国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 5

2020-04-25 20:38:36 | 国鉄思いで夜話

本日も、続きを書かせていただきます。

特急つばめは、1分の臨時停車の後、再び加速していきます。
四分半後には「臨時特急さくら」が追いかけていますので、後続の列車にまで遅れを出すわけにはいきません。

私は、自らの意思で列車を止めたという事実を今一度思い返していました。
大変なことをしてしまった。自らの意思で、病人への救護措置とはいえ、特急列車を止めてしまったという悔悟の念が大きく頭をもたげました。
おそらく帰区してから助役・区長からの事情聴取があるだろう、厳しく叱責を受けること、もしかしたら、始末書を出さざるを得ないであろう、そんなことが頭によぎります。
しかし、自分は少女のためにという純粋な気持ちからの行動であり、例え叱責されても始末書を出して処分を受けたとしてもそれは甘んじて受け入れようと心に決めたのでした。
不思議と、そう覚悟を決めると今まで重くのしかかっていた不安が一気に解消していくのが感じられ、一気に疲れが出てきたように感じたのです。

その後は、しばし、専務車掌室の中で放心状態になってしまいましたのでした。
時計を見ると13:50、外を見るとちょうど熱田駅の駅名標がちらっと見えました。
 「良かった、列車は、遅れを取り戻したようだ。」

私は独り言を呟くと、名古屋到着の案内を始めるのでした。

名古屋には、14:00定時到着、ここで機関車はEF58からC62に交換されることになります。
EF58型機関車が切り離され、引き揚げ線に逃げると、C62のテンダが近づいてきます。
客車の5m程手前で一旦停車、誘導掛の緑の旗を頼りに機関士は徐々に機関車を客車に近づけてきます。

私は、車掌室の窓から機関車連結の様子を見守っていました。
連結作業は、機関士の技量が試される瞬間です。
出来るだけショックを与えずに連結するわけです、誘導掛りの緑の旗が赤い旗に替わって機関車は静かに連結されました。
軽いショックが伝わってきたものの、あれ?という程度であり、安定した連結作業でした。
おそらく、前方では駅手による給水や炭庫の整理などが行われていることでしょう。

やがて5分の停車時間は過ぎて、発車ベルが大きな音でホーム全体に響き渡っています。

駅の売り子も。あと一つ、もう一つと、乗客に弁当を売っていきます、ベルが鳴り止み、駅長の発車合図と共に、汽笛一声、特急つばめ号は大阪に向かって動き出したのでした。

ホームでは、見送り忍の姿も幾人か見えました。

駅長との敬礼を交わした後は、後方の運転車掌に任務を任せ、私は案内放送に入るのでした。

お待たせいたしました、特急つばめ号、大阪行きです。

途中止まります駅は、岐阜、米原、京都、終点大阪の順でございます。

到着時刻は、岐阜14:30、米原15:22、京都16:21、終着大阪には、17:00ちょうどの到着を予定しています。

次は、岐阜、岐阜に停車いたします。

列車は、稲沢の操車場を見ながら走っていくのでした。何事もなく14:30には岐阜に到着、駅では助役が走り寄ってきました。

「蒲郡駅での少女の件ですが」という、

私はとっさに、どうだったのですかと聞き返しますと、
措置が早かったので、貴子ちゃんは快方に向かったとのこと。

急性の中毒症であり、措置がもう少し遅ければ命に関わっていたこと、4・5日も入院すれば退院できるであろと、蒲郡の駅から連絡があったと知らされました。

私は、「良かった。本当に良かった」

そう心から思いながら、岐阜駅を発車後に、以下のような案内放送をしたのでした。

「特急つばめ号にご乗車の皆様、先ほど停車の岐阜駅で、蒲郡駅で急病のため臨時停車下少女の件で連絡がありました。皆様にはご迷惑をおかけいたしましたが、あの臨時停車のおかげで、措置が早くできたことから、一命は取り留めたとのことでした。改めて皆様には途中停車のお詫びを申し上げると共に、皆様のご協力のおかげで、一人に少女の命を救えたことを心より感謝いたします。ただいま、列車は定刻で運転しております。」

と放送を締めくくったのでした。

私の心には、いかなる処分を今後受けようとも、少女の命を救ったという思いを胸にして、どんな処分でも甘んじて受け入れようと改めて思ったのでした。

 

終わり

次回は番外編として、その後のお話などをさせていただきます。

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特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 4

2020-04-12 23:15:30 | 国鉄思いで夜話

ほぼ1ヶ月ぶりの更新になりますが、しばしお付き合いください。

私は、先ほどの親子に今一度会いに行くと、二人を特ロ【現在のグリーン車】に案内して、少しシートを倒して少しでも楽な姿勢になるようにするとともに、車掌室に戻り、マイクでお医者さんが乗り合わせていないか声をかけてみるのですが、あいにく乗っていませんでした。
そこで、途中駅での停車をと思い、前述の通り黒田運転車掌と打ち合わせの上、蒲郡に列車を止めようとしたわけです。

早速、運転車掌の黒田君が通報依頼書に臨時停車の旨を書いて、通過する西古佐改易ホームの助役にマッチ箱に依頼書を入れて投げてくれたのでした。
私も通過監視しながら見ていますと、フルスピードで通過する駅から投げられたマッチ箱は列車が通過することで巻き起こる風に翻弄されながら、ホームをコロコロと転がっていくのが見えました。そして、列車から投げられたマッチ箱を広いに近づく助役さんの姿は徐々に小さくなるものの見えていました。
現在であれば列車無線を使って列車指令と直接やりとりできますが、当時はそのような事は出来ませんので、西小坂井駅長の善処を信じるしかありませんでした。
もしかしたら・・・そんな一抹の不安が頭をよぎります。
私は再び車掌室にもどるとマイクを持って、この列車は蒲郡駅に臨時停車する旨を案内しました。
少女、貴子ちゃんは苦しそうに、堅く目を閉ざして苦しそうな呼吸を続けています。
私は、お母さんに
「先ほどマイクでも放送しましたが、蒲郡駅で臨時停車させて、病院に入れてあげますから」
と言うのですが、正直、一抹の不安は残っていました。
万一、蒲郡駅の場内信号機が進行出所定の速度で通過しようとしたら非常制動をかけてでも列車を停止させようと心に決めたのでした。

愛知御津、三河三谷と列車は瞬く間に通過し、次はいよいよ蒲郡でした。
私はいても立ってもいられなくなり、デッキに出てドアを開けたのでした。
列車は依然フルスピードで走行しており走りす続けています。
ああ、ダメかもしれない、やはり非常制動しか無いのか・・・そう思った矢先でした・
ググッとブレーキがかかったのでした、私は思わず体を乗り出します。
列車のスピードはどんどん速度を落とし、蒲郡駅のホームが眼前に迫ってきます。
駅員がホームにリヤカーをおいて待機してくれています。
列車は無事蒲郡駅に臨時停車したのです。

私は胸に暑いものがこみ上げてくるのを押さえながら。給仕にお願いして貴子ちゃんを抱っこして列車から降ろしてもらったのです。
この列車の後には4分半後に「臨時特急さくら」が迫っており、時間的にはかなり厳しいのですが、幸いなことに1分の臨時停車で蒲郡を再び出発、臨時停車の遅れを取り戻すべくぐんぐんとスピードを上げていきます。
と言っても、居間の電車のような加速ではないので、ゆっくりとしたものですが・・・。
貴子ちゃんを乗せたリヤカーは駅員に引かれて移動していきました。
駅前には既に救急車が待機しているのでしょう。
列車に向かって何度も頭を下げてお礼を言うお母さんの姿が見えました。

続く、

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特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 3

