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運命の手 / Hand of Fate

2005年01月24日 22時11分05秒 | 現実と虚構のあいだに
 short story:



 お正月に、実家へ帰省したときの話でもしようかしら。

 父が還暦を迎えたため、家族でお祝いの食事会するというので、時間をつくって駆けつけたのだけれど。

 わが父は、(世代的にか) 若かりころに貧しかったせいか、現在はその反動ででもあるかのように、食事に対して 口うるさい。 そして、ベタな、ちょっと高級品が好きである。

 兄たちは、近場でゆっくり、お鮨(すし)でも。 と考えていたようなのだが、主役である父が、蟹(かに)がいい、しかも、どこそこの蟹がいい、などと言うので、ちょっと遠出して、父ご指名の店で蟹三昧してきた。 どこからどう見ても家族であることに間違いのない、同じような顔をした総勢十名ほどの猛者どもが、一心に蟹を貪る姿 …… それはそれは壮絶であったことだろう。

 しかし、実をいうと、私は、蟹があまり好きではない。 いや、嫌いではないけれど。 なんというか、食べるときに手が汚れるのが、いやなのである。 だから、葡萄とか蜜柑とか、手で食べる果物もあまり好きではない。 なにか加工してあれば食べるのだけれども。 もっとも、手で食べるものすべてが嫌い、というのではなくて、「手に汁がつく」、「手がべたつく」、「手が汚れる」、ということに異常に反応してしまうのだ。 潔癖症などということばでは片づけられないような、なにか拘り(こだわり)でもあるのだろうか? 小さなころに トラウマ体験にでも遭ったのだろうか? ―― まあ、そんなこんなで、食事会のとき、私はひとりで、蟹刺しを肴にちびりちびりとお酒を呑んだりなどしていた。 目のまえに たんまりと盛られた殻つきのボイル蟹の山を 手付かずのままに。

 食事をしながら、兄たちと話をしていて、父の会社の従業員である吉田さん ―― 通称 「ヨッちゃん」 ―― が、昨年暮れに、会社を辞めた、というか、辞めさせられたのを知った。

 (私の父は、会社を経営している。 どうってことはない、小さな会社だが)

 吉田さんというのは、本名ではない。 彼は中国人だから、本当の名まえは、もちろん中国名だ。 彼を従業員として受け入れるときに、とある理由で 父が付けて差し上げたのだ。

 吉田さんは真面目で、よく働いてくださっていたそうだ。

 明るくて、ユーモアのある彼は、兄たち、とくに長兄とは懇意であったそうだが。

 昨年末、とある理由で あっというまに連れ去られてしまったのだ。

 ついさっきまで、すぐそこにいた人が、もう、遠い見知らぬ空の下にいる、というのは奇妙な気持ちがする。

 仕方のないことなのかもしれないけれど。

 そういえば、Michael Moore (マイケル・ムーア) のドキュメンタリー・フィルム、『アホでマヌケなアメリカ白人』 (“Awful Truth”) で、不法就労外国人が強制送還されるエピソードがあった。 送還される前夜の別れの様子が、なんだか ものがなしかった。 ―― ふと、そんなことを、思い出してしまった。

 吉田さんは、いったいどんな思いで、日本を離れたのだろう。

 なにかのきっかけ、なにかの縁から、ひと時 関わることになった私たち。 そして、運命の手によって引き裂かれた私たち。 私の父は、私の兄たちは、私は、吉田さんに、どんな思い出を残すことができたのだろうか ―― 。



 かくいう私は、吉田さんとは一度しか話をしたことがない。

 そのとき彼は、とても貧しくて、食べるものにも困っている状態だったため、とにかくお金が欲しかったのか、父の工場での作業で、一番過酷な仕事をみずからすすんでやっていたそうだ。

 私は、昨年、実家に帰ったときに、たまたま吉田さんと初対面したのだが、あまりにもほっそりとした姿におどろきつつ、「身体をこわしたら、元も子もないので、働きすぎは良くないですよ」 と、まあ、当たり前のことを言ったりした。

 吉田さんは、笑いながら、「モシ、カラダをこわしたら、そのときはそのときだヨ」 と言った。 とにかく、働いても働いても、ぜんぜん暮らし向きが良くならないのだそうだ。 父がお給料を渋っているのだろうか? なにか借金があったり、お国に送金などしているのだろうか? などと考えてしまった。

「モウ、いざとなったら、ユービンギンコウするしかないヨ」 と、吉田さんは言った。

 郵便銀行? いったいなんだろう?

