この曲を「協奏曲」ではなく、「ヴァイオリン・ソロの付いた交響曲」と仮定する。
「協奏曲」と「交響曲」の一番の違いは、管弦楽部、つまりオケの影響力にある。ふつう「協奏曲」といえば、ほとんどの場合、独奏楽器がメインであり、オケが曲に与える影響はゼロに等しい。しかし「協奏曲」が交響的性格を強め、「交響曲」に近づいていくと、それに比例してオケの影響力も増していく。前者における力関係が「オケ<独奏楽器」であるのに対し、後者では、「オケ=独奏楽器」、さらには「オケ>独奏楽器」となるケースが出てくるのだ。それを踏まえた上で、第3楽章をもう一度聴き直してみよう。
この曲の第3楽章は
A-B-A-B-A´
のロンド形式で、AメロとBメロのふたつの楽想が交互に現れる構成になっている。
これを楽想ごとに5つのブロックに見立てて、メロディを演奏するパートを登場順に
書き加えていくと、次のようになる(時間はキョンファ盤による)。
第1ブロック:Aメロ
00:07 ソロ・ヴァイオリン
第2ブロック:Bメロ
01:19 第1・2ヴァイオリン と チェロのユニゾン
01:58 ソロ・ヴァイオリン
第3ブロック:Aメロ
03:22 トゥッティ
03:35 ソロ・ヴァイオリン
04:31 トゥッティ
第4ブロック:Bメロ
04:44 クラリネットとファゴット
05:21 ソロ・ヴァイオリン
第5ブロック:Aメロを素材にしたコーダ
06:25~ラスト ソロ・ヴァイオリン と オケ が入り乱れる
オケを青色、ソロ・ヴァイオリンを赤色で表示しているのだが、これを見ると、第1ブロックを除いた各ブロックで、最初にメロディを演奏するのは青色のオケであることがわかる。例えば、第2ブロックでは、まずオケのユニゾンが、直近のAメロと異なるBメロを歌って楽想を切り替える。オケはそのままBメロを30秒間歌い続け、ソロ・ヴァイオリンは、オケがBメロを歌い終えた後でようやく登場し、オケからメロディを引き継いで、それを繰り返す。ひとつのブロックの中でソロ・ヴァイオリンの歌が後回しになっているのだ。
ふつうの協奏曲は順序が逆ではないだろうか。お手本となるメロディを、まず独奏楽器が演奏し、それがオケに引き継がれて曲が進行するのではないだろうか。
そう思って、手持ちの他のヴァイオリン協奏曲(→ メンデルスゾーン、ブラームス、チャイコフスキー)の第3楽章も同様にメロディの受け渡しの順番をチェックしてみると、やはりこれらの3曲では、作曲家が磨き上げた自慢のメロディを最初に披露するのはソロ・ヴァイオリンであった(ただ、メンデルスゾーンのBメロについては一瞬首をかしげてしまった。ここは一聴すると、オケのトゥッティがメロディを呈示して楽想を切り替えているように感じる。しかし、よく聴いてみると、オケはBメロの最初の4小節を繰り返しているだけで、威勢よく始まったトゥッティはやがてソロ・ヴァイオリンに乗っ取られ、最終的にBメロを完成へ導くのはソロ・ヴァイオリンである)。
これは当然といえば当然である。第12回のテキストで書いたとおり、ロマン派の時代はヴァイオリンが楽器の花形に躍り出た時代であり、ヴァイオリニストがスターだった。当時のヴィルトゥオーソ達を取り巻く聴衆の熱狂ぶりを読むと、彼らの存在は、私の世代でいうところのマドンナやマイケル・ジャクソン並みの影響力を持っていたようだ。同時に、旧体制の崩壊と市民の台頭という時代の変化の中で、貴族のサロンのBGMだった音楽はビジネスに姿を変え、コンサートはお客さんが集まらなければ成り立たないイベントとなった。客を集めるにはまずスターが必要。スターを呼ぶにはその輝きにふさわしいヒット曲が必要。というわけで、ロマン派の作曲家がこぞってヴァイオリン協奏曲を書いた背景には、ヴィルトゥオーソ・ブームと連動した集客効果や商業的成功を見込んだ下心があったのは否めない。そのため、当時のヴァイオリン協奏曲には、ソリストを中心に据えた曲構成のパターンが、どの曲にも慣例的に採用されている。そのパターンを箇条書きにすると、次のようになる。
1)メロディの受け渡しの順序は「ソリスト→オケ」
2)曲中の力関係は「ソリスト>オケ」
3)ソリストには常に主役の座が用意されている。