2020-03-10 21:44:53 | 国鉄思いで夜話

特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 3

しばらく更新できませんでしたが、早速お話を始めたいと思います。
浜松駅での停車時間は3分ほど、電化区間が浜松までの頃は、機関車の付け替えなどで長時間停車したものですが、最近はその時間も短くなり、弁当販売員にしてみれば,個々が腕の見せ所とばかりに張り切っているようです。
ホームでは発車ベルが鳴り響き、旅立ちの慌ただしさを盛り上げてくれます。
12:37 定時
ベルが鳴り止み、助役が旗を大きく振り上げているのが見えます。
汽笛一声、EF58の甲高い汽笛とともに軽いショックが乗務員室にも伝わり、特急つばめは大阪に向けて歩み出すのでした。
弁当販売員は、最後の1個をとばかりに小走りに走りながら弁当と釣り銭を渡しています。
浜松駅のハモニカ娘にも見送られながら、汽車は徐々に加速していくのでした。

さて、再び私は乗務員室からこれから先の停車駅の案内放送をしていくのでした。
次は、名古屋14:00到着、岐阜14:30、米原15:22、京都16:21。終着大阪には17:00調度の到着を予定しております。

いつも通りの放送を流し、しばし、専務車掌室で待機していますと、乗務員室のドアをノックする音がします。
誰だろうかと、開けてみますと、朝から体調が優れないとして、薬を渡し、先ほども浜松到着前に声をかけたお母さんが血相を変えて立っていました。

「どうされたのですか?」

  「子供の様子がおかしいのです」

「判りました、列車内にお医者さんがいないか尋ねてみることにします。」

私は早速にマイクに向かい放送用のスイッチを再び入れるのでした。

「皆様にお知らせいたします、4号車に急病のお客様がおられます。お医者様はおられませんでしょうか。」

放送はしたもののあいにくお医者さんは乗車していないようです。
そこで、私はどうするべきか、名古屋まであと1時間20分はかかります、そこで私はとっさに本来は停車駅ではない通過駅で臨時停車させようと決断しました。

不安そうに立っている母親に、
「座席に戻っておいてください、善処します」
と告げて、私は最後尾の展望室に歩を進めるのでした。

展望室の前方乗務員室に彼は座っていました。

「黒田運転車掌、車内で急病の乗客がいるので、列車を通過駅のどこかで停止させようと思う」

私は、岡崎駅にしようと思うがと言いかけて。蒲郡の方が近いし、病院等もありそうだと独り言を言いながら、新ためて、

「蒲郡駅で臨時停車させようと思う」

と黒田運転車掌に告げるのでした。

少し驚いた黒田車掌でしたが、

「了解しました。」

そう言ってくれたので、そのまま先ほどの母親の元に足を運ぶのでした。

座席に向かうとぐったりした少女に姿が見えます。
かなり体調は悪いようです、私は母親に、声をかけ

「蒲郡で臨時停車する手配を今から行います」
と手短に伝えるのでした。

母親は、
「ご無理申し上げますが、どうかよろしくお願いいたします。」

そう言って、深々と頭を下げるのでした。

さて、この続きは次回とさせていただきます。

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特急つばめ 愛の臨時停車顛末記 2

2020-02-28 23:26:58 | 国鉄思いで夜話

皆様、久々に投稿させていただこうと思います。
9:00定刻に東京駅を出発した下り特急つばめ号は、有楽町の日劇を横に見ながらどんどん加速していきます。

私は、車内放送を済ませると、車内改札に向かうのでした。
私と同僚の専務車掌黒木君と手分けして、車内を回ることにしました。
車内は、用務客と思しき人が大半で、2等車では、国鉄パスを持った管理局の課長クラスや、会社の重役、時には国会議員も乗車しています。
それでも、特急つばめは2等車も3等車もほぼ満員の乗車率でした。
私は普通車から順次検札をしていたのですが、3等車に乗車していた親子連れに声をかけられました。
聞けば、子供の気分がよくないとのこと、そこで私は、列車内に常備の酔い止めの薬を手渡したのでした。

横浜9:27定刻出発下、特急つばめの次の停車駅は、沼津、しばし時間的にも余裕が生まれます。
やはり乗務中に乗客の安全確保は車掌の仕事ですので、特に気になると言えば、やはり東京から乗った親子連れでした。
体調が優れないと言っていた子供は、母親に寄り添って眠っているようでした。
私の姿に気づいた母親は軽く会釈を返してくれます。

私は、「お子様の様子は如何ですか。まもなく浜松ですが、浜松で下車することもできますよ」と、お伝えしたのです。

母親は、「問題はなさそうですのでこのまま大阪まで行けそうです」と申し出たので、私も安心して再び専務車掌室に戻るのでした。
そんな会話が交わされて、ふと窓外に目を見やるとホームに「しずおか」の駅名が目に入ってきます。

時計を見ると定時通過でした。
さすがに特急の運転士【甲組】たちのプロ意識は確かなものだと感心しながらも、専務車掌室で、しばし休息です。

静岡を通過すれば、あと30分ほどで浜松に到着です。私は到着10分ほど前から案内放送をおこなうため、マイクに向かいます。

長らくのご乗車お疲れ様でした。列車はあと10分で浜松に到着いたします。
浜松では3分停車いたします。
お忘れ物無きよう、後者のご準備お願いいたします。

1等車の乗客には年配のボーイがお客様の荷物をまとめて、準備している頃でしょう。
つばめガールも、下車するお客様に声をかけている頃かも知れません。

やがて列車は、12:34定刻に浜松駅に到着、駅ホームでは駅弁の売り子に混じって、ハモニカ娘がハモニカを籠に入れて立っています。

皆様、久々に投稿させていただこうと思います。
9:00定刻に東京駅を出発した下り特急つばめ号は、有楽町の日劇を横に見ながらどんどん加速していきます。

私は、車内放送を済ませると、車内改札に向かうのでした。
私と同僚の専務車掌黒木君と手分けして、車内を回ることにしました。
車内は、用務客と思しき人が大半で、2等車では、国鉄パスを持った管理局の課長クラスや、会社の重役、時には国会議員も乗車しています。
それでも、特急つばめは2等車も3等車もほぼ満員の乗車率でした。
私は普通車から順次検札をしていたのですが、3等車に乗車していた親子連れに声をかけられました。
聞けば、子供の気分がよくないとのこと、そこで私は、列車内に常備の酔い止めの薬を手渡したのでした。

横浜9:27定刻出発下、特急つばめの次の停車駅は、沼津、しばし時間的にも余裕が生まれます。
やはり乗務中に乗客の安全確保は車掌の仕事ですので、特に気になると言えば、やはり東京から乗った親子連れでした。
体調が優れないと言っていた子供は、母親に寄り添って眠っているようでした。
私の姿に気づいた母親は軽く会釈を返してくれます。

私は、「お子様の様子は如何ですか。まもなく浜松ですが、浜松で下車することもできますよ」と、お伝えしたのです。

母親は、「問題はなさそうですのでこのまま大阪まで行けそうです」と申し出たので、私も安心して再び専務車掌室に戻るのでした。
そんな会話が交わされて、ふと窓外に目を見やるとホームに「しずおか」の駅名が目に入ってきます。

時計を見ると定時通過でした。
さすがに特急の運転士【甲組】たちのプロ意識は確かなものだと感心しながらも、専務車掌室で、しばし休息です。

静岡を通過すれば、あと30分ほどで浜松に到着です。私は到着10分ほど前から案内放送をおこなうため、マイクに向かいます。

長らくのご乗車お疲れ様でした。列車はあと10分で浜松に到着いたします。
浜松では3分停車いたします。
お忘れ物無きよう、後者のご準備お願いいたします。

1等車の乗客には年配のボーイがお客様の荷物をまとめて、準備している頃でしょう。
つばめガールも、下車するお客様に声をかけている頃かも知れません。

やがて列車は、12:34定刻に浜松駅に到着、駅ホームでは駅弁の売り子に混じって、ハモニカ娘がハモニカを籠に入れて立っています。
日本広しといえども、駅でハモニカを買えるのは浜松駅だけでしょう。

