ここのところ、歴史調査で忙しがっている(笑)。鎌ヶ谷市郷土資料館で展示を見てから、母に聞き取りを行っていて、聞けば聞くほどに疑問や不足が生じてくるからだ。亡くなった父には兵隊の話はついに聞きはぐってしまったので、母には記憶にあることをみんな話しておいてもらおうという気負いもある。むろん、母の記憶は曖昧な部分も多いので、こちらで勉強して補足しなければならない。これが、謎が謎を呼ぶ状態で、大変なのだが面白くてしかたがない。
初めて知ったこともいくつかある。
例えば、母が軍需工場に動員されていたときに使った寮は、実は戦争で空いた遊郭であった。迷うほど小部屋がたくさんあった3階建てだったそうだ。これが松戸の平潟遊郭で、現在は地名も変わり、町も変わり、当時を偲ぶものはほとんどない。なぜ、平潟なのか、なぜ、空いていたのか興味が出てくる。こうなると行って見たくなるし、実は計画はしている。
また、母が出陣を目撃することになった特攻隊員の最後についても、インターネットは有難いもので、昭和20年5月28日に菊水八号作戦の一翼として出撃、沖縄沖で米海軍駆逐艦に突入、これを撃沈したと教えてくれる。もちろん、どの機体によるものかまでは分らなかったが、米側の資料からドレクスラーという艦名と沈没の経緯はほぼ分った。
松戸飛行場を襲い、地上の母たちを銃撃した米軍戦闘機は鉛色をしていたと言っているので、昭和20年3月以降、硫黄島からB29に随伴してくるようになったP51Dマスタングでほぼ間違いないと思う。防空戦闘隊はどうしていたのだろう。
軍需工場が製作していた飛行機は、陸軍の三式指揮連絡機(キ-76)という、軽飛行機のような地味な軍用機ということも分かってきた。それを1機と半分作ったところで終戦となったそうだ。
このように、具体的になってくるとより詳しく知りたくなるのが人情だが、乗り越えるべき課題は多い。いや、どんどん増えていく。やっていることは、政治史や経済史と違い、一平民の記憶から当時の環境を再現する試みで、ほとんど資料的価値はあるまいが、ここまできたら、完成するまで頑張ろうと思っている。
初めて知ったこともいくつかある。
例えば、母が軍需工場に動員されていたときに使った寮は、実は戦争で空いた遊郭であった。迷うほど小部屋がたくさんあった3階建てだったそうだ。これが松戸の平潟遊郭で、現在は地名も変わり、町も変わり、当時を偲ぶものはほとんどない。なぜ、平潟なのか、なぜ、空いていたのか興味が出てくる。こうなると行って見たくなるし、実は計画はしている。
また、母が出陣を目撃することになった特攻隊員の最後についても、インターネットは有難いもので、昭和20年5月28日に菊水八号作戦の一翼として出撃、沖縄沖で米海軍駆逐艦に突入、これを撃沈したと教えてくれる。もちろん、どの機体によるものかまでは分らなかったが、米側の資料からドレクスラーという艦名と沈没の経緯はほぼ分った。
松戸飛行場を襲い、地上の母たちを銃撃した米軍戦闘機は鉛色をしていたと言っているので、昭和20年3月以降、硫黄島からB29に随伴してくるようになったP51Dマスタングでほぼ間違いないと思う。防空戦闘隊はどうしていたのだろう。
軍需工場が製作していた飛行機は、陸軍の三式指揮連絡機(キ-76)という、軽飛行機のような地味な軍用機ということも分かってきた。それを1機と半分作ったところで終戦となったそうだ。
このように、具体的になってくるとより詳しく知りたくなるのが人情だが、乗り越えるべき課題は多い。いや、どんどん増えていく。やっていることは、政治史や経済史と違い、一平民の記憶から当時の環境を再現する試みで、ほとんど資料的価値はあるまいが、ここまできたら、完成するまで頑張ろうと思っている。
このことについて、母に聞いてみました。いずれも、知らないとのことでした。お役に立てずすみません。
松戸在住ではなく、野田から松戸飛行場の軍需工場(日本国際航空工業松戸製作所)に動員されていただけなので、川井卯之助氏の名前も知らないとのことでした。当然、「天金」も知りませんでした。おそらく、松戸市内の旅館ではありませんか。念のために聞いてみましたが、松戸飛行場のある場所は、田畑と山林があるだけで旅館などはなかったそうです。
戦時中の事ですから、母の見聞は限られていて、通勤バスの出発点の松戸市根本から五香、松戸飛行場までが母の世界でした。
五香のお寺は善光寺ではないでしょうか。
母が京成バス(日国のチャーター)で五香の交差点を右折するときに角に善光寺というお寺があったと言っています。そこを過ぎて、踏切を渡るとじきに左手に日国の製作所、右手が松戸飛行場(乗員養成所)だったそうです。
善光寺は、おそらく飛行場の隅に当たり、葬儀には都合がよかったはずです。善光寺及び松戸駐屯地には、そのうち訪ねてみたいと思っています。
→http://www.shimousa.net/hikoujyo/matsudo.html
ぜひお母上の生の言葉を記録してください。襟を正して読ませてもらいます。
コメント、ありがとうございました。
母からは、子供の頃から同じような話を聞いていて、「あ~、いつもの。。」という感じだったのですが、自分がこの歳になって(こういう歳になると歴史に目覚めるようなのですが(笑))みると、書きとめておかなくては、と思うようになったのです。
そうしてみると、私の頭の中でも、歴史や地域や(まあ、今回は戦争も)が次第に見えてくる部分があるのです。自分の知識があまりにもないのはどうしようもありませんが、ネットや図書館で勉強しつつ、何らかの形にしようと思っています。
しかしながら、母のは雑談ですので、話が飛んだり、確認すると逆のことを言ったりで、大変な作業だと分りました。ノートをとりながらですから。これからは録音しようかな。
まあ、はっきり言って「傾聴ボランティア」みたいなものです(笑)。