「マインドクエスト」意識としての自己と存在としての私
「マインド・クエスト 意識のミステリー」 D. ロイド (著) 谷 徹(訳) 講談社 2006年
「スプートニクの恋人」を読んですぐ
次は村上春樹ではなく何か別のものと(もう長編は読み終えたので)
ずいぶん前に買ったが積読のままほかってあったこの本を手に取った
するとその日本版序文に「スプートニクの恋人」の解題あがあり
その偶然にいささか驚くとともに
その後に「羊をめぐる冒険」と「ダンス・ダンス・ダンス」を読み直す羽目になる
村上春樹に引き戻されてしまった
この本「マインドクエスト」は前半に著者の研究を敷衍する
解説的な小説が配置され
後半では著者の研究課題である「意識」の科学について概説している
小説はそれとして読めなくはないが、本質的な「小説」ではなく
いわゆる科学的読み物としての範疇で書かれているため
ストーリーが一定の枠の中からはみだすことができず
消化不良な展開で終わってしまう
(SFやホラーの読みすぎで、意表を突く怪物の出現を期待していた?
自分自身こそが怪物だって?)
後半の「意識の科学」も興味深くはあるが
毛の薄い猿程度の庶民には「だからどうした」と思わずつぶやかざるをえない
「意識」が化学反応ないし電位差の集積以上のものであるために
ならばどのような理解が必要なのか
その「理解」を意識して「理解」する頭脳の多層性
「脳」という器と組織ににすべての「意識」が還元されるのか
還元してもよいが、だからどうした・・という感想になる
村上春樹の「スプートニクの恋人」の中で描かれる
観覧車でのミュウの体験(意識の多層化?)を例として
著者は村上春樹の作品、ないし村上春樹についてこう語る
「村上春樹はトラップドア使いの名人である。彼の小説は
フィクションの持つ非自然的な力を解き放ち、私たちがそれまで忘れていた
物語的な可能性を自由に走らせる。忘れていたというより
忘れたがっている、と言ったほうがよいかもしれない。・・
私たちの心を不穏とともに驚嘆させる村上氏の小説は
存在しえないのに、それでもそこに存在してしまう、
そうしたパラレル宇宙への扉を開く。・・」
そして「本書は、村上氏の世界の隠喩的多重性が、
文字通りの事実であることを示そうとする試みである。
二つの世界があるのだ。いや、じつは無限に多くの世界があるのだ。
そしてそれぞれに「実在性」を主張している。」
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の世界は
1次元(直線)と2次元(平面)そして三次元(立方体)の
濃度がすべて同じであるという集合論的な入れ子世界に
主人公が取り込まれてしまう話である
(最近の映画(もう古い?)「インセプション」の方が
イメージは近いのかもしれない)
そして意識としての自己と、存在としての私
同一性がゆらぐ日々を「意識」する混乱
どの世界かはわからないが時間の方向性だけが意識の作用を規定する
というようなことを著者は書いているが
今いるこの世界はどの次元に属しているのか
いや、無限に平衡する世界のどの時間軸の上にいるのか
違う時間軸の世界の私は私なのか
今こそが最も不安である・・
PS.と書いたが「今」以外に私の意識は存在しないので
「今」以外に不安な時制はない・・・・
自分と世界の包含関係もあいまいで
最後にはQue sera seraしかないのだろうな
いろいろ考えさせられる内容ではあった
以下は、自分自身の便利のために
村上春樹長編リスト(Wikipediaより)
風の歌を聴け (1979年『群像』6月号)
1973年のピンボール (1980年『群像』3月号)
羊をめぐる冒険 (1982年『群像』8月号)
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド (1985年6月 新潮社・純文学書き下ろし特別作品)
ノルウェイの森 (1987年9月 講談社より書き下ろし)
ダンス・ダンス・ダンス (1988年10月 講談社より書き下ろし)
国境の南、太陽の西 (1992年10月 講談社より書き下ろし)
ねじまき鳥クロニクル (『新潮』1992年10月号~1993年8月号、1994年4月・1995年8月 新潮社より書き下ろし)
スプートニクの恋人 (1999年4月 講談社より書き下ろし)
海辺のカフカ (2002年9月 新潮社より書き下ろし)
アフターダーク (2004年9月 講談社より書き下ろし)
1Q84 BOOK 1 (2009年5月 新潮社より書き下ろし)
1Q84 BOOK 2 (2009年5月 新潮社より書き下ろし)
1Q84 BOOK 3 (2010年4月 新潮社より書き下ろし)
「マインド・クエスト 意識のミステリー」 D. ロイド (著) 谷 徹(訳) 講談社 2006年
「スプートニクの恋人」を読んですぐ
次は村上春樹ではなく何か別のものと(もう長編は読み終えたので)
ずいぶん前に買ったが積読のままほかってあったこの本を手に取った
するとその日本版序文に「スプートニクの恋人」の解題あがあり
その偶然にいささか驚くとともに
その後に「羊をめぐる冒険」と「ダンス・ダンス・ダンス」を読み直す羽目になる
村上春樹に引き戻されてしまった
この本「マインドクエスト」は前半に著者の研究を敷衍する
解説的な小説が配置され
後半では著者の研究課題である「意識」の科学について概説している
小説はそれとして読めなくはないが、本質的な「小説」ではなく
いわゆる科学的読み物としての範疇で書かれているため
ストーリーが一定の枠の中からはみだすことができず
消化不良な展開で終わってしまう
(SFやホラーの読みすぎで、意表を突く怪物の出現を期待していた?
