ガンバレ よし子さん

手作りせんきょ日記

「協奏曲」と「交響曲」

2010年09月26日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調

この曲を「協奏曲」ではなく、「ヴァイオリン・ソロの付いた交響曲」と仮定する。
「協奏曲」と「交響曲」の一番の違いは、管弦楽部、つまりオケの影響力にある。ふつう「協奏曲」といえば、ほとんどの場合、独奏楽器がメインであり、オケが曲に与える影響はゼロに等しい。しかし「協奏曲」が交響的性格を強め、「交響曲」に近づいていくと、それに比例してオケの影響力も増していく。前者における力関係が「オケ<独奏楽器」であるのに対し、後者では、「オケ=独奏楽器」、さらには「オケ>独奏楽器」となるケースが出てくるのだ。それを踏まえた上で、第3楽章をもう一度聴き直してみよう。

この曲の第3楽章は
A-B-A-B-A´
のロンド形式で、AメロとBメロのふたつの楽想が交互に現れる構成になっている。
これを楽想ごとに5つのブロックに見立てて、メロディを演奏するパートを登場順に
書き加えていくと、次のようになる(時間はキョンファ盤による)。

第1ブロック:Aメロ
00:07 ソロ・ヴァイオリン
第2ブロック:Bメロ
01:19 第1・2ヴァイオリン と チェロのユニゾン
01:58 ソロ・ヴァイオリン
第3ブロック:Aメロ
03:22 トゥッティ
03:35 ソロ・ヴァイオリン
04:31 トゥッティ
第4ブロック:Bメロ
04:44 クラリネットとファゴット
05:21 ソロ・ヴァイオリン
第5ブロック:Aメロを素材にしたコーダ
06:25~ラスト ソロ・ヴァイオリン  オケ が入り乱れる

オケを青色、ソロ・ヴァイオリンを赤色で表示しているのだが、これを見ると、第1ブロックを除いた各ブロックで、最初にメロディを演奏するのは青色のオケであることがわかる。例えば、第2ブロックでは、まずオケのユニゾンが、直近のAメロと異なるBメロを歌って楽想を切り替える。オケはそのままBメロを30秒間歌い続け、ソロ・ヴァイオリンは、オケがBメロを歌い終えた後でようやく登場し、オケからメロディを引き継いで、それを繰り返す。ひとつのブロックの中でソロ・ヴァイオリンの歌が後回しになっているのだ。


ふつうの協奏曲は順序が逆ではないだろうか。お手本となるメロディを、まず独奏楽器が演奏し、それがオケに引き継がれて曲が進行するのではないだろうか。
そう思って、手持ちの他のヴァイオリン協奏曲(→ メンデルスゾーン、ブラームス、チャイコフスキー)の第3楽章も同様にメロディの受け渡しの順番をチェックしてみると、やはりこれらの3曲では、作曲家が磨き上げた自慢のメロディを最初に披露するのはソロ・ヴァイオリンであった(ただ、メンデルスゾーンのBメロについては一瞬首をかしげてしまった。ここは一聴すると、オケのトゥッティがメロディを呈示して楽想を切り替えているように感じる。しかし、よく聴いてみると、オケはBメロの最初の4小節を繰り返しているだけで、威勢よく始まったトゥッティはやがてソロ・ヴァイオリンに乗っ取られ、最終的にBメロを完成へ導くのはソロ・ヴァイオリンである)。

これは当然といえば当然である。第12回のテキストで書いたとおり、ロマン派の時代はヴァイオリンが楽器の花形に躍り出た時代であり、ヴァイオリニストがスターだった。当時のヴィルトゥオーソ達を取り巻く聴衆の熱狂ぶりを読むと、彼らの存在は、私の世代でいうところのマドンナやマイケル・ジャクソン並みの影響力を持っていたようだ。同時に、旧体制の崩壊と市民の台頭という時代の変化の中で、貴族のサロンのBGMだった音楽はビジネスに姿を変え、コンサートはお客さんが集まらなければ成り立たないイベントとなった。客を集めるにはまずスターが必要。スターを呼ぶにはその輝きにふさわしいヒット曲が必要。というわけで、ロマン派の作曲家がこぞってヴァイオリン協奏曲を書いた背景には、ヴィルトゥオーソ・ブームと連動した集客効果や商業的成功を見込んだ下心があったのは否めない。そのため、当時のヴァイオリン協奏曲には、ソリストを中心に据えた曲構成のパターンが、どの曲にも慣例的に採用されている。そのパターンを箇条書きにすると、次のようになる。

1)メロディの受け渡しの順序は「ソリスト→オケ」
2)曲中の力関係は「ソリスト>オケ」
3)ソリストには常に主役の座が用意されている。

これに対して、シベコンの第3楽章では、主に「オケ→ソリスト」という、 1) とは逆の順序でメロディの受け渡しが行われている  ・・・ と、ここまで読んで、
「じゃあ、アレはどうなの?」
と思ったあなた。
はいはい、アレですね。わかってますとも。ここはやはりブラームスのヴァイオリン協奏曲のオーボエ・ソロにも言及しなければいけませんね ・・・ というわけで、しばしの間、話がシベコンからブラコンへ逸れてしまうのをお許しいただきたい。

実を言うと、 1) と逆パターンのメロディの受け渡しは、ブラームスのヴァイオリン協奏曲で既に採用されている。ただしブラームスの場合、第3楽章ではなく第2楽章にこのパターンが現れる。この曲の第2楽章冒頭では、ソロ・ヴァイオリンがなかなか出てこない。ソロ・ヴァイオリンの出番が来るのは、開始から2分40秒後(時間は手持ちのジネット・ヌヴー盤による)で、その間はオーボエがソロを取ってAメロを歌う。オーボエはソロ・ヴァイオリンを差し置いて、オケをバックに、いつ果てるとも知れない、息の長い、同時にとても美しいメロディを連綿と歌い抜く。だからこの楽章の冒頭はまるでオーボエ協奏曲を聴いているようで、とにかくオーボエばかりが目立つ。

「アダージョでオーボエが全曲で唯一の旋律を聴衆に聴かせているときに、
ヴァイオリンを手にしてぼんやりと立っているほど、私が無趣味だと思うかね?」

サラサーテがそう言ってブラームスのコンチェルトにケチをつけた、というのは有名な話だ。他の楽器が自分より目立つなんてもってのほか、そう公言するサラサーテに「オレ様」な印象を抱くのは、私が21世紀に生きる現代人だからで、時代を19世紀後半に遡れば、当時の音楽シーンはやはりヴィルトゥオーソ中心に回っていて、ソリスト最優先の曲作りが当たり前のこととして受け止められていたのだろう。

ブラームスのヴァイオリン協奏曲はそのような「当たり前のこと」に対する反動から生まれた。ブラームスはサラサーテがブルッフのコンチェルトを演奏するのを聴いて感動し、しかし同時に、その演奏が技巧の発露だけで終わっていることに疑問を感じ、自分ならもっとうまく書けると豪語してヴァイオリン協奏曲を書き始めた。だからブラコン(←ブラザー・コンプレックスじゃないよ、ブラック・コンテンポラリーでもないよ、)には、上述の 1) から 3) の慣例的パターンを乱すような反則技が、しばしば現れる。アダージョ楽章で「オケ→ソリスト」のメロディの受け渡しが行われるのも、そのひとつだ。ブラームスはここで、従来ソロ・ヴァイオリンだけに与えられていた優位性を他の楽器にも与えることで、それまで「オケ<ソリスト」だった曲中の力関係を、「オケ=ソリスト」へと変化させている。この他にも、ブラコンを聴いていると、第1楽章でソロ・ヴァイオリンがなかなか登場しないとか、登場してもなかなか主題に入らないとか、慣例的なパターンに慣れた聴き手の足元をすくうような反則技がいろいろ出てくる。初心者の私などは、はじめて聴いた時に、この本題に入るまでの前置きの長さに耐えかねて、途中でCDを聴くのを放棄してしまったくらいだ。
ブラームスはこのような試みを通して、ヴィルトゥオーソ偏重の曲作りを相対化して、音楽が本来あるべき姿を聴き手に問いかけているように見える。それは間接的に、それまで神のごとく絶対化されていたヴィルトゥオーソの存在を相対化する試みでもあった。したがって、ブラームスの反動がサラサーテにとって面白いわけがなく、機嫌を損ねたサラサーテは、この曲を生涯一度も演奏しなかったという。

話をシベコンに戻そう。
シベコンの第3楽章では、ブラームスが行った慣例的パターンの相対化が、更に念入りに行われている。まず「オケ→ソリスト」のメロディの受け渡しであるが、ブラコンでは一度きりなのに対し、ここではそれが反復して行われる。冒頭で色分けして示したとおり、第2ブロックから第4ブロックまで、3回に渡って、オケがソロ・ヴァイオリンに先んじてメロディを演奏している。さらに、オケの人数が多い。ブラコンで先制攻撃を仕掛けたのがオーボエ奏者一人であるのに対し、シベコンではユニゾンやトゥッティといった集団がソロ・ヴァイオリンの機先を制している。特に第3ブロックから第4ブロックにかけてはそれが顕著で、ここで数に勝ったオケが見せる、ソロ・ヴァイオリンを隅に追いやるような傍若無人な振る舞いには、目を見張るものがある。 ・・・ といっても、いまひとつぴんとこない方が多いと思うので、この部分をさらに詳しく書いてみる。

02:44
ソロ・ヴァイオリンが3連符の連続でBメロを変奏する。素人にはよくわからないが、
かなり難しそう。ソリストが熱演を繰り広げ、聴き手も自然に力が入るところだ。
03:20
オケが見る見るうちに集結し、ソロ・ヴァイオリンの前に立ちはだかったかと思うと、
全員参加の大音量で、Aメロを歌い出す。シベコンファンならおわかりだろうが、
このトゥッティの破壊力は凄まじいものがある。私はこの8小節を聴くたびに、
足元の地面が真っ二つに割れて、その下から新しい大地が、がががっと隆起してくる
地殻変動をイメージする。天地創造のスペクタクルが頭の中で繰り広げられるトゥッティ
なんて、他のヴァイオリン協奏曲ではついぞ体験できない。
03:45
フォルテ→ピアニシモの強引な幕引きでオケが姿を消した後、あらん限りの力を込めて
Aメロを歌う孤高のヴァイオリン。オケのフォルテの残響の中から浮かび上がってくる
その音色は、神々しさすら湛えている。
04:31
しかしその健闘もむなしく、ひとしきりAメロを積み上げたところで、再びオケが集団で
割り込んでくる。ソロ・ヴァイオリンはAメロの末尾をトゥッティに奪われ、オケはそれを
もぎ取るようにして終わらせると、間髪を入れずにチェロが16ビートのリズムを刻み始め、
曲がBメロに逆戻りする。
04:44
ソロ・ヴァイオリンは木管楽器の後塵を拝し、Aメロで上昇したテンションを切り替えて、
今度は一からBメロを積み上げていかなければならない。オケの横暴に翻弄される
ソロ・ヴァイオリン。溜まっていく鬱憤。高まっていくエントロピー ・・・ ・・・


