シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調。
前回の実験の続きである。こちらの試みはすんなりとはいかない。
実験は、まず音量で妨げられる。チャイコンを再生したのと同じ音量では、曲の冒頭部分の弱音が全く聞こえないのだ。どっこいしょ。仕方なく立ち上がり、CDプレイヤーの音量を8から13に上げる。音量を上げても「これは、幻聴か?」というくらい微かな音しか聴こえない。しかし、よく耳を凝らせば、それが小刻みに震えるように奏でられた弦楽パートの音であることが分かる。
その音は次のように展開する。
00:00~00:07
鳴っているかいないか、わからないくらいのピアニシモ。
00:07~01:02
キョンファが長いフレーズを歌う。後ろで弦楽パートが音量を上げ、音程もゆっくりと動き出す。
しかしそれも束の間、
やがてこの音はキョンファがフレーズを締めくくる音に吸い込まれるように消えてしまう。
(この静かな緊張感の高め方は、どことなくホラー映画のBGMを連想させる。)
01:02~01:25
キョンファが最初のフレーズをアレンジして歌う。
伴奏はティンパニだけで、弦楽パートは休み。
クラリネットやファゴットなどの木管楽器が随所に現れて、
キョンファの歌をこだまのように返す。
01:25~01:40
弦楽パートが、待ってました!という感じで現れ、
キョンファの歌を力強いシンコペーションで追いかける。
今までとはうって変わった確信的なリズムで、たたみかけるようにヤマを作るのだが、
それも束の間、キョンファの歌声が頂点に達すると、せっかく生まれかけたこのヤマ場も、
金管楽器の鋭いアタックに吸い込まれるように消えてしまう。
その後弦楽パートは約40秒間の沈黙。
弦楽パートは休みが多く、キョンファのサポートに終始するチャイコンに比べると出番が少ない。加えて、曲中に出入りする動きが変則的で、ようやく現れたと思ってもすぐに消えてしまう。そのため、弦楽パートに合わせた手拍子のほうも、途中で中断してやり直すといった不安定なものになってしまう。
控えめな弦楽パートのかわりにキョンファの歌が大きなウェイトを占めるのだが、
これがまた型破りというか、独特である。
静かにふっと入ってきて、気がつくと旋律を歌っていて、それがいつまでも続くのだが、聴いていて、どこにアクセントがあるのか、どこが1拍目なのか、さっぱりわからない。小節の区切りが曖昧というか、歌が小節に収まりきらない印象で、これは歌よりもむしろつぶやきに近い気がする。何かを言いかける、でも止める、すぐにまた別の何かを言いかける、また止める、といったモノローグが、微妙に字余りのまま嵌めこまれている感じなのだ。これが西洋音楽の原則―小節の最初にアクセントを置く―に反するのは言うまでもなく、第1楽章はいちおう2分の2拍子で書かれているのだが、冒頭のヴァイオリン独奏はとてもその形式に収まっているようには聴こえない。
このように、チャイコンの冒頭と同じアプローチでシベコンを聴こうとしても、なかなかうまくいかない。その最大の理由は、チャイコンに流れる西洋音楽の原則がシベコンにうまく当てはまらない、ということにある。チャイコンが明確な論理で聴き手を効率よく曲の中へ引き込むのとは対照的に、シベコンは非常に曖昧で不安定な立ち上がりとなっている。
これはシベリウスが、わざとこのように書いたのか、それとも、頭に浮かんだ音楽を、楽譜に書いてみたらこのようにしか書けなかったのか、私にはわからない。音符を均してきれいに小節の中に納めれば聴きやすいと思うのだが、それはこの曲から自由奔放な拡がりを奪うことになるのだろう。いずれにせよ、チャイコンと同じ秩序をシベコンの中に見出そうとすると、聴き手は往々にして戸惑う結果となる。
これらを踏まえた上で、
シベコンの第1楽章をホールで聴いた時の自分を振り返ってみよう。
弦楽パートの冷たく澄んだピアニシモ。
庄司さんのヴァイオリンが湖面を吹き渡る風のように現れて、
緩急を織り交ぜながら長い独白を展開していく。
目の前に北欧の森が広がるような、神秘的な出だしである。
