前回の続きです
では第3回を2014年2月13日に行ってきました。
と云っても、実は回数としては2回目です
第3回に行くところが前後して2回目になったのです
ですから次回は、第2回になります(バスツアーの都合上です)
京都駅八条口を朝8時に出発し第五番葛井寺⇒第八番長谷寺⇒番外法起院⇒第七番岡寺(龍蓋寺)⇒第六番壷坂寺(南法華寺)の順に向かいます
それではまずは「第五番・葛井寺」
住宅街の中を行くと見えてきました
それではまずは「第五番・葛井寺」
住宅街の中を行くと見えてきました
正門「南大門」・江戸時代再建された重層の楼門
「仁王さん」にご挨拶
「本堂」・7世紀に百済王族の子孫葛井氏の氏寺として創建されました
巡礼札所には御詠歌が必ずあります
「まゐるより たのみをかくるふちゐてら はなのうてなにむらさきのくも」
合掌手2本を合わせて42本の手で「千手」を代表させるものが多いのですが、このご本尊は本当に1000本の腕を持つ「十一面千手観音坐像」で春日仏師作の国宝・天平仏(秘仏)です
「まゐるより たのみをかくるふちゐてら はなのうてなにむらさきのくも」
合掌手2本を合わせて42本の手で「千手」を代表させるものが多いのですが、このご本尊は本当に1000本の腕を持つ「十一面千手観音坐像」で春日仏師作の国宝・天平仏(秘仏)です
聖武天皇の勅願により薬師寺式伽藍配置が整えられました
豊臣秀頼が寄進した朱塗りの「四脚門」・西門
「弘法大師堂」・お四国さんと同じようにお大師さんをお祀りされております
「弁財天」・水難や芸能の神様
「十三重の塔」「宝篋印塔」
鐘楼と梵鐘
青銅の燈籠 四天王が彫られています
そしてもう一つ「聖武天皇御寄進 寫紫雲石燈篭」(模作・実物は寺宝)
花山法王の願いを聞き届けられた際に本尊の眉間より、紫雲がこの燈篭までたなびいたと云う逸話が残って、それが山号「紫雲山」の由来です
花山法王の願いを聞き届けられた際に本尊の眉間より、紫雲がこの燈篭までたなびいたと云う逸話が残って、それが山号「紫雲山」の由来です
平安時代の初期には観音信仰と共に霊場として知られたが、後期には荒廃し、鎌倉時代に飛鳥の藤井安基により復興し、以後藤井寺と呼ばれるようになりました
また、この藤井安基は暴れ者で寺に逃げ込んだが力尽き、地獄に落とされ悪行を反省する様子をご覧になった観音様は哀れに思われ蘇生させられました。こんなあかんやつでも救ってもらえるのならこの寺へ参ろうと「あかん河内の葛井寺」と云われるようになったとか
また、この藤井安基は暴れ者で寺に逃げ込んだが力尽き、地獄に落とされ悪行を反省する様子をご覧になった観音様は哀れに思われ蘇生させられました。こんなあかんやつでも救ってもらえるのならこの寺へ参ろうと「あかん河内の葛井寺」と云われるようになったとか
吊り灯篭
南北朝の藤井寺の合戦や、室町時代の応仁の乱などにより伽藍は焼失しましたが、本尊は無事で尊い信仰により江戸時代には復興されました
南北朝の藤井寺の合戦や、室町時代の応仁の乱などにより伽藍は焼失しましたが、本尊は無事で尊い信仰により江戸時代には復興されました
これは仁王門に描かれた地獄極楽図で地獄には閻魔大王が、極楽にはお地蔵様が描かれております
葛井寺山門前にあった道標・古くからの街道の道標ではないようです
「左 道明寺 たつた ほうりゅうじ なら」「右 つぼさか よしの はせ い勢」
続いて第5番を南東方向に奈良までやってきました「第六番・南法華寺(壷坂寺)」
かなり境内は広いです。古い歴史の面と、新しいインド渡来の石像といった独特の雰囲気があります
かなり境内は広いです。古い歴史の面と、新しいインド渡来の石像といった独特の雰囲気があります
山門(仁王門)
