ガンバレ よし子さん

手作りせんきょ日記

シベコンは2/2拍子

2010年01月27日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。

前回の実験の続きである。こちらの試みはすんなりとはいかない。
実験は、まず音量で妨げられる。チャイコンを再生したのと同じ音量では、曲の冒頭部分の弱音が全く聞こえないのだ。どっこいしょ。仕方なく立ち上がり、CDプレイヤーの音量を8から13に上げる。音量を上げても「これは、幻聴か?」というくらい微かな音しか聴こえない。しかし、よく耳を凝らせば、それが小刻みに震えるように奏でられた弦楽パートの音であることが分かる。
その音は次のように展開する。

00:00~00:07
鳴っているかいないか、わからないくらいのピアニシモ。
00:07~01:02
キョンファが長いフレーズを歌う。後ろで弦楽パートが音量を上げ、音程もゆっくりと動き出す。
しかしそれも束の間、
やがてこの音はキョンファがフレーズを締めくくる音に吸い込まれるように消えてしまう。
(この静かな緊張感の高め方は、どことなくホラー映画のBGMを連想させる。)
01:02~01:25
キョンファが最初のフレーズをアレンジして歌う。
伴奏はティンパニだけで、弦楽パートは休み。
クラリネットやファゴットなどの木管楽器が随所に現れて、
キョンファの歌をこだまのように返す。
01:25~01:40
弦楽パートが、待ってました!という感じで現れ、
キョンファの歌を力強いシンコペーションで追いかける。
今までとはうって変わった確信的なリズムで、たたみかけるようにヤマを作るのだが、
それも束の間、キョンファの歌声が頂点に達すると、せっかく生まれかけたこのヤマ場も、
金管楽器の鋭いアタックに吸い込まれるように消えてしまう。
その後弦楽パートは約40秒間の沈黙。


弦楽パートは休みが多く、キョンファのサポートに終始するチャイコンに比べると出番が少ない。加えて、曲中に出入りする動きが変則的で、ようやく現れたと思ってもすぐに消えてしまう。そのため、弦楽パートに合わせた手拍子のほうも、途中で中断してやり直すといった不安定なものになってしまう。
控えめな弦楽パートのかわりにキョンファの歌が大きなウェイトを占めるのだが、
これがまた型破りというか、独特である。

静かにふっと入ってきて、気がつくと旋律を歌っていて、それがいつまでも続くのだが、聴いていて、どこにアクセントがあるのか、どこが1拍目なのか、さっぱりわからない。小節の区切りが曖昧というか、歌が小節に収まりきらない印象で、これは歌よりもむしろつぶやきに近い気がする。何かを言いかける、でも止める、すぐにまた別の何かを言いかける、また止める、といったモノローグが、微妙に字余りのまま嵌めこまれている感じなのだ。これが西洋音楽の原則―小節の最初にアクセントを置く―に反するのは言うまでもなく、第1楽章はいちおう2分の2拍子で書かれているのだが、冒頭のヴァイオリン独奏はとてもその形式に収まっているようには聴こえない。

このように、チャイコンの冒頭と同じアプローチでシベコンを聴こうとしても、なかなかうまくいかない。その最大の理由は、チャイコンに流れる西洋音楽の原則がシベコンにうまく当てはまらない、ということにある。チャイコンが明確な論理で聴き手を効率よく曲の中へ引き込むのとは対照的に、シベコンは非常に曖昧で不安定な立ち上がりとなっている。
これはシベリウスが、わざとこのように書いたのか、それとも、頭に浮かんだ音楽を、楽譜に書いてみたらこのようにしか書けなかったのか、私にはわからない。音符を均してきれいに小節の中に納めれば聴きやすいと思うのだが、それはこの曲から自由奔放な拡がりを奪うことになるのだろう。いずれにせよ、チャイコンと同じ秩序をシベコンの中に見出そうとすると、聴き手は往々にして戸惑う結果となる。

これらを踏まえた上で、
シベコンの第1楽章をホールで聴いた時の自分を振り返ってみよう。

弦楽パートの冷たく澄んだピアニシモ。
庄司さんのヴァイオリンが湖面を吹き渡る風のように現れて、
緩急を織り交ぜながら長い独白を展開していく。
目の前に北欧の森が広がるような、神秘的な出だしである。
しかし、聴いていて、どうもテンションが上がらない。

