1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の中国東北地方への侵略
「満州国」の出現
平頂山(へいちょうざん)事件と大規模な弾圧
日本は満州を占領した後、東北人民の抵抗闘争を弾圧しようと多くの残虐事件を引き起こしました。平頂山事件は、その一例です。1932年9月16日、抗日ゲリラに撫順(ぶじゅん)炭鉱事務所を襲撃された日本当局は、報復のために、撫順の日本軍守備隊と憲兵隊200人余りを出動させ、撫順近くの平頂山村を包囲しました。全村3000人余りの村民を一ヵ所のくぼ地に集め、機関銃を使ってほとんど全員を殺害したのです。女性や子ども、老人も一緒でした。
こうした民衆に対する虐殺事件は、老黒溝(ろうこくこう)事件、土龍山(どりゅうさん)事件などをはじめとして、その他の地域でも多く引き起こされました。日本の憲兵は、各地で大規模な逮捕と検挙を行ない、残酷な拷問(ごうもん)を加えて自供を迫り、「反満抗日」のメンバーと見なした多くの人々を殺害しました。数多くの罪の無い人々がこのような弾圧に巻き込まれ、過酷な刑罰を受け、無念の死をとげていったのです。
■チチハル憲兵上等兵・土屋芳雄の証言(朝日新聞山形支局『聞き書き ある憲兵の記録』朝日新聞社より)
伍長の助手として拷問に加わった。連日のように、なぐるけるの暴行だ。そして、木刀(ぼくとう)責めや水責め、つるし上げなどにエスカレートする。どの取調室からも、憲兵の怒号と、容疑者の悲鳴が絶え間なく聞かれた。ある軍曹が調べた王社長の背中は、一面紫色に変色してはれ上がり、たてに横に皮膚が裂け、血がにじみ出していた。それでも軍曹は拷問の手を休めなかった。
「この事実を・・・・」(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編
加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
李高山(男)の証言
私は本籍が広東省の茂名市後街錦光書室で、1925年に生まれましたが、11と12の時に父と母があいついで世を去りました。生活のために、私は13の時に国民党の部隊に行って、広東軍154師の三営三連で勤務兵になりました。それは丁度1937年の末で、日本軍が上海を攻めていて、私はその部隊が上海へ行って防衛任務を引き継ごうというのに付いて行きました。部隊はまず蘇州へ行くのに、鉄道線路が既に壊されていたので、歩いて進んだのですが、我々がまだ着かない前に、守備に当たっていた部隊がもう撤退してしまったので、我々も南京まで撤退して来ました。
1937年12月13日に南京が陥落し、その日私たちは宝塔橋一帯で長江を渡って逃げようと思いましたが、川面には船がなく、渡れませんでした。夜になって、挹江門(ゆうこうもん)から城内に入ろうと思ったのに、城門が既に土嚢(どのう)でふさがれていたので、闇に乗じて、縄でよじ登って城壁を越えましたが、明くる日の朝、挹江門内の大通りで日本軍に武装解除され、捕虜になりました。私たち大群がみんな後ろ手に縛られ、暗くなって日本軍に八字山公館の何軒かの洋館へ引っ立てられ、1人と1人が後ろ向きにくくられて、家の中に立たされたのが、みんなで何百人もでした。およそ8時か9時頃に、日本軍が突然機関銃で窓から家の中の人の群に向かって猛烈に掃射し、大部分がその場で撃ち殺されました。私は身体といい顔といい一面に血しぶきを浴びましたが、傷は受けず、何人かの活きている人たちと階段に沿って2階へ逃げました。その時日本軍が一階の死んだ同胞たちの体にガソリンをまき火をつけて燃やしたので、猛烈な煙と火とが一気に2階へ吹き上げてきて、私たち何人かは2階のテラスから跳び降り急いで逃げたのですが、その内のある者は脚を折って走れず、日本軍に殺害されました。私たち6人は夜陰に乗じて壁を乗り越えある家屋の屋上に駆け上がり、屋上の高殿の後ろに隠れ、丸々5日間飲まず食わずでした。やがて向かいに泊まっていた日本兵に見つかり、私たち6人は縄で後ろ手にされ、近くの沼に連行されて、5人とも日本兵にその場で射殺されましたが、私だけ殺されなかったのは、日本軍が私をまだ余りに小さいと見たからしく(その時私はやっと13でした)、頭をなでたり、からかったりし、やがては日本軍の部隊に連れて行き、クーリーをさせました。この部隊は「金野三騎兵部隊」だったと覚えていますが、数日後に、この部隊が夫子廟の状元鏡から武漢へ転進になり、「金野三部隊使用人」と書いた紙切れを私にくれたので、私は寧海路の難民区に身を寄せました。私は南京大虐殺の生き残りで証人なのです。(劉相雲が記録)
「Imagine9」【合同出版】より
女性たちが
平和をつくる世界
ノーベル平和賞を受賞した女性たちの会「ノーベル女性イニシアティブ」は、次のように宣言しています。「平和とは、単に戦争のない状態ではない。平和とは、平等と正義、そして民主的な社会を目指す取り組みそのものである。女性たちは、肉体的、経済的、文化的、政治的、宗教的、性的、環境的な暴力によって苦しめられてきた。女性の権利のための努力は、暴力の根源的な原因に対処し、暴力の予防につながるものである」
この会には、地雷禁止運動のジョディ・ウィリアムズ、「もったいない!」で有名なケニアの環境活動家ワンガリ・マータイさん、北アイルランドの平和活動家マイレッド・マグワイアさん、ビルマ民主化運動のアウンサン・スーチーさん、イランの弁護士シリン・エバティさん、グァテマラ先住民族のリゴベルタ・メンチュさんらが参加しています。
国連では、「すべての国は、女性に対する暴力を止めさせる責任がある。そして、あらゆる平和活動の中で、女性の参加を拡大しなければならない」と決議しました(2000年、国連安保理決議1325)
紛争後の国づくりや村おこしなど、平和活動の中心には常に女性たちがいなければならない、ということです。実際、アメリカやヨーロッパはもちろんのこと、韓国をはじめとするアジア諸国でも、NGOなど市民による平和活動の中心を女性たちが担っています。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。