情報開示請求をしたら、提出された6861ページのほとんどが黒塗りだった。
化学兵器禁止条約に照らして旧日本軍が中国各地に遺棄した毒ガス弾の処理はどうなっているのか。情報のほとんどを私たちは知ることができない。そして無毒化されることのない砒素を含んだ毒ガス弾の行方は闇に葬られようとしている。
あの日本の侵略戦争を反省し作られた憲法9条を、順守すれば、軍事費ゼロ!!戦争をしないように全力で取り組む姿勢を全世界に示す!!【天皇制再考、軍人恩給廃止、戦争被害者(外国も含む)への補償、外交力強化!!】
憲法9条
第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
“弾薬だけ”で8200億円 来年度当初予算案、防衛費が25%増の過去最大 総額114兆円程度で最終調整
放射能の影響を考えよう!!
パネル展「731部隊・原爆・ビキニ」展
12月23日(金)
5、知らないことばかりで、大変勉強になりました。ありがとうございました。人間を人間扱いしない行為にビックリです。アメリカにも親類もいるし、私自身、米軍基地でも働いていたので、考えさせられる。
この様な企画を又ぜひお願いします。(戦争や核問題等)(21~50歳、市内、友人)
★新宿戸山の陸軍軍医学校跡地から見つかった人骨についての番組を見たい方は
下記のギガファイル便をダウンロードしてください(4月26日までダウンロード可能です)。
桜の下に眠り続ける死者たち
https://81.gigafile.nu/0426-f28efe24152e71e1bbe5a9daa5171a2b4
2022/10/22 清水さん宅
731部隊の証言展示取りやめ パネル展示予定だった宮田村の清水さん「これでは伝わらない」
731部隊の少年隊に所属し、飯田市平和祈念館での証言の展示を打診されていた清水さん。入隊時の写真の拡大コピーも用意していた=7月12日、宮田村
731部隊を巡っては2002年、中国人被害者らが起こした国家賠償請求訴訟で東京地裁が戦時中に生物兵器の開発、研究を行い、細菌戦を行っていたなどと認定した。一方、03年に当時首相だった小泉純一郎氏は国会で、細菌戦を示す資料は「現時点で確認されていない」と答弁。部隊については終戦直後に文書が処分された経緯もあり、専門家からは貴重な歴史的証言の展示を見合わせた市教委の姿勢を疑問視する声が出ている。
「自分たちの証言が紹介されなければ、部隊の事実が伝わらない」。戦時中、731部隊の少年隊に所属していた清水英男さん(92)=上伊那郡宮田村=はそう訴える。飯田市平和祈念館の開館前、市資料収集委員会から証言のパネル展示を打診され、了承。まだ14歳だった入隊時の集合写真も自費で拡大コピーし、展示用に用意した。
清水さんは国民学校高等科を卒業後、731部隊の少年隊に配属された。主に見習い技術員として病原菌の基礎知識などを学び、「マルタ」と呼ばれた中国人やロシア人の捕虜の人体実験後の標本を見たこともある。日本の敗戦間近に「マルタ小屋」で多数の人骨を拾って・・・・
久保田昇さんが熱く語る元731部隊員の証言(以下のビデオ:30分辺りから)
飯田市平和祈念館資料室
飯田市平和祈念資料室
放射能はこわい!!
自衛隊における731部隊の記述
「部外秘 参考資料 CBR講習資料」11頁 作成日時不詳 陸上幕僚監部化学科より
d旧日本軍の細菌戦活動
旧日本軍の石井部隊は又の名を関東軍防疫、給水、731部隊、加茂部隊、特25204部隊と呼ばれた。細菌戦闘専門の特殊部隊であった。隊の設立は昭和6(1931)年で満州の研究所完成は昭和10(1935)年である。日本軍細菌戦部隊の本拠は満州ハルビン郊外濱江省(ひんこうしょう)双城県平房の4階建近代建築でその中で遮断隔離の生活をしていた。設備は爆撃機(細菌撒布用)10機、1000kwタービン発電機2台である。この本部の元に、孫呉、海拉爾(ハイラル)、牡丹江、林口、大連の5支部があり、大連のものは大連研究所または松林機関とも言われていた。他の部課は細菌の攻撃方法、容器散布方法、防疫問題を研究していた。最も力を入れたのはヒタツリ菌(注:脾脱疽菌)であった。この菌を粉末にして榴散弾の70g位の鉛製弾子に混ぜ、これを砲弾内に詰め、炸薬が爆発すると弾子が飛散して人馬に感染さすようになっている。実験場所は731部隊研究所から北に300(?)㎞ばかりのアンダ飛行場を使用した。そして砲弾が爆発しても菌の40%は生きていること及び培養器に飛ばされた菌は確実に付着する事、負傷者は発病することが確認されている。1938年中国廬山の戦闘で日本軍が毒ガス、ホスゲンを使用したという2,3の細菌記録がある。この記録を持つ731部隊は1945年8月9日午前6時ハルビンの工兵、歩兵、砲兵によって徹底的に破壊され付属設備は地上から姿を消した。ソ連の対日参戦による退却の結果である」
長岡大学 研究論叢 第16号より(2018年8月)
・・・731部隊に関する概要が正確に記述されており、更に1938年に毒ガスを作戦で使用したことまで記している。これは化学学校の教育部長が、特殊課程の学生に講義した内容である。内容は事実であると確認して行ったと考えるほかはない。戦後自衛隊は731部隊の実態とその活動を把握した上で、何ら反省することなく自衛官に「教育」してきたのである。また教科書裁判では日本政府は長きにわたり731部隊の活動の事実認定さえ回避してきたが、陸上自衛隊の内部教育資料にも明記されるほど、自衛隊幹部周知の事実だったのであり、日本政府は一貫して内外に虚偽の主張をしてきたと言える。
「このようにして日本の医師の戦争政策への積極的な協力が行われていったのであるが、直接的な戦闘行為への協力の中で極めて非人道的な、目を覆わざるを得ないものに、細菌戦の準備があった。細菌戦の準備と実行を持った特殊部隊は、昭和10年(1935)夏、石井四郎を部隊長に満洲で編成され「関東軍防疫給水部」と称せられた。
昭和17年頃に「第731部隊」に昇格し、その研究、実験、製造は急に活発になった。(昭和14年のノモンハン事件に参加し、感状をもらっている)この部隊は細菌の製造、兵器としての細菌の利用、人体実験等を行い、施設として、常備爆撃機10機、1000kw発電機2台、隊員及び家族約6000名、年間研究費予算8000千円以上と言われている。
勿論、この部隊に多くの医学者が参加した。このことから、科学者としての責任の問題と同時に戦争責任が問題になってくる。
細菌戦準備への医学者の参加は、戦争責任の最も極端な場合として提起したわけであるが、このことの深い反省の上に戦後の再建も始められる必要があったし、現在でもなお問題とされねばならない。」
●今の日本人は、まさかと思うかもしれない。
東大医学部を卒業、将来を期待される医学者でありながら、731部隊の恐ろしい体験から、そしてその731部隊に参加したという罪の意識から、戦後医学者の道を捨ててしまった男、秋元寿恵夫
元731部隊員(第十課 血清班班長)秋元寿恵夫の言葉
「もしもバイオテクノロジーが軍事研究の魔の手に捕らえられた時の行き先がどうなるのかの危険性は、「ひょっとしたら人間の知能などを変える」どころか、さらには人類にとって取り返しのつかない害悪をもたらす生物兵器の出現につながっていくかもしれないのである。」
1929年11月7日昭和天皇陸軍軍医学校視察
731部隊は、石井四郎が、細菌戦の司令塔ではなかった。誰が裏で司令塔になっていたのだろうか?小泉親彦陸軍軍医総監、宮川米次第5代東大伝研所長、大元帥昭和天皇等がバックにいた。
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より
●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』
・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?
・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?
・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??
・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??
・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??
・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?
・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?
・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。
・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??
