国鉄があった時代blog版 鉄道ジャーナリスト加藤好啓

 国鉄当時を知る方に是非思い出話など教えていただければと思っています。
 国会審議議事録を掲載中です。

日本国有鉄道研究家 加藤好啓が主催する動画チャンネルです。今回は近鉄特急に挑んだ、キハ50形と言うことでアップさせていただきました。

2021-04-06 20:46:17 | 国鉄思いで夜話

日本国有鉄道研究家 加藤好啓が主催する動画チャンネルです。今回は近鉄特急に挑んだ、キハ50形と言うことでアップさせていただきました。

 

準急気動車として落成後、キハ50形は無名の準急として、客車列車を置換え俊足を誇ることになりました。

 

続く

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戦後の気動車発達史 電気式気動車と液体式気動車 勝者はどっちだ?

2021-04-03 10:11:27 | 国鉄思いで夜話

戦後の気動車発達史 電気式気動車と液体式気動車 勝者はどっちだ?

戦後の石油供給事情が改善されると、国鉄では液体式及び電気式による気動車の開発が進むことになりました。

続く

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衝撃 DMVは60年近く前に試験されていた!! これが本当のレールバス?

2021-03-27 20:25:08 | 国鉄思いで夜話
衝撃 DMVは60年近く前に試験されていた!! これが本当のレールバス?
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在来の20系客車と連結できない、20系客車がいた?

2021-03-20 08:48:49 | 国鉄思いで夜話
在来の20系客車と連結できない、20系客車がいた?
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日本国有鉄道研究家 加藤好啓が主催する動画チャンネルです。

2021-01-31 18:33:35 | 国鉄思いで夜話

日本国有鉄道研究家 加藤好啓が主催する動画チャンネルです。
今回は、国鉄が製作した世界初の寝台電車のお話、第1回目になります。

今回は昭和42年の月光形の誕生までのお話です。

 

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新幹線のお話第3話

2021-01-24 07:41:54 | 国鉄思いで夜話

今回は、開業後の新幹線の列車本数の変遷などを中心に縮小版をアップします。

1時間に1本ずつだったダイヤは、1年後にはひかり2本、こだま1本のダイヤとなり、10月は開業時と同じ4時間運転、その1ヶ月後には再びダイヤ改正が行われ3時間10分運転に

計画当初は京都も通過して3時間運転だったのですが、京都停車も必要であろうと言うことで、急遽追加されたことで、3時間10分になったとか。
ただ、3時間10分としたことで「こだま」は静岡待避1回のみとなり、先行列車は1時間後の「ひかり」の5分前に新大阪に到着できるため、結果的に非常に効率の良いダイヤとなりました、

新幹線のお話第3話

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紀勢本(東)線の夜行列車、紀州5号のルーツを探ってみる。第4回

2021-01-21 23:25:13 | 国鉄思いで夜話

本日は、昭和39年新幹線開業前後の紀勢本線を見ていこうと思います。

東海道新幹線は、昭和39年10月1日に開業しますが、この新幹線がその後高速鉄道の世界を作り出すとは当時は誰も予測し得ないことであったことは間違いありませんが、紀勢本線ではどうだったのでしょうか。

早速昭和39年4月号の時刻表を参照したいと思います。

ちょっと見えにくいですが、うしお2号は23:00名古屋発で変更はなく、ひだ3号も四日市まで延長運転されています。

あと、直接「うしお」と関係ないのですが。関西線に乗り入れる東京発の優等列車ですが、3本運転されていました。

東京を20:00に出発する、急行伊勢・那智と、22:45最終列車として出発する急行大和です。

昭和39年4月号の時刻表から 関西線

上、昭和39年4月時刻表/下 昭和39年10月改正

那智・伊勢コンビは、分離され、伊勢は大和と併結、那智は南紀観光団体列車と併結になりました。
また、「うしお」は、その出発時刻が10分繰り下げられて、23:10発となりました。
余裕自分の見直しが行われたのかもしれません。

昭和39年10月時刻表

新幹線開業後直後は、特急は全員新幹線に移行するが、急行利用者はさほど転移しないだろうと予測して、多くの夜行列車なども残されました。

実際には、新幹線への転移が予想以上に多く、昭和40年の改正で、在来線急行列車は大なたを振るわれることになります。

なお、新幹線開業後は那智は併結相手を南紀観光団体専用列車に求めることとなりました。

余談ですが、伊勢・那智は、昭和39年の新幹線開業で、下記のように運用となりました。

下り列車 那智+南紀観光団体専用列車 大和+伊勢

上り列車 那智+伊勢 大和+南紀観光団体専用列車

更に脱線を許してもらえば、この時の南紀観光団体専用列車では、京都には入らず、奈良から関西線で東京に帰るルートとなっていますが、翌年には不評だったのか、再び京都で1泊するコースに変更されています。