これに対して、シベコンの第3楽章では、主に「オケ→ソリスト」という、 1) とは逆の順序でメロディの受け渡しが行われている ・・・ と、ここまで読んで、
「じゃあ、アレはどうなの?」
と思ったあなた。
はいはい、アレですね。わかってますとも。ここはやはりブラームスのヴァイオリン協奏曲のオーボエ・ソロにも言及しなければいけませんね ・・・ というわけで、しばしの間、話がシベコンからブラコンへ逸れてしまうのをお許しいただきたい。
実を言うと、 1) と逆パターンのメロディの受け渡しは、ブラームスのヴァイオリン協奏曲で既に採用されている。ただしブラームスの場合、第3楽章ではなく第2楽章にこのパターンが現れる。この曲の第2楽章冒頭では、ソロ・ヴァイオリンがなかなか出てこない。ソロ・ヴァイオリンの出番が来るのは、開始から2分40秒後(時間は手持ちのジネット・ヌヴー盤による)で、その間はオーボエがソロを取ってAメロを歌う。オーボエはソロ・ヴァイオリンを差し置いて、オケをバックに、いつ果てるとも知れない、息の長い、同時にとても美しいメロディを連綿と歌い抜く。だからこの楽章の冒頭はまるでオーボエ協奏曲を聴いているようで、とにかくオーボエばかりが目立つ。
「アダージョでオーボエが全曲で唯一の旋律を聴衆に聴かせているときに、
ヴァイオリンを手にしてぼんやりと立っているほど、私が無趣味だと思うかね?」
サラサーテがそう言ってブラームスのコンチェルトにケチをつけた、というのは有名な話だ。他の楽器が自分より目立つなんてもってのほか、そう公言するサラサーテに「オレ様」な印象を抱くのは、私が21世紀に生きる現代人だからで、時代を19世紀後半に遡れば、当時の音楽シーンはやはりヴィルトゥオーソ中心に回っていて、ソリスト最優先の曲作りが当たり前のこととして受け止められていたのだろう。
ブラームスのヴァイオリン協奏曲はそのような「当たり前のこと」に対する反動から生まれた。ブラームスはサラサーテがブルッフのコンチェルトを演奏するのを聴いて感動し、しかし同時に、その演奏が技巧の発露だけで終わっていることに疑問を感じ、自分ならもっとうまく書けると豪語してヴァイオリン協奏曲を書き始めた。だからブラコン(←ブラザー・コンプレックスじゃないよ、ブラック・コンテンポラリーでもないよ、)には、上述の 1) から 3) の慣例的パターンを乱すような反則技が、しばしば現れる。アダージョ楽章で「オケ→ソリスト」のメロディの受け渡しが行われるのも、そのひとつだ。ブラームスはここで、従来ソロ・ヴァイオリンだけに与えられていた優位性を他の楽器にも与えることで、それまで「オケ<ソリスト」だった曲中の力関係を、「オケ=ソリスト」へと変化させている。この他にも、ブラコンを聴いていると、第1楽章でソロ・ヴァイオリンがなかなか登場しないとか、登場してもなかなか主題に入らないとか、慣例的なパターンに慣れた聴き手の足元をすくうような反則技がいろいろ出てくる。初心者の私などは、はじめて聴いた時に、この本題に入るまでの前置きの長さに耐えかねて、途中でCDを聴くのを放棄してしまったくらいだ。
ブラームスはこのような試みを通して、ヴィルトゥオーソ偏重の曲作りを相対化して、音楽が本来あるべき姿を聴き手に問いかけているように見える。それは間接的に、それまで神のごとく絶対化されていたヴィルトゥオーソの存在を相対化する試みでもあった。したがって、ブラームスの反動がサラサーテにとって面白いわけがなく、機嫌を損ねたサラサーテは、この曲を生涯一度も演奏しなかったという。
話をシベコンに戻そう。
シベコンの第3楽章では、ブラームスが行った慣例的パターンの相対化が、更に念入りに行われている。まず「オケ→ソリスト」のメロディの受け渡しであるが、ブラコンでは一度きりなのに対し、ここではそれが反復して行われる。冒頭で色分けして示したとおり、第2ブロックから第4ブロックまで、3回に渡って、オケがソロ・ヴァイオリンに先んじてメロディを演奏している。さらに、オケの人数が多い。ブラコンで先制攻撃を仕掛けたのがオーボエ奏者一人であるのに対し、シベコンではユニゾンやトゥッティといった集団がソロ・ヴァイオリンの機先を制している。特に第3ブロックから第4ブロックにかけてはそれが顕著で、ここで数に勝ったオケが見せる、ソロ・ヴァイオリンを隅に追いやるような傍若無人な振る舞いには、目を見張るものがある。 ・・・ といっても、いまひとつぴんとこない方が多いと思うので、この部分をさらに詳しく書いてみる。