実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
実験医学雑報21巻 第6号(1937年)
山田信一郎君の英霊を弔う
昭和12年6月15日 伝染病研究所長 宮川米治
第2群の研究業績は虱に関するものである。近時本邦各地の人畜に害を流している彼の家虱は誠に君の研究によって闡明せられ、君はこれにLiponyssus nagagoiなる名称を与えておられる。このように君はこれが動物学的一新種であることを明らかにしたのみならず、諸種の人体疾患の病原体を伝播するという事実をも発見した。特にペスト菌はこの虱によって容易に伝播せるということである。
第3群の研究は蚤に関するものである。特に鼠蚤によって、多くの知見を発表すると共に一種の条虫(縮小条虫)の中間宿主が実にこの蚤にあることを明らかにした。従来この条虫の中間宿主は穀類等に見らるる昆虫類であると言われていたのに、君の研究によって、最も自然の中間宿主が明らかになった訳で爪実条虫の中間宿主の関係を思い合わせると、興味の尽きないものがあります。由来君はこのように各種の昆虫研究を為すに当たって、常に動物学的研究に止まらず、必ず人類との関係を念頭に置かれたことは、君が吾が伝研に於いて、極めて重要なる役割を演ぜられていた所以であります。
大牟田の慰霊碑(裏)
(碑文)
「時維(ときにこれ)昭和12年9月25日恰も支那事変勃発して3月全市を挙げて銃後の遂行に邁進せる秋(とき)、青天の霹靂の如く突如として我が12万市民は古今を絶する悪疫の魔手に掩われたり。ここに大産業都市として殷賑を極めたる本市は忽にして阿鼻叫喚の巷ト化し官民必死の防疫にも拘らず竟(つい)に一万数千の罹患者を出し七百十二名の精魂を奪はる・・・・・」
わたしの笹林公園探検の目的は、その隣の隣の慰霊碑であった。さてこれは何の慰霊碑であるか。ここに戦前戦中史の大きな謎が隠されている。(中略)
この慰霊碑は、炭坑事故の慰霊碑でもなく、戦没者の慰霊碑でもありません。1937(昭和)12年に突然大牟田で発生した集団赤痢事件の被害者の慰霊碑なのです。慰霊碑には、一万数千の罹患者を出し、七百十二名の精魂(生命)を奪ったと記されています。この集団赤痢事件がなぜ起こったかについての真相は、いまだ闇に包まれています。しかし、中国戦線に向けて三池(三井)染料が内密に作っていた化学兵器工場で爆発事故が発生し、この事故を隠蔽するために清里の水源地に赤痢菌をまいたという重大な仮説が提起されています。三池染料はわたしの祖父の職場でありました。その祖父は7年前に亡くなりました。この当時のことをもっと聞いておけばと悔いが残ります。近々、この仮説を実証する資料を、受けとることになっていますので、またそのときご報告します。
戦時下 大牟田爆発赤痢事件
隠蔽された企業犯罪、国家犯罪
北宏一郎(化学兵器被害解決ネットワーク)
いわゆる「大牟田爆発赤痢事件」の真相
小島三郎
内務省防疫官の肩書で三井を免罪し、水道水による赤痢事件として幕引きを図った小島三郎東大教授は、別の顔を持っている。
東大伝染病研究所教授であり、陸軍軍医学校防疫研究室の嘱託である。
この事件の前年、1936年5月15日に浜松で死者46人、患者2250人をみた浜松ゲルトネル菌事件(サルモネラ菌の一種)の際、いち早く石井四郎と共に伝研の教授として浜松に入っている。この時、浜松入りしたのは北野政次、西俊英。731部隊の要職を占めたメンバーがここにいる。
小島三郎も1941年と1944年に南京の多摩部隊に2週間出張している。
戦後、1947年伝研が厚生省予防衛生研究所(予研)になるや、副所長となり、更に1954年には所長となっている。
資料・731部隊細菌戦裁判第1審判決全文
被告の主張 (別紙4)
第1 国際法に基づく請求について
2、ヘーグ陸戦条約第3条について
以下では念のため、原告らの挙げるヘーグ陸戦条約3条について検討する。
(1)しかしながら、以下に述べる通り、ヘーグ陸戦条約の趣旨及び目的、文理、起草過程及び事後の実行例を考慮しても、ヘーグ陸戦条約3条が個人の損害賠償請求権を認めたものと解することはできない。同条約3条は、交戦当事国たる国家が、自国の軍隊の構成員によるヘーグ陸戦規則違反行為に基づく損害について相手国に対し損害賠償責任を負うという国家間の権利義務を定立したものである。この見解は、我が国の近時の裁判例の採るところでもある(東京地裁平成10年10月9日判決、東京高裁平成12年12月6日判決、東京地裁平成10年11月26日判決、同裁判所平成10年11月30日判決、同裁判所13年5月30日判決、東京高裁平成13年10月11日判決・乙第16号証、東京地裁平成11年6月17日判決・乙第22号証、その控訴審判決である東京高裁平成13年2月8日判決・乙23号証、その上告審決定である最高裁平成13年10月16日決定〔上告棄却及び上告不受理決定〕等)。
731部隊員が多く入った国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)や自衛隊などでの生物兵器の開発・研究も行われているのではないか?
五月一日
午前六時起床晴 風少し 巡察あり 張台子遼陽十五列車にて 明日は又炭坑第三集目也。
今度の分遣では本当にこりごりした。何分司令が初めてなんで、規定式だからやりきれない。毎日必ず体操がある 各個教練がある 内務はうるさいうるさい 矢張り分権の味を知らないものは困ったものだ。今日午後十一時巡察から帰って来た所 救われたような又やりきれないような風に感じた。何分清原軍曹のもとを離れるのはいいが、三週間も続けての勤務では本当にやりきれない。一回の衛兵と二回の巡察と一回の構内巡察で五日の分遣は終ったものの、中々楽ではなかった 何分あの通り何だからね。
ああお母さん
としとったお母さん
このまま逝ってはいけない
焼跡をさがし歩いた疲れからか
のこった毒気にあてられたのか
だるがって
やがて寝ついて
いまはじぶんの呟くことばも
はっきり分らぬお母さん
日本は、日中戦争で国際法に違反して、細菌戦、毒ガス戦、無差別爆撃を行った。日本政府は、この事実をきちんと認めていない!!
