中央学院大学情報 法学部・商学部・現代教養学部について 受験生・在校生・教職員・OB向け  全国教職員組合

さまざまな中央学院大学の情報をアップします。

情報は mkoskir@yahoo.co.jp まで

夏季休暇終了:後期開始

2013-09-23 15:56:08 | 所信表明

大学改革・プレリュード

 

夏季休暇が明け、CGUのキャンパスにもいつもの賑わいが戻ってきた。

休暇中にもかかわらす、本ブログには相当数のアクセスが見られた。

更新が滞りがちであった点、まずはお詫びしたい。

 

ただ、本組合は休暇中も決して惰眠をむさぼっていた訳ではない。

先ごろ都内に法人本部を置く某R大学が、非常勤講師の

賃金その他につき、不法な処置を永年続けていた事実が判明した。

ために本組合は、不利益を蒙った組合員(我が全国教職員組合には

専任・非常勤を問わず他大学教員も加入可)を救済すべく、

情報収集・関係諸法規の精査・団体交渉の準備に時間と労力を

割いていたのである(現在も鋭意継続中)。

 

当該組合員が裁判所に申立てた調停が不調であったため、

R大学側(理事長・理事・事務責任者)を相手取り

近々団体交渉が行われる運びとなっている。

その経過は本ブログでも公表する予定であるので、

読者諸氏には暫くご寛恕願いたい。

 

なお我々は、CGUを取り巻く諸問題についても

休暇中に様々な話し合いを重ねてきた。

今年度後期から次年度初めにかけて

法学部、そして全学的に大きな〈イベント〉

予定されているらしい。

教員・職員の皆さんは既に周知のことであろう。

 

これら〈イベント〉は本組合と直接にかかわりを

有する事象ではないが、学内の「人」や「制度」に

相当の流動も予想され、従来より我々が指弾してきた

「カリキュラム〈改悪〉」の是正や

例のインチキ・コース見直し等につき、

事態が好転する兆しも期待できる。

ゆえに本組合としても、上記の件につき

まっとうな施策を講じうる人物に対して

陰ながら声援をおくりたい。

 

思うに我々の敵は、経営側というよりも

案外身近に居るらしい。

〈究極のワル〉のメッキもそろそろ剥がされそうである。

教員・職員の皆さん、

そのときあなたは

果たしてどの様な行動をとりますか?

 

 

 

 

 

 

 

 


究極のワル

2013-08-03 13:29:19 | 所信表明

 射撃目標・再配置 

  

  これまで我々は、中央学院大学、わけても法学部が抱える諸問題を

本ブログにて繰り返し俎上(そじょう)に載せてきた。

非常勤講師の待遇改善はもとよりのことであるが、偏(ひとえ)に

「CGUが『ちゃんとした大学』であってほしい」、と冀(こいねが)うためだ。

この点での我々の願いは、心ある多数の教員や理事会の願いとまったく同じだ。

 

  たとえ雇われ浪人(非常勤講師)の身であっても、我々には、雇ってくれた一家(CGU)

の行く末はそれなりに気になるのである。

 

  かかる視座から、現法学部長たる大村芳昭・大先生をはじめ、

スポーツシステムコースの陣容・カリキュラム編成等、

大学の法学部法律学科としていかがなものかと思われる点を

縷々(るる)追及し、厳しく指弾してきたのであった。

 

  特に、今次の理念なきカリキュラム改悪は、非常勤講師の現在および将来の

雇い止めやコマ数削減を伴うものであるため、――しかもそれが、専任教員の

超過コマの維持を前提にしてなされたものであり、したがって雇い止めを回避する

義務を尽くさずに行われた違法なものであるため――その責任を負う大村・大先生に

対する批判は、当然にも厳しいものとならざるをえない。

 

 改善がなされない限り、今後も同様の批判は加えられることであろう。

 

  しかし同時に我々は既に感知していた。

即ち、この大学には、もっと指弾されるべき者が存在することを

 

そう、究極のワルが居るのである!

