シベリウス作曲ヴァイオリン協奏曲二短調
目下のところ、私の心のベストテン第1位はこの曲である。今まで数え切れないほどこの曲を聴いた。最低でも100回は聴いていると思う。でも、私はいまだにこの曲の第1主題を覚えることができない。
冒頭は頭に浮かぶ。
「ソ~ラレ~、レファ~ミレ~、」で始まり、「ラド~シラソラレ~ミ、ド~シラソララ~」と続く。
しかし、そらで歌えるのはそこまでで、その先はにわかに輪郭がぼやけてくる。イメージとしては、音形は変えずに音程だけをスライドさせて、徐々に上昇気流に乗っていく感じ ・・・ なのだが、私の未熟な耳ではその微妙な音程が取れない上に、上昇しつつも途中で突然すとんと下降する場面があったりして、なかなか全容がつかみにくい ・・・ ってゆーか、ぶっちゃけこのテーマ、ちょっと長すぎないか?手持ちのキョンファ盤では、第1主題の開始から成立までに1分近くかかる。1分だよ。これはチャイコンの第1主題の3倍の長さにあたる。こんな長いテーマ、楽譜があるならまだしも、耳だけではとても覚えきれない。
どうしてこんなに長いんだろう。
チャイコンみたいにもっと短く、覚えやすく、キャッチーなテーマにすればいいのに ・・・と、つい思ってしまうのだが、そんな発言をしたら、おそらく世界中のシベリウスファンに鼻で笑われてしまうだろう。テーマが長いところ、それが彼の音楽の特徴なのだ。
そしてシベリウスにしてみれば、この曲の第1主題はこれ以外にありえない。この長さが彼にとっての最低ラインであり、これ以上は1音たりとも追加できないし、省略もできない。テーマというものはそこまで磨き上げた上で初めて提示されるものなのだ。第1楽章の第1主題。それは作曲家の血と汗の結晶である。一介のリスナーが長いだの短いだのと口をはさむ余地は全くない。
「長くたっていいじゃない。楽想って、そもそも自由なものでしょう。
それを型にはめたり限定したりすること自体、おかしな話なんじゃないの?」
と、あなたは思うかもしれない。実にその通り。音楽とは本来自由なものである。音楽に限らず、すべての表現の基本は自由である。
そしてシベリウスは形やサイズにとらわれない自由な心を生涯持ち続けた。シベリウスの伝記には、幼い彼がラッパを使って、床に敷かれた絨毯の織り目の配色を音楽として鳴らそうとした、というエピソードが紹介されている。目に映る風景や心に浮かぶものごとは、すぐに音楽と直結し、それが人々にとって意外なものとして響いても、彼はひるむことなくそれを丸ごと作品として提出した。彼の音楽の独自性はそのようなたくましい心によって支えられているのだ。
しかし忘れてはいけない事実がひとつある。
シベコンの第1楽章は他のヴァイオリン協奏曲と同様にソナタ形式で書かれている。
ベートーヴェン以後の音楽家にとって、第1楽章といえば常にソナタ形式が頭に浮かんだ ・・・ というのは、第5回のテキストのとおりだが、もちろんシベリウスの頭の中にもそのルールがしっかりと頭にデフォルトされていた。( 第5回のテキストは こちら )
ソナタ形式には厳格なフォーマットがあり、それを箇条書きにすると次のようになる。
1) < 提示部 ‐ 展開部 ‐ 再現部 >の形式を取る。
2) 独立した性格のテーマを2つ持つ。(第一主題、第二主題)
3) 第一主題は作曲家の基礎楽想であり、もっとも重要な地位が与えられる。
4) 第二主題は提示部では属調で提示され、再現部では主調で再現される。
現在私達の日常に流れる音楽にこんなきまりはない。
この条件に従って音楽を作ったら結構大変そうだ。
そして、シベコンの長いテーマはこのフォーマットに乗りにくい。
特に 3) が問題だ。たとえばチャイコフスキーはこの条件を満たすために、チャイコンの第1主題を10回反復しているのだが、それにならってシベコンの第1主題を律儀に10回反復したらどうなるだろう。そこには演奏に1時間近くかかる長大な楽章が出現し、お客さんは聴いているうちに飽きてしまう。
