では第4回を2014年4月11日に行ってきました。
と云うのは今回の3ヶ所は京都出発の人にとっては、云わば自分の庭のようなところ
そのためか2催行予定日に申込をしておりましたが、
どちらもバスツアー催行の最低人数30名に満たなくバスツアーでは行けなくなりました
第5回も京都市が中心となりますのでマイカーの予定です
今回は自宅より出発し第十一番醍醐寺⇒第十番三室戸寺⇒第九番興福寺・南円堂の三ヶ寺の順に向かいます。
でもブログにUPするのは三十三ヶ所順にしたいと思っています
「東金堂」
今回始めて気づいたのですが、「金堂」は「東金堂」と「中金堂」と二つあったのですね。いや現存しませんが基壇跡の残る「西金堂」がありました
流石に立派な建物です
本尊薬師如来は白鳳期の日光月光菩薩を脇時として従えています。また「阿修羅像」を含む「八部衆」も国宝館に収蔵されています
五重の塔の横に出てきました。そして「南円堂」が見えています
五重の塔と東金堂はともに室町時代に再建されております
興福寺は中臣鎌足の妻鏡女王(かがみのおおきみ)が山科に建立した山階(やましな)寺に始まり、飛鳥に移転し厩坂寺と改め、平安遷都共に現在地に移って興福寺と改称されたと云うことです
平安時代は南都北嶺と呼び、室町鎌倉期は大和一国を支配する権勢も、南都焼き討ちをはじめ幾多の天災兵火に遭い、室町末期の大火以後は復興されず、唯一南円堂だけは復元されました
北円堂を参考にしたとされますお堂には、運慶の父康慶によって作られた「不空絹索観音」様で、信仰すれば、臨終にも安心を得られると云われます。こちらでお勤めします。堂内は非公開となっており残念ながらお姿は拝見できません。10月17日のみ開扉されます
さて続いてやってきましたのは「第十番明星山三室戸寺」です。
宇治平等院も程近くにあります
駐車場の参道を歩くと「戦川」に架かる「蛇体橋」を渡ります
この川を挟んで戦があったようです。『新羅から大和へ凱旋してくる神功皇后に仲哀天皇の2人の皇子・香坂王と忍熊王兄弟が反乱を起こし、忍熊王は宇治のここ「戦川」を挟んで戦い敗れた』と云う歴史があるそうです
入り口を入ると山門までの参道の右手には、ツツジや紫陽花の池泉回遊式の庭園が見事です。
朱塗りの山門がひときわ美しく映えています
石仏や・・
薬師如来の祠も祀られております
この60段の石段を登れば本堂です
本堂まで石畳が続きます
本堂と境内の風情
現在の本堂は文化十一年(1814)に再建された三間の向拝・唐破風の屋根をもつ重厚な重層入母屋造りで内陣に須弥壇を設ける建築となっております
宝亀元年(770年)、光仁天皇は宮中を金色の光がさし、その源を藤原犬養に探させた。すると宇治川の支流、志津川の上流にある淵に観音が出現し、滝壺に飛び込むと、光を放つ蓮弁が1尺2寸ばかりの千手観音像に化し、この渕に観音を祀るお堂を立てました。
その後、光仁天皇の皇子桓武天皇が805年に二丈の白檀の本尊千手観音を造立し、この仏像を体内に納め秘仏とし「御室戸寺」を開いたとされています
この本尊は1460年の全山火災の際に灰となってしまいましたが、胎内仏は無事で現在でも厨子に安置され秘仏となっております。これはそのお姿・本尊を模したお前立ちのようです。厄除け病気除けの信仰を集めております
鰐口
この千手観音像を宇治の離宮(御室)に祀って「御室戸寺」と号しましたが、その後、光仁、花山、白川の三帝の離宮となったことから、「三室戸寺」の名になったと言われています
霊宝殿にはこの阿弥陀堂の本尊阿弥陀如来や観音・勢至両菩薩を始め清涼寺式釈迦如来と毘沙門天がお祀りされています
その背後には室町時代の十八神社社殿、があります。
阿弥陀堂
東には鐘楼・三重塔
どなたでも鐘を打つことが出来ます
元禄年間の建立で兵庫県の三日月町から移されたものです
「霊泉・不動水」
「宇賀神」
弁天さまが宇賀神と合わさり、福徳を授ける神として、白蛇の体を持ち頂上に老翁の形で現されています
「宝匡印塔」
「お願い地蔵」
六体の仏像が刻まれています。上部は何だったのでしょう
本堂の梁の彫り物・水ですね、何故?