しかし、聴いていて、どうもテンションが上がらない。
透明で美しいことは美しい。でもビート(拍子)、リズム(律動)、グルーヴ(うねり)といった、体が自然に動き出す仕掛けが、そこにはほとんど見当たらない。
ビートとグルーヴ。それはロック育ちの私にとって、音楽の世界に入っていくための大切なガイドである。それが及ぼすフィジカルな効果(平たく言えば、縦ノリ)があればこそ、クラシックの素養を持たない私でも抵抗なく曲の世界に入ることができたし、それをたよりに進めば、どんなに古い曲であろうと、興味や可能性を見出すことができた。
その肝心のガイドが、なぜかこの日は見つからない。
どうも今までのやり方は通用しないようだ。
でも、ヤルヴィが振っているのにグルーヴがないのはおかしいな。そう思って今度は伴奏に耳を凝らしてみるのだが、それがさらに戸惑いを深める結果となる。
その時点で伴奏は既に不安定な序盤を通過して、弦楽パート、管楽パートともに確かな重みを持って鳴らされている。印象的なフレーズが現れてリズムを生みだすこともある。イメージの断片があちこちに挿入されて、そのひとつひとつが、次に来る流れのヒントを宿しているように感じられる。
でもそれらの断片は、やがてことごとく消えていく。私を秩序ある世界に連れていく前に、まるで煙のように消えていくのだ。ひとつの断片に固執して「ビートはどこ?グルーヴはどこ?」と探していると、どんどん道に迷っていくことになる。ある形ができあがったと思った瞬間にそれは崩れ、すぐに別の場所でまた新たな形が湧きあがる・・・そんな変幻自在な構造に翻弄されるうちにコンパスが狂ってきて、自分が今どこにいるのか、わからなくなってしまうのだ。
これはもう、北欧の森どころではない。
青木ヶ原の樹海をさまよっているようなものである。
というわけで、私は第1楽章については全くのお手上げ状態だった。
情けないが、それしか言いようがないと思う。 ( 第5回へ続く )
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前回の実験の続きである。こちらの試みはすんなりとはいかない。
実験は、まず音量で妨げられる。チャイコンを再生したのと同じ音量では、曲の冒頭部分の弱音が全く聞こえないのだ。どっこいしょ。仕方なく立ち上がり、CDプレイヤーの音量を8から13に上げる。音量を上げても「これは、幻聴か?」というくらい微かな音しか聴こえない。しかし、よく耳を凝らせば、それが小刻みに震えるように奏でられた弦楽パートの音であることが分かる。
その音は次のように展開する。
00:00~00:07
鳴っているかいないか、わからないくらいのピアニシモ。
00:07~01:02
キョンファが長いフレーズを歌う。後ろで弦楽パートが音量を上げ、音程もゆっくりと動き出す。
しかしそれも束の間、
やがてこの音はキョンファがフレーズを締めくくる音に吸い込まれるように消えてしまう。
(この静かな緊張感の高め方は、どことなくホラー映画のBGMを連想させる。)
01:02~01:25
キョンファが最初のフレーズをアレンジして歌う。
伴奏はティンパニだけで、弦楽パートは休み。
クラリネットやファゴットなどの木管楽器が随所に現れて、
キョンファの歌をこだまのように返す。
01:25~01:40
弦楽パートが、待ってました!という感じで現れ、
キョンファの歌を力強いシンコペーションで追いかける。
今までとはうって変わった確信的なリズムで、たたみかけるようにヤマを作るのだが、
それも束の間、キョンファの歌声が頂点に達すると、せっかく生まれかけたこのヤマ場も、
金管楽器の鋭いアタックに吸い込まれるように消えてしまう。
その後弦楽パートは約40秒間の沈黙。
弦楽パートは休みが多く、キョンファのサポートに終始するチャイコンに比べると出番が少ない。加えて、曲中に出入りする動きが変則的で、ようやく現れたと思ってもすぐに消えてしまう。そのため、弦楽パートに合わせた手拍子のほうも、途中で中断してやり直すといった不安定なものになってしまう。
