オヤジバックパッカー 中南米旅行記 4

2016-03-05 10:20:04 | 日記
ゴーーーと切れ目なく耳障りな音の中に目を閉じたまま出発までの様々な出来事が何故か走馬灯のように出ては消え、消えては出て。
機は一路メキシコへの経由地テキサス州ダラスへ向かっていた。
ダラス空港では当時すごく人気のあったドラマ“ダラス”と同じくテンガロンハット姿の(西部劇でお馴染のカ-ボーイハットですよ)男性が多く「さすが」と行き交う人のスタイルを楽しみながら乗り換えの時を過ごした。

メキシコシティ空港(メキシコ) 12:30着
ダラスを定刻通り離陸。うとうととしている間に最初の目的地メキシコに着いた。
ここには前職場の仲間ファビアンの家族が迎えに来ているはずだ。
いや、彼に頼まれた土産物(靴、ラジカセ、その他)を受け取りに。
通関では聞いていた通り引っかかった。
ゆっくりと荷物を見ながら質問してくる。英語ではない。何故かスペイン語だ。
「これは何だ?」見ればわかるのに!?、、、。「いくらした?」
「友人のメキシコ人に頼まれたもので値段はわかりませんよ」
もう一度今度は少し語気荒く聞いた。「いくらだ?」
「(本当は新品なのだが)新しい物じゃないし、、、ウム、、、」
「10ドラレス(ドル)かな」
「パスポートを見せろ」
渡されたパスポートを1ページ1ページゆっくりめくりながら
「所持金はいくらだ?」
「20ドラレス持っています」 当たり前だ今アメリカから着いた所だ。
「ペソなら少し持っています」
「じゃあそれをここに挟め」とパスポートを差し出した。
「税金がかかるなら向こうで払ってきます」とTAXを払う場所を指差した。
「まぁまぁ いいからいいから」ともう一度パスポート少し広げて差し出した。
いずれにしても払わなければならないだろうと予測しており20ドル分(約2600円)だけペソに両替しており細かく分けて何ヶ所かのポケットに入れていた。
これは常に危険が付きまとうニューヨーク生活の賜物かも知れない。
少ない方のポケットに手を入れ1ドルくらい挟んだ。
彼は一瞬ニヤリとして「下でやれ」「下でやれ」
パスポートを持った私の手を押さえながらすばやく札を抜き取りポケットに入れた。
マジシャン顔負けの早業だった。
外に出るとたくさんの出迎えが来ている。
多くはアメリカへ出稼ぎに行った人達の迎えだろう。手に、カートに山積みの荷物だ。迎えは家族総出といった様相で再会を喜びあっており、なんだかお祭りのような大賑わいだ。

閑話休題;
アメリカへ出稼ぎに行った人達の多くは、密入国者でパスポートは持っていない。
しかし、不思議なことに帰国は堂々と飛行機に乗って帰るのだ。
彼らは笑いながらその不思議を説明してくれた。
それによると町や村を出る際その長に自分の出生地等の証明書を発行してもらいそれがパスポートの変わりになるらしい。Ummmありえる。
密入国の手口は陸続きなので ①山を越える ②川を泳ぐ ③金を払う
経験者の話では①②は夜半に乗じてやるのが普通だが明かりが一切使用できないためルートを間違えておぼれたり、転落したり、ガラガラヘビにやられたりと危険だし、だいたいどの辺りの国境を越えてくるのかバレバレらしい。
昼間は見えている分だけ安全だが当然見つかりやすい。
いずれにしても国境警備隊に撃たれて死んだ者もいるとのこと。
③は何とかやっとの思いで金を都合し(一人約600ドル(当時))トラックに乗り込むのだがこれは何かの手違いがない限り成功する。
幌を開けられることもないそうだ。
手違いについては話のついている国境の係官が突発的に何かが起こり約束の時間帯にいなかったことが原因らしい。ま、いろんな場合も考えられますが―。
この頃(1987年)はメキシコでは一般的な一ヶ月の給料が50ドル(6500円)くらいなので600ドルは彼らの1年分の給料に匹敵する大変な額なのだ。

*為替 
 「当時米国生活でしたのでペソと円の値を把握していません。
文中の為替の換算はメキシコ通貨ペソ対米ドルです。
ですからドル対円換算からペソ対円の計算です。」