透明で美しいことは美しい。でもビート(拍子)、リズム(律動)、グルーヴ(うねり)といった、体が自然に動き出す仕掛けが、そこにはほとんど見当たらない。
ビートとグルーヴ。それはロック育ちの私にとって、音楽の世界に入っていくための大切なガイドである。それが及ぼすフィジカルな効果(平たく言えば、縦ノリ)があればこそ、クラシックの素養を持たない私でも抵抗なく曲の世界に入ることができたし、それをたよりに進めば、どんなに古い曲であろうと、興味や可能性を見出すことができた。
その肝心のガイドが、なぜかこの日は見つからない。

どうも今までのやり方は通用しないようだ。
でも、ヤルヴィが振っているのにグルーヴがないのはおかしいな。そう思って今度は伴奏に耳を凝らしてみるのだが、それがさらに戸惑いを深める結果となる。

その時点で伴奏は既に不安定な序盤を通過して、弦楽パート、管楽パートともに確かな重みを持って鳴らされている。印象的なフレーズが現れてリズムを生みだすこともある。イメージの断片があちこちに挿入されて、そのひとつひとつが、次に来る流れのヒントを宿しているように感じられる。
でもそれらの断片は、やがてことごとく消えていく。私を秩序ある世界に連れていく前に、まるで煙のように消えていくのだ。ひとつの断片に固執して「ビートはどこ?グルーヴはどこ?」と探していると、どんどん道に迷っていくことになる。ある形ができあがったと思った瞬間にそれは崩れ、すぐに別の場所でまた新たな形が湧きあがる・・・そんな変幻自在な構造に翻弄されるうちにコンパスが狂ってきて、自分が今どこにいるのか、わからなくなってしまうのだ。

これはもう、北欧の森どころではない。
青木ヶ原の樹海をさまよっているようなものである。

というわけで、私は第1楽章については全くのお手上げ状態だった。
情けないが、それしか言いようがないと思う。  ( 第5回へ続く )

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チャイコンは4/4拍子

2010年01月21日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。

聴けば聴くほど奇妙な曲である。決して親しみやすい曲ではないし、万人受けする華やかさもない。しかし、何度も聴いているうちに、人々はこの曲の中に独自の世界を発見する。その独自性は、古今のヴァイオリン協奏曲の中でもひときわ際立つものである。

というわけで、ここでひとつ実験をしてみよう。

自室のCDプレイヤーに、手持ちのキョンファ盤をセットする。このCDには、シベリウスと一緒にチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が収録されている。合計6トラック入りで、1~3がチャイコン、4~6がシベコンという順番である。このうちの1と4、つまり、それぞれの協奏曲の第1楽章にあたる部分であるが、これを順番に聴きながら、伴奏の弦楽パートに合わせて手拍子を打ってみる。手拍子は冒頭の2分間だけとする。



では始めよう。まずチャイコンから。
第1楽章は4分の4拍子。伴奏の弦楽パートは時間とともに次のように展開する。

00:00~00:20
冒頭は弦楽パートの奏でるイントロ。
00:20~00:50
弦楽パートに管楽器が重なって盛り上がり、最初のヤマを作る。
00:50~01:10
キョンファが登場してあいさつ。その間、伴奏は休み。
01:10~02:00

キョンファが第1主題を歌い始め、節回しを変えながら曲を展開する。
その後ろで弦楽パートは常にキョンファをサポートし、スムーズで安定した流れを作り出す。


弦楽パートは2分間ほぼ出ずっぱり。一定のリズムを保ち、聴きやすいので、それに合わせて手拍子するのは簡単である。立ち上がりの10秒を除けば、おおむね無理なくついていける。これは私が天性のリズム感に恵まれているから、ではなく、1拍目に(リズムの根底となる意識の上での)強拍があることによるもので、それを念頭に手拍子すれば、誰でもできる。小節の最初にアクセントを置くのは西洋音楽の基本であり、現代のロックやポップスにも通底する原則である。この曲はその原則に忠実に作られている。

この結果を踏まえた上で、
チャイコンの第1楽章をホールで聴いた時の自分の反応を想像してみる。
(私はまだこの曲を生で聴いたことはない。)

