では第12回を2014年12月11日に行ってきました。
今回もバスツアーで、第12回の札所・第三十二番「観音正寺」、第三十三番「華厳寺」の二ヶ寺を巡りました。
と云うところで、前回は観音正寺で人魚にお別れをしてやって来ましたのは
バスで走ること約2時間、こちらはもう岐阜県揖斐郡揖斐川町になります
山裾の広域農道脇には揖斐茶畑が美しく連なります
そして谷汲山参道へとやって来ました。駐車場から華厳寺まで八丁半(約900m)の道標があります
幸わい雨は小ぶりになりやがて上がりました。参道の一軒の民家に初冬の風物詩・熟した吊るし柿が干されていました
こちらの紅葉もまだ赤く色付き晩秋の趣を残していました。あと六丁半
と思っていたら5日ほど前に降った残雪がありました。冬と秋が同居しておりました
参道は訪れる人も少なく余計に寒さが身にしみる、西国三十三番満願霊場
「願い結ぶいのりの里」でした
参道の両側はずらりお店屋さん、仏具、観音様のお軸等が並んでいました
お土産屋さんに挟まれて常夜燈がすっくと立っていました
向こうの山門が見えてくるとお寺です。右手の行灯のようなものはなんと「消火栓」です
山門の一番手前のお店「うなぎ屋」さんですが、実は豊然上人と共に華厳寺を開基した大口大領の子孫が「冨岡屋」と号され、県知事命名の「満願そば」が名物のお店です
「第三十三番満願寺・谷汲山 華厳寺」山門(仁王門・楼門)
扁額「谷汲山」
久し振りに見ました2mもあるジャンボ草鞋
運慶作と伝わる「あ」形、「ん」形の仁王像
放生池と地蔵堂
観音様に見守られながら燈籠が108基並ぶ参道をまっすぐに向かいます
参道真ん中に「三十三度石」
今までにお百度石、お千度石、万度石は見てきましたが、これは始めて見かけます
西国三十三ヶ所巡礼満願が三十三度と云う意味でこちらに面白いサイトがありました
ご照覧あれ
「法輪院」
何やら画が書かれた額が上がっているのですが、謂れがあるようですが解かりませんでした
参道はまだ続くようです
「豊川分霊吒枳尼天(だぎにてん)」この寺を守護する神祇のようです
伝教大師や道元禅師のありがたい教えのようですが、私にはチョット理解できません
こちらには「百度石」がありました
清流が流れております
この石段を登りきるとようやく本堂のようです
「南無十一面観世音菩薩」の幟が迎えてくれます
3段になった最初の踊り場左には「一切経堂」
この中に六角形輪蔵の書架があり、その教典を回転させることにより功徳を得ると云います
そして2段目の右には「三十三所観音堂」
三十三ヶ所の観音様がお祀りされていてここを参拝するだけで三十三カ所を巡ったと同じ功徳がある云われます
左には 「左 観音菩薩 右 勢至菩薩像」
観音は慈悲を、勢至は智慧を現わすとされています
3段目の更に上に、この最後の石段を登ると「本堂」です
『寺の草創は桓武天皇(737―806)の延暦十七年(798)で開祖は豊然上人、本願は大口大領です。奥州会津の出身の大領はつねづねより十一面観世音の尊像を建立したいと強く願っており、奥州の文殊堂に参篭して一心に有縁の霊木が得られるようにと誓願を立て、七日間の苦行の末、満願(七日目)の明け方に十四,五の童子(文殊大士と呼ばれる)の御告げにより霊木を手に入れる事が出来ました。霊木を手に入れた大領は都に上り、やっとの思いで尊像を完成させました』
本堂縁の下に施された木端の彫刻
『そして京の都から観音像を奥州へ運んでいこうとすると、観音像は近くにあった藤蔓を切って御杖にして、御笠を被り、わらじを履いて自ら歩き出しました。途中、美濃国赤坂(現:岐阜県大垣市赤坂)にさしかかった時、観音像は立ち止まり』
『「遠く奥州の地には行かない。我、これより北五里の山中に結縁の地があり、其処にて衆生を済度せん」と述べられ、奥州とは異なる北に向かって歩き出しました。 そうしてしばらくした後、谷汲の地に辿り着いた時、観音像は歩みを止め、突然重くなって一歩も動かなくなったので、大領はこの地こそが結縁の地だろうと思い、この山中に柴の庵を結び、三衣一鉢、誠に持戒堅固な豊然上人という聖(ひじり)が住んでいたので、大領は上人と力を合わせて山谷を開き、堂宇を建てて尊像を安置し奉りました』
ご本尊は十一面観世音菩薩(秘仏で写真もありません)、脇侍に不動明王像と毘沙門天像が安置されています(非公開)
『すると堂近くの岩穴より油が滾々と湧き出し尽きることが無いので、それより後は燈明に困ることが無かったといいます』