観音様が出現された志津川の滝壺の渦を表しているようですね
願掛けの絵馬ですね、お釈迦様の仏足石が描かれていて、その徳を戴けるよう願って掛けられていました
「源氏物語・宇治十帖」に登場する「浮舟古跡」があり、周辺にも蜻蛉、手習、総角、早蕨の古跡があり物語ファンに人気です
「山吹や 宇治の焙爐の 匂うとき」芭蕉句碑
このお寺には四季折々の花々が咲き競います。庭園の躑躅、紫陽花は特に知られ、本堂前の蓮の花はさながら極楽浄土を表わしているようです。今は石楠花が咲き始めました
阿弥陀堂の北側にありました
盛りを過ぎた椿もまだ咲いております
赤は色鮮やかですが、ポロリと落花するさまは無情を感じます
入り口を入ったところにあった木に咲いていた花です
名前は知りませんが、赤と云うよりピンクが色鮮やかでした。「紅花常盤満作」ではないでしょうか
本堂前の蓮の根、時機到来を待っています
庭園に咲き残っていたしだれ桜
額に見立てて観賞したら、次の札所に向かいましょう
京都伏見醍醐にやって来ました 「第十一番深雪山・醍醐寺」
理源大師が貞観十六年(874)に上醍醐山上で地主横尾明神の示現により、醍醐水の霊泉を得、小堂宇を建立して、准胝、如意輪の両観音像を安置したのに始まります。
力自慢の人が巨大な鏡餅を持ち上げる五大力さんの信仰で有名なお寺です。また太閤さんの花見行列でも知られています
山門に名残のサクラが迎えてくれました
「西国十一番霊場登山口」と碑があります
総門より境内の伽藍の間を通りぬけ、女人堂より2.5kmの上醍醐・准胝堂まで、三十三ヶ所中、観音正寺と並ぶ難所と覚悟して下さい。1町毎の梵字を刻んだ町石37本が続く山道、不動瀧、醍醐水、准胝堂、五大堂、開山堂と続きます
先ずは総門で一礼して歩き始めます
入った左手には「三宝院」の山門を横目に見て・・
隣の門「唐門」も通り過ぎ・・
元々天皇の紋であった秀吉の五七の桐紋と菊紋が並んでいます
桜並木の間を・・
右には「霊宝館」を見て・・
美しい白壁にうっとりしながら・・
「仁王門(西大門)」を潜り・・
豊臣秀頼が慶長十年(1605)に再建され、この仁王像は、もと南大門に祀られており、平安後期の長承三年(1134)に仏師勢増・仁増によって造られた像だそうです。
仁王さんに挨拶し・・
振り返るともう新緑が・・
太閤花見行列の行われる幔幕に気分が高揚する中・・
「清瀧宮本殿」は素通りし・・
醍醐寺の総鎮守清瀧権現をお祀りす鎮守社です。毎年4月「清瀧権現桜会」が行われます
この「桜会」の行事の一部が太閤花見行列なのでしょうか
「金堂」を左手に見て・・
豊臣秀吉の命によって、紀州の湯浅から移築された平安末期の様式を残す建物です
本尊は醍醐寺の本尊でもある薬師三尊像(薬師如来、脇侍:日光・月光菩薩)で、平安初期の檀像彫刻を模した鎌倉初期の復古調の作です。薬師三尊をお守りする、四天王立像が四方を取り囲んでいます。
右に「五重の塔」も通り過ぎ・・
醍醐天皇のご冥福を祈るために建てられ、京都府下で最も古い木造建築物となっています
「不動堂」も遠くに見て・・
堂内には不動明王を中心に五体の明王がお祀りされています
石造の大きなお不動さんも横目に・・
柴燈護摩が焚かれ、世界平和など様々な祈願が行なわれています。
「真如三昧耶堂」も遠くから眺め・・
もとは朱雀天皇の御願により法華三昧堂として天暦三年(949)に創建されましたが、文明2年(1470)に焼失。現在の堂は平成9年(1997)に真如三昧耶堂として建立されました。(醍醐寺HPより)
中には金色に輝く・・
釈迦涅槃像が横たわっております
「祖師堂」にも寄らず・・
弘法大師と、その孫弟子で、醍醐寺を開創した理源大師が祀られています。
「旧伝法学院」の「火頭窓」(かとうまど)の美しさに見とれ・・
「日月門」を通り・・
彫刻を施した蛙又を見・・
「鐘楼」も見ず・・
弁天池の側の・・
朱塗りの弁天堂が水面とよく合う紅葉の名所となっています。
「弁天堂」横に来ました
音楽や知識の女神である弁才天(七福神の一人)が祀られています
やってきたこちらは・・
「旧大講堂」です
この大講堂を中心として大泉、弁天堂、鐘楼、地蔵堂、日月門、阿闍利寮、伝法学院を総称して大伝法院と呼ぶそうです
実はいまここは「観音堂」と呼ばれています
そうお察しの通り、上醍醐准胝堂は、平成20年8月24日未明の落雷による火災により焼失しました。そのため西国三十三ヶ所の札所は上醍醐から下醍醐にやむなく降りてきました。そしてこのお堂にお祀りされております
毎年5月18日を中心とした1週間、西国三十三観音霊場の札所であるご本尊「准胝観世音菩薩」のご開帳が行われます。
よかった、上醍醐准胝堂まで歩かなくていいんだ
境内には今通ってきた堂宇のほかに「宝匡印塔」や・・
石仏をはじめ各堂宇の中には様々な仏様や文化財なども多く納められています
最後に今年の名残の桜を愛でてこちらの札所を辞しましょう
染井吉野はもう花びらは少しでした。
この枝垂れは見事でした。今日は4月11日で、太閤花見行列がまだ明後日なのに、今年の桜は早く終わりとなり、これでは行列が盛り上がらずお気の毒です
今回はここまでです
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