オケはソロ・ヴァイオリンと対峙するかたちで登場し、ソロ・ヴァイオリンが積み上げた楽想を断ち切って逆のメロディを開始する。ソロ・ヴァイオリンはその度に気勢をくじかれ進路変更を余儀なくされるのだ。

「アレグロで、オーケストラが分厚い壁のように進路を阻んでいるときに、
ヴァイオリン一艇で切り込んでいくほど、私が自虐的だと思うかね?」

サラサーテはそう言って、献呈されたシベコンの楽譜をすぐさま破り捨てたという ・・・ というのは真っ赤な嘘で、残念ながらサラサーテとシベコンの邂逅の記録はない。サラサーテはシベコン初演の4年後に鬼籍に入っている。でも、もしもサラサーテがシベコンに出会っていたら、彼はこの曲に対してブラコン以上に冷ややかな対応をしただろう、と私は思う。

ブラコンの第2楽章冒頭では、オーボエとソロ・ヴァイオリンが同格に扱われ、両者の力関係が「オケ=ソリスト」に変化していた。サラサーテはその変化が気にくわなかったわけだが、シベコン第3楽章でオケが見せる存在感は、ブラコンのオーボエ・ソロをはるかに上回っている。ここではオケが圧倒的な存在感でソロ・ヴァイオリンを封じ込め、両者の力関係は「オケ>ソリスト」に逆転している。ヴァイオリン協奏曲におけるこのような力の逆転は、「オレ様」ヴァイオリニストのサラサーテとは全く相容れないものである。そしてこの逆転こそが、シベコンを「協奏曲」ではなく「ヴァイオリン・ソロの付いた交響曲」たらしめる理由になっているのだ。

しかし、ここでひとつの疑問が湧く。
なぜシベリウスはこのような逆転を行ったのだろう。
「ヴァイオリン協奏曲」ではなく「ヴァイオリン・ソロの付いた交響曲」を目指すことで、
彼は聴き手に何を伝えようとしたのだろう。

「それは、やはりビートだろう。」
というのが、私の個人的な意見である。         ( 第16回へつづく )


*** *** *** *** *** *** *** ***

~ お知らせ ~
シベコンがTV放映されます。
今回オンエアされるのは、9月のN響定期公演の録画です。
ソリストはロシア出身のミハイル・シモニアンくんです。
この演奏、私とカスタマーたかの判定はNGなのですが、
皆さんはどんな感想を持たれるでしょうか。

9月26日(日)午後9時~ NHK教育「N響アワー」←本日です!



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シベコン by 神尾真由子(5)の前に

2010年09月08日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調

第3楽章はティンパニと低弦の奏でる力強いリズムで幕を開ける。
それまでの神秘的かつ幻想的な情景が一変し、生々しい躍動が解き放たれるオープニングは、聴き手の心に少なからぬ驚きを呼び起こす。

私ははじめて聴いた時の驚きを今も忘れない。
ズンドコ、ズンドコ、ズンドコ、ズンドコ ・・・ という例のリズム、ヤルヴィ指揮シンシナティ響の演奏するこの部分について、「バッファローの群れがやってくるのか?」と、ブログでコメントしていた人がいて、うまいこと言うな~と感心してしまったが、その時は私も足元がぐらぐらと揺れているような錯覚を覚えた。

ヤルヴィは決して強奏するタイプではない。だから私を揺り動かしたのは音量ではない。弓で擦るよりは叩くといった低弦パートの奏法のせいか、音の一つ一つにエネルギーが充填されていて、そこに打楽器を加えた強靭なベースラインが絶えず聴き手に揺さぶりをかけてくる。スコアから掬い取ったイメージを他者と共有するのが指揮者の仕事で、彼の場合その情熱が桁外れなのは前から知っていたが、この時は彼のイメージがオケの隅々まで浸透して増幅され、波になってこちらに迫ってくるようだった。

話は2009年11月に遡るが、実を言うと私はその時までシベコンを聴いているのが退屈だった。以前書いたように、私はソリストが庄司紗矢香という理由だけで演奏を聴きに行ったので、曲についての前情報をほとんど持っていなかった。しかしいざ聴いてみるとこの曲は予想を超えて巨大で、手ぶらの初心者には到底太刀打ちできない。事前に一度でも聴いておけばよかったと後悔しても後の祭りで、第1楽章では曲の途中で迷子になったし、第2楽章で呈示される神秘的世界も自分からは遠く隔たった印象で、全く曲の中に入れなかった。ヤルヴィの演奏にはいつもならわくわくするようなグルーヴがあるんだけど、今回は不発かな。私はそう思って、アクティブな聴き手になることを半ばあきらめかけていた。

しかしオケの反撃はここから始まった。冒頭の怒涛のズンドコ節は私が待ちに待った反撃ののろしだった。何よりも強く私の心をとらえたのは、リズム隊(←低弦と打楽器を指す)の刻むベースラインがしっかりとダンスビートを感じさせていたこと。第3楽章はもともと舞曲とされるが、そんなインフォメーションがなくてもこのベースラインを聴いただけで、ヤルヴィの意図は火を見るよりも明らかだった。



この曲は
A-B-A-B-A´
のロンド形式で、AメロとBメロが交互に現れる構成になっている。
Aメロ、Bメロともに拍子は3拍子だが、このリズムはワルツと呼ぶにはあまりにも荒々しく土着的だ。Aメロのズンドコ節のリズムは上述のとおりバッファローの突進だし、Bメロはズンドコ節に比べればいくぶん垢抜けているものの、ズンチャッチャ、ンチャーチャ、ズンチャッチャ、ンチャーチャ、とチェロが刻むリズムパターンは、優雅な舞踏会よりもむしろ焚き火を囲んだインディアンの踊りにふさわしいだろう。

Aメロのリズムを8ビートに例えるならBメロのリズムはもう少し複雑な16ビートといったところで、このふたつのリズムが交替でヴォーカル(←ソロ・ヴァイオリンを指す)をけん引し、曲を前進させる駆動力になるのだが、ヤルヴィは異なるリズムの書き分け(弾き分け?)が見事で、それを巧みに操って聴き手をダンスの陶酔へと誘い込んでいく。特にAメロのズンドコ節は、このリズムパターンをサンプリングしてループで流したら一晩中踊れるんじゃないかってくらい腰に響いた。

私の血が騒いだのは言うまでもない。さっきまであきらめかけていた反動も手伝って、
きたきたきた~、 と俄然前ノリになってしまった。

というわけで、ビートの利いたノリノリのダンスミュージックというのが、初めて聴いた時の第3楽章の印象だった。ヤルヴィの演奏は、それまで手が届かない遠い存在だったシベコンを一気に身近に引き寄せてくれた。

でもしばらくすると、ほんとにこれでいいのだろうか、と自分の聴き方に疑問を抱くようになった。第3楽章の最初の印象が、時間の経過と共にいささか偏った、不適切なもののように感じられてきたのだ。

原因は私の中に起こった変化にある。私はこの曲に魅せられて、その後立て続けに5枚のCDを聴くことになった。はじめのうちは第3楽章の興奮の記憶を追体験するのが嬉しくて、ズンドコ節が始まるとつい伴奏に重心が偏って、耳がリズム隊ばかり追いかけていた。でも世間にはいろんなシベコンの演奏スタイルがあり、第3楽章があった。5種類の演奏を聴き終えた私はやがてこう考えるようになった。
ヤルヴィのリズム感が優れているのは確かだ。その演奏に私は強くインスパイアされた。
でもそれはひとつの解釈に過ぎない。そこに強い共感が生まれたのは、
たまたま私の嗜好と彼の解釈がうまく一致したからだ。
だから他のシベコンの演奏をその印象になぞらえて聴いても意味がないし、
それは曲の本来あるべき姿を歪めることになるだろう。
経験に勝る知識はない。気がつくと私は聴き手として一段高いステージに上がっていた。

同時に私はシベコンの情熱的な部分だけでなく、静謐な部分にも目を向けるようになった。CDを繰り返し聴くうちに、私はソロ・ヴァイオリンの紡ぎ出すスピリチュアルな調べに歩調を合わせることができるようになった。そしてその調べに寄り添いながら第1楽章と第2楽章の中をくまなく歩き回り、それらが内包する謎を少しずつ視認できるようになった。そのようにしてシベコンの世界に深くコミットするようになると、当たり前ではあるが、やはりもっとヴァイオリンを聴かなければと思うようになってくる。そしてこの重層的で深遠なシベコンワールドの前では、自分が第3楽章に抱いた最初の印象が、なんだか矮小で脇道にそれたものに感じられてくるのだった。

だってCDを聴くと、ソロ・ヴァイオリンは第3楽章で相当難しいことをやっている。世界で一流とされるヴァイオリニストが皆一様に、まるで尻に火が付いたような切迫感を漂わせてこの楽章を演奏しているのだ。しかしどういうわけか私の記憶の中にヴァイオリンの姿はない。あの日の記憶から蘇ってくるのは、オケが刻む強靭なリズムと、それによって生まれるフィジカルな興奮と、バッファローの突進と、インディアンの踊り。どこをどうひっくり返してもヴァイオリンの記憶なんか出てこない。オケの伴奏の印象が強烈なあまり、庄司さんのプレイはすっかり消し飛んでしまっている。
いくら私がヴァイオリンの知識が乏しいとはいえ、そして踊れる音楽が好きとはいえ、
これはあまりにお粗末な結果ではないだろうか。
これではとてもヴァイオリン協奏曲を聴いたとは言えないのではないだろうか。

さらに私はヤルヴィの演奏スタイルにも疑問を感じはじめた。
そもそもあのダンスビートは伴奏のレベルを超えていたのではないだろうか。
オケの音がヴァイオリンの音に覆い被さってソリストのパフォーマンスを妨げる、
というようなことはなかっただろうか。
庄司さんの演奏がいまひとつさえない印象だったのは、本来は主役であるヴァイオリンが
オケによって脇に押しやられたせいではないだろうか。
ひょっとしてヤルヴィのアプローチは曲想を逸脱していたのではないだろうか。
果たしてシベリウスはそのような音楽の姿を求めていたのだろうか。

それからしばらくの間、シベコンが第3楽章のズンドコ節にさしかかるたびに、
私の心にはこのようなあてのない疑問が湧きあがることになった。

でもある日、私はCDの解説を読んでいてひとつの言葉に目を止めた。
その時読んでいたのは千住真理子盤に添えられた曲目解説である。一部を引用してみる。

「この曲は、管弦楽部が独創的な手法をもち、きわめて充実している。ふつう協奏曲
といえば、独奏者の技巧を誇示するため、演奏にはかなりの難技巧が必要だが、
この曲はそれ以上に、交響的性格が強くあらわされている。」