東海道線の電化が浜松までだった頃は、機関車の付け替え時間の間にラジオ体操が流されており、さすがに乗務中はラジオ体操はしないものの、ホームを見ると何名かの乗客がホームに降りてラジオ体操をしている人を見かけたものでしたが、それも昔の物語になってしまいました。

そんな浜松駅も3分の停車で、再び大阪ヘ向けて歩を 進めるのでした。
ここまでは順調だったのですが、この後・・・件の母親からの申し出で事態は急変することとなります。

そう、東京出発直後に薬を渡した女子の体調が急変したのです。

ということで、ここから先は次回に書かせていただきます。

東海道線の電化が浜松までだった頃は、機関車の付け替え時間の間にラジオ体操が流されており、さすがに乗務中はラジオ体操はしないものの、ホームを見ると何名かの乗客がホームに降りてラジオ体操をしている人を見かけたものでしたが、それも昔の物語になってしまいました。

そんな浜松駅も3分の停車で、再び大阪ヘ向けて歩を 進めるのでした。
ここまでは順調だったのですが、この後・・・件の母親からの申し出で事態は急変することとなります。

そう、東京出発直後に薬を渡した女子の体調が急変したのです。

ということで、ここから先は次回に書かせていただきます。


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特急つばめ 愛の臨時停車顛末記

2020-02-10 22:54:53 | 国鉄思いで夜話

こちらは、史実として残る、「特急つばめ」臨時停車に対して。当時の専務車掌が回想記を寄稿しており、その話をモチーフに展開した、小説になっています。

氏名等は仮名ですが、ほぼ史実に沿った内容となっています。

東京から乗車した少女の容体が急変、車掌の機転で、蒲郡駅で臨時停車させるて病院に搬送することが出来たとして、後日新聞にも「愛の臨時停車」として美談が載ったというお話なのですが、当たり前のことをしただけなのに、これを美談として取り上げられることに多少の違和感を持ってしまったということで、当時の手記が書かれていました。
この記事はその内容をベースに創作したお話になります。

初めまして、私は大阪車掌区の勤務する中村というものです。
私は、15歳で大阪鉄道管理局に採用され、大阪城東線の京橋駅を振り出しに、車掌試験を受験、特急つばめが運転を開始してから3年後の昭和28年から、専務車掌として乗務することになりました。
当時の列車には、専務車掌である私の他に、後方の監視を担当業務とする運転車掌や、つばめガールに代表される列車給仕など、多くのスタッフも乗務していました。

さて、当日の話は後ほどお話しさせていただくとして、特急つばめのお話を最初にさせていただこうと思います。

特急「つばめ」は戦前は超特急として、東京から東海道本線の終点である神戸まで運転されていました。
当時は特急「燕」と漢字で書かれており、客車並びに列車はここからもう少し先の明石に機関区並びに客車区がありましたので、そこまで回送されることとなっていました。
戦後は、外国への船客も減ったことから東京~大阪間に運転区間が短縮されましたが、列車の受け持ちは引き続き、大阪鉄道管理局が受け持つこととなり、国鉄の伝統列車で有る「つばめ」号を引き続き大阪で、それも大阪車掌区が受け持つことは、とても誇りに思えたもので有り、私以外の多くの車掌も同様に誇りを持って日本一の列車を運転しているんだという自負はありました。
私たちは最高の車両で、最高のサービスを提供することを合い言葉に行動していました。

さて、この日も私は前日の「つばめ」に乗務して上京、乗務員宿泊所で休息し、翌日の「つばめ」で帰阪する行路となっていました。
当時は特急と言える列車は、この「つばめ」姉妹列車の「はと」臨時特急の「さくら」、それと山陽本線の「かもめ」だけで有り、特急列車自体が特別な列車で有りますから、先ほども書きましたが、客車を受け持つ宮原客車区は言うに及ばず、私たちが所属する大阪車掌区、そして宮原機関区でも特急乗車組は憧れを持って見られていたものでした。

当日は、7:00に宿泊所を出発、7:30には制服に着替えて点呼を受けることとなっていました。
東京車掌区での点呼はいつもの事ながら緊張します。
言ってみれば親戚の家に来たようなものですから。
点呼を終えて品川客車区でつばめに乗り込み、運転車掌の黒田君も乗務してくる。
その後、列車給仕のつばめガールも乗務、簡単に打ち合わせを行い。移動を待つことに、時計が8:20分を示す頃、列車は静かに動き出し、東京駅へ、展望車の先頭に機関車が付くのはこの区間だけに見られる不思議な光景と言えましょう。

当時は、大阪では塚本からのデルタ線を使って方向転換していましたが、東京でもで品川駅から大崎駅を使ってのデルタ線で客車全体の方向転換が行われていました。

そして、当時は始発駅で30分程度停車するのは当たり前で有り、9:00出発の「つばめ」号は8:33には、東京駅到着、すぐに機関車は先頭車に回すため切り離されて、横の機回し線と呼ばれる線路をすり抜けて先頭の荷物車に連結、既に荷物車では手荷物の搬入なども行われており、ホームでは別れの挨拶が行われているのでした。

客車は先頭大阪方から。スハニ35+スハ44+スハ44+スハ44+スロ60+スロ60+マシ35+スロ60+スロ60+スロ60+マイテ39という編成で、定員は3等車が定員288名【1両あたりの定員は80名】2等車は定員220名【1両あたり44人】であり、いかに当時の3等車【普通車】が詰め込みであったか判ります。【ちなみに、3等寝台車は定員60人、その後増備された車両は54人】とこれまた、詰め込み主義的な乗り物で、現在の水準では考えられないほど窮屈な代物でした。

さて、9:00発車ベルが東京駅ホームに鳴り響き、運転主任の発車合図を待って、EF58からの甲高い汽笛がホームに響き渡ると徐々に徐々に汽車はスピードを上げて動き出すのでした。
私は、8号車の2等車から顔を出してホームの監視を行います。
後方では、同じく運転車掌の黒田君が乗ってくれています。黒田君は大阪車掌区ではありませんが、機転の利く好青年ですので、やがては専務車掌として頑張ってくれることを密かに期待しているのです。
ちらっと、後ろを見てみると、真剣なまなざしで後方からホームを見つめています。
さて、列車がホームを離れると、案内放送も私の重要な仕事ですので、車内の案内と停車駅の到着時刻などを放送していくのでした。

その後、車内改札を行うのですが、このときは未だ、これから4時間程後におこる騒動など夢にも思わないのでした。

 


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本州・四国連絡橋のお話し諸々

2020-01-19 21:23:22 | 国鉄思いで夜話

計画された、本州と四国を結ぶ鉄道ルート



本州と四国を結ぶ吊り橋として、現在鉄道が通過しているのは、南備讃瀬戸大橋、北備讃瀬戸大橋を含む瀬戸大橋が唯一ですが、計画当初は、明石海峡大橋も鉄道橋として建設して、既に開通している、鳴門大橋を経由して四国と関西を結ぶ路線も計画に入っていました。

色々と調べていますと、興味深いblogを見つけました。


南あわじ市の市政と県病について


と言うタイトルの記事で、「明石海峡大橋が「道路専用橋」となってしまったいきさつ(失われた鉄道併用の利点)と言う記事がありました、こちらを参照しますと、鉄建公団としては技術的には、可能であったと書かれています。