このように、ソナタ形式の枠組みの中に長いテーマを丸ごと持ち込もうとすると、非常に使い勝手の悪いものになる。
シベリウスがテーマを語るために長いセンテンスを必要とした背景には、母国語のひとつであるフィン語のイントネーションの影響があると指摘する人もいる。( 註:フィンランドは長年にわたってスウェーデンの属国だったので、彼はスウェーデン語とフィン語のバイリンガルだった。 )フィン語をドイツの音楽語法にあてはめようとすると、どこか不自然でかっこ悪い結果になるみたいだ。
原因はともかく、シベコンのテーマはソナタ形式には規格外のサイズとなっている。この場合、ふつうの作曲家なら無意識のうちにその長さにブレーキをかけただろう。
人は自由なように見えて実際の選択肢は限られている。たとえば、私は常識のもとで生きている。なるべく常識を逸脱しないように行動を規制して生きている。たまに常識に反する行動に出ることもあるが、その時はけっこう勇気が必要になる。
シベコンが書かれた20世紀の初頭にはソナタ形式が音楽の常識だった。いくぶん古びて杓子定規なルールだったけど、それはまだ確固たるシステムとして機能していた。そしてシベコンのテーマはその常識を超えている。放っておけばソナタ形式が破綻しかねない大きさだ。彼はそんな大きなテーマを、あえて丸ごとシベコンに持ち込んだ。
それが大胆な試みであったことは言うまでもない。
結果として、彼は他の作曲家より一段高いハードルを自らに課すことになった。
規格外のテーマをソナタ形式の枠組みの中で成立させるには、従来にない、新しい音楽語法が必要で、彼はそれを独力で作り上げなければならなかったのだ。
( 第9回へ続く )
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目下のところ、私の心のベストテン第1位はこの曲である。今まで数え切れないほどこの曲を聴いた。最低でも100回は聴いていると思う。でも、私はいまだにこの曲の第1主題を覚えることができない。
冒頭は頭に浮かぶ。
「ソ~ラレ~、レファ~ミレ~、」で始まり、「ラド~シラソラレ~ミ、ド~シラソララ~」と続く。
しかし、そらで歌えるのはそこまでで、その先はにわかに輪郭がぼやけてくる。イメージとしては、音形は変えずに音程だけをスライドさせて、徐々に上昇気流に乗っていく感じ ・・・ なのだが、私の未熟な耳ではその微妙な音程が取れない上に、上昇しつつも途中で突然すとんと下降する場面があったりして、なかなか全容がつかみにくい ・・・ ってゆーか、ぶっちゃけこのテーマ、ちょっと長すぎないか?手持ちのキョンファ盤では、第1主題の開始から成立までに1分近くかかる。1分だよ。これはチャイコンの第1主題の3倍の長さにあたる。こんな長いテーマ、楽譜があるならまだしも、耳だけではとても覚えきれない。
どうしてこんなに長いんだろう。
チャイコンみたいにもっと短く、覚えやすく、キャッチーなテーマにすればいいのに ・・・と、つい思ってしまうのだが、そんな発言をしたら、おそらく世界中のシベリウスファンに鼻で笑われてしまうだろう。テーマが長いところ、それが彼の音楽の特徴なのだ。
そしてシベリウスにしてみれば、この曲の第1主題はこれ以外にありえない。この長さが彼にとっての最低ラインであり、これ以上は1音たりとも追加できないし、省略もできない。テーマというものはそこまで磨き上げた上で初めて提示されるものなのだ。第1楽章の第1主題。それは作曲家の血と汗の結晶である。一介のリスナーが長いだの短いだのと口をはさむ余地は全くない。
「長くたっていいじゃない。楽想って、そもそも自由なものでしょう。
それを型にはめたり限定したりすること自体、おかしな話なんじゃないの?」