私の心の琴線に触れたのは「交響的性格」という言葉だった。私はそれに近い表現をどこかで読んだことがあった。そこで記憶の糸をたぐりよせ、今度はジュリアン・ラクリン盤の解説を引っ張り出して読んでみた。そこにはこう書いてあった。

「この作品はシンフォニー作家であるシベリウスの特徴がよく表れているもので、
ヴァイオリンの華麗な技巧や展開が全面に打ち出されたものではなく、
あくまで交響曲としての曲想のなかに独奏ヴァイオリンが溶け込んでいる。
その意味では従来のヴァイオリン協奏曲には見られなかった、
シベリウスならではの個性が見られるものとなっている。」

私はこれらの解説をはじめて読んだわけではなかった。
過去にCDを聴きながら何度となく目を通していた。初心者の私はそこに書かれた言葉を手掛かりにシベコンの不思議を解き明かそうと試みたのだ。残念ながらその時は筆者の言わんとすることがよくわからなかった。しかし経験に勝る知識はない。シベコンをいやというほど聴き込んだ今になって読み返してみると、ふたつの解説が暗示する内容に、いくつかに思い当たることがあった。それは私にこうほのめかしているようだった。

「ぶっちゃけ、これって交響曲だよね。だってこのスケール感は
ヴァイオリン協奏曲の範疇をとっくに超えて、もはや交響曲レベルだもん。
だからこの曲を聴く時は、これから交響曲を聴くんだという心構えが必要で、
それなしで、一般的なヴァイオリン協奏曲のつもりで聴き始めると
君はとんだ返り討ちにあうことになる。なにせ交響曲だからね。
シベリウスはそのつもりで書いているからね。ヴェートーヴェンの9番が
合唱付きの交響曲であるように、シベコンはヴァイオリン・ソロの付いた交響曲なんだ。
この曲を聴く君には、ぜひそのへんを承知した上で演奏に臨んでほしいな。」

というわけで、私は今までの経験をいったんリセットして、
シベコン第3楽章を、交響曲を聴く気持ちで一から聴き直してみた。
するとそこには興味深い発見があった。           ( 第15回へ続く )


*** *** *** *** *** *** *** ***

~ お知らせ ~
シベコンの演奏会が下記の日程で生中継されます。
9月10日(金)午後7時~午後9時10分 NHKFM「ベストオブクラシック」←本日です!



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シベコン by 神尾真由子(4)

2010年07月16日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調

ヴァイオリン独奏:神尾真由子
指揮:イルジー・ビェロフラーヴェク
管弦楽:BBC交響楽団
2010年5月12日の演奏会より第2楽章
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第2楽章は静かなクラリネットの二重奏で幕を開ける。
クラリネットのフレーズをオーボエとフルートが引き継ぎ、
ティンパニのトレモロが真夜中を告げると
夜行性の小動物のように、暗闇のあちこちで管楽器が動き出す。

月の光が地上を照らす中、ソロ・ヴァイオリンが密やかにAメロを歌う。
ピチカートでミステリアスな情景を添えていた弦パートが裏にまわり、
入江に寄せるさざ波のように一定のリズムを刻んで徐々に響きを高めると
ソロ・ヴァイオリンの旋律が満ち潮のように緩やかに上昇しながら高揚する。
やがて訪れるピークを挟んで旋律は下降に転じ、
ゆっくりと弛緩しながら振り出しに戻り、
そこでひとつのループが完結する。
満ち足りた気持ちでAメロの余韻をなぞるヴァイオリン。
この昇降がもっと続けばいいのに。淡い期待が胸に浮かぶ。
ひたひたと打ち寄せる弦のさざ波が、ループの連続性を予感させる。

でもその期待を裏切って場面は一変する。
厚い雲が月を覆い隠し、世界が闇に包まれる。
出し抜けに短調のBメロが現れて、
弦パートのユニゾン→トランペット→オケのトゥッティと、
次々に呼応しながら瞬く間に大きく渦巻いていく。
冷たく重い水がさざ波に流れ込んで混じり合う。
各パートは主張したかと思うとすぐに引っこんで、フロントがくるくる替わるから
フレーズが乱立してどれがBメロの旋律なのかわからない。
変化が一度に起こるせいで、
ただ漠然と聴いているだけでは回線がショートしてパニックに陥りそうになる場面だ。
でも急激な展開をあわてて追いかけても道に迷うだけ。
たしか第1楽章にもこんな場面があった。
庄司さんの演奏で、同じようにして出口のない森を彷徨ったのを覚えている。
急展開は見せかけだ。背後でシベリウスはひっそりと聴き手に謎を問いかけている。
そう思って辛抱づよく音楽に耳を澄ませていると
やがてそこに微かではあるが一貫した流れがあることがわかる。
さらにじっと耳を澄ませると、
短調のフレーズは
元をたどれば楽章の冒頭のクラリネットの二重奏に辿り着き、
突然の転調は、もともと曲が内包していた音符の噴出に過ぎないことに思い至る。
AメロもBメロも根っこは一緒。光も闇も同じひとつの心から生まれている。
聴き手は時間の経過とともに、その表と裏を見ているのだ。

オケのトゥッティの嵐が止み、静寂の中でソロ・ヴァイオリンが歌う短調のアリア。
シベリウスはここでせめぎあうふたつの心を重音に託して息詰まる場面を作り出す。
アリアは冒頭から二声に引き裂かれている。
高音はループに復帰して前に進もうとする心。低音は暗闇で停滞しようとする心。
交錯する光と影のように二声が入れ替わり、せめぎあい、進路を奪い合う。
神尾さんが繰りだす超絶技巧を、聴衆が固唾をのんで見守っている。

どうしてこんなことがわかるんだろう。
私は不思議に思う。
私の耳がここまで深いドラマを読み取れるはずがない。
私の耳はまだそこまで訓練されていない。
家でCDを聴く時もこのへんは聞き流していた。アダージョ楽章、眠くなる、
はやくノリノリのアレグロが聴きたい、とか思って。
重音はただハモっているだけに聴こえたし、楽章全体についても
ふつうに美しい緩徐楽章という印象しかなかった。
それが神尾さんの見事な重音のワンプレイをきっかけに一転した。
今まで絵だと思って見ていたものが、実は彫刻だったと気づいたみたいに、
そこにある精緻な仕組みを、いろんな角度から見て理解することができた。

やがてソロ・ヴァイオリンの高音が、決心したようにいっきに音階を駆け上がり、
残された低音は力尽きてオーボエに吸収される。
メランコリックなアリアから解放されたソロ・ヴァイオリンは奔放な走句へと姿を変えて
さらなる高みを目指して昇降を繰り返し、
ソロ・ヴァイオリンからアリアを引き継いだオーボエはヴィオラと合流し、
ヴィオラの旋律はいつのまにか長調のAメロの始点に回帰し、
Aメロの旋律がオケ全体に伝播し(このへんのシベリウスの書法はすごくトリッキー。天才的!)、
ソロ・ヴァイオリンの高音の走句が上昇するAメロをきらきらと美しく装飾して、
やがて迎える2回目のピーク。

たぶん、シベリウスの技巧に対する独自のこだわりが引き起こした現象だ。
私はそう思う。
シベコンにおいて技巧は心象風景と分かちがたく一体となっている。
技巧は物語を進める契機として重要な役割を果たしている。
そのため技巧は時として物語のより深い部分にアクセスするためのパスワードになる。
それは迷宮に続く隠された扉のようなものだ。
ひとつの技巧をきっかけにリスナーのイメージが拡がって、
それがひとたびシベリウスの心象風景と共振すれば、
リスナーの意識はあっという間にシベリウスの意識とつながって
深い観念の世界に引きずり込まれる。
私にとってはあの重音がパスワードになった。
あの重音をきっかけに私の意識はシベリウスの意識とつながり、
そこで見た風景が私の経験値のレベルを一気に押し上げた。
一種の化学変化が起こった結果、私はひとつの分水嶺を越えたのだ。
そう考えれば説明がつく。
そんなことあるわけない、と思う人もいるかもしれない。
でも私は十分起こりうると思う。
この曲のイマジナティブなのりしろの大きさを考えれば、
それくらいの奇跡は起こっても不思議はないと思う。
それくらいの魔力がなくて、この急速に変化していく世の中で、
音楽が1世紀以上の時の試練を耐えられるだろうか。
それともうひとつ。
そこに神尾さんというファンタジスタの力が働いていることを忘れてはいけない。
この人はほんとうに、奇術師のように鮮やかなプレイをする。

昇降を終えて2周目のループが完結すると
Aメロが振り出しに戻って、みたび上昇を始める。
ソロ・ヴァイオリンが上昇する音符をやさしく刻んでAメロに情景を添えて、
フルートが下降する音符でソロ・ヴァイオリンと交錯する。
いくつもの泡がきらめきながら水面を目指して昇り、波間から差し込む光と溶け合うシーン。
ふと気がつくと、オケがさざ波のリズムを歌いだしている。
月を覆っていた雲もいつのまにかどこかへ消え失せている。
世界は元のループを取り戻し、この循環は二度と途切れることはないと月の光が教えている。


そして、ここからの、神尾さんの歌いっぷりときたら!

讃岐うどんのような音(中・低音だけでなく、もはや全ての音が讃岐うどんと化している)が、
どこまでも、伸びる、伸びる。
つるつるののどごしはとめどなく続き、
もちもちの歯ごたえは食べても食べてもなくならない。
これぞ神尾マジック。
まるで空っぽの箱の中から両端をつなぎあわせた色とりどりのハンカチを
次から次へと引っ張り出してくる手品みたいだ。


「 ・・・ 一体、いつまで続くんだ?」
私が呆然としてつぶやくと、
「ハンカチが1階席を埋め尽くすまで。」
神尾さんがクールに答える。
「で、でも、そんなにたくさん、いったいどこに隠しているの???」
「たねもしかけもありません。」

そして3度目の絶頂がやってくる。
オケとソロ・ヴァイオリンのユニゾンが力強く頂点を指し示すと
その5つの音符がカウントダウンになって、夜が明ける。


・・・ う~ん。ファンタジスタ ・・・

気がつけば妄想の中で二人で会話しているくらい、引き込まれてしまった。
ここは彼女が秘め持つ無尽蔵のポテンシャルを感じさせる、一番のハイライトだった。

昇ったばかりの新しい太陽の光に包まれて
Aメロの余韻を残しつつ最後のループが完結し、楽章が静かに幕を閉じる。

それにしても。
生演奏で聴く第2楽章のAメロの美しさは格別。
CDでもきれいなメロディだと思ったけど、生だと余韻がいっそう心にしみる。
シベリウスって幸せだなぁ、と私はつくづく思った。
神尾さんとか、庄司さんとか、その他大勢の若くひたむきな演奏家が
こうして夜な夜な、世界各地のコンサートホールで、
全身全霊をかけて美メロのテコ入れをしてくれるのだ。
作曲家冥利に尽きる。
天国でこの演奏を聴きながら、シベリウスはきっとそう思っているだろう。  ( 第14回へ続く )



*** *** *** *** *** *** *** ***

この演奏会のもようは下記の予定で放送されます。
7月16日(金)午後11時~午前1時15分 教育テレビ「芸術劇場」
←本日です!