「うしお」は、時間も変更なく、紀勢東線の夜行準急列車として活躍することになります。

さらに、昭和40年10月の改正では、再び那智の併結相手が変更され、伊勢・那智のコンビニなります。

「うしお」は、到着時間は殆ど変わらないものの、出発が10分遅くなり、23:20発になっています。

続く

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阪和線を走った名車たち

2020-12-28 00:00:51 | 国鉄思いで夜話

阪和線を走った名車たち

初めて動画にチャレンジしてみました。

文章だけでは伝わりにくいこともありますので、その辺を考慮して、動画でも伝えていけないかと思い作成して見ました。

既に公表しているblogコンテンツなどでも、動画解説を今後試みることにしています。

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紀勢本(東)線の夜行列車、紀州5号のルーツを探ってみる。第3回

2020-12-13 22:49:41 | 国鉄思いで夜話

久しぶりの更新になります。
今回は、昭和37年3月並びに、昭和38年3月号の時刻表を参照しながら、時刻の変遷を見ていきたいと思います。

昭和37年3月号では、九州・四国・南紀・山陰地区時刻改正と書かれており、この月に小規模なダイヤ改正が行われたことが伺えます。
早速、当時の時刻表を紐解いてみますと、

尚時刻ですが、この改正で、「うしお」は発車時刻は変わらないものの、気動車列車に置き換えられており、到着時刻が10分ほど早くなっており、5:42紀伊勝浦に到着しています。
新宮での長時間停車がなくなるともに、三輪崎にも停車しています。
ちなみに、再掲になりますが。昭和36年10月改正の時刻表ではこちら

客車列車で、新宮駅での長時間停車があります。

ただ、そのような早朝の時刻に到着しても、需要はあったのかなという気もしますが。
それなりの需要は見込めたのでしょうね。
当時の編成がわからないのですが、5両編成だったそうですので
キハ55+キロ25+キハ55+キハ55+キハ55
と言った編成だったのでしょうか?
時刻表では1・2の表記がありますので、一等・二等に指定席があったことが伺えます。

次にご覧いただくのは、昭和37年3月になります。

更に昭和37年10月の改正では、大きな変化はなく、三輪崎駅が再び通過になった程度で、運転時間には大きな変化はなさそうですが、2等車の指定席がなくなり、
4両編成
キハ55+キロ25+キハ55+キハ55
の編成となりました。

さらに、昭和38年の改正では、「うしお」に関しては、名古屋始発の時刻が23:00となったほか、準急ひだ3号が、四日市まで延長運転されているのを時刻表から見ることが出来ます。

昭和38年の時刻表では、準急「ひだ」が四日市まで延長運転されています。

昭和37年の時刻表では、「ひだ」の延長運転はありません。


続く

 

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紀勢本(東)線の夜行列車、紀州5号のルーツを探ってみる。第2回

2020-11-04 11:14:40 | 国鉄思いで夜話
次回と言いながら4ヶ月ほど放置していました。
早速、進めていきたいと思います、今回は昭和35年~37年頃までを辿ってみたいと思います。
早速手元に有る、昭和35年の時刻表を参照してみたいと思います。
今回参照するのは、昭和35年6月のダイヤ改正の時刻表です。
昭和35年は、実は結構大きな改正と言いますか、それまでの3等級制から2等級制に移行と言うイベントがありました。
実際には、昭和35年の改正で、「特急つばめ・はと」は電車化され、唯一の1等車であった展望車(他に、団体用にマイ38もありましたが定期列車としてはマイテのみ)も運用されていませんでしたし、寝台車にあっては、一足先に昭和30年には全車2等寝台に格下げされています。
2等級制は、一ヶ月後の7月1日に実施され、クロ151が登場後約一ヶ月間は一等の上に二等とかいたカバー付けて走っていたのは写真などで見られた方も多いかと思います。
さて、本題の紀勢(東)線の夜行列車のルーツをみていこうと思います。
昭和34年7月の紀勢本線全通で設定された、準急1907列車ですが、

