少し前のブログにて、御堂関白藤原道長の娘彰子が生んだ、後一条天皇立太子についての経緯を紹介しておりますが、今回は彰子のサロンについてのお話です。
更に来年のNHK大河ドラマの主人公が紫式部との発表もございましたので、こちらにご興味のある方々にも。
彰子のサロンが形成される前のサロン。
以前本ブログでも紹介した、伊勢物語に端を発する高階家と伊勢神宮の差し障りを利用され、高階氏を母方にもつ定子(1001年崩御)の産んだ敦康親王ではなく、道長の娘彰子の産んだ後一条天皇が立太子し、定子も若くして亡くなってしまいました。そのサロンに所属していた「清少納言」はおそらく一条天皇と定子との娘である脩子(ながこ・しゅうし)内親王に引き続き仕えたと思われます。脩子内親王が枕草子の伝来に関与したとの説もあるようです。
彰子が入内したのが、999年11月11歳でございますので、サロンを形成する女房達が集まってきたのは、更に数年を過ぎ1008年20歳で後一条天皇を産んだ頃前後が、華やかな時期ではなかったかと思います。
彰子に仕えた有名な女房連のうち、最も古株は「赤染衛門」だと思われます。更に「紫式部」が1006年頃。その後「伊勢大輔」と「和泉式部」が1008年頃との説が有力です。
更に和泉式部の娘「小式部内侍」と、紫式部の娘「越後弁」(後に大宰三位)。
何れもその筋の研究者の間で有名な才女連ですが、一般的にはやはり 紫式部と清少納言。更にわたくしの好きな和泉式部でしょうか。今回は彰子のサロンという事で、清少納言さんには少しだけ。
というのも、これらの人たちの人間関係が実に興味深い。
まず紫式部。存命時にこの名前で呼ばれてはおりません。父、夫ともに藤原氏であり、そこから藤の一文字に父の花山帝近侍時代の職名 式部大掾に因んで「藤式部」と呼ばれていたようで、紫は源氏物語の後半の主人公「紫の上」から、後に付けられたようです。
本名(生年も)は意外なことに謎に包まれていますが、藤原香子(かおりこ・よしこ?)という説も。彰子に仕える前の独身時代に、道長の正妻 源倫子付の女房として仕えており、その後結婚(998)・出産(999)、を経て夫である藤原山城守宣孝と1001年に死別。源氏物語執筆中に道長に乞われて、1006年に出仕し、1013年頃までいたようです。源氏物語はこのサロンで完成され、紫式部日記も道長の要求で執筆されています。光源氏のモデルの一人として、道長も挙げられているのは、ご承知の通り。
源氏物語は現代語訳で何人かの著作がございます。
敢えて違う視点からの現代小説では、何点かの道長を主人公とした平岩弓枝の怪奇小説もございますが、女流作家の柴田よしきが、現代女性がタイムスリップして紫式部(こちらでは香子を採用しています)の、御付女官に寄生してしまったという「小袖日記」が、個人的には面白い作品です。
赤染衛門は母が衛門出生時に二人の男性と付き合っており、前夫平兼盛と、再婚先の赤染時用の間で裁判沙汰になったというエピソードが。
夫は文章博士 大江匡衡であり源雅信に出仕し、その娘 倫子が道長の正妻になるときに、付き従い更にその娘の彰子に仕えました。同僚の和泉式部と女流歌人として並び称されており、わたくしは読んでませんが栄花物語で有名な方です。
伊勢大輔は、祖父が古今和歌集の選者として有名な大中臣能宣、父は伊勢神宮の神祇官。夫は高階成順(ここにも高階氏が出てきています)。歌人としては後拾遺に27首もの歌が収録されており、晩年に白河天皇の傅育役も。
さて、道長から「うかれ女」と呼ばれ、和泉式部日記などでの奔放で大胆、且つ華麗な男性関係という女ぶりが、小気味よい和泉式部です。父は越前守大江雅致、最初の夫は和泉守 橘道貞で任地の和泉にて小式部内侍を設けています。任地から帰京してから夫とは別居状態となり、その時に冷泉天皇第3皇子 為尊親王との熱愛が喧伝され大江家からは勘当。
その為尊親王死後その同母弟 敦道親王からの求愛を受け1子を設けますが、敦道親王も早逝し、一度は勘当された実家に戻りますが、その後娘小式部内侍と共に35歳にして彰子の女房として出仕することになります。
現代でこそ35歳は女盛りという感じですが、両親王ともに随分年下。それが随分と派手なデートなどで世間に広まっておりますが、その辺りは両親王への追慕の様子と併せて「和泉式部日記」で是非楽しんでください。