まもなく4月29日の「昭和の日」を迎える。これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思う。
1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・
天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?
『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より
日本の侵略戦争
2、アジア太平洋戦争
日中戦争に行き詰った日本が、どのようにアジア太平洋戦争に突入していったのか、その原因を考えてみましょう。
ヒトラーの戦争に便乗した日本
1939年9月1日、ヒトラーを総統とするナチスードイツがポーランドに侵攻すると、イギリス・フランスはただちにドイツに宣戦布告をして第二次世界大戦が始まりました。その後の40年5月、ドイツはオランダへの侵入を皮切りに電撃戦を進め、翌6月にはパリを占領してフランスを降伏させ、ついでイギリス本土への空襲を開始しました。
日本の戦争指導者たちは、ドイツの勝利に便乗して、主人のいなくなった東南アジアの植民地をそっくり手に入れ、石油、錫(すず)、ゴムなどの軍需物資を獲得できる絶好の機会が到来したと考えました。さらに「援蒋(えんしょう)ルート」を遮断して中国を降伏させ、日中戦争の泥沼化を解決できるとも考えたのでした。
1940年9月、日本軍は北部仏印(フランスの植民地であった現在のベトナムの北部)を侵略し、ほぼ同時に日独伊三国同盟を結び、ドイツとの結びつきを強めました。41年6月にドイツがソ連に侵攻して独ソ戦が始まると、日本軍は7月に南部仏印に進駐し、サイゴン(現在のホーチミン市)周辺に航空基地と海軍基地、陸軍の輸送基地の建設を始めました。
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺
孫歩方(男、64歳)の証言
(昨日の続き)23時頃に、江辺まで来て、部隊は解散になりました。江辺は人がいっぱいで、兵隊だったのが大多数でしたが、一部は庶民も混じっていて、どっと江辺に押しかけ、先を争って船に乗り長江を渡ろうと待っているのでした。けれども、ただ人がぞろぞろ右往左往するのが見えるだけで、夜中過ぎになってもまだ1人も渡って行かれません。後でやっと分かったのですが、昼間にたった一隻汽船が出ただけで、それからは長江が封鎖され全く一隻も渡れなくなってしまったのです。
12月13日。夜が明けると、下関の江辺に押し合いへし合いしていた兵士や民衆は十数万はいて、それが頭のいない蝿のように、将校は兵を探し、兵隊は将校を探すで、ごしゃごしゃになっていました。私たち大平路の9人は、この機に乗じて城内に帰って家の者と一緒になろうと思い、大通りのある横丁を曲がろうとした時に、丁度そこに集まって来ていた2隊の兵士たちと出くわし、有無を言わずに、互いに撃ち合うことになりましたが、私たちは徒手空拳の庶民ですから、この勢いからして、恵明橋の方へと走って行き、河辺の民家にもぐりこむことになりました。これはどうもまずかったようで、小さい河のその辺はもう敵軍が占領しており、家に駆け込んで来るのを見れば、機関銃や小銃で一斉に撃ってきたり、我が軍の防護部隊でも、私たちの方に撃って来たりでした。敵味方双方がひとしきり撃ち合った後、私たちは双方が小休止した機に乗じて逃げ出し、やはり江辺に戻って行きました。
押し合いへし合いの人の群や将兵たちが、果てしなく流れる長江を見渡しているのですが、その東へ向かってうねり逆巻く流れには、人の死体や獣の屍、木材、家具、船など等が漂っているのでした。けれども人々は絶望したわけではなく、生きようとする本能からと、国を忘れた輩にはなりたくないとの想いから、4,5人が一塊になり、8,9人が一群になりして、商店の戸板やら勘定台やら机や椅子やらをはずしたり壊したりしては、江辺まで持ってきて、筏に組んだりしていました。ある者は車のタイヤをはずしたり、浮桟橋の錨や鎖をノコギリで切断したりで、とにかくありとあらゆる方法を思い付き、いちるの望みさえあれば、長江を渡って行こうと、しっかり組んだ筏に乗れるだけの人が乗り、竿を一差ししては、沖へ漂って行くのでした。(続く)
「Imagine9」【合同出版】より
考えてみよう、
日本の憲法9条のこれから。
日本が「9条を変えて、戦争に行ける国になるべきだ」と言う人たちがいます。誰が何のためにそう言っているのか、考えてみましょう。
2001年の「9・11事件」以来、アメリカは「テロと戦う」といって、アフガニスタンやイラクなど世界のあちこちで戦争やその準備をしています。そしていろいろな国に「一緒に戦おう」と協力を求めています。日本の自衛隊はイラクに派遣されましたが、アメリカはこのような協力を、さらに本格的に日本に求めています。そこで邪魔になるのが、「戦争に参加してはならない」と定めた9条です。
また、日本国内にも、戦争のためのミサイルやハイテク兵器をつくってもうけようという企業があります。彼らにとって邪魔になるのは、「武器を売ってはいけない」と定めた9条なのです。こうした理由から、アメリカ政府や日本の一部の大企業は、9条を変えたいと思っています。
そうやって日本が「戦争できる国」になっていくことを、かつて日本に苦しめられたアジアの人々はどう感じるでしょうか。近隣の国々は、日本の軍事化をどう見るでしょうか。そして皆さんは、世界の中の日本のあり方を、どう考えるでしょうか。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。