昭和35年3月には、時刻は変わらないものの、「うしお」と言う愛称が付けられます。
名古屋 23:00 紀伊勝浦5:52で時間は変わりませんが、上り列車1908列車の設定がなくなっています。
設定はしてみたものの、新宮方面から名古屋方面に向かう夜行需要は限りなく少なかったと言うことになります。
実は、昭和36年は2回改正が行われており、3月に一度目の改正が、さらに10月には再び全国ダイヤ改正が行われています。
この時、初めて「南紀観光団体専用列車」が設定されます。

これは、特急はつかりが昭和35年12月に気動車化されたことで、余剰となったスハ44を回転式シートに改造した車両を投入したものでした。


南紀観光団体専用列車運転開始を告げる記事 国鉄線 昭和36年5月号28ページからキャプチャー


回転式に改造された、スハ44の座席、シートピッチは870mmと短かったが、足下を伸ばせるため、さほど窮屈さは向かい合わせにしない限り感じなかったと思われます。
参考:観光団体専用列車のお話、事始め

白紙改正と言われた、昭和36年10月の改正では、名古屋発の時刻が4分繰り下がり23:04となりましたが、紀伊勝浦着は変わっておらず、余裕時分を修正した程度で収まっており。観光団体専用列車が、二見浦を経由するように変更されるなど、若干の修正はありましたが、大きな変更はありませんでした。

なお、紀勢東線区間は開業当初からDF50の一人舞台で有り、一足早く無煙化が達成されていた点は特筆できると思います。

当時は、高速道路なども開通していませんでしたが、紀勢本線の全通は国鉄としても非常に期待していたおり、一番最初に団体観光専用列車が設定されたのも納得できるものでした。
特に、東京から乗り換えなしで南紀まで輸送できることは大きく、更に和歌山線、奈良線を経由して京都に抜けられることは、循環列車を構成できることも大きく、不定期列車といいながらほぼ毎日運転される急行列車として運転されました。
「うしお」の話から大きく外れてしまったので、この辺にしておきましょう。

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紀勢本(東)線の夜行列車、紀州5号のルーツを探ってみる。第1回

2020-07-14 00:47:23 | 国鉄思いで夜話

実は、本日親友から質問を受けまして、母を訪ねて三千里ではないですが、その答えを探して色々と調べていました。
実は、最初に見せられたのは1枚のtwitterに上がっていた1枚の写真、
新宮駅に到着した、キユニ26を先頭にした、荷物列車、後方にはきは28・58が連結されており、twitterの見解では紀州5号ではないかというお話しだったので。
実際の所はどうなのと調べてみた次第。

そこで、何回かに分けて、山陰本線のお話とは別に、紀勢本線の東線側の列車について歴史を辿っていきたいと思います。

ちなみに、名古屋発の夜行列車、紀州5号ですが、誕生は昭和43年10月のダイヤ改正です。
元々は「うしお2号」という列車でしたが、愛称統合で紀州に統合されたものでした。
廃止時期なのですが、手元にある時刻表では、昭和56年10月の改正までは残っていますが、昭和57年7月号ではすでに走っていませんので、昭和57年3月か4月頃に改正されて廃止されたのではないかと推定されます。

さて、紀州5号という列車のルーツはと言える列車を調べてみますと、昭和34年7月15日まで遡ることが出来ます。

実は、紀勢本線全通時に新しい列車が三本新設されているのですが、その一つが天王寺発名古屋行きの黒潮のルーツになる列車、もう一本は、天王寺発名古屋行きの924列車のルーツとなった列車、そしてもう一つが今回のテーマである紀州3号のルーツと言うべき列車になります。
昭和34年7月時刻表に付録として、7月15日(開業以降のダイヤ)が付録として挟み込まれており、当時の時刻を確認することが出来ました。

昭和34年7月15日からの時刻 23:00名古屋発の、無名準急がルーツ

上り列車も紀伊勝浦~名古屋間

亀山~多気間の時刻

多気~紀伊勝浦間の時刻

この時刻表によると、紀州5号のルーツと言える列車は
1907列車 名古屋発 23:00の無名の準急で、2・3等車連結となっています。
3等級制の時代ですので、今のグリーン車が連結されていたことになります。停車駅は、名古屋、八田、蟹江、桑名、富田、四日市、亀山、亀山から紀勢本線に入り、津、松阪、多気、三瀬谷、紀伊長島、尾鷲、熊野市、新宮、那智、紀伊勝浦で、紀伊勝浦には5:52の到着する客車列車が設定されています。