客席で2分間、同じ要領で、小節の最初にアクセントを置いて拍子をとる。そのうちなんの抵抗もなく、自動的に音楽世界に入っていけそうな気がする。手拍子を(もちろん、心の中で)繰り返すことで体の中に一定のリズムが生まれ、いったんそのリズムに乗ってしまえば、次に来る流れも容易に予測できそうだ。うまくいけば、楽章が終わるころには、ソリストの明朗快活な歌とともに、さえぎる物が何一つないロシアの大地をスキップで行進していく、といった錯覚を覚えているかもしれない。
これは、お笑いで言うところの「つかみはOK」という状態に相当する。(・・・と思う。)

続いてシベコン。
この曲でも同じことを試みる。しかし、こちらはちょっと難しい。
「ん?」私はのっけからつまずいてしまった。 ( 第4回へ続く )


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シベコン by 庄司紗矢香(2)

2010年01月11日 | シベリウス バイオリン協奏曲
シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。

世界中のヴァイオリンの名手がこぞって取り上げる名曲だから、この曲との出会いのヴァリエーションはそれこそ無数にあって、チョン・キョンファとプレヴィン指揮ロンドン交響楽団の録音(1970年)で出会った人もいれば、一昨年にNHKで放映された、諏訪内晶子とアシュケナージ指揮フィルハーモニア管弦楽団の演奏で出会った人もいるだろう。

私の場合はこのカード。
庄司紗矢香の似合わない森ガール。
パーヴォ・ヤルヴィ指揮シンシナティ交響楽団。
2009年11月、サントリーホール。

結論から言えば、演奏は私の納得のいくものではなかった。

聴き終えた印象をあえてたとえるなら、
最初のジャンプに失敗して流れに乗れないまフリーの演技が終了し、
キム・ヨナに完敗したフランス杯の浅田真央、という感じ。

もちろん庄司さんのことだから、
浅田真央の転倒のような大きなミスはしない。(したら大変だ。)
なにせ世界屈指のテクニシャンである。
でも私は技巧が見たいんじゃなくて、庄司さんから元気をもらいたいのだ。
その思い出をガソリンにして、明日からまた働きたいのだ。
だからつい別のものを求めてしまう。
高度な技をこなしているのは間違いない、だけど、
その技が集まって作り上げる音楽の総体は、あまり私の心に迫ってこない、
そんなふうに思ってしまう。

話が前後するので、引き合いに出すのは適当じゃないかもしれないけど、このオケは、3日後の日本公演最終日に、クリスチャン・ツィメルマンと組んでガーシュウィンを演奏した。こちらはまさにオケ、ソリスト、聴衆の3者が一体となった、見事な演奏だった。ツィメルマンが作り出した磁場の強さに比べると、庄司さんのほうは、いまひとつ求心力に欠けるというか、演奏の焦点が絞り切れていなかったように思う。




ただ、一番心に残ったのは、
演奏中の庄司さんから発せられる張り詰めた空気。
その密度の濃さは尋常ではなく、
見ているこちらが息を吸うのをためらうほど。
こんなの朝飯前よ、と言わんばかりに軽々と、楽しげにストラヴィンスキーを弾いていた面影はどこにもない。

そのくらい、この曲は難しい。
それは私にもよくわかった。


難曲ゆえに、必要以上に大きく構えてしまい、行き着いた結果が森ガール、なのだろうか?私が彼女のたたずまいに違和感を感じるのは、彼女が等身大の自分を見失ったからなのだろうか?
ひとりでに、妄想が膨らんだ。

後日、私はこの曲のCDを買い求めた。

庄司さんをもってしても演奏が困難な曲がある。とりあえず、それはわかった。
じゃあ、他の演奏者はどうよ?というのが購入の動機である。

あまたあるCDの中から私が選んだのは、前出のチョン・キョンファ盤。いわゆる名盤であり、現在最もグローバルかつ安価に流通しているCDと思われる。(価格は1,000円。)次に、図書館でこの曲のCDを検索し、ヒットしたものを次々に借りてきた。
アンネ=ゾフィー・ムター/指揮プレヴィン盤、
ジュリアン・ラクリン/指揮マゼール盤、
諏訪内晶子/指揮オラモ盤、
千住真理子/指揮ヴァーレク盤。