と、あなたは思うかもしれない。実にその通り。音楽とは本来自由なものである。音楽に限らず、すべての表現の基本は自由である。
そしてシベリウスは形やサイズにとらわれない自由な心を生涯持ち続けた。シベリウスの伝記には、幼い彼がラッパを使って、床に敷かれた絨毯の織り目の配色を音楽として鳴らそうとした、というエピソードが紹介されている。目に映る風景や心に浮かぶものごとは、すぐに音楽と直結し、それが人々にとって意外なものとして響いても、彼はひるむことなくそれを丸ごと作品として提出した。彼の音楽の独自性はそのようなたくましい心によって支えられているのだ。
しかし忘れてはいけない事実がひとつある。
シベコンの第1楽章は他のヴァイオリン協奏曲と同様にソナタ形式で書かれている。
ベートーヴェン以後の音楽家にとって、第1楽章といえば常にソナタ形式が頭に浮かんだ ・・・ というのは、第5回のテキストのとおりだが、もちろんシベリウスの頭の中にもそのルールがしっかりと頭にデフォルトされていた。( 第5回のテキストは こちら )
ソナタ形式には厳格なフォーマットがあり、それを箇条書きにすると次のようになる。
1) < 提示部 ‐ 展開部 ‐ 再現部 >の形式を取る。
2) 独立した性格のテーマを2つ持つ。(第一主題、第二主題)
3) 第一主題は作曲家の基礎楽想であり、もっとも重要な地位が与えられる。
4) 第二主題は提示部では属調で提示され、再現部では主調で再現される。
現在私達の日常に流れる音楽にこんなきまりはない。
この条件に従って音楽を作ったら結構大変そうだ。
そして、シベコンの長いテーマはこのフォーマットに乗りにくい。
特に 3) が問題だ。たとえばチャイコフスキーはこの条件を満たすために、チャイコンの第1主題を10回反復しているのだが、それにならってシベコンの第1主題を律儀に10回反復したらどうなるだろう。そこには演奏に1時間近くかかる長大な楽章が出現し、お客さんは聴いているうちに飽きてしまう。
このように、ソナタ形式の枠組みの中に長いテーマを丸ごと持ち込もうとすると、非常に使い勝手の悪いものになる。
シベリウスがテーマを語るために長いセンテンスを必要とした背景には、母国語のひとつであるフィン語のイントネーションの影響があると指摘する人もいる。( 註:フィンランドは長年にわたってスウェーデンの属国だったので、彼はスウェーデン語とフィン語のバイリンガルだった。 )フィン語をドイツの音楽語法にあてはめようとすると、どこか不自然でかっこ悪い結果になるみたいだ。
原因はともかく、シベコンのテーマはソナタ形式には規格外のサイズとなっている。この場合、ふつうの作曲家なら無意識のうちにその長さにブレーキをかけただろう。
人は自由なように見えて実際の選択肢は限られている。たとえば、私は常識のもとで生きている。なるべく常識を逸脱しないように行動を規制して生きている。たまに常識に反する行動に出ることもあるが、その時はけっこう勇気が必要になる。
シベコンが書かれた20世紀の初頭にはソナタ形式が音楽の常識だった。いくぶん古びて杓子定規なルールだったけど、それはまだ確固たるシステムとして機能していた。そしてシベコンのテーマはその常識を超えている。放っておけばソナタ形式が破綻しかねない大きさだ。彼はそんな大きなテーマを、あえて丸ごとシベコンに持ち込んだ。
それが大胆な試みであったことは言うまでもない。
結果として、彼は他の作曲家より一段高いハードルを自らに課すことになった。
規格外のテーマをソナタ形式の枠組みの中で成立させるには、従来にない、新しい音楽語法が必要で、彼はそれを独力で作り上げなければならなかったのだ。
( 第9回へ続く )
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