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昭和天皇の戦争責任

2009-04-29 08:18:50 | Weblog

今日は4月29日「昭和の日」ですね。いいお天気で、絶好の行楽日和ですね。多くの方が野外やいろいろな行事等でゴールデンウィークの一日を満喫されていると思います。
 でも、「昭和の日」です。昭和天皇の誕生日ですね。
これが、本当に国民の祝日であっていいのか、日本人は考えなければならないと思います。

 1930年代の中国における戦争は、日本の一方的な侵略戦争あった。
その当時の憲法は大日本帝国憲法であった。日本は大日本帝国と呼ばれていた。時の天皇は昭和天皇であった。その憲法には次のように書いてある。
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
・・・・・・

天皇が軍の最高責任者である。日中戦争に限らず、アジア・太平洋戦争の戦争を始めたのも終わりにしたのも昭和天皇である。その天皇の誕生日を祝日として祝うということはあの戦争で犠牲になった大勢のアジアの人々や日本の国民にとっていかがなものだろうか?

 

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 昭和天皇の戦争指導

 戦前の日本において天皇は現人神(あらひとがみ)とされ、大日本帝国憲法では、天皇は日本国の主権者として国のすべてを統治すると定められていました。天皇には軍隊を指揮・統率する最高の権限【統帥権(とうすい権)】があり、開戦と終戦を決定する権限も天皇にあったのです。日本の軍隊はは天皇の軍隊という意味で「皇軍(こうぐん)」と呼ばれました。
 一方、「天皇は神聖にして侵す(おかす)べからず」(同憲法第3条)とされ、天皇に政治や軍事の責任を負わせることはできないとされていました。かわりに政治は各国務大臣が天皇を輔弼(ほひつ・・・助けて)して責任をとり、軍事は統帥部(陸軍は参謀本部、海軍は軍令部)が天皇を輔弼して責任を負うことになっていました。
 1937年に日中全面戦争を開始すると、拡大する戦争を指導するために、皇居内に大本営を設けました。大本営は陸海軍の最高司令官である大元帥(だいげんすい)・天皇の総司令部という意味で、戦争指導の最高統帥機関となりました。この大本営は参謀総長と軍令部総長を幕僚長とし、陸海軍大臣も参列した軍部指導者だけの会議でした。
 大本営陸海軍首脳が天皇の御前(ごぜん)で行なった会議が大本営御前会議で、左右に陸海軍のトップが座り、中央の奥に昭和天皇が座りました。この会議では、重要な戦略・作戦について審議し、決定しました。この会議では、陸軍統帥部や海軍統帥部からの上奏(じょうそう・・・意見や事情などを天皇に申し上げること)に対して、天皇は御下問(ごかもん・・・質問)や御言葉を与えるというかたちで戦争指導・作戦指導に深くかかわりました。
 昭和天皇はこのほかにも、戦闘の勝利や軍事行動の成功に対して賞賛、激励の勅語(ちょくご)や嘉賞(かしょう・・・おほめ)の言葉を与え、国民の戦意高揚、国威発揚(こくいはつよう)のために積極的な役割を果たしました。
 

      
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編      加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 郭学根(男、83歳)の証言 
 
