中央学院大学に関わる者として、あたりまえのことを、単刀直入、あたりまえに簡明率直に確認し直しておきたい。
大学というものに入学したとする。だれもが望むのは、そこを卒業していく時点で、
◎ 一般的な教養、世界に通用する見識などの範囲が拡張されており、
◎選んだ専門分野の基本概念全般についての見通しがつくようになっており、
◎さらには、必要に応じて自らの知的能力を生産・増殖していけるような自己完成能力も育まれ始めているか、かなり進展している、
といったことであろう。
あたりまえのことであり、これらが実現されないのならば大学に通う意味はない。
もちろん、大学のほうでも、学生がこれらを実現しやすいように十二分な準備をしていなければならない。これも言わずもがなのこと、あたりまえのことだ。大学の存在意義が、まさしく、ここの一点にこそ懸かっているからである。
ところが、あたりまえのことであるというのに、時どき、これらの大目的が平気で翻されてしまう。
どういうわけだか、選んだはずの専門分野の勉強はあまりしないでいい、その他の教養科目単位をかわりに取れば卒業できる、そんなカリキュラムが組まれてしまったり、教養というものの中のゆるがせにできない重要な柱のひとつである外国語も、あまり勉強しないでいいように細工されてしまったりする。
「大学側」のだれかが意図的に行ったこうした措置によって、学生たちになにがもたらされるか。近未来の社会で活躍できるような知的成長を遂げたいと願い、専門分野の概要をあたまに入れて卒業していこうと望む学生たちは、はたして、どうなるか。
ごく簡単に推測しても、次のような事態となろう。
専門分野については貧弱な見取り図だけを持ち、(あるいは見取り図さえ持てず)、外国語の能力は高校卒業時よりもお寒い状態に陥り、知的耐久力を育まれなかった4年間がみごとに成就して、霞が関やブラック企業やブラック政党が吹かす風に、ひたすら従順にそよぐ葦のごとき国民と相成る、と。
「人間は考える葦である」と書いたパスカルなんぞ軽々とぶっ飛ばして、みごと「考えない葦」への進化である。風へのそよぎっぷりときたら、もう、半端ではない。
これが、今、中央学院大学の法学部で起こっていることなのであり、近未来的にいっそう重症化しようとしていることなのである。
こういう事態を目のあたりにして、大学に関わっている良識ある教員や職員はどうしたらいいのか。
これも、あまりにあたりまえ過ぎることだが、将来を危うくするどころか、学生たちの未来を破壊するとさえ言ってよいこうした大学のあり方に、素直に正面から「おかしいぞ!」と言い、ちゃんと学生の知的能力を育むような方向に直していこうと努めるべきだろう。そういうことをしない教職員ならば、大学に存在している意味がまったくない。
「われ、学生たちの能力(とりわけ専門能力)の伸びるような大学を作ろうと努める。ゆえにわれあり」というのが大学の教職員というものであり、この一点においては、逡巡したり異議を唱えるようなことは許されまい。そのような教職員は、ただのひとりでさえ大学に存在させてはならないはずであろう。大学というのは最も自由な学問の場であるものの、この一点においては最も厳しい場であるし、あるべきである。
中央学院大学に入学し、卒業していく学生たちの将来を救おう、との止みがたい思いから始まったこの救学ブログでは、ご覧のとおり、この大学に巣食う抵抗勢力たちの小細工大細工のえぐり出しが試みられ続けている。
やたらに瀰漫し、知性を糜爛させ続けるスポーツ臭も、すでにおなじみのことであろう。体育大学でもないのに、なぜだか、「スポーツ」と関連づけた科目が大量に準備され続けているアレである。1970年代にジャンルの異なる音楽を融合した「フュージョン」とか「クロス・オーバー」なるものが流行ったが、はたして、その頃の時代を偏愛する人びとがカリキュラム編成を担当してでもいるのだろうか、懐メロさながらのスポーツ・フュージョン科目がニョキニョキと芽生え続けている。いっぱし、アーチスト気取りのつもりなのか。そのうち、学食さえも、スポーツ丼とかスポーツそば、スポーツサラダなどという名前で埋め尽くされることであろう。いっそ、《スポーツ学院大学》と改名したらどうか、とでも言ってみたくなるほどである。この伝でいけば、どうせなら、青森から「奇跡のリンゴ」の木村秋則さんを呼んできて、《フルーツ学院大学》に変えてしまったほうが、もっと画期的だろう。きっと、無農薬教育を開発してくれて、奇跡の大学生をポコポコ作ってくれるかもしれない。
