「魂が体の分解した後にもその存在を続けるという信念は,純然たる信仰の問題というより,哲学的ないしは神学的な思弁であり,
それゆえに聖書のどこにもはっきりとは教えられていない」― ユダヤ百科事典(1910年版),第6巻,564ページ,英文。
人間には,体が死ぬ際に生き残る霊の部分がありますか
エゼキエル 18:4: 「罪を犯している魂 ― それが死ぬのである」。(改標,欽定,ドウェーおよび口語などの聖書はすべて,この節のヘブライ語ネフェシュを「魂」と訳しており,こうして,死ぬのは魂であると述べています。一部の翻訳は,ネフェシュを他の箇所では「魂」と訳し,この節では「人」あるいは「者」という表現を用いています。ですから,ネフェシュ,つまり魂とは,人間個人のことであって,人の体が死ぬ時に生き残るその人の非物質的な部分ではありません。)(さらに詳しくは,主要な見出し,「魂」の項参照。)
*聖書では生き物のことを総じて魂、もしくは生きた魂と称する。
では、生きた魂が死んだら、活動停止し、意識は途絶える。
詩編 146:4: 「その霊は出て行き,彼は自分の地面に帰る。その日に彼の考えは滅びうせる」。(ここで「霊」と訳されているヘブライ語はルーアハの派生形で,これを「息」と訳出する翻訳者もいます。そのルーアハ,つまり活動する生命力が体から出ると,人の考えは滅びうせます。その人の考えは別の領域で存続するわけではありません。)
伝道 3:19-21: 「人間の子らに関しても終局があり,獣に関しても終局があり,これらは同じ終局を迎えるからである。一方が死ぬように,他方も死ぬ。皆ただ一つの霊を持っており,したがって人が獣に勝るところは何もない。すべてはむなしいからである。皆一つの場所へ行く。それはみな塵から出たものであって,みな塵に帰ってゆく。人間の子らの霊は上に上って行くのか,また獣の霊は地に下って行くのか,一体だれがこれを知っているであろうか」。(アダムから罪と死を受け継いでいるために,人間はすべて動物と同じように死に,塵に戻ります。しかし,人間には各々に霊があって,体の中で機能を停止した後も,理知のある人格的存在として生き続けますか。いいえ,そうではありません。19節は,人間も獣も『皆ただ一つの霊を持っている』と答えています。人間の観察にのみ基づいて考えてみても,霊に関して21節で提起されている質問に権威をもって答えられる人はひとりもいません。しかし,神の言葉は,人間が死ぬ時,人間にはその生まれゆえに獣より勝った存在となれるようなものは何もないと答えています。ですが,キリストを通して設けられた神の憐れみ深い備えゆえに,永遠に生きる見込みが,動物のためにではなくて,信仰を働かせる人間のために開かれました。人類の中 の多くの人々にとっては,それは復活によって可能にされます。その時,神からの活動する生命力がそれらの人たちを再び活気づけることになります。)
*死んだ者は意識が途絶え、その死んだ者を生き返す権利が有るのは神のみ。生き返えるとは受精し妊娠し、胎児となる過程を踏む。
ルカ 23:46: 「イエスは大声で呼ばわって言われた,『父よ,わたしの霊[ギリシャ語,プネウマ]をみ手に託します』。こう言ってから,イエスは息を引き取られた」。(イエスが息を引き取られたことに注目してください。その霊が出て行った時,イエスは天に行く途上におられたわけではありません。それから三日目になって初めて,イエスは死人の中から復活させられました。それから,使徒 1章3,9節が示すとおり,さらに40日たってから,イエスは天に上られました。それで,イエスが死に際して言われた事柄にはどのような意味がありましたか。イエスは,ご自分が亡くなられる時,ご自身の将来の命の見込みが全く神にかかっていることを知っていると言っておられたのです。『神のもとに帰る霊』に関する注解については,さらに「魂」の見出しの302,303ページの項参照。)
「霊」とは何かを明らかにする
次に,「霊」という語が聖書でどのように用いられているかを考えましょう。「霊」は「魂」という語の言い換えに過ぎないと考える人もいます。
しかし,事実はそうではありません。聖書は,「霊」と「魂」がそれぞれ別個のものを指すことを明らかにしています。どのように違うのでしょうか。
聖書の筆者は「霊」について書くに当たり,ヘブライ語ではルーアハ,ギリシャ語ではプネウマという語を用いました。聖書そのものが,これらの語の意味を示唆しています。例えば,詩編 104編29節はこう述べています。「あなた[エホバ]がその霊[ルーアハ]を取り去られるなら,彼らは息絶え,その塵に戻って行きます」。また,ヤコブ 2章26節は,「霊[プネウマ]のない体(は)死んだものである」と述べています。ですからこれらの聖句で,「霊」とは,体に命を与えるものを指しています。霊がなければ,体は死んだものです。それで,聖書中のルーアハという語は「霊」と訳されるだけでなく,「力」つまり生命力とも訳されます。例えば,ノアの日の大洪水について神はこう言われました。「わたしはいま,地に大洪水をもたらして,その内に命の力[ルーアハ]が活動しているすべての肉なるものを天の下から滅ぼし去ろうとしている」。(創世記 6:17; 7:15,22)ですから「霊」とは,生きている被造物すべてを活動させる,目に見えない力(生気)を指しています。
*霊とは生きる者を動かす力、つまり生命力であると。
神は塵から人間を模り、鼻へ息を吹き込み、生きた魂としたと聖書に書かれているが、息子とはそのような意味合いである。
呼吸、心臓の動きを司るのが生命力である。
それが霊と呼ばれる。