『この話を聞こし召された醍醐天皇(885―930)は谷から湧き出る油を灯明に用いた事にちなんで「谷汲山」の山号、そして「華厳寺」の扁額を下賜せられました。この寺号は御尊像に華厳経が書写されている事にちなむとされています』
この左に書かれているとおり地下に「戒壇巡り」があります
『また西国巡礼中興の祖とされる花山法皇(968-1008)は西国三十三箇所の霊場を御徒歩で御巡幸あらせられ、当山を第三十三番札所の満願所と定められ、御禅衣(笈摺)、御杖、及び三首の御詠歌を奉納せられました』
その三首の御詠歌は本堂と、満願堂と、笈摺堂をそれぞれ詠まれたもので、過去、現在、未来を現わすとされています
(現在) 世を照らす 仏のしるし ありければ まだともしびも消えぬなりけり(本堂)
本堂西横の観音様
『文明十一年(1479)の再興までは二度の兵燹に遭い、一時期は衰退を迎えるも、人皇百五代・後土御門天皇(1442―1500)の御宇、文明十一年薩摩国鹿児島の慈眼寺住職道破拾穀(どうはじっこく)上人が或る夜夢に当山の観世音菩薩が現れ、「汝は有縁の僧なれば早く来て諸堂を旧観に復せよ」との御聖勅によって海山を越えて遥々尋ね来て、本堂及び諸堂を再興して尊像の御心を安め奉ったのです』(以上説明文は華厳寺HPより引用させて頂きました)
「谷汲山根源由来記」HPより引用した由来が書かれておりました
本堂から満願堂へは「子安観音堂」の前の渡り廊下を通ってゆきます
本尊は子安観音さまで、安産・子宝祈願、赤ちゃんの身体健康を願いお参りされます
さて最後、この三十三段上った石段の先に「満願堂」は建っています
西国三十三ヶ所の最終地はこの「満願堂」でした
お堂の周りには「満願」の文字の刻まれた燈籠や、何故か狸の石造が並んでいました
たぬき(他を抜く)と縁起担ぎなのでしょうね
(過去) 万世の 願いをここに 納めおく 水は苔より 出る谷汲(満願堂)
ご本尊は十一面観世音菩薩で、納め札は本堂ではなくこのお堂に納めます
そしていよいよ最後、巡礼に使った用品(笈摺、杖、笠など)をこの「笈摺堂」に納めて長かった巡礼の旅は満願となります
沢山の巡礼用品で一杯です
(未来) 今までは 親と頼みし 笈摺を 脱ぎて納むる 美濃の谷汲(笈摺堂)
花山法皇も笈摺、杖、及び三首の御詠歌を奉納されたのですね。また多数の千羽鶴が奉納されており、千羽鶴は折鶴(おりつる)が笈摺(おいづる)にちなむことから奉納されるようです
最後に本堂前の柱にあった物が気になり、戻る途中の本道裏に、丁度観音様の後に仏を守る眷族「四天王像」が祀られていました
その後ろ側には、花山法皇の御詠歌に由来する「苔ノ水地蔵尊」がありました
自分の病や痛いところがあれば、願いを込めて、お札をお地蔵様の同じ箇所に貼り付ければ平癒するそうです。因みに私も腰に貼りお願いしました
戻る途中にあった「持経観音」様です
持経とは、仏の教えを聞いて修行することを象徴していると云われ、勉学・学業の知恵を授かる願い事や合格祈願等にご利益があると云われているそうです
こちらが本堂の柱にあるものが、打ちつけられております「精進落としの鯉」と呼ばれるものです
満願した記念に手で触れると精進落としができるとされております。先に本堂をお参りしましたが、手を触れるのは最後の最後になります。私も触れましょう
それでは帰途に着きます前に境内を巡って戻りましょう
本堂横には美しい袴姿の「鐘楼堂」
本堂横背後は階段の上に「不動堂」
天台宗元三大師(慈恵大師良源)堂
右は「内仏客殿」、左は庫裏
ゆったりと、しっとりと驟雨に煙る境内でした
「明王院」内にある「水琴窟」で、「水琴弁財天」がお立ちでした
キンキンと音を奏でる水音を聞かせてもらってきました
また天井は奉納画で一杯でした
晩秋と言っていいのか、初冬と云っていいのか紅葉がまだ残っておりました
まだまだ朱に染まっていますよ
そして山門を抜ければお別れです
そして西国三十三ヶ所巡礼札所巡りもお仕舞いです
1年間お付き合い戴きお疲れ様でした
有難う御座いました
今回、第12回で満願となります。僅か1年間であっという間でした
無事終えられ今回はここまでとします
でもまだ「善光寺」さんお礼参りが残っています
あと1回お付き合い下さい
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