実は、この準急は無名なのですが、後に特急「くろしお」のルーツとなる、名古屋~天王寺間を走破する準急には「くまの」と言う愛称が設けられています。
他にも、準急列車は全て愛称が付いていますので、この準急はその後の紀州5号まで連綿と、主たる使命が新聞輸送を中心とする荷物輸送が中心であり、敢えて愛称を設ける必要が無かったとも言えそうです。

次回以降は、昭和35年以降の時刻表などを参照しながら、紀勢東線の推移などを見ていければと思います。

日本交通公社の昭和34年7月号時刻表
正直この年代の時刻表は高くて中々手が出ません。
収集していますが、正直亀の歩みです。苦笑

正しい考証を行なうには、出来るだけ当時の時刻表などが欲しいのも山々なんですけどね、苦笑

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山陰本線、京都夜行「山陰」物語 第4話【戦後編】

2020-07-02 23:01:47 | 国鉄思いで夜話

気がつけば1ヶ月以上更新していませんでしたが、改めて昭和33年10月のダイヤ改正以降をご覧いただこうと思います。

昭和33年10月号時刻表

昭和33年10月の時刻表を参照しますと、東京発の急行出雲は、東海道区間は夜行列車として、大阪からは昼行列車として大社まで運転される列車であり、昭和31年12月改正のダイヤをそのまま踏襲しています。

昭和33年10月のダイヤ改正では、寝台特急客車用の20系が、運転を開始したダイヤ改正でした。

昭和33年10月号時刻表内開きの20系客車を紹介する記事

電源車を連結し、潤沢な電力で変性全体の空調は元より、電化食堂車が誕生しました。

それまでは、2等A寝台・B寝台、食堂車のみが冷房付であったのですが、この車両では三等寝台は元より、三等座席車も冷暖房完備であり。特急「つばめ・はと」よりも豪華な車両となりました。

なお、それまで使用されていた「あさかぜ」編成は、特急「平和」(平和は漢字書き)として、東京~長崎で運転が開始されることとなりました。

旧あさかぜ編成を使用した特急「平和」翌年の7月の改正で

ちなみに、151系「こだま」は万全を期するため、運転開始は11月1日まで延期されていますので、この改正では運転しておりません。

ちなみに、「平和」5列車は、東京16:05発、長崎 12:15 着 「あさかぜ」7列車は 東京 18:05発 博多11:40でした。

さて、脱線はこの辺にして、本題の京都夜行に戻りたいと思います。

京都夜行は下関行きとして、座席車主体の編成が組まれています。これは、新聞輸送などの使命があったからと言えます。

実は、山陰本線区間に関して言えば、京都発。並びに大阪発の夜行列車ともに大きな変更はなく。

京都発夜行は、下関まで直通、大阪夜行は、出雲市までの運転となっています。

ちなみに当時の急行白兎は、特急「つばめ」の接続列車で、特急「つばめ」を受けて16:00に京都を出発、米子には22:45に到着出来る日着ダイヤとなっています。

話題を、肝心の大阪夜行・京都夜行に戻しましょう。

京都発下関行き817列車は、2・3等車は連結されているものの、大阪発大社行きの717列車は、さらにC寝台(三等寝台ではない、現在のA寝台)が連結されており、大阪からの優等客の利用が多かったことが窺えます。

晩年は、京都夜行「山陰」と大阪夜行「だいせん」が福知山駅で両側のホームに並び時間調整する姿が見られ、相互乗り換えも可能でしたが、当時のダイヤでは、福知山通過時刻に30分ほど差があり、相互に乗り換える事は出来るダイヤではありませんでした。

大阪発の夜行列車は普通列車ながらC寝台(現在のA寝台相当)

大阪夜行 717列車

大阪 22:00 福知山 0:54 着 1:00発

京都夜行 817列車

京都 22:05 福知山 0:16 着 0:22発

さて、山陰本線のダイヤをじっくり見ていきますと、実は京都夜行は、終着の下関に到着するのは18:11なのですが、実はもう一列車、浜田から快速運転になる夜行列車がありました。

京都 9:30出発の

 

さて、そんな昭和33年はこの程度にして、次は昭和34年は、ダイヤ改正前の7月号しかありませんので、次回は、昭和35年6月(特急「つばめ・はと」の電車化に併せて実施されたダイヤ改正と山陰本線の夜行列車に関する変遷をご覧いただこうと思います。