 

  今までは我々も、目の前のハエ(=雇い止めやコマ数削減)を追うのに精一杯で、

このワルの存在と動きには眼を瞑(つむ)ってきた。

  だが中央学院大学の将来を考えるならば、

そろそろこの人物に鉄槌(てっつい)を下すべきなのかもしれぬ。

 

 我々はいかなる手段をとることも厭(いと)わない。

 


あたりまえの大学教育のために

2013-06-26 23:38:29 | 所信表明

 



 中央学院大学に関わる者として、あたりまえのことを、単刀直入、あたりまえに簡明率直に確認し直しておきたい。

 

 

 大学というものに入学したとする。だれもが望むのは、そこを卒業していく時点で、

◎ 一般的な教養、世界に通用する見識などの範囲が拡張されており、

◎選んだ専門分野の基本概念全般についての見通しがつくようになっており、

◎さらには、必要に応じて自らの知的能力を生産・増殖していけるような自己完成能力も育まれ始めているか、かなり進展している、

といったことであろう。

 あたりまえのことであり、これらが実現されないのならば大学に通う意味はない。

 もちろん、大学のほうでも、学生がこれらを実現しやすいように十二分な準備をしていなければならない。これも言わずもがなのこと、あたりまえのことだ。大学の存在意義が、まさしく、ここの一点にこそ懸かっているからである。

 

 

 ところが、あたりまえのことであるというのに、時どき、これらの大目的が平気で翻されてしまう。

 

 

 どういうわけだか、選んだはずの専門分野の勉強はあまりしないでいい、その他の教養科目単位をかわりに取れば卒業できる、そんなカリキュラムが組まれてしまったり、教養というものの中のゆるがせにできない重要な柱のひとつである外国語も、あまり勉強しないでいいように細工されてしまったりする。

 「大学側」のだれかが意図的に行ったこうした措置によって、学生たちになにがもたらされるか。近未来の社会で活躍できるような知的成長を遂げたいと願い、専門分野の概要をあたまに入れて卒業していこうと望む学生たちは、はたして、どうなるか。

 ごく簡単に推測しても、次のような事態となろう。

 専門分野については貧弱な見取り図だけを持ち、(あるいは見取り図さえ持てず)、外国語の能力は高校卒業時よりもお寒い状態に陥り、知的耐久力を育まれなかった4年間がみごとに成就して、霞が関やブラック企業やブラック政党が吹かす風に、ひたすら従順にそよぐ葦のごとき国民と相成る、と。

 「人間は考える葦である」と書いたパスカルなんぞ軽々とぶっ飛ばして、みごと「考えない葦」への進化である。風へのそよぎっぷりときたら、もう、半端ではない。

 

 

 これが、今、中央学院大学の法学部で起こっていることなのであり、近未来的にいっそう重症化しようとしていることなのである。

 

 

 こういう事態を目のあたりにして、大学に関わっている良識ある教員や職員はどうしたらいいのか。

 これも、あまりにあたりまえ過ぎることだが、将来を危うくするどころか、学生たちの未来を破壊するとさえ言ってよいこうした大学のあり方に、素直に正面から「おかしいぞ!」と言い、ちゃんと学生の知的能力を育むような方向に直していこうと努めるべきだろう。そういうことをしない教職員ならば、大学に存在している意味がまったくない。

 「われ、学生たちの能力(とりわけ専門能力)の伸びるような大学を作ろうと努める。ゆえにわれあり」というのが大学の教職員というものであり、この一点においては、逡巡したり異議を唱えるようなことは許されまい。そのような教職員は、ただのひとりでさえ大学に存在させてはならないはずであろう。大学というのは最も自由な学問の場であるものの、この一点においては最も厳しい場であるし、あるべきである。

 

 

 中央学院大学に入学し、卒業していく学生たちの将来を救おう、との止みがたい思いから始まったこの救学ブログでは、ご覧のとおり、この大学に巣食う抵抗勢力たちの小細工大細工のえぐり出しが試みられ続けている。

 やたらに瀰漫し、知性を糜爛させ続けるスポーツ臭も、すでにおなじみのことであろう。体育大学でもないのに、なぜだか、「スポーツ」と関連づけた科目が大量に準備され続けているアレである。1970年代にジャンルの異なる音楽を融合した「フュージョン」とか「クロス・オーバー」なるものが流行ったが、はたして、その頃の時代を偏愛する人びとがカリキュラム編成を担当してでもいるのだろうか、懐メロさながらのスポーツ・フュージョン科目がニョキニョキと芽生え続けている。いっぱし、アーチスト気取りのつもりなのか。そのうち、学食さえも、スポーツ丼とかスポーツそば、スポーツサラダなどという名前で埋め尽くされることであろう。いっそ、《スポーツ学院大学》と改名したらどうか、とでも言ってみたくなるほどである。この伝でいけば、どうせなら、青森から「奇跡のリンゴ」の木村秋則さんを呼んできて、《フルーツ学院大学》に変えてしまったほうが、もっと画期的だろう。きっと、無農薬教育を開発してくれて、奇跡の大学生をポコポコ作ってくれるかもしれない。

