「南京の真実」(ラーベ著:講談社)より
1月23日
予定通り今朝6時にクレーガーは上海に向かった。
シンバーグがまた南京にやってきて、たまご6個と生きたアヒル20羽を持ってきてくれた。勤務中なのでやむを得ず袋に入れっぱなしにしておいたところ、3羽も死んでしまった。コックは「大丈夫、食べられますよ!」といっているが。
8人も警官を引き連れて、高玉が事務所に訪ねてきた。いやに興奮している。2,3日前にアメリカンスクールからピアノが一台盗まれ、アメリカ大使館はワシントンに打電した。早速東京から「直ちにピアノを元に戻すように」との指令がきたのだという。ピアノがどこにあるのかわからないのだが、心当たりはないか、というのだ。どうせとっくにたきぎにされてしまったのだろう。私はそのままお引取り願った。そんなことまで一々言ってくるな! 16時30分平倉巷での礼拝。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
18時ローゼンを訪ねた。今日は城門の外まで足を伸ばしたそうだ。ゴルフ場がすっかり焼き払われていたという。 19時フィッチの55歳の誕生日。みなで食事をした。私のプレゼントはアヒル2羽。生きちゃいるが骨と皮ばかりだ。かわいそうに、もう長いこと干乾しになっているのだ。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月23日 日曜日
特に記すこともない一日だった。寒さは厳しい。朝、メリーが鼓楼教会へ出かけ、私は午後、平昌巷3号で行われた英語による礼拝に行った。・・・・・・・・
今朝、この収容所で生活している避難民の甥が私を訪ねてきた。昨日34日ぶりに帰ってきたとのこと。彼は、12月18日に400人ほどの人たちと一緒に連行された。「隊長」の夜具を長興に運び、食事の用意もした。8日間、この将校に仕事をさせられた後放免され、帰ってもよいと言われた。帰路、宜興まで来た時、別の将校に捕まってしまい、1月14日まで拘束された。この二人目の将校は甥のことが気に入り、親切にしてくれた。将校は彼を放免するとき、城門の外まで付き添い、幹線道路を避けて帰るように、と言った。520華里(260キロメートル)を歩いて帰ってくるには8日を要した。湖州のような都市には「老百姓」(庶民)は全く見当たらず、市の7割ほどが焼失していた。広徳は、それをめぐる攻防戦が長期にわたって激しく続いたため、ほとんど何も残っていなかったそうだ。彼の話によれば、ある地区では、「大刀会」が匪賊や中国軍、日本軍から村を護っていた。彼らは大刀を背負い、異様な目付きをしていたそうだ。村びとたちは彼らを尊敬し、彼らの前で叩頭するだけでなく、香を焚いて彼らを迎えた。溧水、溧陽、宜興といった都市はいずれもほとんど全滅し、再建には30年かかるだろう、と彼は話してくれた。道で出会った人たちはとても親切にしてくれて、彼に食べ物をくれたり、夜は家に泊めてくれたりしたそうだ。こういった人が、もっとたくさん家族のもとへ戻ってこられることを切に願ってやまない。
ハイドさんと一緒に活動している長老派教会奉仕者の呉愛徳(音訳)さんが午後の女性の集会で、自身の逃亡についてすばらしい話をしてくれた。少女を物色していた兵士に見つからないように、彼女はおよそ40日間隠れて過ごした。積み上げられた牧草の中や豚小屋、船、空き家を転々として、最後に金陵女子文理学院のことを聞いて、そこへ行ってみようと決心した。彼女は年寄りに変装し、6歳(数え歳)の少年を借りて背中に負い、借りた杖をついてとぼとぼ歩いてきた。どんな障害も乗り越えたようで、集会が行われている真っ最中に彼女はここにたどり着いた。あの日元気いっぱいに歌っていたのは誰だろうかと思っていたが、彼女だったのだ。彼女はほかの避難民と一緒に北の寄宿舎の渡り廊下で生活している。
「Imagine9」解説【合同出版】より
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界
「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。 2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
1月23日
予定通り今朝6時にクレーガーは上海に向かった。
シンバーグがまた南京にやってきて、たまご6個と生きたアヒル20羽を持ってきてくれた。勤務中なのでやむを得ず袋に入れっぱなしにしておいたところ、3羽も死んでしまった。コックは「大丈夫、食べられますよ!」といっているが。