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シベコン by 神尾真由子(3)

2010年07月15日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。

1904年に初演されたこの曲は、1世紀を経た現在もなお世界各地で演奏される名曲である。同様に、世紀を超えて愛されるヴァイオリン協奏曲は他にもいくつかある。近年演奏会で頻繁に取り上げられる曲をピックアップして年代順に並べると次のようになる。

1725年ごろ

ヴィヴァルディ作曲「四季」

1775年作曲

モーツァルト作曲ヴァイオリン協奏曲第5番「トルコ風」
1806年初演

ベートーヴェン作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
1810~1830年ごろ

パガニーニ作曲ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調「ラ・カンパネラ」
1845年初演

メンデルスゾーン作曲ヴァイオリン協奏曲ホ短調
1867年初演

ブルッフ作曲ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調
1879年初演

ブラームス作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
1881年初演

チャイコフスキー作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
1904年初演

シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調

このうちシベコンだけが20世紀に入って書かれた曲で、あとは19世紀以前に書かれた曲である。ここで注目すべきは、パガニーニ以降のコンチェルトはすべて超絶技巧曲になっている、という点である。メンコンにしろ、ブラコンにしろ、チャイコンにしろ、曲を構成する上でヴァイオリンの超絶技巧が欠かせない要素になっている。その理由は19世紀半ばから後半にかけて世界を席巻したヴィルトゥオーソ・ブームにある。この時代、ヴァイオリンは改良されて飛躍的に機能が向上し、従来より大きな音で、より華麗なプレイが可能になった。そこへパガニーニ、サラサーテといったヴァイオリン演奏の名人が登場し、カリスマ的テクニックを披露して聴衆を熱狂させた。特に、パガニーニの演奏はアクロバティックな技巧を誇示して観客を喜ばせる傾向を持っていた。彼らはヴィルトゥオーソと呼ばれ、世界各地でコンサートを行い、そのパフォーマンスは同時代の作曲家たちに大きな影響を与えた。その結果、パガニーニ以降に書かれたヴァイオリン協奏曲は超絶技巧満載の難曲路線へと進むことになった ・・・ というわけで、パガニーニ以降に書かれた6曲を演奏の難易度順に並べ替えると次のようになる。

1位:シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調
2位:パガニーニ作曲ヴァイオリン協奏曲第2番ロ短調「ラ・カンパネラ」
3位:ブラームス作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
4位:チャイコフスキー作曲ヴァイオリン協奏曲ニ長調
5位:メンデルスゾーン作曲ヴァイオリン協奏曲ホ短調
5位:ブルッフ作曲ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調

テクニカルな見地からいうとシベコンが最も難しい。個人的な感覚では、シベコンの難しさを100とすると、パガニーニとブラームスは90、チャイコフスキーは50、メンデルスゾーンとブルッフはせいぜい15といったところだろうか。 ・・・ と、まるで全ての曲が弾けるような口ぶりであるが、私自身は全くヴァイオリンを弾くことはできない。実はこのランキングには元ネタがあって、新交響楽団のヴァイオリニストの前田知加子さんのテキストがベースになっている。( 前田知加子さんのオリジナルテキストは こちら
新交響楽団は東京にあるアマチュア・オーケストラで、2005年10月の演奏会でシベコンを取り上げている。前田さんは本番では第2ヴァイオリンを、リハーサルではソリストの代役としてソロ・パートを担当し、その経緯から、楽曲解説としてこのテキストを同楽団のHPに寄稿したようだ。読めばおわかりいただけると思うが、やはり実際に演奏した人の言葉は重みが違う。「8倍」とか「5倍」とか、表現が具体的で文章に説得力がある。
しかし、ここでひとつの疑問が湧く。シベコンが「ラ・カンパネラ」を上回る超絶技巧曲だとしたら、それを生み出したシベリウスはパガニーニを超える超絶技巧ヴァイオリニストだったのだろうか ・・・ というわけで、上記ランキングの作曲者をヴァイオリンの腕前順に並べ替えると次のようになる。

1位:パガニーニ
2位:シベリウス
3位:ブラームス
選外:チャイコフスキー、メンデルスゾーン(ブルッフについては資料がないので割愛)

やはりヴァイオリンの鬼神といわれるパガニーニは別格である。しかしシベリウスもまた優れたヴァイオリン奏者だった。彼は作曲家を志す前はヴァイオリニストを目指していて、ウィーン・フィルのオーディションを受けたこともある。しかし、あがり症で人前で実力を発揮することができなかったため、演奏家への道を断念せざるを得なかった。ちなみに3位のブラームスも、そこそこヴァイオリンは弾けた。でもヴァイオリンよりピアノの演奏のほうが得意だった。選外の二人は鍵盤楽器が専門で、ヴァイオリンにはあまり詳しくなかった。
ヴァイオリンをろくに弾けない作曲家が、ヴァイオリンの超絶技巧曲を書くことができるのか、と疑問に思う人もいるかもしれない。しかしロマン派の作曲家に不可能はない。彼らの表現欲求はどんな困難をも乗り越えていく。作曲家に足りない知識や技術はその友人が補った。メンデルスゾーンはダーヴィト、チャイコフスキーはコチェークと、それぞれが腕利きのヴァイオリニストを技術アドバイザーに迎えて曲を完成させている。そこそこヴァイオリンが弾けたブラームスも、作曲の過程で友人のヨアヒムに助言を求めている。今で言うところのコラボレーション作業である。ヴァイオリンをろくに弾けない作曲家が、ある日突然ヴァイオリン協奏曲を書こうと思い立ち、自分に欠ける知識と技術を友人からパクってでも超絶技巧曲を世に送り出そうと試みる。このあたりに、当時の音楽界を席巻したヴィルトゥオーソ熱の高さが感じられる。

話をシベリウスに戻そう。彼はシベコンを独力で書き上げた。パガニーニには度胸で及ばないものの、シベリウスも自分のイマジネーションをそのままヴァイオリンのパフォーマンスに置換できるくらいの腕前を持っていた。彼は誰の力も借りずにこの曲を書いた。シベコンで繰り広げられるのは純度100パーセントのシベリウス・ワールドである。そこには先輩たちの作品に見られるような時代の熱に侵された高揚感はない。この曲で聴衆が最初に目に(耳に)するのは、素っ気ないくらい平熱の世界だ。たぶんこの曲が20世紀に入ってから書かれたせいだろう。1904年の世界ではヴィルトゥオーソ・ブームは既に過ぎ去っていた。シベリウスはヴィルトゥオーソ・ブームから時間的にも精神的にも遠く離れた場所でこの曲を書いた。19世紀との隔たりは、彼の技巧に対するスタンスにも色濃く現れている。これだけ技術的に難しい曲でありながら、シベコンには「どうだ、すごいだろう。」と聴き手を煽るようなニュアンスは微塵もない。あるのは徹底した自己探求のみである。技巧はアクロバットの披歴のためではなく、エゴの発露のためでもなく、ただ、より深く曲の世界に入っていくための契機として機能している。それらはシベリウスによってひとつひとつ念入りに検証された上で配置され、そのすべてが曲中の心象風景と分かちがたく結びついている。ひとたびイメージが共振すれば、聴き手の意識はすぐにシベリウスの意識につながることができる。この内省的なアプローチは、パガニーニおよびパガニーニ・フォロワーが提出するヴァイオリン腕自慢大会的な興奮とは異なる、特別な奥行きをこの曲に与えているように思う。そしてシベコンが提出する「内省された心象風景」は、今を生きる現代人のモードに合っていて、心にうまく引っかかる。近年この曲の演奏の機会が増えた理由はそのへんにあるんじゃないかと思う。

と、この程度ならもっともらしい文章がいくらでも書ける。でも、ここから先が問題なのだ。私の場合は。もし、ここまでのテキストを読んだ人のうちの誰かに「じゃあ、具体的にどの部分の、どの技巧が、どんな心象風景とつながっているの?」と尋ねられたとしても、私はすぐには答えられない。たとえば、前述の前田さんなら、重音の左指の動きの難しさをツイスターゲームに例えてわかりやすく説明できる。でも、私には前田さんのように具体的な、一歩踏み込んだ臨場感のある説明はできない。
だって、弾けないもん、ヴァイオリン。
弾けないどころか、楽器に触ったことすらない。
技巧については言うに及ばず、である。
前田さんが取り上げた重音にしたって、私の中では「高音と低音がハモっている奏法」くらいの認識しかない。よくそれでシベコン広報部長を名乗れますね、と前田さんは驚いてあきれるかもしれない。まあ、それはないとしても、引け目は常に自分の中にある。
私ごときでは本当の意味でシベコンを理解することはできないのではないか、
やはりヴァイオリン演奏に精通する人の理解の深さは及ばないのではないか、
所詮何を書いても前田さんほどの説得力は持ち得ないのではないか ・・・・。

しかし、この日の第2楽章を聴いて状況は一変した。
ここにも重音が登場する(キョンファ盤でいうと03:49のあたり)。転調と同時に暴れ出したオケが静まって、ソロ・ヴァイオリンが悲しげなアリアを歌うところだ。

ここで一艇のヴァイオリンから二つの音が聴こえてくる。
フロントで旋律を弾いているのは神尾さんひとりで
オケのヴァイオリン・パートは後ろに回っている。
でも、どういうわけか、聴こえてくる音が二つある。
重音。ダブルストップ。私はヴァイオリンを弾けないけど、そういう奏法があることくらいは知っていた。キョンファ盤CDを聴きながら、この部分は重音で弾いているんだろうな、と
ぼんやりと想像していた。
しかし
実際に弾いている様子は
私の想像を超えた、マジックのようなものだった。
私の席からは神尾さんの手元がよく見える。
でもいくら目を凝らしてみても
どうしてひとつの楽器から二つの音が同時に鳴るのか
不思議でならない。
もうひとつ気付いたことがある。私の認識では、「重音」=「高音と低音がハモっている」という程度だったが、それは間違いだった。
現場の状況はもっと複雑精緻で、
二声が同時にハモるのではなく、
高音のメロディと低音のメロディのそれぞれが意志を持ったように別々に動くのだ。
まるで手品だ、と私は思った。
100年前にシベリウスが仕掛けたトリックを
神尾さんは鮮やかな手さばきで次々に再生していく。