室町期と安土桃山期に大修理され、昭和には解体修理が行なわれ、平成10年の台風により屋根が半壊し、平成15年壷阪寺開創1300年を期に、建立場所を現在の場所に移し、再度解体修理が行なわれたようです
室町期と安土桃山期に大修理され、昭和には解体修理が行なわれ、平成10年の台風により屋根が半壊し、平成15年壷阪寺開創1300年を期に、建立場所を現在の場所に移し、再度解体修理が行なわれたようです
目玉が飛び出そう
外見は二重塔ですが、裳階がついた形の「多宝塔」
平成14年に落慶され、ご本尊は大日如来さまです
三重の塔が見えてきましたが、もう少し石段が続きます
そこに、お四国さん、西国など多くのお寺に行きましたが、初めて見ました「電動一人乗りリフト」です
あと一息のとき非常に有りがたく助かりますね
あと一息のとき非常に有りがたく助かりますね
「慈眼堂」・石段はここまで
江戸時代に建立の阿弥陀堂がありましたが、酷く痛んでいたので、解体修理を行うと共に、回廊の部材を有効利用し、二層目に阿弥陀仏を奉り、初層に夫婦観音像のご分身を奉り、新しい御堂「慈眼堂」とされ、平成18年に落慶されました
江戸時代に建立の阿弥陀堂がありましたが、酷く痛んでいたので、解体修理を行うと共に、回廊の部材を有効利用し、二層目に阿弥陀仏を奉り、初層に夫婦観音像のご分身を奉り、新しい御堂「慈眼堂」とされ、平成18年に落慶されました
この手前の「禮堂」は本尊を礼拝するために創建当初から建てられたと伝わっています。3度目の焼失後、昭和の解体修理で室町期 の様式に戻され本堂に繋がっています
うしろの「本堂八角円堂」は江戸時代の再建と言われ、法隆寺東院夢殿・栄山寺八角堂・興福寺北円堂などに同じ遺構がありご本尊はもちろん「十一面千手観世音菩薩」
うしろの「本堂八角円堂」は江戸時代の再建と言われ、法隆寺東院夢殿・栄山寺八角堂・興福寺北円堂などに同じ遺構がありご本尊はもちろん「十一面千手観世音菩薩」
703年に元興寺の僧、弁基上人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、その感得した観音像を刻んでまつったのが始まりといわれます
本堂・禮堂の北側にご存知「壷坂霊験記」のお里・澤市が飛び込んだと云う谷と像がありました
『毎夜、座頭の夫が開眼するよう観音さまに願掛けをする妻お里に情夫が出来たものと勘違いした夫澤市は、事実を知って恥じ入り身を投げ、お里はその非常な現実に遭い、自らも身を投げるが観音さまが現れ二人の命を救い、澤市は開眼したと云われます』(「壷坂霊験記」)
『毎夜、座頭の夫が開眼するよう観音さまに願掛けをする妻お里に情夫が出来たものと勘違いした夫澤市は、事実を知って恥じ入り身を投げ、お里はその非常な現実に遭い、自らも身を投げるが観音さまが現れ二人の命を救い、澤市は開眼したと云われます』(「壷坂霊験記」)
清水寺のような舞台があり、千社札が貼られていました
この四体の石像は「天竺渡来の大石像」で、1番から13番まであり、ご朱印が集められるようになっていました
ちなみに「第2番・壷坂大仏」「第3番・千手観音」「第4番・普賢菩薩」「第5番・文殊菩薩」さんでした
歴史のある古い側面の南法華寺と、新しい天竺との交流の壷坂寺の対比が面白いですね
ちなみに「第2番・壷坂大仏」「第3番・千手観音」「第4番・普賢菩薩」「第5番・文殊菩薩」さんでした
歴史のある古い側面の南法華寺と、新しい天竺との交流の壷坂寺の対比が面白いですね
大石堂内には「第7番・千手観音」と「番外・仏舎利塔」が納められていました
外には所謂ガンダーラ仏像も見られました
「慈眼堂」内にはヒンズー教の神々の仏頭も展示されておりました
何となく艶かしいお姿に感じるのは、邪念があるからでしょうか?