当該ブログから引用させていただきます。


その後、昭和50年(1975年)8月、三木内閣の下で、改めて合意がなされる。 そのとき、「児島坂出ルート(瀬戸大橋)は鉄道・道路併用橋として建設し、神戸鳴門ルート(明石海峡大橋)と尾道今治ルート(しまなみ海道)は部分的な架橋工事に着工する」と、最終的に取り決められた。 この時点では、まだ明石海峡大橋の鉄道敷設については、表向き「保留」だった。 しかし、60年(1980年)8月、明石海峡大橋は正式に「道路専用橋」と決定されてしまう。

実は、当時の公団の技術陣は「道路・鉄道併用橋でも充分に可能」だとしていた。 ところが、「吊橋構造での4キロ近い長大橋(明石海峡大橋は3900m)の併用橋は、世界的に例がない」、その点、瀬戸大橋は距離は長いが、途中に小島が連なっていて、明石海峡大橋ほどの長大橋は必要なく、工事費も安くなるという経済的理由などによって、瀬戸大橋は「道路・鉄道併用橋」、明石海峡大橋は「道路専用橋」になってしまった。


明石海峡大橋 画像wikipedia


 


結果的には、1973【昭和48】年の石油ショック以降経済成長は終わりを告げ、こうした建設計画も
一気に見直されることになってしまいました。


再び建設が決定されたときは、上記blogに書かせていた頂いているように、明石海峡大橋は建設費が抑制
できると言うことで、道路専用橋として建設されることになるのでした。


本当に経済的理由だけだったのか?


とここまで書いて、本当に経済的な理由だけだったのか?
私個人の記憶では、技術的な問題もあったような記憶もありましたので、もう少し調べて見ますと、更に
専門的なblogが見つかりました。


いやぁ、正直調べて見ると、本当に色々な資料が簡単に参照できる時代になったものです。


正直脱帽です、ありがとうございます。


このblogによると、大鳴門橋建設途中で、鉄道併用橋を止めようと言う意見もあったようで、経済的にも
技術的にも明石海峡大橋の併用橋は難しいと言う結論に達したとされています。


 


明石海峡大橋に鉄道が建設されなかった経緯等


 


この記事を参照しますと。
技術的にも難しかったと書かれています。少し引用してみたいと思います。


これだけだと、政治的、経済的理由で鉄道の建設を取りやめたように見えるが、前述のとおり技術面でも厳しい部分があったようだ。

伊東 鉄道をやめたのはどんな理由なのですか。当初、三橋とも鉄道が併設されるという話でしたね。

井上 西は違っていたと思います、鉄道はなし。

伊東 真ん中と明石海峡。

井上 それで、真ん中ももうできましたし、鉄道もできていますが、東の明石海峡をやめたのは、やはりあれだけの長大吊り橋になると、 たわみが大きくて、吊り橋のジョイントというのか、あそこで非常に危険があるというようなのが最後の決め手になったみたいでやめましたけれども。
伊東 技術的な理由で。

井上 ええ。まあ、克服できないものではないと思いますがね。あそこしかないとなったらやるでしょうけれどもね。鉄道もあそこはあきらめるということで、割にすんなりといきました。

ということで、国鉄としても技術的にも厳しいこと、更には国鉄の財政的な部分もあったと思いますが、結果
的に明石海峡大橋の鉄道併用橋は諦めたようです。


 


狩勝実験線では走行安定実験が行われたと言う事実も知って欲しい



結果的には、瀬戸内海における鉄道併用橋は、高松と岡山を結ぶ、備讃瀬戸大橋だけになりましたが、吊り橋
における走行安定実験が昭和45年に行われたという事実も記させていただこうと思います。

 


本州・四国間つり橋走行安定実験始まる 10/13

 


国鉄が日本鉄道建設公団の委託をうけて研究、開発を進めている本州’四国間つり橋の走行安定実験が狩勝実験線において開始された。
 本州・四国間のつり橋は鉄道の走るつり橋としてはわが国初めてのもので、種々の解決すべき問題を抱えている。今回のテストは「角折れ区間の走行試験」とよばれるもので、レールのゆがみとその影響を探ろうとする試みである。すなわち、つり橋の橋脚の間隔が長大化すると列車が走るとき橋の中央部分が大きくたわみ、支持している橋脚の部分ではレールが「へ」の宇型になる。これが「垂直方向の角折れ現象」で、ここを高速で通過する列車は、はねあがる恐れがある。
また同様に、橋げたが強風などで左右の方向にゆがむのが「水平方向の角折れ」と呼ばれ脱線の原因にもなる。
 今回の実験はこの垂直・水平方向の角折れが車両の走行安定性にどのような影響を与えるかを探り出そうとするものである。実験は10月30日まで各種の条件の下で行なわれ今年度の実験は終了するが、来年度も引続いて行なわれる予定である。

架橋に際して、狩勝実験線でこうした試験が行われたことはあまり知られていないと思われますので、ここに紹介させていただきます。

 


狩勝実験線(脱線試験)の記録

 


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万博こぼれ話 新大阪駅が簡易宿泊所になった話

2020-01-14 20:39:22 | 国鉄思いで夜話

国鉄の部内誌、国有鉄道という雑誌から見かけたお話から。

今回は、1970年に大阪千里山丘陵で開催された日本万国博覧会(EXPO'70)のこぼれ話として、新大阪駅での話です。

駅での宿泊は、当時も今も営業時間以外は開放されておらず、最終列車が到着すると駅を閉鎖してしまいます、当時のお話では新大阪駅は24時間開放していたようです。

現在は廃止されていますが1階飲食店街(味の小路)付近が団体待合室となっていたそうです。


この団体待合室が、万国博見学者の臨時宿泊所になったというお話です。


当時の雑誌を参照しますと、万国博覧会が始まった3月15日以降に、団体待合室で夜を明かす人が出てきたそうで、これが日に日に増えていったそうです。

その殆どが、万国博を見学するためにやってきた人たちで、駅舎に宿泊することで旅館代を浮かそうということだったそうで、冷暖房完備の、待合室は椅子での仮眠という点を除けば、安く宿泊できるとして誰いうとも無く始まったようでした。

実際、当時は新大阪駅から大阪市営地下鉄【現・大阪メトロ】に乗車して、江坂からは北大阪急行に乗り入れる直通列車が万博中央駅まで走っていましたので、地下鉄で降りてそのまま団体待合室で夜を明かすと言うことになったのかもしれません。
当初は、その対応に苦慮していたようですが、当時は、ミニスカートが流行した時代であり、そうした女性も多く、夜間に痴漢被害となっても困るということから、本来であれば鉄道営業法37条に基づき退出願うところでしたが、最終的には「ここで夜明かしされる方も新幹線を利用するお客様であり、たまたま旅館が満員、もしくは経済的な理由でやむを得ず団体待合室で夜を明かしているのだ」という駅長の判断の元、団体待合室での宿泊が認められたのでした。

そこで、公安としても、駅に協力することとなり、団体待合室を宿泊所代わりに利用する人たちを把握するために宿帳ならぬ待合室帳を作り住所・氏名などを書いてもらうようにしたそうです。

最近では、「個人情報ガー」と言って拒否する人も出てくるかもしれませんが、当時はスムーズに運用できたようです。

記録によりますと、7月末日現在で4109名うち外国人は313名であり、いささか国際色豊かな簡易宿泊所?ができあがったそうです。

現在も新大阪駅に団体待合所があったら、外国人観光客【バックパッカー】で占領?なんてことになっていたかもしれないですね。

万国博に絡む、国鉄時代のお話でした。



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特急つばめガールは、GHQの置き土産?

