アザレアの町音楽祭についで、1993年より、米子市民音楽祭でも招待公演をさせていただくようになりました。
歴代の館長さん、市民音楽祭実行委員の方々、文化ホール湯嶋さんのご努力で、メインのホールを使わせていただき、またオペラのガラコンサートのときなど、特別の舞台を組んでもらうなど、舞台関係の方にも、さまざまな便宜をはかっていただきました。
これは2003年までの長きにわたり続き、春の演奏会は、5月、倉吉、米子のそれぞれの音楽祭出演という形が定着してきました。
残念ながら、2004年より招待公演はなくなり、米子では自主公演を再開しています。
ミンクスがアザレアの町音楽祭に出演するときは、感謝をこめて、アザレア室内オーケストラと、ネーミングを変えています。
実際アザレアの町音楽祭がなければミンクス室内オーケストラ、鳥取県のオペラ活動、世米子第九合唱団との宗教曲の共演など、もありえなかったと、思います。
物心両面で支えられてきたのです。
アザレアとの出会いは、1989年の松江プラバホールでの演奏会にさかのぼります。アザレアの芸術監督、計羽先生がこの演奏会を聞いて感動され、ぜひアザレアの町音楽祭のオープニングコンサートをやってほしいと依頼されたのです。そのときこのような批評記事を書かれたのを記憶しています。 ”ミンクスの演奏を聴き、私は驚愕した。音楽が、そして演奏者が活き活きと、躍動しているのだ。鳥取県の音楽の成長を願ってきた、長年の夢が実現したと感じた、、、、”
その後企画委員の方々のご努力により、演奏会の費用、チケットの売りさばきすべてをやってもらえ、音楽祭の最高の舞台、オープニングコンサート飾らせてもらうという、破格の条件で迎えていただきました。
1990年の5月のことです。以後今日に至るまで、ご援助は続けられています。
当初ミンクスは,普通の市民オケのように大編成でもなく、何の補助もなく、団員の住んでいるところはてんでんばらばら。演奏会のチケットがさばけるわけもなく、それでも指揮者はプロを呼ぶ。 これで演奏会が続けられるわけはなかったのです。
それまで、細々と、でも自分たちが楽しめれば、そして自分たちの演奏を認めてくださる方に来ていただければ、小さなホールでも満足、、 と思っていた活動は、これ以後次第に変化し、思っても見なかったさまざまな活動の場を与えていただけるようになりました。