天竺渡来佛伝図レリーフ「釈迦一代記」と云って釈尊の道が描かれております
天井には梵字が書かれていました。たくさんの仏様がいらっしゃるのでしょうね
仁王さんのジャンボな物といえば藁草履が一般的ですが、仁王さんの履く下駄は初めてですね
こちらは「第七番・東光山龍蓋寺(岡寺)」
第六番を北に行った明日香村にあります
第六番を北に行った明日香村にあります
上の参道は実はこの説明にある「治田神社」の境内で、岡寺の伽藍は創建当時はこの治田神社の境内にあったと推定され白鳳時代の瓦が出土しています。常夜燈は神社のもので、四角い石柱から今の岡寺になります
「西国七番霊場岡寺」・厄除け祈願の文字が見えます
「日本最初厄除け観音」と碑が建っています。扁額には「龍蓋寺」と書かれています
「日本最初厄除け観音」と碑が建っています。扁額には「龍蓋寺」と書かれています
山門・櫻門様式の入母屋造りの仁王門です。「厄除開運二の午大法会」2月16日とあります
彩色が褪せていて古そうです。門は慶長十七年(1612年)再建されているそうです。
寺は平安時代後期には西国観音霊場として信仰され、「厄除け」を謳っているように鎌倉時代初期までに「厄除け信仰」も広まりました
「楼門」・慶長年間頃に建立
「開山堂」・寛政九年(1797)頃の建立
創建は天智天皇2年(663)に義淵僧正が岡宮の跡地に寺を建立したと伝えられ、義淵僧正は日本の法相宗の祖といわれています
義淵僧正は寺伝によると子供に恵まれない夫婦が祈願した末に、家の柴垣の上に白い布にくるまれて置かれていた赤子で香気が満ち、その霊異を聞かれた天智天皇が引き取り、孫の草壁の皇子とともに岡の宮で養育され、後に岡宮を譲りわたされました
創建は天智天皇2年(663)に義淵僧正が岡宮の跡地に寺を建立したと伝えられ、義淵僧正は日本の法相宗の祖といわれています
義淵僧正は寺伝によると子供に恵まれない夫婦が祈願した末に、家の柴垣の上に白い布にくるまれて置かれていた赤子で香気が満ち、その霊異を聞かれた天智天皇が引き取り、孫の草壁の皇子とともに岡の宮で養育され、後に岡宮を譲りわたされました
ご本尊「如意輪観音」は高さ4.6mの塑像で、インド、中国、日本と三国の土を合わせて弘法大師が造ったという奈良時代末期作の日本最大の土佛で、重文に指定されておりす。もともとは彩色がありましたが、今はほとんどが剥落して僅かに唇に朱が残っているのみです。お姿はこちら
寺号の由来となった「龍蓋池」
義淵僧正が大雨や強風を巻き起こし村民を苦しめていた龍をその法力をもって池に封じ込め、そこに大きな石で蓋をしたといわれています
境内には「弘法大師堂」や「三重の塔」
「鐘楼堂」
「十三重の塔」などがあります
「葛井寺」と同じような燈篭です
「三重塔 」文明4年(1472)に台風で転倒し、昭和61年約500年振りに再建されました
三重の塔のご本尊は「大日如来」様で、智拳印を結んでおられます
こちらは本堂に打たれた納め札(木製)で、今は紙ですが江戸時代は木だったそうです
遍路することを「打つ」と云いますが、この札を打つことからきていると云います
遍路することを「打つ」と云いますが、この札を打つことからきていると云います
再建された三重の塔の軒先には珍しい形の「琴形の風鐸」が掛けられていました
仁王門を支える四隅は阿吽の竜、虎、獅子の形をしています
こんな山の中に立っています
ブログの文字数の制約上、ここまでを前半とし、この後は後編にゆずります
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