このプレイには特別な意味がある。
私はふとそう思った。
高音と低音。光と影。
このヴァイオリンは葛藤する二つの心だ。
そう思った瞬間、この曲の全てがいっぺんに理解できた。
まるで作曲をするシベリウスの傍らに立ってその頭の中を覗いたみたいに、
一瞬のうちに、一から十まで理解できたのだ。
これなら一歩どころか、十歩も二十歩も踏み込んだリアルな文章が書ける。

というわけで、前置きが長くなってしまったが、
神尾真由子ファンのみなさん、お待たせしました。
次回は記憶のVTRを巻き戻して第2楽章のスタート地点まで遡り、時系列に沿って演奏を再現しながら、私の中で起こった変化を検証してみる。もちろん、今までよりヴァージョン・アップした文章で。フフ。

でも、その前にウォーミングアップを兼ねて初歩的なインフォメーションをひとつ。
シベコンの第2楽章の内容を簡単に表すと

00:01~00:39
プロローグ
00:40~03:12
Aメロ(長調)の1回目
03:13~04:44
Bメロ(短調)
04:45~05:35
Aメロ(長調)の2回目
05:36~06:31
Aメロ(長調)の3回目(クライマックス)
06:32~08:08
エピローグ

となる(時間はキョンファ盤による)。ごらんのように、
この楽章はAメロの循環をベースにしてBメロが挿入される三部形式である。加えて、
Aメロの循環は一周を終えるごとにより高い始点に到達するらせん構造になっている。
( 第13回へ続く )

*** *** *** *** *** *** *** ***
この演奏会のもようは下記の予定で放送されます。
7月16日(金)午後11時~午前1時15分 教育テレビ「芸術劇場」←明日です!


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シベコン by 神尾真由子(2)

2010年05月25日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。

ウィキペディアによると、この曲の冒頭のテーマは2分の2拍子、続くサブテーマは4分の6拍子で書かれているらしい。しかし神尾さんの弾き始めは、拍子も自由、テンポも自由、指揮にもオケにも縛られない、というカデンツァ状態だった。指揮者のビェロフラーヴェク( 以下、ビェロ様 )のことは意識せず、ただ自分の中に湧きあがってくる旋律を、心の赴くままに奏でているように見えた。そりゃそうだ。マイペースでなかったら、こんな長いテーマ、最後まで弾き切れるわけがない・・・ と、これは私もキョンファ盤のCDで予測していた。シベリウスは第1楽章の冒頭部分について、「極寒の澄み切った空を、悠然と滑空する鷲のように」と述べている。鷲は空を飛ぶときに2分の2拍子とか4分の6拍子なんていうルールにはとらわれないのだ。

とはいえ、この曲は無伴奏曲ではなく協奏曲である。チャイコンみたいに模範的とはいえないが、この曲にもいちおう伴奏がある。テーマは鷲のように自由に滑空する。でもどんなに空高く飛んでも、最終的にオケの和音から切り離されることはない。曲自体はあくまで団体行動で動いていく。そこには「自由」と「協調」という二律背反のベクトルがあるのだが、それをうまくすり合わせてまとめていくのが、リーダーのビェロ様の役目である。彼はまず、自由に滑空するテーマをつかまえて、2分の2拍子の枠に入れなければならない。テーマを伴奏に乗せるためには、やはり拍子というルールが不可欠なのだ。というわけで、ビェロ様に目を転じると、なるほど、彼はちゃんと2拍子で棒を振っている。でもそれはふだん目にする指揮とはちょっと異なる行為に見えた。

ビェロ様はオケに向かって立ち、神尾さんは客席に向かって立っているので舞台上の二人はちょうど背中合わせの格好である。でもビェロ様は正面ではなく、絶えず斜め後ろの神尾さんに視線を向けている。そして、神尾さんのヴァイオリンがテーマを奏でると、「ほいきた!」とばかりに、それをタクトで2拍子に分割していく。
そうか、これならカデンツァ状態でも拍子がとれるのか
私は思わず膝を打った。(もちろん、心の中で。)
つまり、順序が逆なのだ。
指揮者が拍子を刻み、それに沿ってテーマが生成されるのではなく、
まずテーマが生まれ、指揮者がそれを即座に拍子へと分解していく。

でもこれって難しそう。
音が鳴ってから棒を振っても遅いのだ。指揮者は常にソリストの先を読み、予測を立てた上で棒を振らなければならない。ビェロ様は神尾さんの一挙手一投足に全神経を集中していた。たぶん、弓の上げ下げとか、圧力のかけ方とか、間合いとか呼吸とか表情とか、ありとあらゆるデータをかき集めて変化を読み、次に来る展開を予測するのだろう。そのためには、目や耳のみならず五感を総動員する必要がある。

同じような光景を、前にも見たことがある。
2009年ヴァン・クライバーン・コンクールで優勝した辻井伸之さんのドキュメンタリーだ。
コンクールのセミファイナルで、辻井さんはタカーチ四重奏団とシューマンのピアノ五重奏曲を演奏する。リハーサルで、リーダーの男性は「曲をスタートする時に、どんな合図を送ればいいのか。」と辻井さんに質問する。普段はメンバーがアイコンタクトで曲を弾き始めるのだが、辻井さんは全盲だから、アイコンタクトに代わる合図が必要になる。リーダーはそう考えて、まずそこを確認しようとしたのだ。それに対し辻井さんはこう答える。
「普段のままでいい。演奏前にメンバーが一斉に息を吸うのが聴こえるから、その音が合図になる。」本番はその言葉どおり奏者五人の出だしがぴたりと合って、辻井さんはファイナリストに勝ち残り、決勝も同じ要領で演奏して勝利を手に入れる。

この人は聴覚だけではなく、野生のカンみたいなものを駆使して演奏しているんだな、と私はそれを見て思ったものだが、この日のビェロ様も、辻井さんがタカーチ四重奏団に向けて発していたのと同様の、動物的緊張を漂わせていた。

この緊張をオケが感じないはずがない。
この曲の第1主題から第2主題までの伴奏はかなり変則的で、各パートの出番がモザイクのように断片的にちりばめられている。たいていの奏者は、演奏時間よりも休符を数えて出番を待っている時間のほうが長い。拍子が取りにくい上にテーマに抑揚がつくので、休符を数えて入りのタイミングをつかまえるのは至難の業だと思うのだが、ビェロ様の姿に野生の本能が刺激されたのか、みなさんどう猛にテーマに喰らいついてくる。一度タイミングを逃したら二度と挽回のチャンスはなく、その奏者は永遠に曲に入れないまま奈落の底へ落ちていく、というこの難所を、一人の落後者もなく、無事に切り抜けていた。(・・・と私は思ったのだが、この件については、ある人が異論を唱えていたようだ。詳細は後日。)

第3主題が静まると、オケはとたんに緊張が解けてやれやれという感じで、それにつられて私も一瞬気が抜けてしまったが、神尾さんはここからカデンツァに入る。

冒頭のオクターブで音を引っ張りすぎたのか、その後音程のコントロールを失いかけたので「あ~、ここから崩れるかな?」と、ハラハラするが、神尾さんは落ち着いて立て直した。ふぅ、あぶない。でもヒヤリとしたのはここだけだった。といっても、その後の演奏が完璧だったとは言い難い。まだ立ち上がりのせいなのか、高音が伸び切らず、音程を外す場面は何度かあった。その度に「がんばれっ!」と拳を握りしめて声援を送る私。(もちろん、心の中で) ・・・なんだかバンクーバー五輪の浅田真央の演技を見ているようで、とっても疲れるのだが、不思議なことに、神尾さんは毎回いつのまにかバランスを調整して体勢を立て直してしまう。

なんだろう、この柔軟さは?

その秘密は中低音にあった。
神尾さんの奏でる中低音は、つやつや、もちもちでハリがあり、分厚くてしなやか。
まるで、茹でたての讃岐うどん。
この弾力のある中低音が、ウィスパー並みの吸収力で、高音のゆがみやひずみを飲み込んで帳消しにしてしまうのだ。中低音の基盤を信頼しているから、ミスがあっても動じない。心理的なダメージを引きずることなく、すっきりと次にいく。そこには楽器の力ももちろん働いているだろう。神尾さんの使用楽器は1727年製ストラディヴァリウス。楽器がすごいのは織り込み済みだ。でもこの柔軟な調整力の源は神尾さんの中にある。それは間違いなく彼女のオリジナルな力だ。彼女は名器に負けないパワーを秘めている。恐るべし、讃岐うどん。

カデンツァの後で三つの主題が再現され、終盤からは急降下。
テンポを加速してコーダへ突入。
ツボを押さえた演奏、とでも言えばいいのだろうか。神尾さんは、曲の節目を必ずオケと揃えてくる。コーダは難所中の難所で、ソロ・パートには浅田真央のフリープログラム並みに要素が詰まっている。ここではソリストが細部まで丁寧に弾こうとするあまり、リズムに乗り遅れて伴奏の足を引っ張る、という事態が時として起こる。庄司さんがそうだった。でも神尾さんはオケとの縦の線が乱れない。それどころか、その表情には、オケが追い付くのを待っている余裕すら。
ひょっとして、途中で弾き飛ばしている箇所があるんじゃないかしら??
タイミングが合いすぎる、と言ったら変だが、あまりにも着地がきれいに決まるので、ついそんなふうに疑ってしまう。でも神尾さんの演奏に欠けている部分は見当たらない。その音は耳に馴染んだキョンファ盤のCDと同じように聴こえる。あるいはそこにある欠損は、私の耳では聴き取れないのかもしれない。フィギュア・スケートみたいにVTRで確認すれば、どこかに回転不足があって、減点の対象になるのかもしれない。でも私はジャッジじゃないから細かいところはわからないし、たとえミスがあっても神尾さんはかまわず前へ行くだろう。彼女にとってはエレメンツの完成度よりも、曲の流れが途切れないことや、曲に勢いを持たせることのほうが大切なのだ。

その意志は聴衆にしっかりと伝わっていた。
着地がひとつ決まると「よし!」という感じで聴衆がOKサインを出す。
そのサインは演奏者にすぐに跳ね返り、演奏者はさらに見事な着地を披露して
聴衆にもっと大きなOKサインを要求する。
両者のエネルギーが循環しながら大きくなっていくのが目に見えるようだった。

最後はステファン・ランビエールばりの高速スピンの後、ホップ・ステップ・ジャンプという感じで、内側に力をため込んでから、思い切ってドン!と飛び降りるのだが、神尾さんとオケの着地は最後まで乱れなかった。(・・・ って、フィギュアじゃねっつの。)

第1楽章終了後、1階席の真ん中あたりからパラパラと拍手が起こった。これは一般的にはタブーとされる行為である。楽章の間に拍手するなんて失笑もの、とばかりに黙殺されたが、実を言うと、私もここで拍手したい気持ちでいっぱいだった。
シベコンの第1楽章を、これだけの密度で破綻なく弾き切るなんて、もう、それだけで、
あっぱれである!快挙である!
この第1楽章だけで1万2千円の価値がある!
拍手で称えてしかるべきである!
でも私はそれを思いとどまった。まだ後半がある。ここで拍手を入れることは
演奏者の集中を妨げてしまうかもしれない。

第2楽章に入る前に、神尾さんとビェロ様は長いインターバルを取った。
呼吸を整え、調弦し、立ち位置を確認する。
照明の中に浮かび上がる二人は、どちらも引き締まった表情で、まるで後半の反撃に向けてコンディションを整えるハーフタイムのサッカー選手と監督みたいに見えた。
ここまでの演奏に、彼ら自身も手応えを感じているようだ。
私も暗がりの中でジャケットを脱いで後半に備えた。
開演前は空調が寒いくらいだったのに、第1楽章で興奮したせいか、
気がつくと、両脇がじっとりと汗ばんでいた。  ( 第12回へ続く )


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シベコン by 神尾真由子(1)

2010年05月18日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。

先日、この曲の素晴らしい演奏を聴いたので
予定を変更して、その演奏会について書くことにする。
演奏会の詳細は下記のとおり。久々に、タイムリーなエントリだ。

NHK音楽祭 plus
平成22年5月12日(水)
会場:NHKホール

エルガー:序曲「南国で」
シベリウス:ヴァイオリン協奏曲
トボルザーク:交響曲第9番「新世界から」

ヴァイオリン独奏:神尾真由子
指揮:イルジー・ビェロフラーヴェク
BBC交響楽団



イギリスはフィンランド以外で真っ先にシベリウスの音楽を評価した国である。そしてBBC響はイギリスの名門オケである。ゆえに、彼らのシベコンが充実した内容を持つのは間違いない。見事な三段論法である。そして、なんとも豪華な共演である。
シベコン広報部長の私(←?)としては、この共演を聴き逃すわけにはいかない。
それにしても、日本で演奏されるシベコンて、か・な・り、ハイレベル
「ヤルヴィ+庄司さん」 然り、
「BBC響+神尾さん」 然り、年末には
「ロンドン響+諏訪内さん」 という悩殺カードも控えている。
ソリストは世界を股にかけて活躍する日本人ヴァイオリニストばかりで広報部長(←?)もうれしい限りである。海外の音楽事情に詳しくないので断言はできないが、このメンツの充実度は地元フィンランドに勝るとも劣らないのではないだろうか。それだけ日本にこの曲のファンが多いということなんだろう。

ところで、テキスト冒頭に「予定を変更して」と書いたが、私はこのブログを下記の予定に沿って書いている。

1) まずシベコンの魅力を自分なりに噛み砕いてみなさんに紹介する
2) 1)を踏まえた上で、ヤルヴィの伴奏を分析しつつ庄司さんの演奏を総括する
3) 庄司さんにエールを送って締めくくる


当初はこのようなプランが念頭にあった。そして1月にこの演奏会のチケットを取った時点では、5月12日はまだまだ先で、時間はたっぷりあるように思えた。
「4ヵ月もあるんだから 1)から 3)までのテキストは余裕で書き終わるでしょ。
その後で神尾さんのシベコンの感想を、おまけにつければいいや・・・。」
カレンダーに予定を書き込みながら、私はそう思った。
しかし、ものごとはそう簡単には運ばなかった。月日は無情に過ぎ去り、あっという間に5月が到来。テキストはまだ 1)の途中で、なかなか先に進まない。この調子じゃ庄司さんの演奏に辿り着くのはいつになることやら・・・って、どーしよう、来ちゃったよ5月12日。
・・・ ヤバイ、頭の中に保存しておいた「シベコンby庄司紗矢香」のメモリが、新しい演奏で上書きされちゃう ・・・ あれー、おっかしいな、こんなはずじゃなかったんだけど・・・
ま、いいや。とりあえず記憶が鮮明なうちに、「シベコンby神尾真由子」のほうを先に総括してしまおう。

まず、チケット購入にあたり、私の中で絶対に外せない条件があった。
それは、ソリストと指揮者がよく見える席であること。
ふだんは、音が聞こえればいい、音のバランスが良ければステージからの距離にはこだわらない、サントリーホールなら2階のP席、NHKホールなら3階のC席で十分、というのが私のチケット購入時の基本方針である。でも今回はその方針を大きく転換した。
この演奏は、どうしても、1階席のソリストの近くで聴きたかった。
私がこの曲のCDをそれこそ数え切れないほど聴いた、というのは第8回のテキストのとおり。シベコンの第1楽章の冒頭部分の拍子の取りづらさについては第4回のテキストのとおり。冒頭から第3主題の開始まで、めっちゃ拍子の取りにくいこの部分で、ソリストとオケがどうやってタイミングを合わせているのか、CDを聴くたびに大きな謎で、実際の演奏がどんなふうに行われるのか、ぜひともこの目で確認したかったのだ。
( 第8回のテキストは こちら )
( 第4回のテキストは こちら )

とはいえ、S席やSS席は論外というもの。(海外オケのコンサートの一等席ってほんとうに高いのだ。)悩んだ挙句、落ち着いたのは左ブロック通路側の端っこ。A席とはいえ通路をはさんだ右側は中央ブロックなので、座ってみるとSS席とほとんど遜色がなく、この位置ならソリストと指揮者のやりとりがつぶさに見える!という良席である。NHKホールには何度も来てるけど1階席に座るのはこれが初めて。日々つましい生活を送る私にとって精いっぱいの贅沢である(涙)。
ちなみにこの演奏会はひとりで聴いた。いつもはじいや(←夫のこと)が付き添ってくれるので、単独鑑賞は久々である。もちろんこれには訳がある。いつも私たちが座るC席はA席の半額。この日は座席をA席にランクアップしたために、チケットを1枚しか買えなかったのだ。じい、ゴメン。迷いに迷った末の苦渋の選択だったのだ。しっかり留守を守ってくれ。そして10月のアーノンクールと11月のヤルヴィは一緒に聴こう。

・・・ 前置きはこれくらいにして本題に入ろう。
神尾真由子さんは2007年チャイコフスキーコンクールの覇者であり、将来を嘱望される若手ヴァイオリニストである。プログラムを見ると、齢23にして、リンカーンセンターでのリサイタルを筆頭に、華々しい経歴がずらりと並んでいる。使用楽器は1727年製ストラディヴァリウス。写真のお顔は、これが最近のメイクの流行りなのか、アイラインまっくろ&チークばっちりで、ちょっと隈取りを連想させる。
「庄司紗矢香が連獅子なら、神尾真由子は隈取りで登場か?」
一瞬期待で胸が高鳴るが、舞台に現れたご本人は予想に反してナチュラルメイク。そして青田典子似。衣装は、・・・すみません、
田舎の結婚式の披露宴で、新婦が、3回目のお色直しで着るドレスかと ・・・。

う~ん、これはやぼったい。
ブリっ子(←死語?)ドレスを、周りに着せられた という感じ?

でも本人はドレスのことなんか頭になく、(なはっから割り切って着ているんだね。)
既に自分の世界に入っていることが見ていてわかる。

おぬし、できるな。

ここで私もスイッチ・オン。
重心を前に移していっきにファイティング・モードに。

彼女がこれから弾こうとしている曲について私見を述べさせてもらえば、
この曲にはチャイコンのような華やかなイントロはない。
気がつくと、ソロヴァイオリンが静かにテーマを歌い出していた、という始まり方をする。
ソリストが紡ぎだすテーマに同伴者はいない。
他のヴァイオリン協奏曲ならばオケの伴奏がテーマに同伴するところだが
この曲の伴奏は弱音でたよりない上に、
そもそもテーマのサポートを目的として書かれていないふしがある。
拍子も取りにくく、安定したリズムがテーマを支えることもない。

「極寒の澄み切った北の空を、悠然と滑空する鷲のように」

シベリウスは第1楽章の冒頭部分についてこう述べている。
作者はテーマに同伴者を求めることを禁じているようだ。
テーマはそれ自体の力で成長し、羽ばたいていかなければならない。

伴奏や拍子に頼らない、なかばカデンツァ状態でテーマを生成していくのは
フリーハンドで図形を描いていくようなもので
途中で揺れたりぶれたりするのは避けられない。
でもこの曲のテーマは、その揺れを引き受けた上で成り立つように作られているというか、
曲自体がその揺れを駆動力にして前に進んでいくという作りになっている。

当然のことながら、演奏には高い精神性が要求される。
ソリストは自分の霊的なレベルを一段上げて演奏にとりかかる必要がある。

指揮者にしろオケにしろドレスにしろ聴衆しろ
外界のことはいったんすべてシャットアウトして
自分の内面だけに照準を合わせて精神を統一する。
もしくは、
普段とは別の次元にチャンネルを合わせて
意識をシベコン・モードに切り替える。
あるいは、
そこには私の想像の及ばない、神尾さん独自のメソッドがあるのかもしれないが、
とにかくそのような特別なスイッチの切り替え作業が彼女の中で行われ、その感触は
客席にいる私にもありありと伝わってきた。

この人は、なんかやってくれそうだ。

ステージに登場した瞬間からその人の音楽は始まっているというけれど
それって本当だ。
神尾さんはまだ1音も発していない。ただ演奏に向けて静かに集中しているだけだ。
でもその姿はまるで強力な磁石のように聴き手の心を引き付けていく。
( 第11回へ続く )

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なぜシベコンのテーマは覚えられないのか?(2)

2010年05月01日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。

私は何回聴いてもこの曲の1主題を覚えることができない。
なぜ覚えられないのか?それはテーマが長いからである。この曲は規格外れに長いテーマを持っている。 ・・・と、ここまでは前回のテキストでおわかりいただけたと思う。
大きなものを小さな枠に押し込もうとした当然の結果として、
シベコンはちょっと耳慣れない音楽になっている。
( 前回のテキストは こちら

そのせいかどうかわからないが、シベコンは、はじめはほとんど理解されなかった。
この曲は1904年に初演されたが、作者自身もその出来栄えに満足せず、さらに1年を費やして曲を大幅に書き直した。しかしその決定稿でさえ聴衆には受けなかった。決定稿はチェコの名ヴァイオリニストをソリストに迎えて演奏され、会場にはソリストの師匠も足を運んだ。師匠はヨーゼフ・ヨアヒムだった。当時最も卓越した音楽家のひとりだったヨアヒムですらこの曲を酷評した。シベリウスがこの曲で提案した音楽は、それまで誰も聴いたことのないものだったから、聴衆はそれに対してどんな反応をすればいいかわからなかったのだ。しかし不評にもかかわらず、シベリウスの音楽はその後もシベコンの路線を推し進めていった。シベコンは彼にとって重要な意味を持つ作品となった。

シベリウスは1890年代の終わりに「フィンランディア」でブレイクし、当時のフィンランドで最もポピュラーな作曲家だった。とはいえ、「フィンランディア」の成功は、作曲家よりも指揮者であるロベルト・カヤヌスの力によるところが大きかったようだ。カヤヌスはドラマティックなスタイルで聴衆を煽る指揮者であり、時流を読む能力に長けた音楽プロデューサーだった。彼はシベリウスの音楽が持つフィンランド的な部分をクローズアップして演奏し、民族独立の気運の高まる国内のマーケットに向けて発信した。彼の狙いは的中し、「フィンランディア」は愛国心を呼び覚ます音楽として聴衆の圧倒的な支持を受けた。その結果シベリウスは独立闘争を象徴する音楽的アイコンに祭り上げられた。しかし当のベリウスのほうは、作曲家として成熟するにつれて、政治的な意図よりも、もっと純粋な内的動機のために音楽を作るようになっていた。

シベコンの中で、彼はその新しい音楽性をより明確に打ち出している。そしてこの曲を境にして、彼の作風はそれまでの国民的音楽スタイルから遠ざかっていった。
シベコンを書くにあたり、彼は常識よりも一段高いハードルを自らに課し、それを乗り越えるために新しい音楽語法を作り出さなければならなかった ・・・というのは前回のテキストのとおりだが、おそらくその作業の過程で彼に何かしら変化が起こったのだろう。
( 前回のテキストは こちら

転向後、シベリウスの創作のエネルギーはもっぱら交響曲に向けられた。
1907年に完成した交響曲第3番において、彼はシベコンで展開した独自の音楽語法をさらに深化させている。しかし評判は芳しくなく、続く交響曲第4番に至っては、スカンジナヴィアに加えてイギリスやアメリカなど、より多くの聴衆の前で演奏されたにもかかわらず、全く受け入れられなかった。その後の交響曲も作曲作業に困難を極め、完成までに長い時間と多くの労力を要した。

彼が選んだ道はきわめて厳しい道だった。
そして彼の音楽の変化はファンをあまり喜ばせなかった。
でも彼は過去のスタイルには二度と戻らなかった。
いったい、彼にどんな変化が起こったのだろう。何が彼を孤独な探究へと
駆り立てたのだろう。

シベリウスの晩年の言葉にそのヒントがある。

交響曲の本質は形式にあると、よく考えられている。
しかし、それは誤りだ。
主たる要素は内容なのであり、形式は二義的なものだ。

音楽自体がその外的形式を定めるのであり、
ソナタ形式がなんらかの永続性をもつためには、それが内部から出てこなければならない。


音楽形式がどのようにつくり上げられるかを考えるときには、

よく雪の結晶のことを考える。


雪は永遠の法則に従って、
もっとも美しい模様をつくり上げるのだ。

シベリウスはここでソナタ形式について語っている。しかし同時に、彼は明らかに楽式のレベルを超えたものについて語っている。ルールとかサイズとか、そんなものとは別の、もっと大きな、もっと普遍的なものについて、彼は語っているのだ。

自然の摂理と同じくらいの普遍性を
彼はソナタ形式の中に見出したのではないだろうか。
あるいは、自然の摂理と同じくらいの普遍性を
彼はソナタ形式に与えようとしたのではないだろうか。

この言葉はシベリウスの決意表明である、と私は思う。自分の資質が厳格なソナタ形式と相容れないという事実に思い至った時、彼は頭を抱えたに違いない。シベコンのテーマは誰がどう見ても無茶に長い。でも彼は決意した。

テーマはこれしかない。そしてサイズは問題じゃない。
音楽それ自体が摂理にかなっていれば、そこにおのずと形式が現れるはずだ。

彼はそう信じたのだ。
その信念があればこそ、これほど長いテーマを与えながらも、シベコンを最後まで書き切ることができたし、その後もテンションを下げることなく、交響曲を生み出し続けることができたのだ。

固有の資質と一般的な形式との妥協のない共生。シベコンはそれを目標に掲げて書かれている、と私は思う。もともとソリの合わない者同士が同居しているから、シベコンにおけるソナタ形式はかなり不格好で不安定である。シベリウスの持ち味である長いテーマ、その自由な拡がりを抑圧しないように、形式はできる限り相対化されている。だからチャイコンみたいに整然とした音楽にはならないし、私は何回聴いても第1主題を覚えられない。ひょっとしたらソナタ形式として不完全なのかもしれない。

でもこの曲には、間違いなく彼の独自のスタイルがある。

シベコンのCDの楽曲解説を見ると、第1楽章は「自由に拡大されたソナタ形式」とか、「きわめて独創的なソナタ形式」とか、「かなり変形されたソナタ形式」といった言葉で説明されている。その言い回しは解説者ごとにまちまちである。楽曲解説には、ほかにも「交響的性格を持つ」とか、「動機的に発展する」とか、国語辞典に載ってない形容詞が満載で、最初のうちは読んでもさっぱり意味がわからなかった。この曲を理解するために解説を読んでいるのに、そこに登場する珍妙な日本語のためにかえって混乱してしまうのだ。

でもそれは解説者のせいではない。それはシベリウス独特の音楽語法のせいである。
シベコンはとても解説者泣かせだ。あまりにもスタイルが異質すぎて、みんなそれをうまく言葉で伝えられないのだ。  ( 第10回へ続く )

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なぜシベコンのテーマは覚えられないのか?(1)

2010年04月30日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調

目下のところ、私の心のベストテン第1位はこの曲である。今まで数え切れないほどこの曲を聴いた。最低でも100回は聴いていると思う。でも、私はいまだにこの曲の第1主題を覚えることができない。

冒頭は頭に浮かぶ。
「ソ~ラレ~、レファ~ミレ~、」で始まり、「ラド~シラソラレ~ミ、ド~シラソララ~」と続く。
しかし、そらで歌えるのはそこまでで、その先はにわかに輪郭がぼやけてくる。イメージとしては、音形は変えずに音程だけをスライドさせて、徐々に上昇気流に乗っていく感じ ・・・ なのだが、私の未熟な耳ではその微妙な音程が取れない上に、上昇しつつも途中で突然すとんと下降する場面があったりして、なかなか全容がつかみにくい ・・・ ってゆーか、ぶっちゃけこのテーマ、ちょっと長すぎないか?手持ちのキョンファ盤では、第1主題の開始から成立までに1分近くかかる。1分だよ。これはチャイコンの第1主題の3倍の長さにあたる。こんな長いテーマ、楽譜があるならまだしも、耳だけではとても覚えきれない。

どうしてこんなに長いんだろう。
チャイコンみたいにもっと短く、覚えやすく、キャッチーなテーマにすればいいのに ・・・と、つい思ってしまうのだが、そんな発言をしたら、おそらく世界中のシベリウスファンに鼻で笑われてしまうだろう。テーマが長いところ、それが彼の音楽の特徴なのだ。
そしてシベリウスにしてみれば、この曲の第1主題はこれ以外にありえない。この長さが彼にとっての最低ラインであり、これ以上は1音たりとも追加できないし、省略もできない。テーマというものはそこまで磨き上げた上で初めて提示されるものなのだ。第1楽章の第1主題。それは作曲家の血と汗の結晶である。一介のリスナーが長いだの短いだのと口をはさむ余地は全くない。

「長くたっていいじゃない。楽想って、そもそも自由なものでしょう。
それを型にはめたり限定したりすること自体、おかしな話なんじゃないの?」
と、あなたは思うかもしれない。実にその通り。音楽とは本来自由なものである。音楽に限らず、すべての表現の基本は自由である。
そしてシベリウスは形やサイズにとらわれない自由な心を生涯持ち続けた。シベリウスの伝記には、幼い彼がラッパを使って、床に敷かれた絨毯の織り目の配色を音楽として鳴らそうとした、というエピソードが紹介されている。目に映る風景や心に浮かぶものごとは、すぐに音楽と直結し、それが人々にとって意外なものとして響いても、彼はひるむことなくそれを丸ごと作品として提出した。彼の音楽の独自性はそのようなたくましい心によって支えられているのだ。

しかし忘れてはいけない事実がひとつある。
シベコンの第1楽章は他のヴァイオリン協奏曲と同様にソナタ形式で書かれている。
ベートーヴェン以後の音楽家にとって、第1楽章といえば常にソナタ形式が頭に浮かんだ ・・・ というのは、第5回のテキストのとおりだが、もちろんシベリウスの頭の中にもそのルールがしっかりと頭にデフォルトされていた。( 第5回のテキストは こちら )
ソナタ形式には厳格なフォーマットがあり、それを箇条書きにすると次のようになる。

1) < 提示部 ‐ 展開部 ‐ 再現部 >の形式を取る。
2) 独立した性格のテーマを2つ持つ。(第一主題、第二主題)
3) 第一主題は作曲家の基礎楽想であり、もっとも重要な地位が与えられる。
4) 第二主題は提示部では属調で提示され、再現部では主調で再現される。

現在私達の日常に流れる音楽にこんなきまりはない。
この条件に従って音楽を作ったら結構大変そうだ。
そして、シベコンの長いテーマはこのフォーマットに乗りにくい。
特に 3) が問題だ。たとえばチャイコフスキーはこの条件を満たすために、チャイコンの第1主題を10回反復しているのだが、それにならってシベコンの第1主題を律儀に10回反復したらどうなるだろう。そこには演奏に1時間近くかかる長大な楽章が出現し、お客さんは聴いているうちに飽きてしまう。
このように、ソナタ形式の枠組みの中に長いテーマを丸ごと持ち込もうとすると、非常に使い勝手の悪いものになる。

シベリウスがテーマを語るために長いセンテンスを必要とした背景には、母国語のひとつであるフィン語のイントネーションの影響があると指摘する人もいる。( 註:フィンランドは長年にわたってスウェーデンの属国だったので、彼はスウェーデン語とフィン語のバイリンガルだった。 )フィン語をドイツの音楽語法にあてはめようとすると、どこか不自然でかっこ悪い結果になるみたいだ。

原因はともかく、シベコンのテーマはソナタ形式には規格外のサイズとなっている。この場合、ふつうの作曲家なら無意識のうちにその長さにブレーキをかけただろう。
人は自由なように見えて実際の選択肢は限られている。たとえば、私は常識のもとで生きている。なるべく常識を逸脱しないように行動を規制して生きている。たまに常識に反する行動に出ることもあるが、その時はけっこう勇気が必要になる。
シベコンが書かれた20世紀の初頭にはソナタ形式が音楽の常識だった。いくぶん古びて杓子定規なルールだったけど、それはまだ確固たるシステムとして機能していた。そしてシベコンのテーマはその常識を超えている。放っておけばソナタ形式が破綻しかねない大きさだ。彼はそんな大きなテーマを、あえて丸ごとシベコンに持ち込んだ。

それが大胆な試みであったことは言うまでもない。

結果として、彼は他の作曲家より一段高いハードルを自らに課すことになった。
規格外のテーマをソナタ形式の枠組みの中で成立させるには、従来にない、新しい音楽語法が必要で、彼はそれを独力で作り上げなければならなかったのだ。
( 第9回へ続く )

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チャイコフスキーはお好き?