2020-01-02 22:47:06 | 国鉄思いで夜話
皆様、特急「つばめ」と言えば、若い方ですと、九州新幹線の「つばめ」を思い出される方も多いかと思います。
我々の年代ですと、岡山から九州方面に走っていた列車、もしくは、新幹線開業前に東京~大阪間を走っていた列車名と言うことで覚えている方も多いかと思います。

今回のお話は、戦後復活した客車特急つばめ・はと誕生秘話として、昭和27年に発行された
桜木町日記を参照しながら書かせていただきました。

国鉄にとって、「つばめ」は特別な列車であり、これは戦前の世界恐慌時(1929年)昭和4年に行われた特急列車の愛称一般公募結果をもとに命名されたものもので、超特急の愛称として。「つばめ」が選ばれました。
もっとも、当時は、「燕」と漢字で書かれていたのです。

戦前から国鉄を代表する特急列車の愛称名であることは、変わりなく、国鉄では球団を作ったときもスワローズ(現在のヤクルトスワローズは、国鉄スワローズが身売りされたため)を名乗ったほか、国鉄バスも「つばめ」マークが取り付けられました。
現在も、JRバスにつばめマークが描かれていますが、国鉄バスの伝統を引き継ぐものと言えそうです。(余談ですが、西日本JRバスは発足当初つばめマークを使用していなかったのですが、最近は復活しているようですね)

さて、話がすっかり脱線してしまったので元に戻しましょう。
特急つばめなどの優等列車も戦争の激化により特急列車は廃止されてしまい、実に昭和19年の時刻表(復刻版)を参照しますと、急行列車(東京発鹿児島行き)1列車の他門司行き二本、広島行き(呉線経由)一本、大阪行き夜行一本の計五本という寂しさです。
そして、終戦を迎えた国鉄では、戦後昭和24年国鉄発足直後に特急列車の復活を試みることになりました。

国鉄としては、日本一の代表列車にしたいという思いがあったのですが、当時は占領中であり、何か事故で列車が遅れると最優先で運転されるのは軍用列車(進駐軍専用列車)であり、特急を運転した場合、特急が遅れてしまうことになるため具合が悪いと言うことで、特急列車に優先権をということで、GHQと交渉することとなりました。

当時の国鉄の輸送事情では。連合軍列車>急行列車>普通列車>貨物列車という序列があり、国鉄としては、最上級の列車である特急を最優先で走らせられる位置に持っていきたいわけで、特急列車>連合軍列車>急行列車>普通列車>貨物列車になるように交渉をするのですが、当然のことながら、GHQは、連合軍専用列車を最優先で走らせるようにと言うことで、首を縦に振りませんでした。

粘り強い国鉄側の交渉で、特急列車>連合軍列車>急行列車>普通列車>貨物列車の序列が認められることとなりました。

その次に国鉄としては、特急列車の時刻などを決定して相談に行くことになるのですが、これについては、戦前の「特急燕」のダイヤをほぼ踏襲(9時間運転)、列車名は「へいわ」で行こうと言うことで、東京9:00発、大阪は12:30発(戦前の燕は、東京~神戸間の運転であり、大阪は13:00発であった)のダイヤを設定しようとしたのですが、ここでGHQの運輸局側から、次のような物言いが付いたそうです。

優等列車の同時発車にすべきであると。

下図、昭和15年復刻版時刻表参照



戦前の時刻表を見ますと、下り列車は東京9:00発、上り列車は大阪始発13:00(始発は神戸0:20)となっていました。


その辺を、桜木町日記から引用してみますと。
「主要列車というものは、東京と大阪を同時刻に出すべきである。しかもその列車番号とか名前とか変えるべきではない、現にニューヨークセントラルで一番いい汽車は、トウエンティス・センチュリー号(20世紀号)というし、又ペンシルバニア鉄道のブロードウエイリミテッドと言う汽車の名前は、長年同じ名前で同じ時刻に出ている。国鉄もそういう列車が決まったらそのままで出すべきだ。」との意見であった。


引用終わり

と言うことで、この運輸局の一声で「へいわ」の運転時刻は東京・大阪とも同時刻に出発となったそうです。


昭和24年9月から運転を開始した、「特急へいわ」運転を開始してみると、中々評判も良く同年中に公募で「つばめ」に再度愛称を変更することとなり、(へいわは昭和25年1月つばめに改称)されました。
この成功に気をよくした国鉄は、今度は姉妹列車を出すこととなり、これを「はと」と名乗ることにしました。
ここに、「つばめ・はと」の二つの列車が誕生することになるのですが。ここでも、GHQから横やりというわけではないのですが、アメリカの主要列車には女性のアテンダントが乗務しているので、日本でも実施すべきだと言われたそうです。
更につばめガール・はとガールの制服に付いても、GHQの運輸局が事細かく指示を出してきたそうで、アテンダントの面接試験にも立ち会うという熱心さであったそうです。

この辺を再び桜木町日記から引用したいと思います。

ところが、この特急を出したところ仲々評判もよく、収入もいいので、今度は「はと」も出すことになった、「はと」も十二時半、相互に出せ、ということであったので、昭和二十五年五月十一日特急「はと」も十二‘時半東京大阪発ということで運転を開始した。
 このため、戦後の特急は東京と大阪の始発時刻が戦前のように違うということにはならなかった。
 つまり時間もアメリカ式の特急になったわけで、国鉄でもこれは国際列車としても大いにいいものにしようと考えていた。すると今度運輪局では、「アメリカの主要列車にはしばし女のきれいなアテンダントが秉ってぃる、日本でもアテンダントを乗せたらどうか、これは是非必要だ。そして国際列車にしろ」ということを云って来た、国鉄側でもそれはいいというので早速賛成し、部内からミスつばめ、ミスはとを募集することになった。
 運愉局でもこのミスはと、ミスつぼめには殊の外熱を入れ、御苦労にもその詮衡試験には立合うというわけで、試験当日には、シヤグノンやブレーデンなどが来て、熱心に見て行った。この試験は東京と大阪両方で行われた。

 ところが、この試験の結果、ミスはと、ミスつばめが決まると、今度はそれにふさはしい制服を作ることになった、ところが運輸局ではこの制服のデザインまでも見せろと云うわけで、早速見せると、この襟はもう一寸短くした方がいいといったような意見まで出て意気仲々盛んであり、大変な内面指導ぶりであった。
 こうして東海道線の旅行者から親しまれているミスつばめ、ミスはとが世に出ることになったのであるが、これにも強い運輸局のリコメンデーションがあったわけで、これなどは、占領秘話の中でも極めて明るいものであろう。


と言うことで。昭和35年の151系化まで親しまれた、つばめガール・ハトガールですが、占領軍GHQ運輸局の強い推しがあって誕生したと言うお話でした。

追伸
東京では、部内からの選考でしたが、大鉄局は新たな臨時職員として募集したそうで、つばめ廃止時には多くのつばめガールは退職、はとガールは部内配転が行われたようです。


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食堂車と営業事業者割り当てのお話

2019-12-17 23:13:41 | 国鉄思いで夜話
1960年代、優等列車には食堂車は必ず連結されていた。

1960年代の国鉄では優等列車と呼ばれた急行以上には原則として食堂車が連結されていました。

当時は、特急列車の本数も少なく、特急は文字通り、「特別な急行」でありおいそれと乗れると言う雰囲気ではありませんでした。

そこで、一般には急行(普通急行)を利用するのが一般的であり、夜行列車・昼行列車に限らず、多くの食堂車がこれら列車に連結されていました。

さて、この食堂車ですが、当然のことながら国鉄が直接経営していたわけではなく、業者に委託する形となっていました。

その代表格は、日本食堂でした。

日本食堂【通称にっしょく】は、列車食堂を営業していた 伯養軒(仙台)と駅構内で食堂などを経営していた精養軒(上野)・東松亭(大阪、後の水了軒)・みかど(神戸)・東洋軒・共進亭が共同で出資した会社だそうで。(この項目はwikipedia参照)
列車食堂というと「にっしょく」というイメージが強かったのですが、にっしょく自体は昭和13年に設立と有りますから、戦前から日食は食堂営業していたみたいたのですが、意外と新しい。
帝国ホテルも特急列車を中心に洋食を提供していたように記憶しているのですが、いかんせん資料が見当たりませんでした。
ご存じの方おられましたらご教示いただけると幸いです。