 私は郭学根と言い、家は1900年から下関の石梁柱の岸辺でした。1937年の12月10日の午前中、私は下関の中山埠頭で荷物を運ぶ手伝いをしていましたが、日本の飛行機が下関一帯を爆撃に来て、下関の唐山路一帯の民家がたくさんやられ、同胞がたくさん死にました。国民党当局が長江封鎖を布告し、誰も江北へ行くのを許しませんでした。
 2番目の弟の郭学禮がその頃国民党の88師で兵隊をしていて、その年8月に上海で日本軍と戦い、生死不明だったので、母親は家を離れたがらず、弟が帰ってきて家族が見つからなくなるのを恐れていましたから、私も母について南京に留まり弟を待っていました。
 12月12日に南京の中国守備軍が下関の 挹江門(ゆうこうもん)から撤退し始め、情勢がにわかに緊張してきて、城南では日本軍の銃声や砲声がしきりに聞こえるので、母は私をせっついて下関三汊河の放生寺に避難させ、母が1人家に留まっていました。
 12月13日に日本軍が下関の長江沿い一帯を占領すると、中山埠頭の近くでは幾千幾万もの潰走して散りじりになった守備部隊や難を避けてよそへ逃げる同胞が長江を渡れずに、全部日本軍の捕虜になりました。日本軍はこの人たちを江辺に追い立てて、機関銃で掃射して殺しました。その時私は放生寺にいて銃声がはっきり聞こえ、日本軍が殺人を始めたんだなと分かりましたが、家が江辺から非常に近かったので、ずっと母のことが気になってなりませんでした。
 12月14日に、日本軍は中国兵を探し出すという名目で、放生寺にやってきて青壮年200人余りと若い婦女子50人余りとを引っ張っていきました。日本軍は青壮年を揚子小麦粉工廠の裏門広場に連行し、機関銃で全部殺害し、50人余りの婦女子が日本軍に集団輪姦されましたが、その内ある婦女子は強姦された後、殺害されました。私は放生寺にいて、ある友達が国際紅卍字会の腕章をくれたので幸いにも難を免れました。
 12月15日に、日本軍に捕まって人夫にされ馬に食わすよう草を刈らされました。連行されて行く道々、下関の三汊河の高鼓村一帯で見かけたのですが、石梁柱、唐山路、南通路から中山埠頭に至る周囲はどこもかしこも中国同胞の死体と日本軍に強姦されてから殺害された裸の婦女子の死体がいっぱいで、あまねく野に横たわる屍に、野犬が争って食い荒らしに群がるという、全く見るに堪えない惨状でした。
 下関の大新埠頭の近くで見たのですが、400人余りの中国の捕虜になった軍人や民衆が、日本軍にゲートルで縛られ、江辺に連行され、それから10人引きずり出され電信柱と木に縛り付けられて、生きながらの刺殺訓練用の標的とされ、すさまじい叫び声が絶え間なく挙がり、刺された鮮血を身に浴びつつ死んでいきました。それに日本の将校が1人軍刀で我が同胞を横になで斬りしたので、その同胞は真っ二つにされ、はらわたなどがみんな地に流れ出ました。日本軍は又中国の捕虜になった兵士5人に自分で穴を掘らせ、深さ1メートルまで掘ったところで、この5人を穴に突き入れ、その上から土を詰めて、胸まで埋まったら、刀で斬り殺し、それをかたわらでたくさんの日本軍が手を叩きげらげら笑うのでした。
 後に私は又日本軍に下関の南通路に草を刈りに連行された時、日本軍がちょうど鉄の釘で中国の同胞を木や電信柱に活きながら打ち付けているところを見かけました。釘付けにされた同胞の悲惨な叫びは絶えることなく、血は流れに流れて、私はもうその惨状を見ていられなくて、じっと目を閉じるしかありませんでした。
 12月16日の朝、私は日本軍に中山埠頭の電気工場へ馬に食わせに連行されましたが、それは丁度日本軍がトラックで6台捕虜になった軍人や民衆を運んできたところでした。日本軍はこの数百人を4列縦隊にして岸辺沿いにまっすぐ並ばせ、司令官の号令一下、小銃や機関銃が一斉に火を噴き、岸辺に間近な同胞は次々に弾に当たって流れに倒れ込み、流されながらもがいて叫んでいるのがいると、日本軍は又流れに手榴弾を投げ、途端に流れが血で染まり、水面には死体がたくさん漂って行くのでした。日本軍は掃射を停止してからも、銃剣で流れに倒れ込んでいない死体をむやみに刺しまくっていました。
 これはみんな自分で目撃した日本軍の極悪非道な暴虐行為で、今思い起こすと切歯扼腕させられます。(郭永柱が記録)  
 

「Imagine9」【合同出版】より


想像してごらん、

 

女性たちが

 

平和をつくる世界を。

 

Imagine,

 

A world where

 

women create peace.


戦争は、子どもや夫が戦いにいくことを女性が認めない限り起こりません。
女たちは、一歩前へ踏み出し、男たちを含むあらゆる人間の産みの親として、
地球とそこに生きるすべてのものたちの世話役として、破壊をやめさせる責任を果たす事ができます。(アメリカ/先住民女性)


第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


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