汨羅の観察人日記(一介のリベラルから見た現代日本)

自称『リベラル』の視点から、その時々の出来事(主に政治)についてコメントします。

日本社会における「保守」乱用について(その2)

2021-02-14 20:48:53 | 日本社会右傾化

前ブログで「保守」について種々論じたが、もう少し簡単に考えると、大きく日本人がイメージする国家像は下記の3分類があるのではないかと思う。①アジア・世界に冠たる「大日本」商業により国家・社会の発展を目指す「商業立国日本」国力・国情に応じて部相応の国際的地位に甘んじる「小日本」

これらは明治以降日本に存在した考え方であり、何も戦後特有ではない。①の立場に立つ代表的人物としては福沢諭吉がおり、②は渋沢栄一や新渡戸稲造、そして石橋湛山もこの系譜に属するであろう。③としては夏目漱石がその代表であろう。それぞれの著作を読めば、この点を理解できる。

戦後日本は、軍事的にソ連に対抗すべくもなく、所謂西側陣営に属し、②を追求してきたといえる。よって、戦後保守と言えば②のことであろう。他方、昨今保守を称している者達は①の立場に立ち、②や③の立場の者に種々攻撃を加えているという構図であると見る。①が保守と主張するのは、無理筋というのが私の見立てだが、彼らにしてみれば②は経済「大国」であるうちは是認できたが、中韓の経済的興隆により「大国」を主張し得なくなってきたことから、韓国・中国を敵視することにより大国意識を保っているのであろう。そしてアベノミクスなるかなり無理のあった失敗する運命にあった経済政策にすがり、再度「大日本」の再興を期したというところではないだろうか。「大日本」に弱者は存在してはならず、そのような者達は斬り捨ててしまえというのが、彼らの考えなのであろう。

いずれにせよ、日本国民というか人々を如何に幸福にするかという考えとは程遠い方々であり、こういう考えの方々が社会で影響力を振るっていることは、日本社会の不幸であると感じる次第である。

 

 


日本社会における「保守」乱用について(その1)

2021-02-14 09:22:14 | 自称保守・愛国≒ネトウヨ

昨今、日本社会において「保守」という言葉が乱用されていると感じる。感じるというのは、単なる排外的主張をしている者も「保守」と称しており、そもそも、戦後どころか軍部の発言力が異常に高まった1930年以降を除いた戦前日本の外交路線を否定するような発言をしているアホな政治家や評論家と称する者達が、保守を自称するような状況が発生しており、それに言論界・政界から批判の声があまり上がらない状況は、まさに「保守」という言葉の乱用であろうと思うからである。そこで、今回のブログでは、日本における保守及び保守的な政策とは何であるかということについて論考してみたい。

そもそも保守とは何かであるが、本ブログでは、18世紀の英の政治思想家であるE・バークの考え方に則って論考する。E・バークの考え方とは、畢竟、「従前の制度には、祖先の叡智が堆積している。」「これを不完全な存在である人間と言う存在の理性により否定するのは危険」というのがその考えであると、私は理解しているので、以下これを前提に話を進めて行く。

日本における保守を考える上で主要な論点となるのは、①社会のあり方経済政策安全保障であろう。保守と言えば歴史観を言い出す手合いがいるが、私に言わせれば①の社会のあり方のスピンオフである。よって、歴史観についてはそこで言及したい。以下、上記①から③について日本社会に存在する対立軸を出しながら、①から③関する保守とは何かについて述べて行く。ここで難しいのが、①から③は相互に密接に関係しあいうことである。若干議論を前倒にすると、移民政策について①の観点からは保守ではなく、②の観点からは保守的と言えるということである。こういう点については、以下、論考を進める上で言及するが、本ブログを読んでいると混乱してしまう可能性もあることから、あえて本パラグラフで言い分け的に触れさせてもらった。

まず、①社会のあり方についてであるが、対立軸の極を書くと、最も右に、国家・社会を一つの共同体(共同体という言葉が難しければ家族と読み替えてもいいと思う)と見なし、そこに所属する者は同質な者であり、結果として同質な者から構成される集団内の秩序が維持されるという考え方がある。最も左の極社会を構成しているのは個人なのであるから、国家・社会は個人の自由を最大限尊重し、個人の行動に制約をかけるべきではないと言う考え方があろう。今の日本社会においては、これらの極を採用する集団は政治的に大きな力とはなり得ず、アナログ的な表現になるが、これらの極のどちらに近いか・遠いかが、政治家や評論家の主義主張の相違点になっていると言える。

では、社会のあり方に関する、従前の政策はどうであったのかと言うと、日本社会について単一国家・単一民族論を前提に、日本社会は一つの共同体であると言うことを暗黙の前提とし、国籍については出生地主義をとらず、帰化要件を厳密にし、社会の構成員の同質性を努めてたもちつつ個人の権利・行動の自由を最大限尊重しようとするものであろう。よって、①の観点で言えば、移民について懐疑的・否定的な見解は「保守的」といえるのであろうが、在日コリアンは日本から出ていけ、在日中国人を追い出せ等の見解は、個人の権利・行動の尊重から逸脱するものであり、どうみても「保守」とはいえず、あえて表現するなら排外思想としか言いようがないであろう。

なお、戦前・戦中日本を賛美する方々の多くは、上記で言えば右の極に近い立場をとっていると思われる。彼らにしてみれば共同体の神話である歴史に、己の祖先の汚点があってはならず、その立場から過去の日本を否定的に捉えようとする動きに宗教的な情熱をもって反駁を加えているのではないかと、私は評価しているところである。

