慰留されて受理されず、なのにノルマは嵩上げされるばかり
もう退職する決意は動かない状態だったので
1が並ぶ平成11年11月11日に
とりあえず会社を設立してしまえと登記を済ませ
退職したら開業しようとしていたのですが
12月末になっても年度末までと引き延ばされ
年度末になってもアレコレと言い訳をしてるので
4月末にとうとう堪忍袋の緒も切れて退職
そうして
2000年5月1日 近鉄奈良駅前の商工会議所と裁判所の間にあった
テナントビルの一室を借り
42歳にしてようやく会社経営の身となりました。
でも実は、蓄えも資金もない状態での起業
国民金融公庫から企業向け資金として300万円を借り入れ
オフィスのテナント料(保証金や敷金)から事務用品にOA機器を購入し
残り少ない予算を運転資金にしていたのですが
当初は、ロシア向けの貿易会社として
主に船舶向けの機器の輸出販売を生業にしようと考えていたものの
とりあえず古巣のトンガやフィリピンとも商売ができればと
現地に赴いてあれこれ可能性を探ってみたのですが
当時は所詮発展途上国
日本製品を購買できるだけの客先もみつからず
さてどうしようかと考えていた時
前職に中途採用されるキッカケとなった友人で元同僚が
香港に駐在事務所を作って赴任していたのもあって
またアルバイトで契約技師として在外の仕事を請け負ったら?との誘いを断れず
香港、ベトナム、中国広州周辺に出稼ぎに出たり
アフリカタンザニアでのODA専門家派遣を請け負い
オフィスよりも出張の方が多い初年度となってしまいました。
その後、ロシアとの商売を始める準備にと
ウラジオストクの友人に依頼して国立極東大学卒で
日本語を専攻していた女性を秘書に雇うことにして
社宅を準備して富山の伏木港に到着する客船に出迎えに行き
パソコンも使えない彼女にタイピング練習ソフトを渡して
試用期間の社員として働き始めてくれたのですが・・・
いかんせん、日本語は漢字も書けるほど優秀だったのですが
英語はダメ、またロシア人でもロシア語の船や機械の単語を知らず
残念ながら役立たず
ロシアの友人からは秘書を紹介した手前もあってか
さまざまな機械部品の注文をしてくれていたのですが
結局見積もり、納品書、輸出関係から請求書まで書類づくりから
手配も全て自分ですることとなってしまい
彼女の仕事はロシアからかかってくる電話番程度
おまけに恋人のロシア人船員との連絡がとれないと精神的に不安定になり
仕事も手につかない状態が続き
約半年で「ロシアで暮らしていた方がいいよ」と勧めて帰国させ
ロシアに飛んで代わりの人材として
英語が堪能な女性を紹介してもらい
再び試用期間として受け入れたのですが・・・
頼んだ仕事(書類つくり等)はテキパキとこなすし
そこそこ優秀かな?と思っていたのですが
最初の3月の滞在中、ほぼ毎週末観光に明け暮れ
それでもなんとか使えるならいいかと就労ビザをとって
一時帰国させたところ
「体調が優れないので日本にはもう戻らない」との連絡があったきり
どうやら元々日本へは観光目的で長期で働く気はなかった様子
仕方ないなと彼女に任せていた書類を調べながら
またひとりで仕事を処理していたところ
ミスなのかなんなのか金額計算から記載も間違いだらけ
半ば呆れながらも、帰ってきてくれなくて良かった
とホッとしながら
香港の友人からは相変わらず技師としての依頼があったり
タンザニアで知り合った現地の造船の専門家から
政府(大統領執務室)経由で小型船の機器の注文が入ったり
トンガの友人からバニラの輸入販売をしないかと誘いがあったりと
安定した収入源を未だ確保できないものの
そこそこ面白おかしく過ごしていたのですが
それまで取引銀行を大手の三和(その後三菱)、住友にして
円貨、米貨、マルクなどの口座を開いていたのを
地元奈良の南都銀行にも口座と開設しようと本店を訪れたのが運の尽き
開業から4年目の2004年
国民生活金融公庫からの少額の借り入れもほぼ順調に返済し
無借金経営の面白そうな企業だと思われたのか
企業融資の担当者から「融資しますから事業を拡大しませんか」とのお誘い
大阪のロシア料理レストランで紹介してもらった
日本人と結婚して大阪在住のロシア人女性を秘書に雇い
ロシア向けの輸出も安定して海外へ出稼ぎに行く必要もなくなり
穏やかな日々を過ごしていたのに
波乱万丈の人生を送ってきた身としては退屈に感じていたところだったので
『借りてくれって言われるなら、何かしようかな?』と
思案しながら過ごしていたのところ
ロシアの最大顧客で大親友からドイツの博覧会に行こうと誘われて
ハンブルグとアムステルダムを訪れた時に
インターネットカフェが大繁盛をしているのを発見
アムステルダムは当時世界一と評価されたスキポール空港があり
欧州のハブ空港として大人気だったこともあり
街中には観光客が溢れ
その彼等彼女等が通信手段として利用していたのが当時はまだ走りだったインターネット
パチンコ屋のようにただパソコンを並べただけの店内で
€5で15分の使用料
通信速度の遅かった時代だったので
軽くメールを確認したり送信したりするだけで15分では足りなくなり
€10~€15が客単価の最低ライン
わずか20坪ほどのスペースに数十台のパソコンが並び
それでも大人気で待たされてる状況
10坪程度のスペースで30台ほどで始めても
@3,000円×30台×8時間=720,000円/日の売り上げ
まあ、その半分としても360,000円の売り上げがあったら
テナント料、パソコンの減価償却、電気代に人件費を差し引いても
十分におつりがくるなと
帰国してネットカフェを始めようと計画を立て
市場調査や日本でのネットカフェのことを調べていたところ
地方都市に住む学生時代の後輩のひとりが
「知り合いにネットカフェをしている人間がいて、新しいテナントを探してるほど繁盛してますよ。」
「でも、ありきたりなパソコン並べるよりもちょっと豪華にして差別化した方がいいですよ。」
などと訳知り顔で言われ
「実は経営コンサルタントもしてますから」という言葉信じてしまったのですが・・・
【その③に続く】