聚楽が特急ときの食堂車に参入するのは、昭和43年10月のダイヤ改正以降


さて、記事は国鉄線の昭和43年10月号からキャプチャーしたものですが、列車食堂の割り当てが決まったと書かれています。
当時の食堂車では、当然のことながら什器類は全て会社持ちであり、受持ち列車が変わる場合は什器類は全て入れ替えだったそうで、国鉄からの貸与品というのはなく、作り付けのコンロなど以外は食堂事業者の負担だったそうです。
気の毒なのは、機関士の運転ミスで大きく車体が揺れたりして什器類が割れてしまったなんてこともあったそうですが、その時も国鉄は責任を負わなかったそうです。
これは、余談でしたが。
下記の話を見ていますと、「特急とき」で昭和37年に聚楽が食堂車営業に参入したのですが、特急ときは最初は日本食堂が営業していたようで、昭和43年に初めて1往復聚楽に割り当てたと書かれています。
これは私も知らなかったです。
さらに、意外だったのが、鉄道弘済会が普通急行列車ですが、32.5往復の列車の列車食堂の営業をしていたと言う事実も驚かされます。
それと、0.5往復と言うことは片道ですので、こうした場合は当然のことながら終着駅で什器類を降ろして、別の列車に入れ替えると言ったことを繰り返していたのでしょうね。


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国鉄時代の二条駅、備忘録

2019-11-30 21:14:29 | 国鉄思いで夜話
二条駅とは、山陰本線にある駅ですが、実はこの駅のことを調べて行くと色々と面白いことが見えてきました。


二条駅は、日本で二番目に古い現存駅舎だけでなく、戦前はある荷物の取扱量でも日本で2番目だったそうです。

ちなみに、1位は、秋葉原だったそうです。


ちょっと考えてみてくださいね。



実は、二条駅で日本2位の到着を誇ったのは、薪炭(炭)でした。

二条駅は、京都の中心部になるのでここから西陣地区を中心に洛中と言われた京都市内に配送されたそうで、二条駅の北側にはそうした薪炭を扱う問屋が軒を並べていたそうです。



鉄道が開通するまでは、高瀬川(運河)で洛中まで運ばれていたそうですが、鉄道の開通により鉄道で運ばれるようになったと言われています。


同じように、京都市内の暖房用などの石炭も一手に引き受けていたそうで、駅構内には貯炭場が設けられていたと言います。

その後、エネルギー政策の転換で石炭は石油に替わり、石炭や薪炭の扱いは減少し、その代わりの目玉となったのが自動車でした。

二条駅で実は、新車の自動車の受け入れを行っていたそうで、二条駅から滋賀・鳥取方面に向けて自動車が配送されていたそうです。

ただ、スト権ストで一気に信用を失い、自動車輸送は廃止になってしまいました。

貨物輸送が不振になってからは、広いヤードは今度は留置車両の保管場所となり、583系などが一時期留置されていました。



余談ですが、583系が近郊型電車に改造されることになったのか・・・単に寝台電車が余剰になったからという理由だけでなく、電気機器を更新していたことも理由だったと言われています。
実際、583系電車は昼夜兼行電車でしたから、走行距離は通常の電車と比べれば倍走ることになりますので、電装品の劣化も早く50年代に更新が行われていたからと聞いたことがあります。
何れにしても、二条駅で留置されていた583系も419系などに改造されて活躍、寝台電車としての活躍の時期よりも近郊型電車での活躍の時期の方が長かったような気がします。

二条駅の話から、全く違った方向に行ってしまいましたね。
申し訳ございませんでした。
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昭和30年代における、自動車の鉄道輸送

2019-11-16 17:28:10 | 国鉄思いで夜話
皆様こんにちは、今回も国鉄線見つけた面白い記事について書かせていただこうと思います。

国鉄における自動車輸送と言えば、ク5000を使った自動車輸送を覚えておられる方も多いかと思います。


画像 Wikipedia


自動車専用列車として、新車を運ぶのに使われ自動車の移動には汚れや傷を防止するため、車カバーがかけられていたのを写真で見た記憶があります。

ただ、古い写真を見ていますと移送時はカバー等を被せずに運転していたこと写真もあり、カバーしていたのは写真撮影用なのかそれとも・・・・と思うのですが、自動車カバーを収納させる場所を設けていたと言う記述もあるのでその辺はご存知に方おられましたらご教示いただければ幸いです。

百済駅における車両積卸風景 天鉄局30年史のアルバムから引用

なお、国鉄時代のク5000は1900CCまでの車を10台、20000cc以上で8台、軽自動車で12台を積載できるようになっていたそうですが、これから紹介するのは、専用貨車の「シム1000形」と呼ばれる私有貨車です。他にもダイハツがシム2000、三菱自動車もシム3000形と呼ばれる同系車をだしているようです。

今回も国鉄線昭和37年10月号に掲載されていた記事を参照しながらお話を進めたいと思います。
なお、閲覧にはパスワードが必要ですので、興味のある方は財団法人交通協力会のトップページからアクセスしてパスワードを取得されては如何でしょうか。

早速見ていきたいと思います。


何とも厳めしい車両ですが、これが車を運ぶ貨車ですと言われても正直ピンとこないかと思います。
実は、この貨車に6台の車が乗るのです。

実はこのように、貨車をクレーンで吊るしながら積み上げたそうです、この写真ではパブリカを積んでいるようですが、こんな方法で本当に大丈夫と心配してしまいます。
実は、この写真からは見えにくいのですが、下の段に2台の車が積んであります。
その証拠写真がこれ

既にナンバーも付いている車もあるのが興味深いのですが、何ともアクロバティックな積み方です。

ちなみに初代パブリカですが、

幅  1415mm
高  1380mm
であり、車両限界が幅3.0mですので、下の2台は隙間は数センチしかなかったのではないかと思います。

昭和37年の国鉄線の記事によりますと、昭和30年代後半には新車の配送はその多くが自ら車をディラーまで運転して配送するのが一般的でコストも安くなるので積極的に自走になったそうですが、人件費の高騰などでその方法も必ずしも有利は無くなってきたことから再び鉄道を利用してもらえる気運が高まったため、効率よく積載できる貨車を開発することとしたそうで、トヨタ自動車に中部支社(当時は支社制度があり、支社の配下に各管理局が設置されていました。)が働きかけて私有貨車を作ってもらいそれを国鉄が輸送する形態となったものでした。
上に載せる自動車は専用パレットであり、回送時は積み重ねて発送駅まで戻るようになっていたようです。
結果的に、こうした貨車を作ったことがその後より効率的に運べるク5000を生み、その利用も爆発的に増えるのですが、昭和48年頃から相次ぐ国鉄のストライキや運賃値上げ等から利用が低迷したそうです。
昭和53(1978)年10月には、日産自動車の輸出用自動車を輸出港に運ぶ専用列車「ニッサン号」が宇都宮貨物ターミナル~本牧埠頭間で運転されましたが、こちらも 昭和60(1985)年3月ダイヤ改正で自動車の鉄道輸送はひとまず終了しますが。翌昭和61(1986)年5月に再び「ニッサン号」の運転が再開しましたが、往年の華やかさはなく、平成8(1996)年3月にク5000による運行は廃止されたとされています。
今は一部は、コンテナ車による輸送が行わたと聞いております。

