【実は、昔からの知人や友人もこのブログをみながら近況を知っている様子、主に彼らへの報告のつもりで記事を書いています】
【個人的にお付き合いのない方々には全くつまらない内容だと思いますのでご容赦くださいね】
先日のこと、押入れにあった古いダンボールを開けてみると
実家を建て直すときに送られてきた
幼少期から結婚するまで置いてあった個人の思い出の品々を
亡くなった母が大切に保存しておいてくれたもので
わたしにとってはまさにタイムカプセル
ひとつひとつの品々を手にしては目を細めて往時を思い出し
老い先短い身の上ながら終活をかねて自分史をまとめてみようと思い立ち
渡航歴をまとめてみることにしました。
最初に、幼少期からの生い立ちを振り返ってみると・・・
昭和33年1月生まれのわたくし
たしか小学校2年生の昭和40年(1965年)の夏
幼稚園児の頃から長期のお休みになると
東京世田谷の玉電沿線にあった親戚の家で過ごさせてもらっていたこともあって
銀座に出て毎年恒例の”日劇夏のおどり”に連れて行ってもらい
同時上映していた加山雄三さんの”海の若大将”を観て大感激
きわめて単純な性格なので
海と船に憧れて大人になったら”船乗り”になると宣言
それからずっと将来の夢=船乗りと言い続けていたため
最初は身近な近所の運河で動いてた艀船でもいいやと思っていたのが
外国航路のマドロスになり、マドロスから航海士に変わり
小学生高学年の時には既に志望校を商船学校と決めてしまいました。
中学生の頃には、船乗りになって七つの海を航海して
世界中を訪れ、”港々に女あり”になるんだ と夢に抱いていたのですが
(子供なのに”船乗りになりたい”と言うと、なぜか周りの大人から”港々に女あり”だなと聞かされ刷り込まれちゃってました)
いつしか時代の流れで税金の安いリベリアやパナマの便宜置籍船ばかりとなって
日本船でなくなったことから日本人船員の縛りが無くなり乗組員も賃金の安い国々の船員に変わり
更には、外国航路といったら横浜なら山下埠頭
神戸ならメリケン波止場といった
船員目当ての紅い灯青い灯煌めく歓楽街の近くから
公共交通機関など全くない遠い埋め立て地の専用岸壁になったうえに
昔はデリックというブームとワイヤー、ウインチを使った荷役装置で、港によっては1週間停泊する純貨物船から
貨物に応じた専用船化となり荷役設備が劇的に進歩して
船速も早くなり停泊時間はヘタしたら数時間のみ
乗組員も35名ほどが乗船し士官と部員、司厨部にはボーイまでいて
士官の部屋掃除までしていてくれていたのが
自動化と省力化でクルーの数も17名まで削減され
部屋掃除もベッドメーキングも自分でしなければならず
サロン(士官用の食堂)でもスープから始まるフルコースだったのが
社食並みのメニューになって基本給仕のサービスはなし
寄港地でも上陸して息抜きすることもできず
乗船中はまるで監獄に閉じ込められた囚人のような生活
”海のロマン”など完全に死語となってしまいました。
そんなことから商船学校を卒業し甲種(士官用)海技免状を取得したにもかかわらず
船乗りになる夢はすっかり失せてしまったのですが
世界中の国々を訪ねてみたい という海外志向は衰えず
大雑把に従事してきた仕事の変遷を回顧してみると
外資系船会社への就職を皮切りに青年海外協力隊、JICA専門家、ODA関連
民間企業の貿易担当部署勤務、起業して大型船舶の機器に特化した貿易商社経営
海外での技術提供の請負業務、欧州機器メーカーの日本市場代理店と
いつしか日本語よりも英語を使う職業に就き諸外国を渡り歩く人生となりました。
※ 1982年から1986年の間使っていた公用旅券は
名古屋で暮らしていた時に泥酔してセカンドバッグごとタクシーに置き忘れ
現金30数万円入っていたからかとうとう出てこず紛失
そんなわけで正確な月日がわからずウロ憶えですが・・・
パスポートの出入国スタンプから、日本と訪問先の国々の
入出国日を調べて渡航歴を作ってみたのですが
なぜか出国だけ、入国だけのスタンプがあって首をかしげるばかり
とりあえず1997年第一四半期までの渡航記録は ↑こんな感じでした。
(1971年中学二年生の時、父が船に乗せてやろうと思ったのか大阪からの旅客船で返還前の沖縄に渡航した時の身分証明書)
(イエローカード:検疫用ワクチン接種証明)
当時は沖縄へ行くにも
コレラや小児麻痺のワクチンを打つ必要がありました。
(商船学校の学生時代:遠洋航海実習記録)
当初はパナマ運河とスエズ運河を通過しての世界一周航路予定だったのが
中華人民共和国からの招待を受け、戦後初めての訪中とあって急遽航路変更
中国訪問を大前提としたため環太平洋航路となって太平洋での給水を兼ねてトンガ王国に寄港することとなり
ホンネは世界一周でなくなったことを恨めしく思っていたのですが
そこで出会った青年海外協力隊員が
赤土だらけで道路も舗装されておらず車もほとんど走っていない未開地のような場所で
全く意味のわからない言葉を操りながら現地人と笑顔で楽しそうに歩いている姿があまりに眩しくて
とうとうその後の航海中も頭から離れなくなってしまい
日本に帰着する頃にはいつしか自分も協力隊員になってトンガに戻ってくるんだと決意していました。
(社会人1年生、外資系船会社の社員となり社命でパスポート取得)
(所有船の点検のため山口県宇部からオーストラリア西海岸まで乗船)
(帰路、クリスマス&年末年始で飛行機の席が取れずファーストクラスで帰国)
(パースからシンガポールまでは1stクラスでしたが、乗り継ぎのシンガポールからはエコノミー)
(これらは国内航空券の半券ですが、当時は飛行機に乗れるのが嬉しくて大切に残してました)
(社会人になってクレジットカードも作りましたが、当時はまだ国内のみ)
(実は、練習船でトンガに寄港して将来青年海外協力隊に参加すると決めたものの
参加条件は、ある程度の語学力と実務経験は最低2年以上必要と言われ
とりあえず船会社に就職。その後、夢を捨てきれず一年半目に応募した時の資料)
(無事試験に合格し、訓練所入所の案内とともに受け取った地図)
(訓練を終えて出発した時の航空券と成田の空港使用料)
(なんと正規料金の片道切符なのでビジネスクラスにしてくれました。それも今では信じられない喫煙席)
(トンガ赴任中に周辺国を訪れた時の半券)
(これは世界的に希少価値として人気のあったトンガの切手)
バナナの本数や果物の値打ちに比例してるんですよ
(1982年当時のVoucher、成田からFIJIとSAMOA経由でトンガまで347,300円)
(FUJIはTONGAへの乗り換えと管轄だった日本大使館への赴任時の表敬訪問のためでしたが
首都SUVAからNADIに戻る日が運悪く大型台風と遭遇し飛行機がキャンセルとなり
大嵐の中、窓無のローカルバスで移動となったため未使用分が残ってました)
協力隊時代は、公用旅券で当時は日本に帰国するまで無期限有効のもので
1982年発行のものと、シニア協力隊員として再派遣された1984年発行のもの
劇症肝炎で緊急帰国して入院と治療後に再赴任した時の1986年発行のものがありましたが
協力隊の任期を満了して帰国した日から国際協力事業団の中部支部勤務となり
募集説明会の打ち上げでOB達と飲み屋で盛り上がった結果
応募者にみせるためにセカンドバックに入れていたものを
翌日からの出張で持ち物が多かったこともあってついタクシーの中に忘れてしまい
翌日からの出張の経費等で大金が入っていたこともあってか
慌ててタクシー会社に電話するも
運転手が運転記録を書き換えてネコババされてしまったようで
とうとう出てきませんでした。。。
ということで、次の旅券は1987年に国際協力事業団の本部に勤務していた時に
プロジェクトの調査団として派遣された時に発行された
一次旅券
以前の公用旅券が、渡航先の制限なく帰国するまで無期限有効なものだったため
連合赤軍やたぶん北朝鮮の工作員などが喉から手が出るほど欲しがっていると聞かされていましたが
紛失や盗難でそんな輩に手に渡ってトラブルが起きないようにと渡航先が制限されるようになってしまいました。
こちらは長期専門家のプロジェクトコーディネーターとして赴任された時のもの
長期派遣では日本への一次帰国ができるため数次旅券となりました。
プロジェクト時代の名刺
フィリピンでの任期を終え
帰国後はODA関連の仕事を辞めて
アメリカでプロペラ双発機とヘリコプターの事業用パイロットの免許を取ろうと思っていたため
帰国後すぐに一般パスポートを取得
その時はアメリカへ行く気満々で
パイロット養成機関の窓口会社へ留学手続きにいってみると
1990年で32歳
例えアメリカで事業用の免許を取得しても
日本では事業用は改めて長期の訓練と書き換えが必要で
それらは到底個人でまかなえる額ではなく
通常は雇ってくれる会社が養成のために負担してくれるのですが
32歳からだと米国の事業用免許が取れるのが早くて35歳
その後も飛行機もヘリコプターも機種による飛行経験時間が必要で
その年齢では雇ってくれる日本の会社は残念ながらありませんと言われ
あえなく撃沈
仕方なくまたODAの世界に戻ったのですが
第一子の子供が生まれたばかりで
在外で働くよりも国内にしたらと勧めてくれた仕事が
日本国内の国際研修所での研修管理業務
ほぼ10年間、海外生活を送っていたため
逆カルチャーショックで日本に馴染めず
日本のお役所仕事がどうにも肌に合わず拒絶反応で重度のノイローゼ寸前
免疫力が低下してしまったのか片肺を浸潤するほど大きな腫瘍ができて血痰が止まらず
生死の境を彷徨う状態になって緊急入院したところ
原因がわからず検査漬けの入院で一月ほど仕事から離れていたからか、腫瘍が縮小してゆきやがて消滅
「仕事のストレスじゃないですか 部署を変えてもらったらどうですか」
と担当の若い看護婦さんからの言葉が稲妻にあたったがごとく全身を駆け巡り
こんな仕事で野垂れ死にだけはゴメンだと
2年半で辞表を提出
組織の上層部から配置転換の提案や慰留するよう説得をしていただきましたが
退職の決意は変わらず
その後、また海外で働くために船舶士(航海士も機関士もできる万能船員)になろうと
上級免状を得るための乗船履歴をつけるため海上生活(船乗り)に戻ったのですが
幼い子供と離れるのが辛く外国航路の船とせずに国内航路の貨物船としたため
あまりにも低俗な内航船の船員達に呆れ果て
もう船乗りの世界には自分の居場所がないことを悟り半年後に下船
そうした事情から、突如将来設計が音を立てて崩れ
不義理をしてしまったJICAには頼ることができず
途方に暮れながらいろんな会社に願書を送り
当面の生活の為に時給の良いアルバイトを探しては凌いでいたのですが
遺跡発掘(実際はアイリン地区からの日雇い連中に命令されながらの土方作業)
シャープの液晶製造工場でのガラスのカッティグや
切ったガラスを容器にセッティングするベルト作業(深夜作業)
日給1万円程度で土方は雨が降ったらお休みだし
シャープは24時間勤務のシフト制の激務なのに
月に20万円稼ぐのも大変
求職は、海外派遣やリゾートのマリーナ、大型トラックの運転手から
挙句の果てには工事現場の交通整理まで履歴書を送ったのですが
ヘタに海外生活が長かったのが仇となって
「そんな経歴をお持ちの方にウチの仕事は無理だと思います」
と丁重に断られるばかり
困り果てて自分の人生もこれで終わってしまったのかと悲観していたところ
とある企業で働いてた友人から国連(FAO)の専門家に推薦してもいいですかと打診され
大喜びして快諾し、某国へ赴任の準備をして待っていたのですが
交代となる筈の前任のイタリア人が居座って派遣時期の目処がつかず
しかたなく他の某ディーゼルエンジンメーカーに勤務していた知人からの依頼で
海外でのエンジンの修理や保守の現場監督業務や、その会社の英語のコレポン業務を
パートタイムで請け負って生活を支えていたところ
※現場監督業務も、ボロ冷凍運搬船のエンジンの修理のためにインドネシアの僻地をまわったり
まだ混沌としていた時代の中国の広州の造船所に入ったインド船の修理のため
香港と広州の間を何度も出たり入ったりと
辛酸を舐める日々でしたが
ある日そのメーカーの管理職から
『ウチで働いてくれませんか』との誘を受け、つい応じてしまい中途採用
(他の社員からは「どうせすぐに辞めるんだろ?」と、面と向かって言われたこともありました)
実は、ODA関連の仕事を退職する半年前に二人目の子供が生まれ
新しい仕事を探して彷徨っていた時期に
海外赴任で貯蓄していた預金もほぼ使い果たしていたため
”選択の余地なし”でした。
とはいえ、それまで営利目的の仕事などした経験がなく
それもまだ馴れない大阪での勤務
まあ、どうしても肌にあわなかったら転職したらいいやと思っていたのですが
運が良いのか悪いのか
その会社にはまともに英語で仕事をできる人材がおらず
入社直後に
韓国の造船所で発生したギリシャ船主からのクレーム対応を手際よく処理したことで認められ
その後は、毎月のように中国や韓国の造船所での技術説明に駆り出され
過去に納品した製品のクレーム対応で客先と交渉のためシンガポールに出向いたり
初めてフィンランド製品をOEMとして販売し納入した造船所での
試運転にフィンランド人と立ち会ったりと
当時はまだアジア・オセアニア中心でしたが
毎月のように海外出張するようになり
入社から数か月後には
ペレストロイカ後の混沌とした時代のロシアの船会社から数千万円の大型部品の引き合いがあり
信用できないから支払い条件は前金、その前に現地で売買契約を結んできたいから
同行してくれと頼まれ
そこでとても心根の優しい信用のできるロシア人と運命的に出会い
すっかりロシアに惚れ込んでしまい
その後の人生を左右することとなったのでした。
その民間会社の採用時には
保守的な終身雇用の社員だらけの手前、入社時は平社員で我慢してくれと言われましたが
翌年には主任(係長)、翌翌年には課長補佐、3年後には課長に昇進
元々出歩くのが好きだったので海外出張も嬉々として飛び回り
一日の大半を海外からかかってくる顧客との電話対応に費やしながらも
仕事に遣り甲斐を感じて順風満帆にみえたのですが・・・
続きは次回お話させていただきますね。