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山陰本線、京都夜行「山陰」物語 第3話【戦後編】

2020-05-21 21:09:08 | 国鉄思いで夜話

皆様こんばんは、本日も京都夜行山陰物語として、昭和28年から昭和31年を見ていこうと思います。

この頃になると、終戦の混乱期も落ち着きを取り戻してきますので、京都夜行に限定せずに、京都・大阪発の優等列車なども参照しながら、皆様をご案内したいと思います。

最初にご覧いただくのは、昭和28年の時刻表です。

こちらをご覧いただくと、京都発の夜行列車は下関行きの普通列車となっており、東京からの急行を受けて大社というルートはなくなっています。
その代わりと言ってはなんですが、東京発の「急行せと」宇野行きに大社行き編成を組み込んでいました。

時刻表を参照しますと、宇野・大社となっているのを確認いただけるかと思います。

東京を22:30、終着大社には18:30ですので、20時間かかっていた計算になります。

なお、急行せとの前身は、昭和25年7月から東京~下関間を運転開始した急行列車だそうですが、手元にある復刻版の10月号によりますと、39列車、東京 21:30発広島・宇野行きという列車を参照することが出来ます。

さて、この列車はよく昭和26年には単独の列車として独立するらしいのですが、実は昭和28年まで時刻表を持って降りませんので確認のしようがありませんので、若干端折らせていただきます。

さて、京都夜行は819列車として、京都を22:15に出発、翌朝7:09に米子を経て、下関到着は19:02となっています。

あと、昭和28年に時刻表をみますと、すでにこのときには急行だいせんの前身とも言える、大阪夜行が運転されています。
大阪を22:00に出発して出雲市まで運転されています。

これを受ける列車は、「特殊列車」と「玄海」と思われますが、東京始発の利用者と言うよりも、大阪からに利用を装丁していたものと思われます。

当時の普通列車は荷物・郵便輸送も兼ねていますので、主要駅などでは30分停車とか50分停車なども当たり前であり、普通列車の停車時間で食事するのは当たり前、銭湯に入ってくる猛者もいたとか。

ちなみに。せとから分離された大社行き編成は愛称に(いずも)と書かれていますが、「せと」弊結時には、「せと」と名乗っていたのか、「いずも」と名乗っていたのかちょっと興味あるところではあります。

京都~米子 ↑ / 米子~下関 ↓

昭和30年になると、時刻としてはさほど大きく変わらないのですが、大阪夜行には、C寝台が連結されているのがわかります。

ここで、C寝台について少しだけ説明しておきましょう。

C寝台とは?と思われる方もあるかもしれませんが、C寝台は、元々の2等寝台になります。
いわゆる、現在の流儀で言えばA寝台、開放室になります。

ただ、C寝台と呼ばれた車両は、当時の時刻表を確認しますと、スロネ30と呼ばれる車両が使われていました。

この車両は、4人コンパートメントで、寝台幅は60cm、現在はありませんが、昔のトワイライトエクスプレスの開放B寝台が4人ごとに簡易に区分できる部屋になっていたかと思いますが、あのようなイメージですが、冷房もない時代なので、夏場はかなり暑苦しかったのではないかと思われます。

昭和31年12月の東海道線、全線電化開業後の時刻表を参照しますと、出雲は晴れて単独運転の列車となります。

残念ながらスキャナーでは取れないのですが東京22:15発、大社9:16着となっています。

当時の時刻表を参照しますと、上記のような編成になってます。
意外と寝台の需要が多く、2等寝台B・Cと連結されているのが判りますが。
2等寝台Bは、元1等寝台開放室であり、先輩格に当たる「せと」には、寝台車が連結していないことを考えると、列車の格としては出雲の方が上と言うことになりますが、寝台車は東京~大阪のみの連結となっており、東京~大阪間の夜行列車の性格を併せ持たせていた列車でした。

昭和31年12月改正の時刻表から

急行出雲は、昭和31年12月の改正では、晴れて単独運転なのですが、ちょうど綴じ目付近にあるため、見えません。
京都始発の夜行列車は引き続き、下関行きであり、大阪夜行は大社行きでC寝台も連結されています。