スポーツがいいのなら、フルーツだってかまわないだろう、という話なのである。海外へのフルーツ輸出ということを考えれば、「フルーツと法」こそ急務ではないか。
なにも、やみくもに、スポーツ反対、などと唱えたいわけではない。なにをするにも体力が大事なことぐらい、だれでも知っている。
問題は、法学が学びたくて入学してくる学生たちには、まずは法学をたっぷりと学ばせてやるべきだろうということだ。この「たっぷり」というのが大事なので、一に法学、二に法学、三四に法学、五に法学、六から九ぐらいは外国語と教養科目、ようやく十ぐらいでスポーツ・フュージョン科目のご登場というぐあいでいいのではないか。
いやいや、それでは体力がつかない、というのなら、体育実技の時間をもうちょっと増やして汗を流させればいいだろう。教室のプラスチック椅子に座らされ、スポーツ論を聞かされたって、体力はつかない。だいたい、そんなにスポーツ・フュージョン科目を講義したいならば、先生がたは体育専門大学にしっかり採用してもらって、そこでご講義いただきたい。筑波大学にも早稲田大学にも他にも、たくさんそういう場所はある。
要は、法学部でやるべきことの順位はなにか、という、ごくごく簡明な問題に尽きる。
法学部でなにより優先的にがっちりやるべきことは、はたしてスポーツ論ですか、キッズ・スポーツ論ですか、シニア・スポーツ論ですか、スポーツと法ですか、…違うでしょう、まず法学のごくふつうの科目をたっぷりやるということでしょう? そういう簡単なお話であって、なにひとつ難しい議論はここには必要がない。
直すべき点はどこか。
次のとおりで、ほんとうに単純なことなのである。
◎専門分野である法学をたっぷり、みっちり、しっかりやらせる。
◎法学を最優先した上で、教養科目も、もちろん、しっかり。特に外国語はびっちりとやらせる。そうしないと、近未来の日本の若者としては、あまりに酷なハンディを負わせることになってしまう。
◎外国語に関連するが、外国に関わる法学もびっちり拡充する。ましてや、法学の基礎となった国々の法や、現在の国際関係のベースとなっている法は徹底的に重視する。
◎みだりに学生を苦しめるわけではないものの、学問の場である以上、しっかりと学生を鍛え上げる主義を立て直すこと。入学させて、なんとなく無難に4年間過ごさせ、入学金以下授業料などを絞りとれば、卒業後の学生の人生など知りません、と見られかねないような甘い甘いやり方は厳しく改める。むかし、評論家の亀井勝一郎が『青春について』の中で「懲らされてこその教育」と言っていたが、よき意味で「懲らす」場が教育の場であり、知的体力を可能なかぎり付けてやってから世の荒波に船出させてやる、という高次の親心を体現すること。
他にもあるが、基本的な大筋はこういったところであろう。
このブログをご覧になる学外の良識ある方々には、われわれのこうした方針はどう映るだろうか。
学生の取得すべき単位数をどんどん減らし、外国語学習の負担を減らし、法学の勉強自体を驚くほど減らし、なぜか、スポーツ・フュージョン科目ばかり増やし、結果的に「考えない葦」の量産体制に入っている大学側と、それを真摯に憂うわれわれとでは、大学教育の錦の御旗がどちらにあるか、あまりに明白というものであろう。
教育者として、このぐらいの抱負を持つのはあたりまえの話であり、それをこんなふうに確認し直さねばならないのも、思えば哀しい話ではある。
しかし、われわれは、愚直なまでに、あたりまえのことを、あたりまえに行い続ける。教育とは、われわれの後から来る未来人たちに知的変質を起こさせ、われわれを超える自律的知的変貌体を出現させることであり、それによって知の永久変貌を推進させることで、このほかに人類の未来はあり得ないからである。
われわれなどは、いわば、落ちて、土に腐っていく枯葉にすぎない。枯葉のなすべきことは、なによりも、新しい葉がつぎつぎ育っていくための土壌を肥沃にすることである。中央学院大学の土壌がはなはだしく荒れてきている今、われわれはできるかぎりの努力によって、正しい意味での土壌改良に精を出そうとする。甘い文句で人を釣ってひたすら土壌を悪化させていくようなエセ肥料やモンサント製さながらの種子を取り除き、あたりまえの良き土を取り戻して、あたりまえの種子を撒き、あたりまえの育て方をしようとわれわれは思っている。