8人も警官を引き連れて、高玉が事務所に訪ねてきた。いやに興奮している。2,3日前にアメリカンスクールからピアノが一台盗まれ、アメリカ大使館はワシントンに打電した。早速東京から「直ちにピアノを元に戻すように」との指令がきたのだという。ピアノがどこにあるのかわからないのだが、心当たりはないか、というのだ。どうせとっくにたきぎにされてしまったのだろう。私はそのままお引取り願った。そんなことまで一々言ってくるな! 16時30分平倉巷での礼拝。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
18時ローゼンを訪ねた。今日は城門の外まで足を伸ばしたそうだ。ゴルフ場がすっかり焼き払われていたという。 19時フィッチの55歳の誕生日。みなで食事をした。私のプレゼントはアヒル2羽。生きちゃいるが骨と皮ばかりだ。かわいそうに、もう長いこと干乾しになっているのだ。
「南京事件の日々」(ヴォートリン著:大月書店)より
1月23日 日曜日
特に記すこともない一日だった。寒さは厳しい。朝、メリーが鼓楼教会へ出かけ、私は午後、平昌巷3号で行われた英語による礼拝に行った。・・・・・・・・
今朝、この収容所で生活している避難民の甥が私を訪ねてきた。昨日34日ぶりに帰ってきたとのこと。彼は、12月18日に400人ほどの人たちと一緒に連行された。「隊長」の夜具を長興に運び、食事の用意もした。8日間、この将校に仕事をさせられた後放免され、帰ってもよいと言われた。帰路、宜興まで来た時、別の将校に捕まってしまい、1月14日まで拘束された。この二人目の将校は甥のことが気に入り、親切にしてくれた。将校は彼を放免するとき、城門の外まで付き添い、幹線道路を避けて帰るように、と言った。520華里(260キロメートル)を歩いて帰ってくるには8日を要した。湖州のような都市には「老百姓」(庶民)は全く見当たらず、市の7割ほどが焼失していた。広徳は、それをめぐる攻防戦が長期にわたって激しく続いたため、ほとんど何も残っていなかったそうだ。彼の話によれば、ある地区では、「大刀会」が匪賊や中国軍、日本軍から村を護っていた。彼らは大刀を背負い、異様な目付きをしていたそうだ。村びとたちは彼らを尊敬し、彼らの前で叩頭するだけでなく、香を焚いて彼らを迎えた。溧水、溧陽、宜興といった都市はいずれもほとんど全滅し、再建には30年かかるだろう、と彼は話してくれた。道で出会った人たちはとても親切にしてくれて、彼に食べ物をくれたり、夜は家に泊めてくれたりしたそうだ。こういった人が、もっとたくさん家族のもとへ戻ってこられることを切に願ってやまない。
ハイドさんと一緒に活動している長老派教会奉仕者の呉愛徳(音訳)さんが午後の女性の集会で、自身の逃亡についてすばらしい話をしてくれた。少女を物色していた兵士に見つからないように、彼女はおよそ40日間隠れて過ごした。積み上げられた牧草の中や豚小屋、船、空き家を転々として、最後に金陵女子文理学院のことを聞いて、そこへ行ってみようと決心した。彼女は年寄りに変装し、6歳(数え歳)の少年を借りて背中に負い、借りた杖をついてとぼとぼ歩いてきた。どんな障害も乗り越えたようで、集会が行われている真っ最中に彼女はここにたどり着いた。あの日元気いっぱいに歌っていたのは誰だろうかと思っていたが、彼女だったのだ。彼女はほかの避難民と一緒に北の寄宿舎の渡り廊下で生活している。
「Imagine9」解説【合同出版】より
戦争にそなえるより
戦争をふせぐ世界
「反応ではなく予防を」。これは、2005年にニューヨークの国連本部で開かれた国連NGO会議(GPPAC世界会議)で掲げられた合言葉です。紛争が起きてから反応してそれに対処するよりも、紛争が起こらないようにあらかじめ防ぐこと(紛争予防)に力を注いだ方が、人々の被害は少なくてすみ、経済的な費用も安くおさえられるのです。
紛争予防のためには、日頃から対話をして信頼を築き、問題が持ち上がってきたときにはすぐに話し合いで対処する事が必要です。こうした分野では、政府よりも民間レベルが果たせる役割の方が大きいと言えます。どこの国でも、政府は、問題が大きくなってからようやく重い腰を上げるものです。ましてや軍隊は、問題が手におえなくなってから出動するものです。市民レベルの交流や対話が、紛争予防の基本です。市民団体が、政府や国連と協力して活動する仕組みをつくり上げることも必要です。 2005年、国連に「平和構築委員会」という新しい組織が生まれました。これは、アフリカなどで紛争を終わらせた国々が、復興や国づくりをしていくことを支援する国際組織です。このような過程で、再び武力紛争が起きないような仕組みをつくる事が大事です。貧困や資源をめぐる争いが武力紛争の大きな原因になっている場合も多く、こうした原因を取り除いていく必要があります。つまり、紛争を予防するためには、経済や環境に対する取り組みが重要なのです。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。