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気取りも なんのてらいもなく  あるがままの自分を 感性の赴くままに そんな独りよがりの書き捨て日記です。

般若心経

2011-05-27 18:24:31 | 日記

今年の自分の目標は、10数年来の悲願であった大峯奥駈道を歩き始めること

 

そのために、先日の吉野山行きの際に、逆峯の出発点(正確には六田の柳の渡し)でもあり

聖地金峯山寺蔵王堂の門前で般若心経の教本を買ってきました。

 

また、これまでに西国三十三箇所を巡礼したといいながら、

 

般若心経さえ読んだとこがなかったのが、いまごろになって恥ずかしく感じて

 

読経の練習を始めてみると同時に、その意味も調べてみました。

 

 

 


ぶっせつ ま か はんにゃは ら み た しんぎょう
 仏説摩訶般若波羅蜜多心経


 

かん  じ  ざい  ぼ  さつ    ぎょう じん はん  にゃ  は  ら  みっ  た  じ   しょう けん  ご  うん  かい  くう
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 
ど  いっ  さい  く  やく    しゃ  り  し      しき  ふ  い  くう      くう  ふ  い  しき      しき  そく  ぜ  くう
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 
くう そく ぜ  しき     じゅ  そう ぎょう しき  やく  ぶ  にょ  ぜ      しゃ  り  し      ぜ  しょ ほう  くう そう
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相 
ふ  しょう ふ  めつ    ふ  く   ふ じょう     ふ  ぞう  ふ  げん    ぜ  こ  くう ちゅう
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 
む  しき    む  じゅ そう ぎょう しき   む  げん  に  び  ぜっ  しん  い     む  しき しょう こう  み  そく  ほう
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 
む  げん かい   ない  し   む  い  しき  かい   む   む みょう やく     む  む みょう じん
無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 
ない  し  む  ろう  し   やく  む  ろう  し  じん     む  く しゅう めつ どう     む  ち  やく  む  とく
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 
い   む  しょ とく  こ     ぼ  だい さつ  た     え  はん  にゃ は  ら  みっ  た  こ
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故 
しん  む  けい  げ     む  けい  げ  こ      む  う  く  ふ      おん  り  いっ  さい てん  どう  む  そう
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 
くう ぎょう ね  はん   さん  ぜ  しょ  ぶつ    え  はん  にゃ  は  ら  みっ  た   こ
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故 
とく あの  く  た   ら  さん みゃく さん  ぼ  だい   こ  ち  はん  にゃ  は  ら  みっ  た
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多 
ぜ  だい  じん しゅ   ぜ  だい みょう しゅ    ぜ  む  じょう しゅ   ぜ  む  とう どう  しゅ
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 
のう  じょ いっ  さい  く     しん  じつ  ふ  こ     こ  せつ  はん  にゃ  は  ら  みっ  た  しゅ
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪 
そく  せつ  しゅ わっ   ぎゃ  てい   ぎゃ てい    は  ら  ぎゃ てい    は  ら  そう ぎゃ てい
即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 
ぼ  じ   そ  わ  か    はん  にゃ しん ぎょう
菩提薩婆訶 般若心経
 

 

 

 

大いなる智慧により 悟りへ到達する 肝要の教え

 

観音様が 深い智慧の修行を行なった時

 

すべての要素は本来一時的で実体のない存在であると見極めて

 

あらゆる苦しみや災難を除かれた

 

仏弟子の長老である舎利佛よ 

 

形あるものは実体がないに等しく 実体がないからこそ一時的に形がある

 

すなわち形あるものは実体がなく 実体がないから形をもって存在する

 

感覚や意識など心の作用でさえ 同じことにすぎない

 

舎利佛よ すべての存在は本来実体がない一時的なものだから

 

生まれたり滅したりせず 汚れたり奇麗でもなく 増えたり減ったりしない

 

だからそのような仮の存在は 形あるものはなく感覚や意識の作用もない

 

感覚のはたらきもなく 感覚の対象も実体がなければ それらを受けとめるものもない

 

迷いの原因もなく 迷いの結果もない

 

そして生老病死の苦しみもないが 生老病死がなくなることもない

 

苦しみやその原因・苦しみを除く方法もなく 知覚することもなく得る結果もない

 

得るということがないから菩薩たちは 智慧の修行をよりどころにして

 

心にはこだわりがなく さまたげがいないから 恐れというものはない

 

あらゆる誤った幻想を離れて 完全にとらわれのない心の完成に達する

 

過去・現在・未来の全ての仏も 智慧の修行を究めたことによって

 

この上ないさとりを開かれるのだ

 

すなわち智慧の修行とは 大いなることばであり

 

力を秘めたことばであり 最高のことばであって これほどのことばはない

 

すべての苦しみを救う みなしからざる真実の 

 

その智慧のことばとは 次のとおりである

 

ゆける者よ ゆける者よ さとりの岸にゆける者よ

 

完全にさとりに到達した者よ さとりよ 成就あれ

 

智慧の精髄の教え

 

 

 

いや~ホント勉強になりました

 

これで奥駈道にも満を持して行くことができます。 よかった~


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