野を越え、山を越え、川を渡り、様々な危険にさらされながらようやく国境を越えたと思ったら逮捕。何度送還されても神に成功を祈ってトライ。
また、高額な金を払ってでもアメリカを目指すのは彼らの稼いだお金が、国に帰れば大きな働きをすることを考えれば当然の行動かも知れません。
そんな彼らで早い者は1年ぶりで帰国するのだがその手に大金はない。
すべて仕送りしてしまうからだ。
前出のファビアンやウエイトレスをしていたタイ人のナンシーもせっせと送金して建てた家の写真を見せてくれた。これは羨ましくもショックですね。
我々日本人は彼らよりはるかに給料がいいけど日本に送ったからと云って家は建ちません。
私の場合日本に帰るくらいならこうやって中南米の旅に出るかヨーロッパを回っている方がはるかにお金はかからないし、愉しい。
日本への望郷の念にかられるのは「風呂」温泉と食事(特にお茶漬けは無性に食べたくなる時があるのです)かな。
母の介護で1年半程病院暮らしをしましたがその当時円は1ドル=87円
銀行に両替に行く度、行員に「今替えると損ですよ」と忠告されるのですがドルで給料をもらっていた私にはどうするすべもありません。
泣きましたねぇ。

さて、人混みを流れに沿って歩いているとファビアンの家族はすぐわかった。
あまりに皆がそっくりなのだ。
ウイークディなのに家族総出の5人。
仕事は大丈夫なんだろうかと心配になったがメキシコ人だからなぁ、なんてなんだかわけのわからない納得をして、声をかけた。
「なんでわかったんだろう??」そんな顔をして彼らは驚いていた。
全員に順番に挨拶を済ませ、子供達の目の方向にある届け物を渡した。
車で市内まで送ってくれると言うので駐車場へ向かったが車を見てびっくり!
小型でドコ製見分けがつかないポンコツに6人と荷物を含めてギュウギュウと音が出るくらいに押し込んで、いつバラバラになってもおかしくない走りをしながら市内のホテルまで送ってくれた。感謝!!

メキシコ市
「キャピタルホテル」はバックパッカーなら耳にしたことのある安宿で市の中心地(ソカロ)に近く便利がいいがハッキリ言って汚い。  
 1ドル=1375ペソ
まず、値段を聞いた。ニューヨークで聞いていた通り一泊約3ドル=400円。
とにかく部屋を見せてもらう。
空いている三部屋を見てRM#325に決めた。(シャワー付き)
これからの長い旅を考えればこれくらいが妥当だろう。
その後このホテルに銃を持った強盗が押し入ったようだが、安宿とはいえ金を持った日本人が泊まっているという情報をどこかで得たのだろう。
さてさて、寝床を確保して一安心。ベッドの上にバックパックを放り投げ、続けて身体も飛んだ。
大きく深呼吸し「とうとう来たなぁ」しばらくぼんやりと天井を眺めていた。
空腹に気が付いた 「さぁーて、何を食べるかなぁ」バックパックに少しだけフレッシュエアーを吸わせて遅い昼食を摂りに表へ出た。
ウルグアイ通りから目と鼻の先にあるソカロへと向かった。(正式名は憲法広場)
この一帯はアステカ王モクテスマの中央神殿があった場所だ。
途中ちょっと小奇麗な店を目にし、初日の安心を買ってそこに入った。
シーフードレストランでえび10匹、牡蠣7個、魚フライ(小)3、ビール2本(小ビン)と大盤振る舞い。8ドル近かった。メキシコ市は内陸部なので魚介類は当然高いが今考えると少しボラれたのかも知れない。
ビールは銘柄にもよるが95円くらいだ。メキシコのビールは美味しいですよ。
ニューヨークではメキシカンビヤーにとうもろこしで作ったトルティジャ(トルティヤ)チップスにピカンテ(結構辛い)を付けて食べながらよく飲んだが私が行っていたバーのチップスは無料でした。

ソカロ周辺をぶらぶらと散策して暗くなる頃ホテルへ。
夕食はホテル近くで勿論ビールと定食、3ドルしなかった。
ホテルではコーラ1本=40円、街では水=95円、ヨーグルト=40円、コーヒー=5円、ビニールに入ったアイスキャンディ(お菓子付き)=9円