次に②の経済であるが、ここでも両極の思想を提示し、これに関する距離をもって日本の保守とは何かについて論じる。無論、現実に影響力を有する治勢力の主張は、それら両極の間にあるのは先に指摘したとおりである。以下、本題に入るが、最も右夜警国家観というか、素朴な古典的自由主義、つま経済活動への国家の介入を否定するもの、最も左経済活動により生じる社会構成員間の経済格差を無くす、つまり徹底した富の再配分による経済的格差の生起を公共セクターの力により防止・解消するという考え方を据え、従前の日本はどうであったのかという事を考えると、ここで戦前と戦後の捻れが出てくる。戦前は、右の極に非常に近い社会であり、戦後は現実として資本主義経済下、国民間の経済格差はあるものの、努めて格差をなくする努力をする、つまり左の極を努力目標としていた社会であったと言っていいだろう。経済について「保守」を論じる際は、戦前社会を常態とみるのか、戦後社会を常態とみるのかで、何を保守とするかでまるで異なってくるであろう。ここでは歴史の連続性を重視し(そもそも、社会政策重視は総力戦体制を構築する上での戦前からの流れであり、戦後社会はその政策を継承したとも言える)、資本主義及び経済活動に伴う国民間の経済的格差生起を前提としつつ、国民間の格差解消を努力目標としてきた経済政策こそが、日本における保守的な経済政策であると本ブログでは規定したい。

上記のように、国民間の格差解消を努力目標としてきた政策を保守的な経済政策とするのであれば、自民党の片山さつきのように、格差を公然と肯定するような政治家やそれを主張する政治家・評論家が「保守」を称していること自体、おかしいといえる。この点は、上記①の社会のあり方について保守である人物が必ずしも経済政策について保守的ではないということから生じている可能性がある。つまり、日本社会を一つの共同体と考えることと、経済政策についてレッセフェール的に格差を是正する必要がないという立場が、一人の個人の中で両立しているということである。これは、個人的には驚天動地の思考なのであるが、そう理解するしか、片山さつき等格差を平然と肯定する自主保守の存在を説明できないと考える。従前は、国民共同体の一体性を醸成するため、格差是正施策がとられてきた。これはナチスドイツにおける各種社会政策を見るまでもなく、共同体を持するためには、成員の平等性が重要になることからも自明であると言えよう。ところが、本邦の国家共同体論に立脚していると推測される者達は、日本社会における格差を是認しているのである。こうした矛盾が「保守」を巡り近年噴出しているところが、本邦における政策論議を難しくしていると感じる。一例を挙げると、格差是正に否定的な事象「保守」の輩がいるとして、当該人物に「おまえのどこが保守なんだ?」と聞いたところで、本人は①の意味で保守だと称しているだけなので、会話が成立しなうということがSNS上でよく生起しているところに、本邦における政策論議を難しくしている背景があるのではないかと愚行するところである。

最後に、③安全保障であるが、これについても右の極に、日本は西欧諸国と伍してアジアの大国として屺立するという考え、左の極日本は諸国と良好な関係を維持しつつ日本社会の繁栄を追求するという考えがある。これについても、①と②で述べたように、どちらか極端にぶれている主張は、現実的影響力を有する政治勢力で採用しているところはなく、どちらにウェイトをおいているかという程度の差であろう。戦後日本については、日米安保を基軸としている、経済面についてアジア諸国において圧倒的規模を有していたと言うことを前提として、左の極に寄った安全保障政策であったと言えよう。つまり、戦後日本の安全保障政策は米国の軍事力と圧倒的な経済力を背景に、周辺諸国と良好な関係を維持しつつ日本社会の経済的繁栄を追求するものであったと言え、これが日本の保守的な安全保障政策であると言える。この政策は、経済面で日本が大きな力を持っているという点で右の極に近い勢力もある程度是認しうる政策であったと言えよう。但し、安全保障政策については、これが保守的政策だから、近隣諸国に敵対的な事を主張する政治家や評論家が保守を自称するのはおかしいと完全に言い切れない面がある。当該政策の前提であった圧倒的な経済力が過去のものとなってしまったことに加え、米国の軍事的な東アジア関与も長い目で見れば怪しくなってきているということもある。事象面から言えば、周辺諸国との良好な関係を維持するのが保守的な安全保障政策であると言えよう。しかしながら、の極に考えが近い人々は圧倒的な経済力に着目し、日本が圧倒的な力を東アジアで持つことが保守的な安全保障政策であると考えているのであろう。ここに、我が国の「保守的な」安全保障政策を論ずるところの難しさがあると感じる次第である。

なお、以下余談ではあるが、圧倒的な経済力も中韓が経済力をつけるに従い、これが本邦の安全保障政策の前提ではなくなったことのインパクトは殊の外大きいと感じる。そこで、周辺諸国と良好な関係を維持しつつ日本社会の経済的繁栄を追求するという従前の安全保障政策について、左の極の側面が21世紀に入り目立ってきたと言えよう。また、本邦の安全保障政策を語る上で日米安保が前提と言うことは、自主防衛・外交路線を指向した段階で保守と言えなくなってしまうということである。周辺諸国と良好な関係を維持しつつ日本社会の経済的繁栄を追求するという政策に対米自主路線が加わったのが、鳩山内閣ではなかったのかと考えている。

 

以上つらつらと書いたが、上記①から③について無自覚なまま、いずれか一つについて保守的な持論の持ち主が私は保守であると主張することにより話が混乱すると言うのが昨今の本邦におけるSNS等が荒れる原因の一つなのではないかと感じる、そもそも、上記①から③のどれをとっても保守と言いがたい者達、主に①及び③の右の極に近い者達が保守を自称しているのが実態なのではないかと考える。