こう考えると、すでに大阪方面からの夜行列車と京都からの夜行列車が戦後すぐに山陰地方との間で設定されていた子rとはちょっと意外な発見でした。
当時から、大阪と山陰地区とのつながり、特に商都大阪との繋がりは、山陰地区は相当に強かったのではないでしょうか。
大阪夜行【大阪発の夜行普通列車】に2等寝台車が連結されていることからも、それだけの需要があったと言えるのではないでしょうか。

京都~米子 ↑ / 米子~下関 ↓

次回は、昭和32年の時刻表がないので、昭和33年10月のダイヤ改正以降を追いかけてみたいと思います。

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山陰本線、京都夜行「山陰」物語 第2話【戦後・混乱期編】

2020-05-09 00:00:13 | 国鉄思いで夜話

本日も、山陰本線、京都夜行「山陰」物語を始めさせていただこうと思います。

今回は、昭和21年から昭和28年までの、戦後の混乱期と言われた時代を中心にお話を勧めさせていただければと思っております。

太平洋戦争【大東亜戦争】が1945(昭和20)年8月15日に終結し、国有鉄道【当時は運輸省】の鉄道はGHQの管理下に置かれることとなったのは、すでに皆様もよくご存じのとおりです。

GHQ/SCAPは第8軍が東日本、第6軍が西日本を占領すると言うことで、京都烏丸四条の京都丸紅本社屋(現在のCOCON KARASUMA)に司令部が置かれることとなりました。

当初は、中国軍が来るという話もあったそうですが、結局アメリカの第6軍が和歌山から進駐することになり、和歌山線を使って京都まで入ったそうですが、直接「山陰」の話とは関係がないので、機会があればその辺のお話をさせていただこうと思います。

さて、早速昭和21年の時刻表を参照してみましょう

戦後すぐにも残っていた。大社行き列車

戦前同様に、夜行列車としての大社行きの列車が139列車として運転されています。

京都発22:05発で、大社には翌朝の9:44に到着するダイヤとなっています。(ただし、昭和21年8月の時刻表では、大社までは運転休止となっています)

ちなみに、この列車は東京発7:23、京都21:10着の139列車を受けて出発することとなっています。

139列車は、大阪行き普通列車で、大阪着は21:10ですので、14時間近くかかっていたことになります。

ちなみに、現在であれば、東京を7:28に出発して、細切れに乗り換えを繰り返しても、16:42には大阪まで到達できるようです。

京都発の809列車は、亀岡以遠は快速運転で福知山には0:43、鳥取4:40、松江8:25、出雲今市9:20のダイヤとなっています。

以下、詳細は下記時刻表参照してください。

石炭不足の列車削減で、消滅

昭和22年の改正では、石炭不足から京都発大社行き夜行列車は消滅してしまいます。

その代わりと言っては何ですが、大阪発大社行きだけが残ることになります。

 

当時の事情を、弊サイトから引用させていただきます

国鉄、石炭不足で急行を全廃(~4月22日) 1/4

旅客列車を大巾削減し1日の運転粁を15万kmとする。急行列車全廃、2等車の連結停止
主な長距離普通列車 東京~博多間1往復(所要32時間27分),東京~門司間1往復(所要31時間40分)等運転

国鉄があった時代 昭和22年前半

当時の時刻表は、下記を参照してください。

昭和22年2月時刻

京都発の列車が消えて、大阪発の夜行列車のみが残ることになりました

昭和25年には再び復活

昭和25年の時刻表を参照しますと、京都発22:00発 下関行きとして復活しています。

時刻的にも、昭和21年のダイヤとほぼ同じ時間帯ですので、復活とみて良いかと思われます。
また、詮議の混乱期でもあり、出雲大社への参詣よりも下関まで延長運転する方が良かろうという判断かと思われますが、長距離鈍行として下関には翌日の19:05に到着する設定となっていました。

こちらも、下記に時刻表を載せておきますので参照願います。

下関行きとして復活しています。時刻はほぼ同じですが。

左 福知山→出雲今市【出雲市】まで、右 出雲今市→下関までの時刻を掲載 

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山陰本線、京都夜行「山陰」物語 第1話【戦前編】

2020-05-04 09:14:41 | 国鉄思いで夜話

はじめに

現在は、寝台列車と呼べるものが殆ど存在せず、僅かにサンライズ出雲・瀬戸がJR各社直通の在来線特急列車として残っています。
国鉄時代には、寝台列車は多数運転されていたわけですが、高速道路の延伸、さらには飛行機運賃の自由化などで、列車の運賃と飛行機の運賃格差が小さくなり、徐々に寝台車の利用者は減少を続けることとなりました。