「ユービンギンコウ、ユービンギンコウ ヨ!」 と、いきり立ってみせているが、郵便貯金をしたいのかしら? 銀行預金したいのかしら? それともなにか新しい業種をはじめたいのかしらと、ぜんぜん意味がわからなかった。 私がぽかん、としていると、吉田さんは、

「ジョーダン、ジョーダン」 と言って、笑っていた。

 私も、意味がわからないながらも、笑って返した。

 吉田さんは、急に、真面目な顔をして、

「アナタの手は、とってもキレイデスネ」 と言った。

 私は、ひざの上に乗せていた手を、なぜかあわてて引っ込めつつも、「そうですか?」 と返した。 手に対する 「拘り」 から、いつも手を清潔にして、手入れを怠らずにいるからか、手だけはよく褒められる。

「手を見れば、そのヒトがわかりマス、アナタは苦労をしたことがナイ」 と言う。

 精神的なものはどうか知らぬが、肉体的な苦労はあまりしたことはないので、その通りだろう、と思った。 私は、はにかんでみせた。 吉田さんは、

「ワタシにはイモウトがイマスが、そんなにキレイな手はしてナイ」 と、ポツリと言った。

 なんだか申し訳ないような気持ちになった。 いまどきの日本人の女性はみな、苦労など知らずに、のほほんと暮らしていると思われているのかしら。 などと。

 そういう吉田さんの手を見てみると。 ほっそりしているのに、ごつごつしていて。 爪がぼろぼろで、指先はささくれて。 ところどころ傷があって。 とても痛ましかった。 手を見れば、その人のことがわかる。 だとするなら、いったいこの人は、どんな人なのだろう? どんな人生を歩んできたのだろう? そう考えると、むねがちくりとした。

「こんな手じゃあ、ニホンジンのオンナノコ、ダレともデイトできないヨ」 私の視線に気がついたのか、吉田さんはじぶんの手を突き出してみせて、また笑った。 さみしい笑顔。

 ああ、わたし、手を引っ込めておいて良かった。 万が一、ほんのちょっとでも、あの手でふれられたりしたなら、私は、せつなさに泣いてしまっていたかもしれない ―― などと考えたりした。



 ―― 兄たちが、吉田さんの思い出を語り合っているのを聞きながら、私は、そんなことを思い出していた。

 ふと、長兄が、

「せや、ヨッちゃん、よく、郵便銀行しなきゃ、郵便銀行しなきゃって言ってたやろ」 と言い出した。

 ああ。 そう言えば、郵便銀行ってなんだったのだろう。

「それ、ほんとンところ、『銀行強盗』 って言いたかったらしいンだよ!」

「どこでまちがえたんじゃ」 ―― 三番目の兄。

「ヨッちゃんらしいやな。 おれ、ずっと、郵便銀行ってなんやろうなあって思ってたから、それがわかったときは、おっかしくておっかしくて、たまらンかった」

「しっかし、ヨッちゃんにゃあ、銀行強盗はできねえじゃろう。 だいたい、『郵便銀行』って言ってる時点で、失敗するに決まっとるわ」

「ちがいねえ」

 兄たちは、さびしく、笑い合った。

 私も 「郵便銀行」 に笑ってみせようと思ったのだけれど、変な空咳が出てきただけだった。

 正しい言い方をも知らぬような人が、ほんの冗談にも、異国の地で、そんなことをしなければ生きておれぬと考えてしまうほどの貧しさ、困窮、というのは、どういうものなのだろうか、と考えて、目のまえが暗くなるような思い。

 こんな私の、仕事がキツイだの、朝起きるのがツライだの、好きな人に会えなくてサミシイだのコシシイだの、やけになってお酒を呑みすぎてクルシイだの、毎日がツマラナイだの、手が汚れるのがイヤだの……、それがいったい、なんだというのだろう。 幸福すぎる、幸福すぎるのだ、私は。

 ずぶ濡れになると、人は、ちょっとした雨は気にならなくなるらしい。

 私は、いつもヌクヌクしているから、ちょっとかなしいだの、せつないだの、そんなことにくよくよして、冷たいだの、気持ち悪いだの、くだらないことを気に病んでしまう。 ああ、不幸なる幸福者か。 幸福なる不幸者か。



 ―― 私は、だまって、目のまえに たんまりと盛られた殻つきのボイル蟹の山に手を伸ばした。 そして、いっしょうけんめい味わいながら、冷えた蟹肉を噛みしめた。 吉田さんの、傷だらけの手を思い出しながら。 ずぶ濡れの笑顔を思い出しながら。










 BGM:
 Grant Green ‘抱きしめたい / I Want to Hold Your Hand’

 ご存知、The Beatles のカヴァー。 「手」 となると、記事タイトルにした Rolling Stones の ‘Hand of Fate’ とともに、まっさきに頭に浮かぶ曲。

 この曲は、ほかに The Supremes,Sparks などがカヴァーしている。

 しかし、(もう何度も何度も何度もどこかで言われていると思うけれど、) なぜ、邦題は 「抱きしめたい」 なんでしょうね。

 「握りしめたい」 とか 「おまえの手を握りたい」 では、曲タイトルにふさわしくないのかしら ... 。


コメント (12)
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