脳のミステリー

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37.豪州で出遭ったバスと車椅子

2005-10-05 10:35:32 | Weblog
 未来が倒れる半年前の事だった。未来は17年ぶりに豪州を訪問していた。その日はレイト・ショッピング・ナイトを愉しんで夜の帰宅になった。シドニーの中心街でバスに乗った未来はバスがショッピング・センターを出てすぐのバス停に車椅子の男が手を高々と挙げて乗車のサインを送っている姿を発見した。運転手はスゥーッと車椅子に近寄って止まった。バスが大きく傾き、ドアが開いた。
「サンキュー、ドライバー」
車椅子の男の声がした。未来は真ん中位に座っていたので男を確認する事ができた。
「サンキュー、オフ・ユー・ゴー!」
バスは元の体勢に戻って、男は運転手に合図を送った。
「ウェイト!」
運転手の声がした。運転席での操作でドアの開閉ができる筈なのに閉まらない。何度やってもドアが閉まらない。
「ポンコツじゃないの?」
男の声に他の乗客が笑った。
「冗談じゃない、新車だよ」
「じゃあ、あんたの腕が悪いんだ」
「とんでもない、長い事この路線を走っているよ」
「じゃあ、メインテナンスが悪いんだ」
車椅子の男と運転手の会話に客達は更に笑った。
「代車を呼びますので、暫くお待ち下さい」
運転手が詫びながら、乗客達に伝えた。乗客達は「オーライ!」「ノー・ウォーリー」を夫々が口にした。やがてバスが到着した。あれ!乗客がたくさん乗っている。続行のバスが到着する時間になってしまったのだ。何人かの人は乗り移った。空のバスが続いて走ってきた。殆どの客と車椅子の男がそのバスに乗り換えた。未来もその仲間の一人になって動いた。
「ラッキーだよ。こっちのドライバーは美人だよ!」
車椅子の男の声にどっと一斉に笑い声が返事をした。バス停にはドアが開いたままのバスと運転手が残された。
「グッド・ラック!」
男は運転手に挨拶をした。代車のバスは軽くクラクションを鳴らして走り出した。未来は終点に近い所まで乗っていくつもりだった。客は降りるだけで途中で乗ってくる人は誰もいなかった。車椅子の男は客が降りる度に「ソーリー、気をつけて!」と声を掛けていた。やがて男の降りる番がきた。豪州人らしからぬ風貌の客が未来ひとりだったせいか、男は未来に声を掛けた。
「ソーリー、気をつけてね」
男が笑い、未来が笑った。バスが傾き、ドアが開き、男は暗闇に消えた。
 車椅子の障害者とバスの運転手と家路に急いでる筈の乗客の寸劇にも似た場面に、未来はノーマライゼーションという言葉の微塵も思い浮かばなかった。ユーモアを以ってノーマルに立ち振る舞い、言葉のキャッチボールを愉しむ人達が素適だった。この話はかつて『新聞にも載らない小さな事件』として未来は筆名で書いた事がある。