かつて、鉄道にはブルートレインと呼ばれた寝台特急の他に、夜行列車と呼ばれる普通列車も多数走っており、一部の普通列車は寝台車を連結していた列車もあり、これらの普通列車は昭和50年3月の改正以降は、マルスに寝台券を収納し、全国で発売できるようにしていたため、夏期のような愛称が付けられていきました。

からまつ 小樽~釧路間
南紀   天王寺~名古屋(寝台連結は、天王寺~新宮)
山陰   京都~出雲市
ながさき 門司港~長崎・佐世保

ただし、昭和49年12月の時刻表を参照しますと、「南紀」のみ、12月には愛称が付与されており、比較的寝台車の利用が多かった「南紀」を先行して愛称を付与して試行したと思われます。【この辺は要調査ですが】

また、マルス150の稼働が昭和50年3月ですので、この辺は整合性がとれると思われます。

前回は、南紀号を取り上げましたので、今回は、普通列車「山陰」を中心に、山陰本線・福知山線の列車について取り上げてみたいと思います。

山陰、私の父が鳥取出身で、親戚の叔父は京都行き山陰を京都夜行、だいせんを大阪夜行と言っていましたので、私も「山陰」に関しては無名時代は、「京都夜行」という言い方で統一したいと思います。

山陰のルーツは、戦前まで遡る?

そこで、手元にある古い時刻表度を参照しますと、復刻版の昭和5年10月の時刻表には、京都20:50発出雲市行きという213列車を見つけることが出来ます、恐らく、これが京都夜行のルーツと言えそうです。
終着大社駅には、翌朝の6:32着となっており、2等寝台(現在のA寝台)の連結もあったようで、当然のことながら一般庶民は、座席主体の堅い座席で輸送され、時刻表には、「軽便枕あり」と言う表記が見られます。

当時の資料などを参照してみますと、首枕とでもいうのでしょうか、これを座席で支えるかなり大きな代物で、大正時代に民間会社が行っていたようです、ただ、乗務していたサービス員(軽便枕の販売。設置をする作業員)による、サービスの強要【いわゆる押し売り】等で、評判が悪く。鉄道省が営業許可を取り消すと共に。その装置などを買い取る形で追い出したそうです。しばらくは放置されていましたが、昭和恐慌によるサービス向上と収入増加を狙って、軽便枕サービスが昭和4年に鉄道省直営で復活したそうです。ただし、装置の老朽化も相まって昭和9年には再びサービス自体が終了してしまうことになりました。

ということで、軽便枕に話はこの辺にして、再び、京都夜行【山陰】のお話を続けさせていただこうと思います。

東京からの急行列車を受けて、出発する京都夜行

最初は、昭和5年の時刻表から

東京からの急行列車を受けて出雲市まで走ります。

なお、この東京発の列車はそのまま下関まで走るロングランで列車でした。
時刻表上部の「急9」の文字は、「急行9列車」の意味です。

それと、戦前の時刻表は12時間制を採用しているので、京都発8:50とありますが、これは20:50発と言うことになります。

軽便枕ありの表記に注目してください。【前述】

昭和15年も大きな変更は無し

手元には、これ以外に、昭和15年10月号、昭和19年12月とあるのですが、今度は太平洋戦争【大東亜戦争)開始前、戦前の国鉄黄金期と言える時季の時刻表が以下の通り

時間の若干の修正はあるものの、東京からの急行列車を受ける形で運転されています。

さらに、大阪からの夜行列車が運転されていますが、このパターンは大阪夜行が「急行だいせん」になってからも踏襲されており、私が高校生の頃だったでしょうか、夜の福知山で深夜にも関わらず、立ち食いそばが繁盛していたことを今も思い浮かべることが出来ます。

昭和19年にも出雲市行きは残されていた

昭和19年12月の時刻表でも、この列車は削減されていませんでした。

時刻の繰り下げはあるものの、列車としては残されているのは、出雲大社への輸送需要が大きかったからであったことは容易に想像できます。【東海道線での9列車の所要時間が増えているのは、恐らく貨物輸送が増加して線路容量を圧迫していたことも原因ではないかと思われます。

(貨物列車の速度が遅ければ遅いほど、1時間当りの通過トン数が減るため)

こうして調べていくと色々と話題がありそうなので、次回は戦後編としてアップさせていただきます。

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