この曲の、いったいどこが、どう難しいのか?
さらに言えば、あの日、庄司さんは何に挑んで、何に敗れたのか?
その答えを探しながら、手当たり次第に聴きまくった。

気がつくと、私はすっかりこの曲に夢中になっていた。  ( 第3回へ続く )

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シベコン by 庄司紗矢香(1)

2010年01月09日 | シベリウス バイオリン協奏曲
この曲はまだ一度も聴いたことがなかった。

でも、ソリストが庄司さんなら聴いてもいいな、
そう思ってチケットを取った。
この曲をすんなりと理解できるかわからないし、
この曲に感動する自分の姿もうまくイメージできない、でも、
庄司紗矢香の演奏なら聴く価値はある、そう思って。

庄司さんの演奏で印象深いのは
2008年に東京交響楽団と共演した、ストラヴィンスキーのコンチェルト。
オケを向こうに回して繰り広げられる丁々発止のやり取りと、
要所要所で小気味よく決まる華麗な技の数々。
この曲が持つジャジーな側面(1930年作曲)に、
現代っ子らしい闊達さがぴったりとマッチしていて、
無敵の天才少女の輝きに心から拍手を送ったものだ。

演奏する庄司さんから、また元気をもらえたらいいな、
この日もそんなイメージを抱いて私は開演を待った。
伴奏はヤルヴィだし、申し分ない、そう思って。

もしも彼女がチャイコフスキーのコンチェルトを演奏していたら、
あるいはメンデルスゾーン、もしくはブルッフのコンチェルトを演奏していたら、
私は自分がイメージした通りの演奏を聴けたのかもしれない、今ではそう思う。
でも、この日のプログラムはその中のどれでもなくて、
拍手とともに舞台に登場した庄司さんは、なんだかいつもと様子が違っていた。

まず衣装に驚いた。
シフォン(オーガンジー?)をたっぷり使ったドレス。
色は北欧の湖畔を思わせるエメラルドグリーン。
両肩から足元へ、ドレスと同じ素材のヴェールがたなびいている。
とても存在感のあるドレスである。気合い十分、という感じ。
次に髪型。
長~い髪を、ふわふわのソバージュにしているのだが、
もともと髪の量の多い人なので、妙にかさ高く見えて、まるで歌舞伎の連獅子のよう。

インパクトはある。
でも、衣装、髪型共に、長身のモデルならまだしも、
小柄な庄司さんにはいささかボリューム過多な気がした。
そのため後方から見た全身の印象(P席ゆえ後ろ姿しか見えない。)は、
緑色のてるてるボーズというか、キッコロとモリゾーというか、
はっきり言って、似合わない。

ステージに登場してくる瞬間からすでにその人の音楽は始まっている、というけれど、
衣装について、庄司さんは過去のインタヴューで次のように語っている。

「当たり前のことですけど、コンサートに来る方は、見ている。もちろん舞台上ではきれいでなくてはいけないとか、それが大切だというのは分かります。ただその視覚的な要素が音楽の妨げにならないようにしたい。顔の表情だったりドレスの色だったりではなくて、音楽を純粋に音楽として、私の表現したいものを受け取ってほしい。」

舞台上で自らの衣装が与える印象について、
女子ヴァイオリニストの面々は、どれだけ意識しているのか。
これは、なかなか興味深いテーマである。
そして庄司さんの基本スタンスは
ルックスと演奏は別のもの、ルックスの加点には頼りません、
ということらしい。よほど演奏に自信があるのだろう。

とはいえ、女が表現者として舞台に立つからには
その衣装のセレクトに本人の自己イメージが現れるのは避けられない。
(その点男子は気楽である。スーツか燕尾服のどちらかだから。)
たとえば、
色香で惑わす露出系の諏訪内晶子、
ゴージャス女王系のアンネ=ゾフィー・ムター、
視覚効果はミニマム、演奏で勝負の五嶋みどり、などなど。

庄司さんはいったいどのお姉さんの路線へ進むのか、
私はその成長と共に、楽しみに見守ってきた。
しかし、ここにきて
彼女は今までにない、新たな路線を開拓したようだ。

いうならば、ファンタジー系?




・・・庄司さん、ひょっとして、、森ガールにイメージチェンジ、ですかい?
と、心の中でひとり突っこみを入れている間に曲が始まった。

シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。

それが、この曲との出会いだった。 ( 第2回へつづく )

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