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名神高速バス 最初の一歩

2019-10-26 11:55:49 | 国鉄思いで夜話
皆さまこんばんは、現在は東名高速道路には昼夜を問わず、高速バスが走り、特にWILLER EXPRESSに代表される、高速バス事業者やそれ以外の中小のツァーバスを含め数多くのバスがJRの夜行列車に代えて全国にそれこそ走っています。
私も、夜行バスをよく利用するのですが、夜間の高速のパーキングエリアなどでは高速バスとトラックでSA(サービスエリア)を占領しているのではないかと思わせるものがあります。

Wiiler Express

今は高速バスがこれほど走っているわけですが、そもそも高速バスのスタートは国鉄であったと意外に思われる方も多いのではないでしょうか。

日本最初の高速道路が開通したのは、名神高速道路、栗東インターチェンジ(IC)~尼崎インターチェンジ(IC)間(71.7km)が昭和38年(1963)7月16日に開通したことから日本の高速道路の歴史は始まりました。

国鉄では昭和36年から高速道路専用バスの試作を行ったそうです。

最初の試作車は昭和36年には早くも出来上がっていたそうで全体に丸っこくて、パッと見たときにどちらが前なの?と思わせるスタイルでした。下図参照



国鉄線、昭和38年8月号から引用


こちらのblogに当時の試作車に関連する記事が出ていましたので、リンク貼らせていただきます。

https://ameblo.jp/yamaya-1210/entry-11899738497.html


その後改良が加えられ、高速道路が開業する直前には、高速バス専用車が完成しています。

その車両が下の写真になります。


国鉄線、昭和38年8月号から引用

試作車の頃と比べるとずっと洗練されています。

もちろん、今の感覚で言うと古臭さは禁じ得ませんが・・・・

側窓は、当時のアメリカの客車を彷彿させるような窓ですが、このバスの特徴は高速バスであるということから窓は全て密閉式となっていました。

また、車両最後部には車内トイレが設置されており、バスの中にトイレを設けた日本初のバスになります。

その後、他のバスにも改造で取り付けられることになるのです。

Willerが自社のバスからトイレを廃止するという話が出ているようですが、自動車にトイレを設けたのは、国鉄バスが最初だったのは記憶にとどめておいていただきたいと思います。



バスの車内、右後方に見える個室が車内トイレ

トイレの様子。

狭い車内を効率的に使うため、当時としては珍しい洋式便器が設置されています。


なお、高速バスは高速運転で安定して運転できるとともに快適に乗車できるように鉄道同様、空気ばねを採用しており、昭和38年の生活水準からすれば冷暖房完備、車内トイレ設置はかなりハイグレードだったのではないでしょうか。

バスの定員は40名で、自動車の性能を以下に箇条書きにしてみたいと思います。


エンジン出力 290PS

最高速度 135㎞/h 

4段階リクライニングシートが装備

なお、車内トイレは、タンク式となっており最低2日間は使用できるだけの容量を確保しているとのこと。


なお、高速バス事業については、バス事業が13社で競願となったため過当競争を避けるため調整が行われ、最終的に、日本急行バス(名鉄・京阪・阪急・近江鉄道などが出資)と、日本高速自動車(近鉄・阪神・南海の3社が出資)した2社+国鉄バスの運行となったそうです。
その後、自家用車の増加などで業績が低迷して日本急行バスは、名鉄バスに、日本高速自動車は、近鉄単独となり現在は、名鉄近鉄バスになっているそうです。

いずれにしても、高速バスの始祖は、国鉄も加わっていることを知っておいてくださいね。

なお、余談ですが昭和43年には東名高速道開通に伴い、下写真の新たな高速バスが開発されますが、この時初めて東京~大阪・京都までの夜行便(ドリーム号)が運転されており、この時点でも民間では東京~名古屋 名古屋~大阪の運転にとどまっており、現在の夜行バスのルーツも実は国鉄バスであったということを併せて知っておいていただきたいと思います。

画像は、勝手の交通科学博物館(弁天町)で展示されていた高速バス


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大阪駅にマイナス1番線があった?

2019-10-12 15:40:10 | 国鉄思いで夜話

今日は、大阪駅のトリビアなお話をさせていただこうと思います。
現在の大阪駅は、環状線を1番線として11番線までのホームがありますが、かつては現在ルクアの部分もホームが有ったことを覚えておられる方も多いかと思います。
かつては、大阪環状線専用ホームが無かった
今回は、大阪環状線ホーム、現在の1番線・2番線に関するお話です。
西成線・城東線と呼ばれた大阪環状線が誕生するまでは、現在の環状線電車は、当時の城東線電車【内回り線】並びに、西成線【外回り線】は直接、現在の福知山線ホーム【3番線】に発着していました。
0番環状線ホーム誕生
昭和34年12月21日になって、内回り電車用のホームとして、0番線が誕生します。
昭和31年の国鉄部内誌 交通技術(s31)3月号を参照しますと、昭和35年までに0番線を設けて大阪駅ホームの緩和を図ると書かれています、
当時の資料から引用させていただきます。

 大阪駅電車折返線2線を福島方に設置する。なお35年度までには大阪0 番線を新設して、大阪駅ホームの不足を緩和する必要がある。  
 各駅有効長延伸、城東・西成各駅の乗降場は100m程度のものが多いので、輸送 人員の増加に応じ有効長延伸の必要がある。なお将来相当期間環状電車運転の時 隔の短縮は不可能であると予想せられるので、新駅および改良工事を行う駅は、 将来8両運転が可能であるように考慮する。

と書かれています。
これにより、昭和34年12月には0番線誕生、しばらくはこの時代が続くことになりました。
個々は誤りのため訂正します。
昭和33年10月の時刻表を参照しますと、0番線として城東線用の列車発着用とし記述がありますので、少なくとも昭和33年10月には城東線は0番線を、1番線は西成線が使っていたことになります。
訂正させていただくとと共に、お詫び申し上げます。

この時は、0番線を内回り電車(旧城東線)を1番線【現在の3番線】を外回り電車(旧西成線)が利用していたようです。
後述しますが、2番ホームが長距離列車の発着ホームとなるので、混雑が大きかったと言われています。
大阪駅の混雑緩和のために更にホームを増設
万国博覧会を昭和45(1970)年に控えた昭和42年3月7日に、大阪駅の改良工事計画が理事会で決定しています。
工事概要は以下のとおりです。

 大阪駅の利用客は、遠距離、近距離とも増加が著しく、現状では、1番線【現在の3番線】を環状線2番線【現在の4番線を福知山線・山陽線・四国方面の列車が使用しており、ホームが環状線と共用となるため、一部列車を5番線【電車線】から発車させるなどの問題があり、更に今後、万国博覧会の開催などで、その利用者が1日100万人に達することが考えられることから、抜本的な改良工事を行うこととなったもの、今回の計画は以下のとおり

マイナス1番線を新設し、環状内回線にあてる、
東口通路の拡幅及び出改札口の改良、
中央コンコースを拡幅しオーブンカウンターの出札室を新設すると同時に中央コンコースを整備
支障業務機関の移転(駅舎の一部を取り壊してスペースの確保)

等の改良工事が行われることとなっている。
総工事費19億8000万円、昭和42年4月着工、45年9月完成予定。(マイナス1番線使用開始は45年3月)

