具体的な内容
「通史編」の発行元は渡嘉敷村役場となっており、実際に執筆したのは渡嘉敷村史編集委員会の編集委員となります。
各編集委員がそれぞれの分野を担当し執筆しているわけですが、沖縄戦や集団自決に関する分野は沖縄国際大学(当時)の安仁屋政昭氏が担当しています。
なお、安仁屋氏については沖縄戦や集団自決に関する様々な研究書・論文・書物を数多く執筆・出版されておりますので、ここでは特にプロフィール等の解説をすることはいたしません。
それでは集団自決に関し、「通史編」ではどのようなことが書かれているのかを、だいぶ長くなってしまうのですが理解を得るために、「第5章 沖縄戦と渡嘉敷」の「第五節 渡嘉敷島の戦闘と住民」から引用させていただきます。
「二十七日午前九時(1945年3月27日─引用者注)ごろ、米軍は砲爆撃の支援のもとに、渡嘉志久海岸と阿波連海岸に上陸を開始した。住民は砲撃に追われて日本軍陣地に避難してきた。住民の避難場所について防衛庁(現防衛省─引用者注)の記録では、「村の兵事主任新城真順から部隊に連絡があったので、部隊は陣地北方の盆地に避難するように指示した」としている。
住民は恩納河原(おんながわら─引用者注)の谷間で一夜を明かした。米軍は日本軍陣地周辺に迫撃砲と機関銃で集中砲火をあびせ、一帯は前後の見分けもつかないほどの煙と火に包まれた。
住民の「集団的な殺しあい」は、一夜明けた三月二十八日に起こっている。(グラビア参照)
この事件については、重大な事実が明らかとなっている。すでに米軍上陸前に村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。住民と軍との関係を知る最も重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場職員であり、戦場においては、軍の命令を住民に伝える重要な役割を負わされていた。渡嘉敷村の兵事主任であった新城真順氏(戦後改姓して富山)は、日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。兵事主任の証言は次の通りである。
- 一九四五年三月二〇日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の新城真順氏に対し、渡嘉敷村の住民を役場に集めるように命令した。新城真順氏は、軍の指示に従って「十七歳未満少年と役場職員」を役場の前庭に集めた。
- そのとき、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を二箱持ってこさせた。兵器軍曹は集まっ二十数名(「集まった」の誤植だと思われる──引用者注)の者に手榴弾を二個ずつ配り訓示をした。〈米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら一発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの一発で自決せよ〉
- 三月二七日(米軍が渡嘉敷島に上陸した日)、兵事主任に対して軍の命令が伝えられた。その内容は、〈住民を軍の西山盆地近くに集結させよ〉というものであった。駐在の安里喜順巡査も集結命令を住民に伝えてまわった。
- 三月二八日、恩納河原の上流フィジガー(ガー=川の方言─引用者注)で、住民の〈集団死〉事件が起きた。このとき、防衛隊員が手榴弾を持ちこみ、住民の自殺を促した事実がある。
(中略)
住民の「集団死」は手りゅう弾だけではなかった。カマやクワで肉親を殴り殺したり縄で首をしめたり、石や棒きれでたたき殺したりして、この世の地獄を現出したのである。このときの死者は三二九人であった。
この集団自決が起こった原因として、「通史編」では「合囲地境(ごういちきょう)」説を主張しておりますので、今回も長くなってしまいますが、「第5章 沖縄戦と渡嘉敷」の「第五節 渡嘉敷島の戦闘と住民」から再び引用させていただきます。
「手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれた武器である。その武器が、住民の手に渡るということは、本来ありえないことである。しかも住民をスパイの疑いできびしく監視しているなかで、軍が手榴弾を住民に渡すということは尋常ではない。この場合、赤松隊長の個人的な心情は問題ではなく、軍を統率する最高責任者としての決断と責任が問われなければならない。住民が密集している場所で、手榴弾が実際に爆発し、多くの死者が出たことは冷厳な事実である。これこそ、「自決強要」の物的証拠というものである。
このとき、慶良間諸島は米軍の猛烈な空襲と艦砲射撃をうけ、沖縄本島その他の離島との連絡は完全に遮断され、孤立していた。「戒厳令」は宣告されなかったものの、事実上の「合囲地境」であった。合囲地境というのは、敵の包囲または攻撃などがあったとき、警戒すべき区域として戒厳令によって区画したところである。合囲地境においては駐屯部隊の上級者が全権を握って「憲法を停止」し、行政権および司法権の一部もしくは全部を軍の統制下に置くことになっている。渡嘉敷島においては赤松嘉次大尉が全権限を握り、村の行政は軍の統率下に置かれていた。
(中略)
「強制され」あるいは「追いつめられた」人びとの死を、「集団自決」と言うことはできない。
(中略)
その背景には天皇のために死ぬことを最高の国民道徳としてきた皇民化教育があった。とくに沖縄戦においては「軍官民共生共死の一体化」ということが強制され、「死の連帯感」が醸成されていた。赤松隊から手りゅう弾を渡されたとき、人びとは「イザトイウ時ノ全住民ノ死」を受け入れざるをえなかった。しかし、これを「集団自決」の「任意性・自発性」と考えることはできない。天皇の軍隊の命ずる「死」を拒むことは不可能な時代であった」
次回以降に続きます。