 スポーツがいいのなら、フルーツだってかまわないだろう、という話なのである。海外へのフルーツ輸出ということを考えれば、「フルーツと法」こそ急務ではないか。

 

 

 なにも、やみくもに、スポーツ反対、などと唱えたいわけではない。なにをするにも体力が大事なことぐらい、だれでも知っている。

 問題は、法学が学びたくて入学してくる学生たちには、まずは法学をたっぷりと学ばせてやるべきだろうということだ。この「たっぷり」というのが大事なので、一に法学、二に法学、三四に法学、五に法学、六から九ぐらいは外国語と教養科目、ようやく十ぐらいでスポーツ・フュージョン科目のご登場というぐあいでいいのではないか。

 いやいや、それでは体力がつかない、というのなら、体育実技の時間をもうちょっと増やして汗を流させればいいだろう。教室のプラスチック椅子に座らされ、スポーツ論を聞かされたって、体力はつかない。だいたい、そんなにスポーツ・フュージョン科目を講義したいならば、先生がたは体育専門大学にしっかり採用してもらって、そこでご講義いただきたい。筑波大学にも早稲田大学にも他にも、たくさんそういう場所はある。

 

 

 要は、法学部でやるべきことの順位はなにか、という、ごくごく簡明な問題に尽きる。

 法学部でなにより優先的にがっちりやるべきことは、はたしてスポーツ論ですか、キッズ・スポーツ論ですか、シニア・スポーツ論ですか、スポーツと法ですか、…違うでしょう、まず法学のごくふつうの科目をたっぷりやるということでしょう? そういう簡単なお話であって、なにひとつ難しい議論はここには必要がない。

 

 

 直すべき点はどこか。

 次のとおりで、ほんとうに単純なことなのである。

◎専門分野である法学をたっぷり、みっちり、しっかりやらせる。

◎法学を最優先した上で、教養科目も、もちろん、しっかり。特に外国語はびっちりとやらせる。そうしないと、近未来の日本の若者としては、あまりに酷なハンディを負わせることになってしまう。

◎外国語に関連するが、外国に関わる法学もびっちり拡充する。ましてや、法学の基礎となった国々の法や、現在の国際関係のベースとなっている法は徹底的に重視する。

◎みだりに学生を苦しめるわけではないものの、学問の場である以上、しっかりと学生を鍛え上げる主義を立て直すこと。入学させて、なんとなく無難に4年間過ごさせ、入学金以下授業料などを絞りとれば、卒業後の学生の人生など知りません、と見られかねないような甘い甘いやり方は厳しく改める。むかし、評論家の亀井勝一郎が『青春について』の中で「懲らされてこその教育」と言っていたが、よき意味で「懲らす」場が教育の場であり、知的体力を可能なかぎり付けてやってから世の荒波に船出させてやる、という高次の親心を体現すること。

 他にもあるが、基本的な大筋はこういったところであろう。

 

 

 このブログをご覧になる学外の良識ある方々には、われわれのこうした方針はどう映るだろうか。

 学生の取得すべき単位数をどんどん減らし、外国語学習の負担を減らし、法学の勉強自体を驚くほど減らし、なぜか、スポーツ・フュージョン科目ばかり増やし、結果的に「考えない葦」の量産体制に入っている大学側と、それを真摯に憂うわれわれとでは、大学教育の錦の御旗がどちらにあるか、あまりに明白というものであろう。

 

 

 教育者として、このぐらいの抱負を持つのはあたりまえの話であり、それをこんなふうに確認し直さねばならないのも、思えば哀しい話ではある。

 しかし、われわれは、愚直なまでに、あたりまえのことを、あたりまえに行い続ける。教育とは、われわれの後から来る未来人たちに知的変質を起こさせ、われわれを超える自律的知的変貌体を出現させることであり、それによって知の永久変貌を推進させることで、このほかに人類の未来はあり得ないからである。