参考:国鉄があった時代、昭和42年

駅舎の一部を削って新たなホームを設置
ホームの設置にあたっては、下図のように駅舎の一部を取り壊し、そこにホームを設けるもので、支障する建屋の中には、土産物店等が入っていたため、大阪駅地下1階に移転することになったと書かれています。

なお、新ホームの使用は、3月12日からだそうです。
 鉄道ピクトリル昭和45年5月号から引用

大阪環状線、環状線ホーム使用開始【現在の大阪駅ホーム1・2番線】 3/12
弊サイト国鉄があった時代 昭和45年前半編参照

なお、国鉄部内誌などではマイナス1番線と表記がなされていますと、工事中には確かにマイナス1番線と言う表示がなされていたようですが、開業前には環状1番線・環状2番線に変更されています。

現在は大阪駅改良工事に伴い、環状線が1番・2番線を名乗っているのは皆様よく御存じのとおりです。


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EXPO70 よもやま話、国鉄で運転された臨時列車のお話を中心に

2019-10-06 15:25:48 | 国鉄思いで夜話

EXPO'70 昭和45年、大阪府吹田市千里山丘陵で開催された万国博覧会
2025年、大阪舞洲での万国博覧会開催が決定しましたが肝心のアクセスが、地下鉄一本だけで、かつ桜島からまだ先というのはかなり遠く、埋め立て地であることから、今年の台風で関空が被害に遭ったように名ことに成らないかという懸念も持たれています。
さて、今回は今から半世紀近く前に、吹田市の千里丘陵で行われた万国博覧会の旅客輸送について少しお話をさせていただこうと思います。
既に、ご存じの方も多いかと思いますが、1970年の万国博覧会では、道路からのアクセス以外に、中国自動車道の一部を占有して、複線の線路を延長して会場前のお祭り広場まで線路を延長しました。
万博閉幕後は、線路を撤収して現在の千里中央に行き先を変更しましたが。
当初心配された、万博輸送後の旅客数については、千里ニュータウンでの居住人口が増えたことも有り、現在では大阪メトロと一体で、一番の稼ぎ頭になっているのはご存じの通りです。
また、阪急も現在の山田駅より500m程北千里寄りに臨時駅が設けられて直接万博会場まで行けるようになっていました。
そして、国鉄では茨木駅がもう一つの最寄り駅として、駅からバスでアクセスする方式が取られました。
有名なところでは、エキスポこだまですが
そこで、万博輸送で活躍した臨時列車などを思いつくままに書いてみたいと思います。
万国博覧会輸送で、話題になるのが、「エキスポこだま」3月の改正では設定はありませんが、5月のゴールデンウィークで急遽仕立てられた列車のようで、三島駅の電留線を活用し、大阪~三島までは在来線で輸送し、三島から新幹線に乗車して、8:50に東京に到着すると言うダイヤでした。
夜行列車が、7:00~9:00過ぎまで到着できない事による苦肉の策と言えました。
エキスポこだま
他にも、新幹線は始発は6:00、終着は0:00迄に到着するのが基本でした。
ただ、万博開催中は早朝に出発し・深夜に到着する新幹線が存在しました。
こちらも、3月のダイヤでは設定されていませんので、ゴールデンウィークに設定されたものと思われます。

ユニークな急行、「エキスポこだま」
片道だけ運転され、昼間に大阪まで回送させて、再びと言う非常に贅沢な使い方をしていましたが、ユニークな列車ではありました。

早朝、深夜に走った新幹線
さて、本題の早朝深夜に走った新幹線のお話を時刻表から見ていこうと思います。
昭和45年7月時刻表では、新大阪を5:40に出発する新幹線の他、0:20に東京駅に到着する新幹線が運転されています。
東海道新幹線に関しては、ワールドカップ開催時にも0:00を越えて運転される新幹線がありましたが、万国博覧会時にこのような列車が運転されていたことに驚きです。





大阪では、茨木駅が改名?
茨木駅では、万博開催を前に現在の高架駅に変更されており、昭和45年3月の万博開催前に落成となったそうです。
なお、万博開催期間中、茨木駅は、「万博東口駅」に変更されていました。もちろん正式に変更した訳では無く、愛称として、「万博東口駅」という名前を使ったそうです。
その辺は、国鉄部内誌、国鉄線に下記のような記事が出ています。

国鉄線 昭和45年6月号から引用
また、この時から快速電車が茨木市に停車するようになりました。

関西圏を中心に臨時列車が運転される
万博輸送は12系客車の増備などで全国から、万博会場に輸送するための準備が図られたほか、新幹線もひかり号の16両編成化など強化工事が行われました。
再び、部内誌、国鉄線昭和45年1月号から引用したいと思います。

 一近郊輸送の概要一
 総入場者5000万人と想定した場合、会期中の休日平均入場人貝は約59万人となり、従来の想定による42万人と比較すると、約17万人増となる。
 五九万人のうち、鉄道輸送にかかる分は約39万人で、13万人の見込増となった。
 このため、次のような輸送対策を検討中である。

「万博号」の運転
  大阪鉄道管理局管内の小・中学校生徒を中心に計画輸送を行なうため、河瀬・姫路間に毎日三往復の臨時モデル電車(快速型)を運転する。
快速電車の茨木駅臨時停車
  快速電車は、現在。会場最寄り駅の茨木駅には停車していないが、万博中は、終日臨時停車させ  る。
京都終着の下り快速電車の茨木延長開場時のラッシュに備えて八時から九時の時間帯に、京都終着の快速電車のうち数本を茨木駅まで延長運転する。
編成増強
 基本編成で運転中の電車に附M編成四両を増結する。
休日に運転休止の電車復活運転
下り緩行電車の高槻始発を京都始発に変更
車両の新性能化
 103系車両を105両投入し、緩行電車の一部を103系に置き替えて、サービス向上


個々で注目されるのは、大鉄管内の小中学生を中心とした、快速電車が運転されたことが注目されそうです。
詳細は、現在調査中です。


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国鉄気動車の塗色、戦前に試験塗装が行われたという話

2019-09-29 21:46:20 | 国鉄思いで夜話

戦前は、客車はもちろん、電車も褐色【ぶどう色1号】と呼ばれる、茶色の濃い色が採用されていました。

戦前は、蒸気機関車の牽引による列車が殆どで、明るい塗装の車両などを導入することは考えられていませんでしたので。
気動車も、導入当初の車両はぶどう色1号だったのですが、試験的にキハ42000等に試験塗装を行ったと、国鉄の部内誌、交通技術という雑誌にでていましたので、ここで紹介させていただこうとおもいます。


戦前の気動車に試験的に、特別な塗装を施したという記事です。

この記事によりますと、キハ42000が4両製造されて、西成線(現在の桜島線)と武豊線に配属され、試験的に特別の塗装が行われたと書かれています。
それによりますと、西成線配属のキハは、濃褐色と黄褐色の塗り分け、武豊線配属車は、濃コバルトと灰白色との塗り分けであったと書かれており、西成線の塗装は、その後モハ52の流電旧塗装に近いものであったと思われます。
また、武豊線配属車は横須賀線のスカ色の基本となったようです。

もっとも、戦前は同じ国鉄といえども関西と関東では電車の仕様自体が異なっていた時代で、戦後も同じ湘南電車でも、関東が湘南塗りということで、オレンジと緑を採用したのに対し、関西は、流電の2次形の塗り分けを逆にした、裾部がマルーン、窓回りをクリームにした、金太郎の腹掛け塗装が採用されていました。
この塗装が、湘南色に統一されるのは、昭和31年の東海道線全線電化まで待たねばなりませんでした。
なお。武豊線試験投入された、キハ43000もキハ42000に準じた内装でした。

戦後の旧気動車標準塗装のキハ42000【正確には、42500ですのでデイゼル機関に換装したタイプですね。】



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