豊臣秀吉の厳しいバテレン追放令の下、逮捕された24人のキリシタンは慶長2(1597)年1月、京都・一条戻り橋で全員、左耳を切り落とされると、血に染まった傷口を覆う間もなく、市中を引き回された。そこで秀吉から下った処刑の命。しかも、850キロ先の長崎の刑場まで歩くという過酷ものだった。それから1カ月にわたるキリシタンたちの死への長い旅路は始まった。
処刑命令
1月3日、一条戻り橋で左耳を切り落とされた24人は牛のひく荷車で引き回されるため、奉行所の役人の監視の中、3人一組となって乗り込む。
当時、長引く戦乱のため崩壊寸前だった京都で人の集まる町といえば、現在の今出川通周辺の「上京」と四条通周辺の「下京」で、両町を結ぶ道は室町通しかないという、殺風景なありさまだった。
そんな中、8台の荷台は列をなして一条通をギシギシと不気味な音を立てながら東へ向かい、室町通から南下するなどしてひと通り回った。
ポルトガルのカトリック宣教師、ルイス・フロイスの報告書によると、時刻は午後10時を過ぎ、周囲は真っ暗にもかかわらず、珍しい外国人を含む引き回しということで、沿道は多くの人だかりで、屋根の上から見ている人の姿もあったという。
翌日、大坂と堺でも同様に引き回されるため小川牢屋敷を出発し、東寺口から京都を出た一行。ここで刑の対象から外れた信者に血まみれの十字架を手渡して別れを惜しむフランシスコ会の宣教師、ペトロ・バプチスタの姿もあった。
京都、大坂だけでなく堺が選ばれたのは、当時、南蛮貿易で栄え、多くの外国人やキリシタンが集まっていたためとされている。
そして1月8日、24人は処刑命令を受ける。場所は長崎・西坂の刑場。多くののキリシタンの見せしめのため、「歩いて行け」というものだった。
一通の手紙
堺での引き回しの後に大坂に戻ったのは9日。その翌日に長崎に向けて大坂を出発すると山陽道を通って13日に播磨に入り、14日には明石、15日には姫路へ進んでいる。
途中の西宮では、カトリック宣教師のオルガンチノから24人の道中の世話をまかされた京都のペトロ助四郎とフランシスコ吉ら2人が続けざまに受刑者の列に加えられるよう願い出る。
吉は京都のフランシスコ修道院近くに住み、事件後も磔刑(たっけい)を志願していたらしいが、加わることができなかったので、川沿いの茶店で休息する一行の中に飛び込むと、バプチスタの足に泣いてすがりつき、列に加わったという話も残る。
ここで26人となった受刑者は19日に現在の岡山市から三原へと進み、22日に広島市に入っている。三原では14歳のトマス小崎が城の牢内で、伊勢で暮らす母親に信仰を捨てないよう求めた手紙を書いている。
この手紙は母に渡ることはなく、同じく捕らえられて処刑された父親・ミゲルの襟元から血の付いたかたちで見つかり、その訳本がローマに保管されている。
28日、下関に着いた26人は船で九州・小倉に渡ると唐津、武雄、嬉野(うれしの)を通り、長崎・彼杵(そのぎ)に到着したのが2月4日午後。目的地の西坂は目の前に広がる大村湾の対岸にあった。
賛美歌が途切れ
舟で対岸に着いたのが午後11時のため、舟で一夜を過ごし、刑場に着いたのは5日午前9時半ごろ。この時、混乱を避けるために外出禁止令が出されていたにもかかわらず、4千人以上もの信者がまわりを取り囲んでいた。
ルイス・フロイスの記述などによると、刑場には他の罪人の十字架も数本立っていた。すでに26人の十字架を立てるための穴も用意され、穴の前には十字架が1本ずつ置かれていた。
到着するなり刑は執行された。縄は刑場内で解かれるが、今度は横たわる十字架上に鉄枷(かせ)で手足を、縄で首と胴を固定したあと十字架の下部を落とすように穴の中入れて一斉に立てられると、周囲からは悲鳴にも似た叫び声が起こった。
3、4歩間隔で整然と一列に並んだ十字架の両端には4人の執行人が槍(やり)を持って立っていた。2人一組で左右から刺す。槍の先が心臓を貫くため、ほとんどがひと突きで息絶えるが、すぐに死ねない場合は絶命するまで何度も刺す。
鞘(さや)が取り払われると周囲の信者はざわつき、受刑者の間からは「イエズス、マリア」の声が響いた。パウロ三木は説教者にふさわしく、絶命するまで周囲の人たちにキリスト教を信仰するよう大声で説いた。
最初に執行されたのはメキシコ人修道士のフェリペ(24)。十字架のサイズが合わなかったため首の縄が締まり、窒息死寸前だったための処置だった。
以後、ひとり、またひとりと駆け足状態で刺されていくたびに周囲から悲鳴が起こる一方、刑場内での神をたたえる声は少なくなっていった。そして、賛美歌を歌うバプチスタの声が途切れたところで刑は終わった。午前11時ごろといわれている。