2010年03月25日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。

前回に引き続き、この曲が持つ独自性と革新性について語ることが私の目的である。
でも、その前にみなさんに質問をひとつ。

チャイコフスキーは、好きですか?

「 ・・・ ちょっとー、まだチャイコで引っ張るつもり?
いったい、いつになったらシベリウスの話が始まるの?」
という不満の声が聞こえてきそうだが、まぁ、怒らないで読んでいただきたい。

チャイコフスキーといえば、稀代のメロディメーカーである。彼は数多くの魅力あるメロディを後世に残した。「白鳥の湖」、「くるみ割り人形」、「ピアノ協奏曲第1番」etc ・・・ 多くの人が、そのタイトルを見ただけですぐにメインテーマを思い浮かべるのではないだろうか。もちろんヴァイオリン協奏曲も然り。メインテーマのキャッチーさにおいては前述の3曲に劣らないと思う。

しかし、チャイコフスキーの音楽は、クラシックを聴きこんだ人々にしばしば軽んじられる。
「深みに欠ける」、「新味に乏しい」、「葛藤がない」 ・・・ 理由はだいたいこんなところか。
実を言うと、私ももともと彼の音楽に興味はなかった。
同じロシア出身のメロディメーカーでも、甘さ控えめで大人のロマンティシズムをたたえたラフマニノフに比べると、コンビニで売ってるイチゴショートケーキ並みに甘ったるい、コドモ向けの音楽じゃん、と思っていた。

でも、そのトレードマークの甘いメロディにいったん目をつぶり、
ソナタ形式という新しい観点からチャイコンを検証してみると、
私はそこに別の発見をすることになった。

前回のテキストでお分かりのように、彼はチャイコンでソナタ形式を忠実に実行する。彼はメロディを徹底して反復し、その反復は、確実にメロディの魅力を底上げして、曲を親しみやすいものにしている。その過程はまるでソナタ形式のお手本を見るようで、「なるほど、チャイコフスキーはこういう効果を頭の中に描きながら作曲をしていたのか」と、私はちょっと目を開かれる思いがした。
この人はメロディの達人と言われるけど、その先天的な資質に安住していたわけではなく、「まだ足りない」とか、「あとこれがあれば」とか、常にプラスアルファを追求しながら音楽を作っていたんだな、と思った。そして、その企業努力の積み重ねがチャイコフスキー・ブランドのメロディを今日まで残したんだな、と思った。

ソナタ形式を手掛かりにしてチャイコンを聴き進んでいくと、そこにはたくさんのアイディアや工夫があることがわかってくる。私は試行錯誤しながら作品を生み出していく作曲家の姿を思い浮かべて、その姿に共感することができた。チャイコフスキーに共感する自分がいるというのは、かなり新鮮な発見で、自分が聴き手としていくらか成長し、守備範囲が拡がったという実感があった。

コンビニのイチゴショート並み。とりあえずその暴言は撤回しよう。この音楽には、たとえば、アテスウェイのガトーフレーズに淹れたてのコーヒーを添えるのと同じくらいの敬意を持って接するべきだ。私は素直にそう思った。

しかし、それでチャイコフスキーの音楽を全面的に支持できるかというと、それはまた別の話である。「チャイコフスキーは、好きですか?」と、冒頭の質問を向けられても、私はYesとは答えられない。
その理由は、彼の態度があまりにも優等生的で、型にはまったものに見えるからだ。

私はチャイコフスキーの作品をすべて聴いたわけではないので、一概に断言はできない。でも話をチャイコンに限るならば、彼はソナタ形式に対して極めて従順である。そこには葛藤や矛盾がほとんど見当たらない。チャイコフスキーは1881年にこの曲を作った。これはベートーヴェンの死後54年目にあたる。半世紀を経てもなお、彼は何の疑いもなく、ベートーヴェンと同じフォーマットに乗っかっているのである。このあたりが、私としてはどうも気に食わない。チャイコンが古典的な作品として優れているのは認める。でもそれは音楽の進化に貢献しているだろうか、と考えると、首をかしげざるを得ない。どちらかといえば、前進より停滞に近いのではないか、という気がする。だったらベートーヴェンを聴いたほうがスリリングだよ、と思ってしまう。

しかし、一方のチャイコフスキーにも言い分はあるだろう。
彼が優等生に見えるのには、それなりの事情がある。
メロディメーカーとソナタ形式。両者はとても相性がいい。前者の武器は美しくキャッチーなメロディであり、後者は聴き手にメロディを浸透・定着させるべく進化した楽式である。ふたつが揃えば鬼に金棒。メロディメーカーにとって、ソナタ形式はまさにうってつけのツールである。つまり、チャイコフスキーが本来備える個性とソナタ形式は、たまたまベクトルが同じだった。それゆえ彼はソナタ形式を抵抗なく、すんなりと受け入れることができた。チャイコフスキーはロシア人だけど、自らの資質を十分に活かした音楽を作り出すために、このドイツ流儀を進んで取り入れ、同化しようとしている。それは彼にとって当然の選択である。

では、シベリウスはどうだろうか。

ここからが本題である。
結論から言うと、彼はこのドイツ流儀が、どうにも窮屈だったようなのだ。 ( 第8回へ続く )

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ソナタ形式(2)

2010年03月18日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。

この曲を聴くなら、ソナタ形式について知っておいたほうがいい。もちろん、音楽を聴くのに知識はいらない。ソナタ形式なんか知らなくたって、この曲を聴こうという気持ちさえあれば、あなたなりに、たくましく楽しむことはできるだろう。でも、知っているほうが、より多くの景色を発見できるし、より強いメッセージを受け取ることができる。ソナタ形式を知ることは、この曲を聴く喜びを、今よりずっと大きなものにしてくれるはずだ。

という信念のもと、私は前回に引き続きソナタ形式について語っている。
サンプルはキョンファ盤チャイコンの第1楽章である。では、本題に入ろう。

「ファッファ~、ミレファラミ~、ファミ~、」

で始まる8小節のメロディ。前回はこれをT1と定義した。
これは楽章中で何回繰り返されるだろうか。答えは以下のとおり。


提示部
     01:10~03:00
    ソロヴァイオリン (T1‐T1‐T1)

展開部
     06:24~07:01
    オケによる全員合奏 (T1‐T1)
     07:50~08:30
    ソロヴァイオリン (T1‐T1)
     09:02~09:20
    オケによる全員合奏 (T1)

再現部
     12:48~13:48
    フルートとソロヴァイオリン (T1‐T1)


このように、T1は、ソロヴァイオリンで7回、オケで3回、合計で10回繰り返される。

このうち提示部ではキョンファが独奏でT1を3回繰り返す。
1回目はオリジナルメロディで、2回目はそれを重音で加工してこってりと、3回目はそれを細かく刻んで軽やかに、という具合に、同じメロディがさまざまな手法で反復される。反復をどのように表現して自分をアピールするか、ソリストはそれを考え抜いた上でT1を奏でなければいけない。まさに腕の見せ所である。

しかし、ここでのT1の反復はもうひとつ重要な働きをしている。
その効果は続く展開部で現れる。

展開部ではオケがキョンファに代わってT1を演奏する。細工も加工もしていない、T1のオリジナルメロディを、オケ全員で合奏する。弦楽パートのユニゾンにトランペットのファンファーレを重ね、さらにティンパニを加えるという豪華な編成で、提示部を盛りそばに例えるならここは鴨せいろ並みのボリュームである。

「ファッファ~、ミレファラミ~、ファミ~」

パレードのように華やかにT1の冒頭部分が鳴らされると、あら不思議、続いて残りのメロディが、自然と、自動的に、聴き手頭の中に浮かんでくる・・・と、これは少々言い過ぎか。でも、少なくとも「最初のメロディに戻った」という感じを受けるはずである。つまり、聴き手はT1を覚えている。
これこそが、提示部の反復の効果、すなわちソナタ形式の効果である。

提示部において、聴き手はキョンファのヴァイオリンの音色を楽しみながら、知らず知らずのうちに3回のT1の反復を経験している。その経験の蓄積は、「ファッファ~」で始まる4小節を、次に続く4小節と切り離しがたいものにしている。やがて展開部に入り、オケが満を持して同じ音形で呼びかけると、聴き手は即座に反応し、T1のメロディ全体を連想する。

言うまでもないが、T1がこの曲の第1主題である。そして、第1主題を聴き手に覚えさせること、それがソナタ形式の目的である。

人はもともと、まとまった音の連なりをメロディとしてとらえる能力を持つ。しかし、音は生まれたそばから消えていく。メロディも然り。ただ一度だけ聴いても右から左へ通過するだけで記憶に残らない。人がメロディを記憶するためには、それを何度も繰り返し聴かなければならない。楽曲において、できるだけ効果的にメロディを反復すること。そして聴き手にメロディを覚えてもらうこと。それをとっかかりにして、最後まで飽きずに楽曲を聴き通してもらうこと。ヨーロッパの音楽家は長い時間をかけてその方法を追求し、たどり着いた結果がソナタ形式である。

ちなみにチャイコンでは、この後さらにもう一度オケがT1を繰り返す。これはいわばダメ押しである。T1の反復はすでに8回目。そのメロディは記憶にしっかりと根付いている。ここでは聴き手は演奏を聴くのではない。曲を追いかけるのではない。聴き手は「ファッファ~」の音を合図にして、自ずからT1を歌い出すのである。

ちょっと唐突だが、この感じは宇多田ヒカルの歌によく似ている。チャイコンの提示部から展開部へと至るプロセスを、宇多田ヒカルふうに歌うと次のようになる。


4回目のリピートで展開部に入った君
そんなの言わなくても「ファ」だけですぐ分かってあげる

唇から自然とこぼれおちるメロディ
そこにティンパニが入った瞬間が 一番幸せ

イ長調に転調しても
「ファ」に会うと全部ふっ飛んじゃうよ

メインテーマになかなか会えない my rainy days
でも「ファ」を聴けば自動的に sun will shine

イッツ オォ~トマ~ティィ~~ック ♪


・・・お、お分かりいただけるだろうか? 

気になるメロディを追いかけているうちに、まるで恋に落ちるように、
曲の世界に引き込まれる瞬間が訪れる、ということを。

こうなればしめたもの。

あとは第1主題のもと、ソリストとオケと聴き手が一気にねんごろになって
残りの時間を共有していくのみ、である。  ( 第7回へ続く )

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