今日は大阪大空襲の最後の日。
次の日が終戦になるとは予想だにしなかったと母親の話で
聞いたことがある。
育った家はまさに今大阪ビジネスパークとなっている目の前、
京橋と片町の寝屋川沿いだった。
子供の頃から大空襲の慰霊碑を横目で見ながら
学校に通っていた。
母親からB29が爆撃してくる時に操縦士の顔が近づいてくるのを
まだ覚えているって話を聞いたときさすがに背筋が凍ったよ。
改装する前の実家の柱にはずっと銃撃の玉の後や、
爆撃で飛んできた物がぶつかった後とかが残ってたし、
川沿いの窓を家族で畳をたてかけて爆撃をやり過ごしたという話を
よく聞いた。
アニメ”蛍の墓”を観る時に、本当の戦争の怖さを語り合うような
家族はどれだけいるのだろう。
今の大阪ビジネスパークが建っているところは兵器工場があったところで
戦後ずっと国の土地で手付かずだったところを大阪再開発地区として
利用されたものだ。
正しくは大坂砲兵工廠といい、大阪城北西の京橋口から大阪城ホールなどがある大阪城公園、その東の環状線東側一帯、大阪ビジネスパーク一帯の約115万平方mを占めていた。
ここで働いていた労働者は約6万8000人、アジアで最大規模の兵器工場だったらしい。
まさに大空襲の目玉だったのだ。
長崎・広島の原爆の話もかすかに伝わってきていたこの日、
(実際には大きな爆弾でやられた、くらいの話)
母親の年代の人達はまさに竹やりをかついで本土決戦に向けて
覚悟していたのだ。
子供の時は歩いてすぐ行けるレンガの廃墟の工場跡地によく遊びに行った。
今ビジネスパークで働く人の何人がここの悲惨な歴史を知っているのかな。
戦争は今や本当に遠い存在なのだ。
戦後の臭いものに蓋式の教育の成果がここに現れていると
つくづく実感させられる終戦記念日を明日迎える。
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