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反満抗日闘争

2009-04-12 07:33:11 | Weblog

1931年(昭和6年)9月18日・・・柳条湖事件、満州事変に発展
1932年(昭和7年)3月・・・満州国の建国宣言発表
1933年(昭和8年)3月・・・日本は国際連盟を脱退する。

『未来をひらく歴史』(日・中・韓=共同編集 第2版 高文研)より

 日本の中国東北地方への侵略

 4、東北人民の反満抗日闘争

 日本軍の侵略と占領支配を受けた中国東北地方の各民族、各階層の民衆は、どのように抵抗し、闘争を続けたのでしょか。同地方の反満抗日闘争の戦いの歴史を見てみましょう。

 各階層民衆の抗日闘争

 満州のさまざまな階層の人たちが抗日闘争に身を投じていきました。1939年前後、日本が直接統治していた大連(だいれん)では、抗日民衆が「放火団」を組織して、日本の軍需工場や事業所を焼失させました。国民党系の地下組織は各地で秘密闘争を行いました。愛国者の伊作衡(いさくこう)は、錦州(きんしゅう)やハルビン、長春などで仲間と連絡をとりながら民衆を指導して、秘密裏に反満抗日闘争を行いました。しかし1943年に逮捕され、処刑されてしまいます。
 1941年1月、「満州国」空軍第3飛行隊の兵士85名が反乱を起こして日本軍の監視官を射殺し、抗日軍を組織しようとして、鎮圧されました。朝鮮族や満族、モンゴル族、オロチョン族などの少数民族の人たちも、東北人民とともに抗日闘争に参加しました。


 中国人民と肩を並べて戦った朝鮮人

 満州事変が勃発してから、満州の朝鮮人も武器を持って抗戦に立ち上がりました。満州北部には韓国独立軍、満州南部には朝鮮革命軍が組織されました。朝鮮革命軍は、中国遼寧(りょうねい)民衆自衛軍ならびに中国共産党が指導する東北抗日連軍と共同して、1938年までずっと活動しました。韓倹秋(ハンコンジュ)は、朝鮮革命軍の指導者の1人で、彼が作詞した下記の歌は、中国人・朝鮮人の連合抗戦の決意を歌っています。
 朝鮮人の中には、中国共産党の指導するゲリラ部隊、さらには東北抗日連軍に参加して、中国人と一緒に戦った人たちもいました。彼らは、日本人を満州から追い出せば、朝鮮独立の機会の到来もそう遠くないと信じたのでした。
 朝鮮人のゲリラ部隊は、武装闘争を続けながら朝鮮人の団結をはかるため、1936年から始めて、多くの地域に朝鮮人の祖国光復会を設立させました。これらの組織は1938年に日本当局に鎮圧され、瓦解しますが、戦いの意志は消えることはなかったです。

 ■中韓行進曲
 中国、韓国の同胞たち/戦いの日がやってきた/抗日決戦の時がやってきた/民衆自衛軍/朝鮮革命軍/共に生き、共に戦い、死を共にする戦友・・・・
(作詞者は、朝鮮革命軍第二方面軍司令官だった韓倹秋(ハンコンジュ)です。1937年初め、韓は、19路軍司令官・王凰閣(おうおうかく)が日本軍に捕らわれたので、部隊を率いて救出に行きましたが、王はすでに日本軍に殺害されていました。韓は一日中、泣き悲しんだすえにこの歌詞を書いたのです。韓倹秋も1937年6月、吉林省通化県の二段溝の戦闘において戦死しました。)

 
 
    
「この事実を・・・・」

(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編     加藤 実/訳)
1、日本軍の狂暴な集団的虐殺
江辺、下関埠頭、挹江門、三汊河一帯での集団虐殺

 

 駱中洋(男、67歳)の証言

(昨日の続き)私たち3人は草葺き小屋に隠れていて、幸いにしばらくは殺されず難を免れていましたが、周りはみんな「ああ、のう」と絶え間ない日本兵ばかりでした。暗くなってから、不意に日本兵が1人入ってきて、私たち3人に3発撃って、出て行きましたが、3人には1つも当たりませんでした。その後すぐ、私たち相談して、ここを離れなければいけないとなりました。犬のように地を這いつくばり、頭だけ突き出して様子を伺うと、あちこちに明かりがともり、日本軍の歩哨が影法師になっていたりして、逃げようにも、天にも地にも隙間1つ見出せません。何度も考え直した挙句に、とにかく日本軍が宿営してからのことにし、水路から逃げるか、あるいは老人か子どもかのいる庶民の家まで逃げていって、その一員になるかすれば、何とか逃げおうせるかもしれない、と思いました。
 凡そ夜の11時前後に、私たち3人の内の1人が、先に壁のあなから這い出して行きましたが、その後の生死は不明となりました。とっても寒く、私たち広東から来た者は綿入れは着てなくて、冷え込んでたまらず、草葺き小屋の一角で、たまたま拾った布団わた2枚を体にかけて暖を取りました。けれども、やはり心配でたまらず、眠れる訳がありません。真夜中の2時ごろかに、不意に日本兵が2人入ってきて、軍刀をさげていながら銃は持っていないところから、輜重兵(しちょうへい)と思われましたが、その2人が古い布団わた2枚抱え、私たちのいる部屋のもう一隅で、頭からそれをかぶって眠ってしまいました。これはまずい、いつ殺害されるか分からない、と私たちは見て、直ちに壁のあなから這い出し、日本軍の明かりと歩哨とを避け、三汊河の上の方へ行きました。行ったとは言え、実際は両手両足で這って行ったのですが、三汊河一帯の大きな道も小さな巷も、ただ死体が無数に血の海に倒れているばかりでした。河辺には、死体がうずたかくなり、小山に小山が連なっているようでした。川面に一面漂っている死体はと言えば、水の流れに委ねたかのように、長江へと向かって行くのでした。
 手も足も気を付けて這って行くのですが、それでもしょっちゅう日本兵の警邏しているのに出くわします。すると私たちは面を伏せ、死体のうずたかい上に身を伏せビクともせずに、死人を装い、彼らをくらませてからまた這うのです。もっと惨めだったのは日本軍に半殺しになった人たちが少しいたことで、大声でわめきうめいているのが、涙を誘って止まないのでした。(続く)
  

  
 
「Imagine9」【合同出版】より


ひとりひとりの安全を


大事にする世界


 また、地球上の人々の生命と権利を守る責任は国際社会全体にあるのだ、という考え方も広がりつつあります。たとえば、国の中で紛争状態や人権侵害があるときに、その国の政府が「これは国の内部の問題だから外国は口出しするな」などということは、もはや許されないのです。国と国が戦争をしていないからといって、それは平和を意味しません。人々の生命や権利が脅かされているかぎり、それは平和ではないのです。

 日本国憲法には、9条と並んで、もう一つ重要な部分があります。
それは前文の次の言葉です。
「我らは、全世界の国民が、等しく恐怖と欠乏からまぬかれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」

 世界には、戦争に行くことを正しいことではないと考えて、兵隊に行くのを拒む人々もいます。これを「良心的兵役拒否」の権利と呼びますが、この権利を国際的に保障しようという動きも活発化しています。
 平和は、国から市民へ降りてくるものではなく、市民が国を動かし、国際社会を動かしてつくり上げていくものなのです。




第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】

1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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