控えめな弦楽パートのかわりにキョンファの歌が大きなウェイトを占めるのだが、
これがまた型破りというか、独特である。
静かにふっと入ってきて、気がつくと旋律を歌っていて、それがいつまでも続くのだが、聴いていて、どこにアクセントがあるのか、どこが1拍目なのか、さっぱりわからない。小節の区切りが曖昧というか、歌が小節に収まりきらない印象で、これは歌よりもむしろつぶやきに近い気がする。何かを言いかける、でも止める、すぐにまた別の何かを言いかける、また止める、といったモノローグが、微妙に字余りのまま嵌めこまれている感じなのだ。これが西洋音楽の原則―小節の最初にアクセントを置く―に反するのは言うまでもなく、第1楽章はいちおう2分の2拍子で書かれているのだが、冒頭のヴァイオリン独奏はとてもその形式に収まっているようには聴こえない。
このように、チャイコンの冒頭と同じアプローチでシベコンを聴こうとしても、なかなかうまくいかない。その最大の理由は、チャイコンに流れる西洋音楽の原則がシベコンにうまく当てはまらない、ということにある。チャイコンが明確な論理で聴き手を効率よく曲の中へ引き込むのとは対照的に、シベコンは非常に曖昧で不安定な立ち上がりとなっている。
これはシベリウスが、わざとこのように書いたのか、それとも、頭に浮かんだ音楽を、楽譜に書いてみたらこのようにしか書けなかったのか、私にはわからない。音符を均してきれいに小節の中に納めれば聴きやすいと思うのだが、それはこの曲から自由奔放な拡がりを奪うことになるのだろう。いずれにせよ、チャイコンと同じ秩序をシベコンの中に見出そうとすると、聴き手は往々にして戸惑う結果となる。
これらを踏まえた上で、
シベコンの第1楽章をホールで聴いた時の自分を振り返ってみよう。
弦楽パートの冷たく澄んだピアニシモ。
庄司さんのヴァイオリンが湖面を吹き渡る風のように現れて、
緩急を織り交ぜながら長い独白を展開していく。
目の前に北欧の森が広がるような、神秘的な出だしである。
しかし、聴いていて、どうもテンションが上がらない。
透明で美しいことは美しい。でもビート(拍子)、リズム(律動)、グルーヴ(うねり)といった、体が自然に動き出す仕掛けが、そこにはほとんど見当たらない。
ビートとグルーヴ。それはロック育ちの私にとって、音楽の世界に入っていくための大切なガイドである。それが及ぼすフィジカルな効果(平たく言えば、縦ノリ)があればこそ、クラシックの素養を持たない私でも抵抗なく曲の世界に入ることができたし、それをたよりに進めば、どんなに古い曲であろうと、興味や可能性を見出すことができた。
その肝心のガイドが、なぜかこの日は見つからない。
どうも今までのやり方は通用しないようだ。
でも、ヤルヴィが振っているのにグルーヴがないのはおかしいな。そう思って今度は伴奏に耳を凝らしてみるのだが、それがさらに戸惑いを深める結果となる。
その時点で伴奏は既に不安定な序盤を通過して、弦楽パート、管楽パートともに確かな重みを持って鳴らされている。印象的なフレーズが現れてリズムを生みだすこともある。イメージの断片があちこちに挿入されて、そのひとつひとつが、次に来る流れのヒントを宿しているように感じられる。
でもそれらの断片は、やがてことごとく消えていく。私を秩序ある世界に連れていく前に、まるで煙のように消えていくのだ。ひとつの断片に固執して「ビートはどこ?グルーヴはどこ?」と探していると、どんどん道に迷っていくことになる。ある形ができあがったと思った瞬間にそれは崩れ、すぐに別の場所でまた新たな形が湧きあがる・・・そんな変幻自在な構造に翻弄されるうちにコンパスが狂ってきて、自分が今どこにいるのか、わからなくなってしまうのだ。
これはもう、北欧の森どころではない。
青木ヶ原の樹海をさまよっているようなものである。

というわけで、私は第1楽章については全くのお手上げ状態だった。
情けないが、それしか言いようがないと思う。 ( 第5回へ続く )
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