空と無と仮と

1990年代の沖縄旅行 「白梅」戦跡巡り⑤ 劇的変化のヌヌマチガマ①




2022年現在ではガラビガマとともに、
八重瀬町戦争遺跡公園として、
その周辺地域を含め整備されていますね。

どこにあるかについてはグーグルマップを参考にしていただいて、
まずはヌヌマチガマがどういう場所だったかを、
白梅同窓会からの書籍から引用させていただきます。


山第一野戦病院・新城分院

 四月下旬、具志頭村新城に分院が開設されました。八重瀬岳の病院本部から北東へ約三キロの所にあり、戦後判った事ですが、東西に二つの壕口を持った全長五百メートル以上もある自然洞窟でした。村の人々は、新城分院側をヌヌマチガマ(ガマは洞窟のこと)と呼び、反対側をガラビ壕と呼んでいます。ガラビ壕は現在、沖縄戦追体験のメッカとして知られている場所です。
 新城分院には(中略)五名が派遣されました。そこでも任務は過酷なものでした。収容可能人数をはるかに越えて壕内にひしめき合う患者。その世話は、一日を三十時間にしても到底できるものではありませんでした。
 自然壕であるため壕内には水が流れており、避難している人々の暮らしを助けていましたが、容赦なく降り続く梅雨で水量が増し、病室は危険にさらされました。冷えきった壕内は治療どころではなく、水からの避難に追われる始末。壕の外では鉄の暴風が吹き荒れ、内外ともに惨状を極めていました。
 六月三日、新城分院は閉鎖されました。足の踏み場もないほど収容されている患者に退院が命ぜられ、動けない患者には自決命令が下されたのです。
 前夜、青酸カリとブドウ糖の粉末を混合した毒薬が、衛生兵たちによって分包されていました。覚悟の上か居残った患者たちは取り乱すこともなく服薬し、飲めない患者や死に切れない患者には注射が打たれ、また、銃で撃たれた患者もいました。壕の中はこの世のものとは思えない地獄絵と化しました。私たちは逃げ出すわけにもいかず、声をあげて泣きました。
 この日の新城分院での「処置」は五百人ともいわれています。惨状を目の当たりにした学徒仲間の中には、五十年以上たった今日でも現場に足を運べない者もいる程です。

白梅同窓会編 『白梅 沖縄県立第二高等女学校看護隊の記録』 
(クリエイティブ21、2000年)


当時は具志頭村新城ですが、
現在は町村合併で八重瀬町となっています。

「八重瀬岳の病院本部」というのは、
現在の八重瀬公園に位置します。
興味のある方詳しく知りたい方は当ブログ、
「1990年代の沖縄旅行「白梅」戦跡巡り②~④」
をご参照ください。
 
「反対側はガラビ壕と呼んでいる」というのは引用文にある通り、
ヌヌマチガマとは別の出入り口があって、
現在ではガラビ壕というよりも、
どちらかというとガラビガマと呼ばれている場所です。

このガラビガマは別の機会に取り上げますので、
今回からはヌヌマチガマについて掘り下げていこうと思います。


次回以降に続きます。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

最新の画像もっと見る

最近の「1990年代の沖縄旅行 「白梅」戦跡巡り編」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事