 われわれなどは、いわば、落ちて、土に腐っていく枯葉にすぎない。枯葉のなすべきことは、なによりも、新しい葉がつぎつぎ育っていくための土壌を肥沃にすることである。中央学院大学の土壌がはなはだしく荒れてきている今、われわれはできるかぎりの努力によって、正しい意味での土壌改良に精を出そうとする。甘い文句で人を釣ってひたすら土壌を悪化させていくようなエセ肥料やモンサント製さながらの種子を取り除き、あたりまえの良き土を取り戻して、あたりまえの種子を撒き、あたりまえの育て方をしようとわれわれは思っている。

 

 

 


所信表明とブログのリニューアル

2013-06-10 05:28:34 | 所信表明

 

  平素より関係各位にはひとかたならぬご厚情を賜り、ここに改めて感謝の意を表したく存じます。

 既に御承知置き頂いていることと存じますが、中央学院大学に勤務する我々非常勤講師有志は、大学法人側との団体交渉といった従来の活動と併せ、近時はブログを用いつつその思うところを広く開示して参りました。かくして我々の活動も盛況を極め、法人との折衝において一定の成果を得られるなど、望外の効果が得られました。誠に慶賀の至りと言えましょう。

 

  ところで先般、本ブログにて個人を対象とした内容につき、一部人士より「名誉毀損にあたるのでは」という懸念が寄せられました。当方と致しましては、謂(いわ)れなき誹謗中傷にあたる記述は何ら見当たらないと思料します。

 

  とはいえ当該ブログ冒頭で「首都圏非常勤講師組合」と掲げていた所為か、「何らかの訴えが提起されたときには同組合が被告とされてしまうではないか」という、それ自体は尤(もっと)もなご意見も頂戴しました。もとより我々とて、同組合へ会費を納入している組合員であります。さらにブログにしても、〈非常勤講師〉の権利を保全・伸張する活動の一環として開設し維持してきた、と自負しております。

 

  ただこの件に関しましては、確かに組合本部の了解の下でなされたものではありませんでした。ために首都圏非常勤講師組合の皆様におかれましては、図らずも上述したごとき要らぬ杞憂(きゆう)を抱かせてしまいました。まずは不手際をお詫びしたく存じます。どうぞご寛恕(かんじょ)下さい。

 

  さて以上の経緯を含め、また諸般の事情に鑑(かんが)みまして、我々は意を新たに致しました。

 

  このたび我々は、独自に組合を設立します。

 

  爾後(じご)ブログも、この新組合の管理下に置くものとします。

 

   蓋(けだ)し、現場における実践についての認識と手段において、我々と首都圏非常勤講師組合(わけても執行部の皆様方)とはいささか見解を異にする、という結論に至りました。執行部の方々におかれましては、中央学院大学の些事(さじ)につき、安心して我が新組合に任せて頂いて構いません。今後とも宜しくお付き合いの程、お願い申し上げます。仮にブログ上の記述をめぐり〈名誉毀損〉の訴えが提起されたとしても、文責は新組合に存する点を明示しますので、そちらには累が及びません。どうぞご休心下さい。

 

  我々が新たに組合を設立しようと決意した動機につき、もう少し詳しく述べる必要がありましょう。それは約言すれば運動組織とその担い手たる〈個人〉の捉え方です。

 

  個々の手による運動が次第に組織の運動に成熟する、という考え方には大いに意味があるでしょう。殊(こと)に力を持つ相手との闘争は、多かれ少なかれ、団結した組織を通じた闘争という相を帯びます。しかしながら、組織を通せばあらゆる闘争は実りあるものになるという訳ではありません。まして教条主義に陥った組織は形式にのみ重視してしまいます。悪くすれば闘争の活力すら喪われかねません。組織への執着は闘争を自由なものにはさせないのです。一般に、組合といえばいかにも自由であり反権力の拠りどころと看做されていますが、実際は往々にして自己の権力に執着するあまり、身動きが取れなくなってしまいがちです。

 

  かてて加えて運動の意義とは、単に表層的でキレイな闘争の中で実感されるものでなく、内外の敵と理解しあうことが極めて困難な現実において、なお闘うしかないという使命を見出す点にこそ存します。