●『細菌戦部隊』
731研究会編 1996年9月(核時代51年)初版発行
『細菌戦部隊』
731研究会編
Ⅰ 731部隊
エントツから出る黒い煙
ペスト感染による死体がどんどん焼かれていく
小笠原 明(おがさわら あきら)
731部隊・少年隊
〈経歴〉
1928年生まれ。
1943年4月 731部隊少年隊に入隊
1944年4月 第2部(実験部)第2課田中班に配属。ペスト菌などを宿らせ伝染させるためのノミ増殖に従事。
1945年8月 日本への撤退途中で中国人民解放軍に入隊、4年間従軍
1949年 帰国。
■この証言は石川(金沢)731部隊展(1993年11月)、栃木(宇都宮)同展(94年9月)、沖縄(那覇)同展(94年1月)、広島同展(94年3月)の『報告集』よりまとめたもの
標本室
その年(1943)の6月の末、確か部隊創立記念日の為の掃除がありました。部隊本部棟2階の部隊長室近くにあった標本室に、私を含めて3人の者が呼ばれて掃除をするように言われました。標本室に入る前に憲兵曹長の高取と言う人が来て「今日ここで見たものは、内務班に帰ってからも、またハルピンに友達がおって話す機会があっても、絶対に話してはならない。秘密を守らなかったらとんでもないことになるぞ!」と言いました。
●毒ガス戦
『毒ガス戦と日本軍』
吉見義明 (2004年発行)
Ⅲ 日中戦争の全面化と本格的使用の開始 1937―1938
1 日中戦争の全面化と毒ガス戦
野戦化学実験部の調査報告
第3野戦化学実験部はびらん性ガスの使用についても提言している。華北の国民党軍兵士は冬季には分厚い服を身に着けており、びらん性ガスを使用しても十分に浸透せず、効力が落ちる恐れがあった。そこで実験を行った結果、特に華北の南部ではそれほど気温が低下しないので、「滲透効力の発揮困難にあらず」というのである。又、呼吸器や顔・手など衣服で覆われていない部分からの吸収や、汚染された被服からの2次汚染、びらん性ガス使用がもたらす精神的効果などから、効力は「偉大」なものとなるだろうと述べている。
このような綿密な調査報告を得て、1938年春から陸軍中央は、催涙ガスよりも強力な嘔吐性ガス、あか剤の使用に踏み込んでいく。
核時代39年(1984年)5月初版発行
謀殺(ぼうさつ)
予防注射を口実に毒殺
中島宗一
属官
〈略歴〉
本籍 長野県下伊那郡
出身階級 農民
最終学校名 南信学院2部卒業
学校卒業後の職業 農業
最後の所属 旧竜江省警務庁特務科
被捕日時場所 1945年10月8日 旧斉斉哈爾(チチハル)市白済工廠
この注射というのは、1938年4月、中央保安局の設立と共に防諜関係担任の第3科に『特別室』なるものを設け、尾行、諜報、謀略の為の擬装、変装や爆破、放火等の器具薬品の研究試作を行っていたが、1941年特別室を特に拡大、第8科とし、東大医学部出身の元吉某を科長に迎え高等工業応用科学や薬専卒業の技術家数名を採用し、従来に加え謀略用の殺人注射液、シビレ、催眠等の各種の毒薬物の研究と試作を行い、更に奉天医学部出身の医師数名を嘱託とし、研究に協力させていたのである。こうしてここで極秘裡に作製されていた各種の薬物が、地方保安局に配布されてあったのである。
藤井治夫著
第3編 主要極秘文書
1 三矢研究
昭和38年度統合防衛図上研究
(三矢研究)
研究―四
三矢研究事前研究項目(対米関係事項)
第3 日本直接防衛のための日米共同作戦
1 全面戦の誘発を防止すべき情勢下における軍事作戦の限界
(2)核使用の問題
ハ 米軍の日本直接防衛のための核使用の限界
(ハ)戦術的核使用の場合
b 作戦様相に応ずる核使用の場合
(b)敵の上着陸侵攻を受けた場合
この場合においても、われから先制攻撃を行うことは望ましくない。また他に手段が
なく止むを得ず使用する場合においても、攻撃目標及び規模を限定し、全面戦への発
展を抑制することが必要である。