自分自身こそが怪物だって?)
後半の「意識の科学」も興味深くはあるが
毛の薄い猿程度の庶民には「だからどうした」と思わずつぶやかざるをえない
「意識」が化学反応ないし電位差の集積以上のものであるために
ならばどのような理解が必要なのか
その「理解」を意識して「理解」する頭脳の多層性
「脳」という器と組織ににすべての「意識」が還元されるのか
還元してもよいが、だからどうした・・という感想になる
村上春樹の「スプートニクの恋人」の中で描かれる
観覧車でのミュウの体験(意識の多層化?)を例として
著者は村上春樹の作品、ないし村上春樹についてこう語る
「村上春樹はトラップドア使いの名人である。彼の小説は
フィクションの持つ非自然的な力を解き放ち、私たちがそれまで忘れていた
物語的な可能性を自由に走らせる。忘れていたというより
忘れたがっている、と言ったほうがよいかもしれない。・・
私たちの心を不穏とともに驚嘆させる村上氏の小説は
存在しえないのに、それでもそこに存在してしまう、
そうしたパラレル宇宙への扉を開く。・・」
そして「本書は、村上氏の世界の隠喩的多重性が、
文字通りの事実であることを示そうとする試みである。
二つの世界があるのだ。いや、じつは無限に多くの世界があるのだ。
そしてそれぞれに「実在性」を主張している。」
「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の世界は
1次元(直線)と2次元(平面)そして三次元(立方体)の
濃度がすべて同じであるという集合論的な入れ子世界に
主人公が取り込まれてしまう話である
(最近の映画(もう古い?)「インセプション」の方が
イメージは近いのかもしれない)
そして意識としての自己と、存在としての私
同一性がゆらぐ日々を「意識」する混乱
どの世界かはわからないが時間の方向性だけが意識の作用を規定する
というようなことを著者は書いているが
今いるこの世界はどの次元に属しているのか
いや、無限に平衡する世界のどの時間軸の上にいるのか
違う時間軸の世界の私は私なのか
今こそが最も不安である・・
PS.と書いたが「今」以外に私の意識は存在しないので
「今」以外に不安な時制はない・・・・
自分と世界の包含関係もあいまいで
最後にはQue sera seraしかないのだろうな
いろいろ考えさせられる内容ではあった
以下は、自分自身の便利のために
村上春樹長編リスト(Wikipediaより)
風の歌を聴け (1979年『群像』6月号)
1973年のピンボール (1980年『群像』3月号)
羊をめぐる冒険 (1982年『群像』8月号)
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド (1985年6月 新潮社・純文学書き下ろし特別作品)
ノルウェイの森 (1987年9月 講談社より書き下ろし)
ダンス・ダンス・ダンス (1988年10月 講談社より書き下ろし)
国境の南、太陽の西 (1992年10月 講談社より書き下ろし)
ねじまき鳥クロニクル (『新潮』1992年10月号~1993年8月号、1994年4月・1995年8月 新潮社より書き下ろし)
スプートニクの恋人 (1999年4月 講談社より書き下ろし)
海辺のカフカ (2002年9月 新潮社より書き下ろし)
アフターダーク (2004年9月 講談社より書き下ろし)
1Q84 BOOK 1 (2009年5月 新潮社より書き下ろし)
1Q84 BOOK 2 (2009年5月 新潮社より書き下ろし)
1Q84 BOOK 3 (2010年4月 新潮社より書き下ろし)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます