久しぶりに素振りブログ。が更新されていた。
手皿のマナー違反の話は「なるほどねぇ」とか思いながら読んでいた。
ただ、1つ挙げてる例に勘違いがある。
実は「全然 + 肯定文」ってのは全然間違ってないんだ(笑)。
これ、僕はこのネット時代、常識だ、とか思ってたんだけど、知らん人もいるかもしれんから書いておこうと思う。
僕も実は親の世代から「全然+肯定文」は「間違った日本語だ」と言われて育った世代で、ぶっちゃけ、最初に「全然+肯定」ってのを使い始めた(と思われている)世代に属する。
それで当時は「若者の日本語の乱れ」の例、とか言われてたんだな。
ところが事実は全然違う。「全然+肯定文」ってのは明治時代から全然使われている。
例えば夏目漱石の「坊っちゃん」では、
おれは野だの云う意味は分らないけれども、何だか非常に腹が立ったから、腹案も出来ないうちに起(た)ち上がってしまった。「私は徹頭徹尾反対です……」と云ったがあとが急に出て来ない。「……そんな頓珍漢(とんちんかん)な、処分は大嫌(だいきら)いです」とつけたら、職員が一同笑い出した。「一体生徒が全然悪(わ)るいです。どうしても詫(あや)まらせなくっちゃ、癖になります。退校さしても構いません。
ここでは「全然」は肯定文と共に使われている。
次に石川啄木の「病院の窓」での例。
女は渠の意に隨はなかつた! 然し乍ら渠は、此侮辱を左程に憤(いきどほ)つては居なんだ。醫者の小野山! 彼奴が惡い、失敬だ、人を馬鹿にしてる。何故アノ時顏を出しやがつたか。馬鹿な。俺に酒を飮ました。酒を飮ますのが何だ。失敬だ、不埒だ。用も無いのに俺を探す。默つて自分の室に居れば可いぢやないか。默つて看護婦長と乳繰合つて居れば可いぢやないか。看護婦? イヤ不圖したら、アノ、モ一人の奴が小野山に知らしたのぢやないか、と疑つたが、看護婦は矢張女で、小野山は男であつた。渠は如何なる時でも女を自分の味方と思つてる。如何なる女でも、時と處を得さへすれば、自分に抱かれる事を拒まぬものと思つて居る。且夫れ、よしや知らしたのは看護婦であるにしても、アノ時アノ室に突然入つて來て、自分の計畫を全然打壞したのは醫者の小野山に違ひない。小野山が不埒だ、小野山が失敬だ。彼奴は俺を馬鹿にしてる。……
これも、全然 + 肯定文の例、だ。
次は森鴎外の例を出そう。
一體漢字を假名に書くのは「易(やす)きに由る」のだと云ふのが井上毅先生の議論であります。併し假名に書くのは易きに由ると云ふのを本にすべきではあるまいかと思ひます。何處の國でも國語の中に外國の語が入つて來て國語のやうになる。そこで日本では漢語が國語になる。其の道中の宿場の樣になつて、假名で書いたものが行はれるのであります。中に全然國語になつたものもある。
最後に芥川龍之介の例、羅生門だ。
下人は、老婆をつき放すと、いきなり、太刀の鞘(さや)を払って、白い鋼(はがね)の色をその眼の前へつきつけた。けれども、老婆は黙っている。両手をわなわなふるわせて、肩で息を切りながら、眼を、眼球(めだま)が(まぶた)の外へ出そうになるほど、見開いて、唖のように執拗(しゅうね)く黙っている。これを見ると、下人は始めて明白にこの老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されていると云う事を意識した。
このように、全然+肯定文は全然O.K.なのである(笑)。
ここでは手っ取り早く、Wikipediaでの用例集から引っ張ってきたが、探せば他にもあるだろう。
実の事を言うと、「全然+否定」"だけが"正しい、ってのは、戦後に広まった(※1)「極めて短い時間での日本語の常識だった」と言うのが真相だ。昔「若者の言葉の乱れ」と指摘された用法は、むしろオリジナルの「正しい日本語」(笑)に戻ってるのである。
さて、そもそも「正しい日本語」とは何だろうか。
いや、全然風呂敷を広げる気はないけどね(笑)。
僕が言いたいのは、そもそも「"全然"って単語」は日本語なのだろうか、と言う疑問だ。
実はずーっと疑ってたんだ。どうも音感自体が全然日本語らしくない。
と言うのも、明治時代、つまり開国後、日本語の「語彙」ってのがメチャクチャ増えてるんだよ。
理由はハッキリしてる。洋書を翻訳する為だ。この時期に異様に「造語」が増えてるんだ。そしてその「造語」込みで人工言語の「標準語」で子どもたちの教育を始めたわけだ。
僕は直感的に、「全然」ってのは英語のat allの訳語だったんじゃねぇのかな、とか思っていて、ちと調べてみた。
残念ながら英語の訳語では?と言う直感は全然外れてて、江戸末期に入ってきた中国語の単語らしい。
しかし、やっぱ、ここは思った通りだったんだが、その「読み方」に関しては、これは純日本語(多分)の「まったく」と言う読み方をしてたようだ。要するに音的には「ぜんぜん」と読むのを当時の人々は避けてたようだ。日本語としては不自然に硬いしな。
つまり、ある種、省略記法だよな。漫画家で言うと石森章太郎が良く使ってたテだ(笑)。それで「まったく」と言う4文字が文章上で「全然」と2文字に圧縮出来る(※2)。
いずれにせよ、この単語は元々日本語でも何でも無い。言い換えると、「正しい日本語」を論ずる以前の、歴史が浅い物体なんだ(笑)。
※1: 実際は大正末期からこういう言説が広まりだしたらしい。
※2: 当時から既に「ルビ」と言うアイディアがあったらしい。ルビの歴史は長く、英米には見られない「本の歴史が長い」日本ならではのもの、と言えるだろう。