 

  我々の運動目的は、具体的な相貌を有した個人の権利保全にほかなりません。

 

  我々が或る者の権利を擁護するのは、その当人がただ〈非常勤講師〉の地位にあるからではありません。〈非常勤講師〉の権利を守りたければ、それを謳っている既存の組合に相談すれば良いでしょう。実績を有する組合に加入すれば、政党や上部団体からの支援も期待できます。大きな組合は、国会で質問すべく議員に請願したり、関連諸団体との共闘を求めたりすることも可能です。そうした方法はなるほど〈非常勤講師〉全体の利益向上を図る手段としては極めて有効であり、今後も推奨されるべきでしょう。

 

   けれども我々が主たる目的として掲げたいのは、そうした言わば大文字の運動ではありません。

 

   我々の仲間は、〈非常勤講師〉ではなく、あくまで鈴木君や佐藤さん、あるいはカール君やローザちゃんといった生身の人間なのです。カール君が不当に担当コマ数を削減され、またローザちゃんが適正手続も経ずに雇い止めされたとき、大学や学部に対して我々が闘争するのは、なにも彼・彼女が〈非常勤講師〉だからではありません。否、共に研究・教育・仕事に携わる、血肉を持った友人であるからなのです。

 

  なおこの点は主客を替えても、即ち攻撃される対象についてもあてはまります。

 

  我々が攻撃する対象は、ただ表立った組織ばかりではありません。差し当たっては、理事会・教授会・委員会・部会といった組織を構成し、不当なコマ削減や雇い止めを決定し申し渡す〈個人〉が、何より俎上(そじょう)に載せられ指弾されなければならないのです。敢えて言えば、個々人の責任を明示して批判する営為を通じてこそ、組織の是正も図られるのです。

 

   従いまして近くリニューアルされる新組合ブログでも、旧ブログの内容を基本的に再掲し、改めて当事者〈個人〉の意識改革を促す所存です。

 

   目下のところ、我々の主たる闘争の場は中央学院大学ですが、ご承知の通りこれまで大村芳昭法学部長並びに中畑繁法学部教授が指弾されてきました。わけても両人の不行跡については、従前にも増して名指しで厳しく糾弾される次第となりましょう。また同時に学部〈組織〉の在り方に関しても、〈スポーツなんたらコース〉問題を嚆矢(こうし)として徹底的な攻撃が加えられることは言うまでもありません。

 

   但し、前述のごとく我々は個人を相手としています。それゆえ個人が組織を隠れ蓑にせず、正々堂々と「この批判はマチガイだ」と反論してきたとき、また「誤りを是正するにはどうしたよいか」と照会してきたときには、懇談等の機会を設けて相互理解を深め、場合によってはこちらの過誤を修正し、また必要とされれば助言を提示させて頂くことも吝(やぶさ)かではありません。なお、主要な組合員についてはご承知のことと思いますので、連絡先は、当面は大学内のメールボックスを使用してください。

 

  この様に闘争の主体・客体たる個人に重きを置く運動方針に対しては、それなりに批判も出てくるでしょう。けれども個人の権利を守らずして、何の運動でしょうか。また誰のための組合でしょうか。「同じ研究者・教育者・労働者として働く友人のために一肌脱がせてもらう」という気概こそ、我々の運動を持続させる原動力なのです。そして、個々別々の運動を実践する場、なかんずく中央学院大学という比較的規模の小さい場において、まず求められるべきはこうした義侠心である、と強く確信します。

 

   新組合の名称や連絡先については、近日中に本ブログにて公開する予定です。関係各位にはますますのお引き立てをお願いしたく存じます。

 

   なお我々の組合は、大学非常勤講師に限らず、高等学校、予備校、塾等に勤める講師、さらには嘱託・パート・アルバイト等非正規雇用職員の皆様にも門戸を開放します。伝統ある他の組合と異なり、政党や各種団体による手厚い支援はありません。ですが、そのぶん拘束もございません。我々は抽象的な〈非常勤〉という形式には拘(こだわ)りません。〈思想・信条・国籍・宗教の枠を超えて〉などとも唱えません。むしろ、そうした種々の属性を帯有する具体的-普遍的な個人が集い団結すること、この点に意義を認めます。

 

  ともに有機的な運動を構成しませんか。