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祭り

昨年は久しぶりの市民夏祭りが、ちはら台でも盛大に行われました。3年ぶりの人込みに、真夏の夕方は熱気も最高潮。基本的に人は祭りが好きなんだと、いまさらながらですが、感慨深い思いでございます。

今年もやりますよ!!!しかも、20周年の記念の祭りです。楽しみましょう。

 

さて、日本の祭りについて、ひとくさり。

日本語のマツリはマツル、マツラウという上位者に奉仕することを表す、動詞の名詞形と考えられます。マツ、マチは語源としては同じで、見えないものが見える場所、つまり接触ができる場所に来るのを歓待するするという意味でありまして、見えない神による神命を実現する行為として、マツリゴト(すなわち政治)が祭りの場で行われたと考えられます。ちと面倒くさいかも。

 

祭りという漢字については、生贄を祭壇上に備える象形文字で、他には人々の集まりを指す「会」が祭りに相当します。古代中国の農村では土地神「社」を祭る春秋の野外行事を「社会」と称しました。仏教では祭りを「法会」と称し、例えば祇園祭も元々は「祇園会」でした。

 

さて、小難しい解釈はさておき、日本の祭りは大まかに農事、特に稲作に関わるものと、疫病を含めた自然災害を避けるためのものに、大きく二分されるようです。

農事の始まる前(一部の栗などの耕作は始まっていたものの)の縄文遺跡からも、祭事に関わる土偶などが発見されています。有名な火炎式土器や、遮光式土偶などもそう推定されていますが、出土品だけで祭祀の方法までは特定はできないようです。弥生時代の祭器や墳墓も同様に特定は難しそうですが、稲の豊作への祈りや死者への祀りが大きな主題であったことは想像できます。最近の学説では弥生の時代というのは、九州から東に向かい800年程度をかけて、進捗したとも。

 

歴史時代(飛鳥以降)になると国家の事業として恒例化してきます。天武天皇の時代に大王から天皇に代わり、律令のなかで神祇官が設置されて、各種の(主に稲に関わる)儀式・行事が宮中行事として法的に執り行われるようになったわけです。757年施行の養老雑令には宮中祝日が定められています。

 

以降仏教や、中国の宮廷儀式が取り入れられたり、民衆の地方儀式、更に怨霊や疫病に対する祈り、民衆のガス抜きといった需要が入り込み、多種多様な祭りが行われるようになるわけです。

日本の神仏混交という特殊性もあり、民族神を含めた各神社・寺院も祭りの主導者として参加していきます。

 

ところで、令和5年にコロナ禍による3年間の中止から復活したちはら台市民夏祭り。街びらきから30年という新しい街には宗教も、稲作も御霊鎮めも関係なくただただ住民の(自治会の)親睦をテーマに開催される新しい祭りということも言えるでしょう。

 

元々夏祭りは結構あちこちで行われています。東北のねぶた(青森)、竿灯(秋田)そして七夕(仙台)の三大祭りと山形の花笠踊り、東京深川まつり、岐阜の郡上踊りに大阪の天神祭、四国の阿波踊りによさこい祭り、九州は博多・小倉の祇園祭であります。

盆踊り、パレード、花火大会、縁日そして山車に神輿渡御が主なイベントとして行われます。

勿論神輿は神の乗る神聖な輿(こし)でございますから、その上に人が土足で上がるなどはもってのほか。そんなことをする氏子は、神の怒りで大変なことになるはずかも。

起源は農村での夏季の農作業の疲れをいやす行事であったり、盂蘭盆会・七夕、祇園祭などに因んで、都市部での疫病封じや、その死者を弔うといったところから始まったものと思われます。

 

日本三大祭りはいずれも夏の祭りでございます。京都の「祇園祭」、お江戸の「神田祭」そして大阪(旧淀川がメイン会場)「天神祭り」というのが定説。

そもそも夏祭りは陰暦の4(卯月)、5(皐月)、6月(水無月)ですが、太陽暦では立夏から立秋までの祭礼を指すようです。

三大祭りの由来です。

神田祭は神田明神の御祭りですが、慶長5年(関ケ原の年1600年ですな)に家康が上杉景勝の会津征伐や、関ケ原において、神田明神に戦勝祈願の祈祷を命じ、毎日祈祷を行っていたところ、祭礼の9月15日に合戦に勝利し、天下統一を果たした(神田明神ご由緒書)ことに始まるとのこと。江戸幕府はこの神田祭と山王枝神社の山王祭を江戸の大祭礼と定め、将軍が祭りを見物(実際には城内に山車などが入り上覧になるのですが)し、人心掌握の政策として奨励しました。天下祭りと称するものです。神田明神の祭神は元々は平将門でありましたが、大国主などに替わりまた将門も祭神に復帰しているわけですが、この辺りもお調べ戴ければ面白い。

 

大阪の天神祭は天暦5年(951年平安時代中期、藤原氏による摂関政治時代ですね)天満宮鎮座の翌々年が始まりとされます。祭神は天神様こと、菅原道真でその命日に因んだ7月25日(縁日)が本宮となり、大川(旧淀川)に船渡御として多くの船が行きかい、花火と相まって火と水の祭典とも呼ばれます。

盛んになったのはこれも江戸時代のようです。江戸の天下祭り同様に人心掌握の狙いが見えます。元禄時代(将軍綱吉の頃)に「御迎人形」と呼ばれる2メートルほどの人形を船の舳先に飾り付けるようになり、祭りの講が形成され三大祭りと呼ばれるようになりました。

戦争でしばし取りやめとなり、船渡御が復活したのは昭和28年とのことです。昨年が復活からちょうど70年ですな。

 

最後は京都の祇園祭でございます。こちらも近年は前祭(さきのまつり)と、後祭(あとのまつり)2回に分けるのが復活して観光の目玉にするなど、商業主義がちと鼻につきますと、以前乗った京都のタクシーの運転手さんが仰っていました。

こちらの祭神は八坂神社のスサノオノミコトではございますが、上記2つの祭りと少し異なった事情もございます。祇園って元々は祇園精舎の鐘の音と平家物語冒頭のように、もともとは比叡山に属していた祇園社の祭神である牛頭天皇の祭りであります。祇園精舎の守護神であるところから、祇園神とも呼ばれ、神社名や地名ともなりそこから祇園御霊会となったのが、もともとの発祥でございまして、明治になって八坂神社となったわけですね。

牛頭天皇と素戔嗚の命が何となくいれかわったようになったのが、明治の廃仏毀釈に元を発するわけですが、これを語ると長くなりますので、別の機会にさせて戴きます。

現在の祭り行事としては、八坂神社が主催するものと、山鉾町が主催するものに大別され、重要無形文化財となっているのは、山鉾町の山鉾行事のみとなります。

こちらは御霊会で、疫神や疫病で亡くなった怨霊などを鎮めるための祭りでございます。

 

最後にちはら台の夏祭り。今回は歴代の祭りの様子を映像でお楽しみ戴くために、コミュニティセンター2階の会議室をお借りして展示を行います。

住民の少なかった時代は、今のヤックスさん、当時の農協の駐車場でやぐらを組み、盆踊りを主体に催しておりました。それからちはら台公園や、かずさの道で分散したり、清水谷小学校をお借りしたりと、その変遷をお感じ戴ければ幸甚です。

 

逝く夏に思いを笑顔に夏祭り。

 

さて今年も楽しみましょう。

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