02:44
ソロ・ヴァイオリンが3連符の連続でBメロを変奏する。素人にはよくわからないが、
かなり難しそう。ソリストが熱演を繰り広げ、聴き手も自然に力が入るところだ。
03:20
オケが見る見るうちに集結し、ソロ・ヴァイオリンの前に立ちはだかったかと思うと、
全員参加の大音量で、Aメロを歌い出す。シベコンファンならおわかりだろうが、
このトゥッティの破壊力は凄まじいものがある。私はこの8小節を聴くたびに、
足元の地面が真っ二つに割れて、その下から新しい大地が、がががっと隆起してくる
地殻変動をイメージする。天地創造のスペクタクルが頭の中で繰り広げられるトゥッティ
なんて、他のヴァイオリン協奏曲ではついぞ体験できない。
03:45
フォルテ→ピアニシモの強引な幕引きでオケが姿を消した後、あらん限りの力を込めて
Aメロを歌う孤高のヴァイオリン。オケのフォルテの残響の中から浮かび上がってくる
その音色は、神々しさすら湛えている。
04:31
しかしその健闘もむなしく、ひとしきりAメロを積み上げたところで、再びオケが集団で
割り込んでくる。ソロ・ヴァイオリンはAメロの末尾をトゥッティに奪われ、オケはそれを
もぎ取るようにして終わらせると、間髪を入れずにチェロが16ビートのリズムを刻み始め、
曲がBメロに逆戻りする。
04:44
ソロ・ヴァイオリンは木管楽器の後塵を拝し、Aメロで上昇したテンションを切り替えて、
今度は一からBメロを積み上げていかなければならない。オケの横暴に翻弄される
ソロ・ヴァイオリン。溜まっていく鬱憤。高まっていくエントロピー ・・・ ・・・
オケはソロ・ヴァイオリンと対峙するかたちで登場し、ソロ・ヴァイオリンが積み上げた楽想を断ち切って逆のメロディを開始する。ソロ・ヴァイオリンはその度に気勢をくじかれ進路変更を余儀なくされるのだ。
「アレグロで、オーケストラが分厚い壁のように進路を阻んでいるときに、
ヴァイオリン一艇で切り込んでいくほど、私が自虐的だと思うかね?」
サラサーテはそう言って、献呈されたシベコンの楽譜をすぐさま破り捨てたという ・・・ というのは真っ赤な嘘で、残念ながらサラサーテとシベコンの邂逅の記録はない。サラサーテはシベコン初演の4年後に鬼籍に入っている。でも、もしもサラサーテがシベコンに出会っていたら、彼はこの曲に対してブラコン以上に冷ややかな対応をしただろう、と私は思う。
ブラコンの第2楽章冒頭では、オーボエとソロ・ヴァイオリンが同格に扱われ、両者の力関係が「オケ=ソリスト」に変化していた。サラサーテはその変化が気にくわなかったわけだが、シベコン第3楽章でオケが見せる存在感は、ブラコンのオーボエ・ソロをはるかに上回っている。ここではオケが圧倒的な存在感でソロ・ヴァイオリンを封じ込め、両者の力関係は「オケ>ソリスト」に逆転している。ヴァイオリン協奏曲におけるこのような力の逆転は、「オレ様」ヴァイオリニストのサラサーテとは全く相容れないものである。そしてこの逆転こそが、シベコンを「協奏曲」ではなく「ヴァイオリン・ソロの付いた交響曲」たらしめる理由になっているのだ。
しかし、ここでひとつの疑問が湧く。
なぜシベリウスはこのような逆転を行ったのだろう。
「ヴァイオリン協奏曲」ではなく「ヴァイオリン・ソロの付いた交響曲」を目指すことで、
彼は聴き手に何を伝えようとしたのだろう。
「それは、やはりビートだろう。」
というのが、私の個人的な意見である。 ( 第16回へつづく )
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~ お知らせ ~
シベコンがTV放映されます。
今回オンエアされるのは、9月のN響定期公演の録画です。
ソリストはロシア出身のミハイル・シモニアンくんです。
この演奏、私とカスタマーたかの判定はNGなのですが、
皆さんはどんな感想を持たれるでしょうか。
9月26日(日)午後9時~ NHK教育「N響アワー」←本日です!
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